第一話 おれの名前
子供の頃の記憶というものは、いつから始まるのだろう。
少なくとも、おれの場合は、目が覚めたら赤ん坊になっていた、なんて分かりやすいものではなかった。
最初の記憶は、たぶん、腹が減って泣いていたことだ。
いや、違うかもしれない。誰かに抱かれていたことだったかもしれないし、やたら眩しい場所で目を細めていたことだったかもしれない。何しろ、当時のおれは自分で寝返りを打つことさえできず、腹が減ったら泣き、眠くなったら寝るのが仕事だった。
そのくせ、時々、妙な夢を見た。
知らないはずの街を歩いている夢だ。
道には馬車ではなく車が走り、建物の壁には見覚えのある文字が並んでいる。自分の足で歩き、好きなものを食べ、誰かと話をする。夢の中のおれは今よりずっと大きくて、何かと忙しそうだった。
目が覚めると、そうした記憶はほとんど消えてしまう。
それでも、妙な感覚だけは残った。
今のおれとは別に、もう一人、おれがいたような気がするのだ。
*
おれを育てていたのは、ダダンという女だった。
山賊の頭らしい。
もっとも、物心がつく前のおれにとっては、山賊という言葉より、でかい声で怒鳴る女という認識の方が先だった。
「エース! またやりやがったな!」
ダダンの怒鳴り声に、おれは思わず笑った。
目の前には、ひっくり返った皿がある。中身は床に落ちていたが、幸いなことに、おれが食いたかった肉だけは手の中に残っていた。
「笑ってんじゃねェ! 誰が片づけると思ってんだ!」
「ダダン!」
「分かってんならやるな!」
手元の肉をかじろうとすると、横から伸びてきた手に取り上げられた。
「あっ! 返せよ!」
「床に落ちたもん食うんじゃねェ!」
「落としてねェぞ!」
「皿ごとひっくり返しただろうが!」
そりゃそうだが、肉は落としていない。納得がいかずに手を伸ばしたものの、ダダンはおれの頭を片手で押さえ、もう片方の手で肉を遠ざけた。
腕の長さが違いすぎる。
おれがいくら踏ん張っても、ダダンはびくともしなかった。
「お頭、もういいでしょうよ。そのくらいにしといてやってくだせェ」
奥から声をかけたのは、山賊の一人だった。
「ガキ相手に本気になってどうすんですかい」
「こいつが言うこと聞かねェんだよ!」
「お頭の方がうるせェですぜ」
「なんだとォ!」
ダダンがそちらを向いた隙に、おれは頭を押さえていた手から抜け出し、肉を奪い返した。
「あっ、てめェ!」
「もらった!」
口いっぱいに肉を頬張ってやると、ダダンは一瞬だけ呆れた顔をして、それから盛大に舌打ちした。
「ったく、誰に似たんだか……」
それは、おれも知りたかった。
もっとも、当時はそんなことを真剣に考えたわけではない。ただ、ダダンが時々見せる妙な顔が気になっていた。
おれが何かをやらかした時や、ガープという爺さんの話が出た時に、ダダンは決まって面倒くさそうな顔をする。
特に、おれの親について尋ねた時はひどかった。
「なあ、おれの母ちゃんって、どこにいるんだ?」
ある日、飯を食い終わったおれがそう聞くと、ダダンは飲んでいた酒を吹き出した。
「ぶっ! なんだ、いきなり!」
「聞いちゃ悪いのかよ」
「悪かねェが……」
ダダンは困ったように頭をかいた。
普段なら何を聞いても怒鳴り返してくる女が、珍しく言葉を探している。その様子を見ていると、なんだか余計に気になった。
「父ちゃんは?」
「そいつはガープに聞け!」
「じいちゃん?」
「ああ! あいつが全部知ってる!」
「じゃあ、今度来たら聞く」
「おう、そうしろ!」
話が終わったことに安心したのか、ダダンは酒を飲み直した。
だが、おれの方はまだ気になることがあった。
「ダダンはおれの母ちゃんに会ったことあるのか?」
「ねェよ!」
「父ちゃんは?」
「ねェって言ってんだろ!」
「まだ何も言ってねェぞ」
「うるせェ!」
結局、それ以上は教えてもらえなかった。
代わりに、今度ガープが来たら絶対に聞いてやろうと決めた。
*
おれが三歳になった頃には、夢の中で見ていた景色を、起きている時にも思い出せるようになっていた。
最初に思い出したのは、食い物だった。
山の暮らしに不満があるわけじゃない。肉はうまいし、腹が減ればダダンたちが何かしら食わせてくれる。ただ、時々、どうしても食いたくなるものがあった。
白い飯に、薄く切った肉を乗せて、甘辛いタレをかけたやつ。
名前は何だったか。
牛丼だ。
そう思い出した途端、妙に腹が減った。
「ダダン! 牛丼食いてェ!」
「ぎゅうどん?」
ダダンは眉をひそめた。
「なんだそりゃ」
「牛の肉を飯に乗っけたやつ!」
「牛なんざねェよ!」
「じゃあ、猪でもいい!」
「それなら今朝食っただろうが!」
確かに食った。
だが、あれは違う。肉の味つけも違うし、何より飯がない。おれはどうにか説明しようとしたものの、途中で自分が牛丼を食ったことがないはずだと気づいた。
それなのに、味を知っている。
熱い飯にタレが染み込んで、肉と一緒に口へ運ぶと、いくらでも食える気がする。
どうして、そんなことを知っているんだろう。
「おい、エース。どうした?」
ダダンが不審そうに顔をのぞき込んできた。
「……なんでもねェ」
「変なもんでも食ったか?」
「食ってねェよ!」
「お前ならやりかねねェだろ!」
言い返そうとしたが、昨日、森で拾った木の実を食って腹を壊したばかりだったので、やめておいた。
その日から、おれは夢のことを少しずつ考えるようになった。
夢に出てくる街には、見たこともない道具がたくさんあった。
遠くの人間と話せる小さな機械。勝手に動く車。指で触ると絵や文字が変わる、薄くて四角い板。
どれも、この山にはないものだ。
それなのに、どう使うのかを知っている。
さらに妙なのは、そうした道具を使っていた時のおれの記憶だった。
仕事をして、金を稼いで、休みの日には好きなものを食う。嫌なこともあったし、腹の立つこともあった。誰かと酒を飲んで笑ったことも覚えている。
思い出すたびに、知らない人間の顔や声が浮かんできた。
懐かしいと思う相手もいた。
だが、その人間が誰なのかを説明しようとすると、今度はうまく言葉が出てこない。
おれは、いったい何を思い出しているんだ?
*
決定的だったのは、ある日の昼寝だった。
その日は朝から雨が降っていて、外へ遊びに出ようとしたおれは、ダダンに首根っこをつかまれて家の中へ引き戻された。
「風邪引いても知らねェぞ!」
「引かねェよ!」
「引いてからじゃ遅ェんだよ!」
結局、外には出られなかった。
仕方がないので、しばらく家の中をうろつき、山賊たちがやっていたカード遊びに混ぜてもらおうとしたが、金がないなら駄目だと追い払われた。
けちくせェ連中だ。
そんなことを考えながら寝転がっているうちに、いつの間にか眠っていた。
夢の中で、おれは漫画を読んでいた。
見覚えのある部屋だった。
床に積んだ本。飲みかけのペットボトル。少し離れたところには、明かりのついたテレビがある。
おれは漫画のページをめくりながら、何かを考えていた。
主人公は麦わら帽子をかぶった少年で、身体がゴムのように伸びる。
海賊になって仲間を集め、海を冒険する話だ。
ONE PIECE。
その題名を思い出した瞬間、夢の中で読んでいた漫画の内容が、次々と頭に浮かんできた。
海賊王ゴールド・ロジャー。
海軍。
悪魔の実。
覇気。
そして、麦わら帽子の少年の兄。
ポートガス・D・エース。
そこで目が覚めた。
しばらく、天井を見上げたまま動けなかった。
外では相変わらず雨が降っている。奥の部屋からはダダンの怒鳴り声が聞こえ、誰かが酒瓶を倒したらしく、別の男が文句を言っていた。
いつもと変わらない昼下がりだった。
だが、おれの頭の中では、さっきまで夢の中で読んでいた漫画の場面が、はっきりとつながり始めていた。
ゴム人間のルフィ。
海賊王ロジャーの処刑。
白ひげ海賊団。
そして、あの男。
黒髪にそばかすのある、上半身裸の海賊。
炎を操る能力者で、白ひげ海賊団の二番隊隊長。
ポートガス・D・エース。
おれは身体を起こした。
自分の手を見る。まだ小さくて、指も短い。足だって短いし、少し走っただけで大人に追いつかれる。
だが、今はそんなことより確かめたいことがあった。
「ダダン!」
「ああ!? 今度はなんだ!」
奥の部屋から返事があった。
「おれの名前、なんだっけ!」
「寝ぼけてんのか、てめェ!」
「いいから!」
「エースだろうが! ポートガス・D・エース!」
その名前を聞いて、おれは思わず笑ってしまった。
そうか。
そういうことか。
夢の中で見ていた街は、おれが前に生きていた世界だった。そこで漫画として読んでいたONE PIECEの世界に、今のおれはいる。
しかも、ただの人間じゃない。
ポートガス・D・エース。
海賊王ゴール・D・ロジャーの息子で、将来は白ひげ海賊団の二番隊隊長になる男。
そして、原作では頂上戦争で命を落とす。
そこまで思い出して、おれは少しだけ顔をしかめた。
せっかくもう一度生きられるというのに、行き着く先が分かっているというのは、あまり気分のいいものじゃない。
だが、あれは漫画の中のエースの人生だ。
おれはまだ三歳で、今からどう生きるかを自分で決められる。
何より、ロジャーの息子だというなら、相当な才能があるはずだった。原作のエースだって、若くして白ひげ海賊団の隊長になっている。しかも、おれにはこの世界の強者たちが何を使って戦っているのか、その知識まである。
思い出せば思い出すほど、試してみたいことが増えていく。
「エース! 何ニヤニヤしてやがる!」
いつの間にか、ダダンが目の前に立っていた。
「別に!」
「だったら手伝え! 寝てばっかいやがって!」
「昼寝してただけだろ!」
「口答えすんな!」
ダダンに頭を小突かれ、おれは文句を言いながら立ち上がった。
雨はまだやみそうにない。
それでも、さっきまで退屈で仕方なかった一日が、急に惜しくなってきた。
おれはポートガス・D・エースだ。
だったら、これから先、退屈している暇なんてないかもしれない。