ガープがダダンの家を訪ねてきたのは、約束から一年が過ぎた頃だった。
その日、おれとサボは朝から山へ入っていた。昼飯用の獲物を探すつもりだったが、運よく大きな猪を仕留められたので、予定より早く帰ることにした。
「おい、エース。そっち、もうちょっと持ち上げろよ」
「持ち上げてるだろ。お前が引っ張ってんだよ」
「そりゃ頭の方が重いからだ!」
「じゃあ代わるか?」
「……いや、いい。お前に持たせたら絶対あとで文句言われる」
「分かってんじゃねェか」
二人で猪を担いだまま山道を登っていると、ダダンの家の方から聞き覚えのある笑い声が響いてきた。
「ぶわっはっはっは! 相変わらず汚ェ家じゃのう!」
サボと顔を見合わせる。
「来たな!」
「ああ! 急ごうぜ!」
家の前では、ダダンがガープに向かって何やら怒鳴っていた。
「だから、急に来られても困るんだよ! こっちにも都合ってもんが――」
「おう、エース! サボもおるか!」
ガープはダダンの文句を聞き流し、おれたちを見るなり大きく手を振った。
「じいちゃん! ちょうどよかった!」
「何がじゃ?」
「去年の宿題だよ! 岩を砕けるようになったんだ!」
ガープの眉がぴくりと動いた。
「ほう? ちゃんと覇気は使っとらんじゃろうな?」
「使ってねェよ! サボも見てたし!」
「おれも一緒にやってたんだ。間違いねェよ」
サボが口を挟むと、ガープはおれたちを交互に見て、にやりと笑った。
「ならば見せてみい!」
「おう! その前に、こいつ置いてきていいか?」
おれが担いでいる猪を指すと、ガープは初めて獲物に気づいたらしい。
「おお、でかいのう! 今日の晩飯か!」
「おれたちが獲ってきたんだぞ」
「よし! 今夜は肉じゃ!」
「おい、じいちゃん! おれたちの分まで食うなよ!」
「ぶわっはっは! 早い者勝ちじゃ!」
ダダンが頭を抱えた。
「食費を増やしに来たんじゃねェだろうな、クソジジイ……」
おれたちは猪を家の裏へ運ぶと、ガープを連れて山へ向かった。
◆
去年から使っている鍛錬場所には、砕けた岩の破片がいくつも転がっている。
最初は二人で一つの岩を殴っていたが、途中からそれぞれ別の岩を使うようになった。おれが岩を割った後もサボは自分の岩を殴り続けており、今では大きな亀裂が何本も走っている。
「ほう。ずいぶん派手にやっとるのう」
ガープは足元の破片を一つ拾い上げ、割れた断面を眺めた。
「これがおれの砕いた岩だ。十か月くらいかかったけどな」
「十か月で砕けたんなら、残りの二か月は何をしとった?」
「別の岩を殴ってたに決まってんだろ。ほら、あれ」
少し離れた場所にある岩を指さす。最初に使っていたものと同じくらいの大きさで、表面にはまだ目立った亀裂がない。最近はあれを殴りながら、以前より少ない回数で割れるか試していた。
「今日はあれを砕くから、ちゃんと見てろよ」
「ぶわっはっは! ずいぶん自信満々じゃのう!」
「一年も殴ってたんだぞ。少しくらい自信もつくさ」
おれは岩の前に立つと、肩を回して拳を握った。
最初の頃は、岩を殴るたびに指の付け根が腫れ、力任せに打ち込めば手首まで痛めた。ガープが教えてくれた身体の使い方を思い出しながら、何度も試しているうちに、拳だけでなく足腰や背中の力まで使えるようになってきた。
それでも、目の前の岩を一発で粉々にできるとは思っていない。去年ガープが見せた拳骨は、まだまだ遠いところにある。
「よし、いつでもいいぞ!」
ガープが少し離れた場所に立った。
おれは足場を確かめ、岩へ拳を打ち込んだ。
鈍い音とともに、拳の当たった部分がわずかに欠ける。すぐに拳を引き、今度は腰の回転を意識して、ほぼ同じ場所を殴った。
衝撃が岩の奥まで伝わり、表面に細い亀裂が走った。
「おっ!」
サボが声を上げる。
「前より早いじゃねェか!」
「ああ、二発目でヒビが入った!」
「馬鹿力に拍車がかかったな!」
失敬な言葉が聞こえたが、今は岩の方が先だ。
亀裂の入り方を見て、次に拳を当てる場所を決める。何度か殴るうちに表面が崩れ、岩の中央から下へ向かって亀裂が伸びていった。
おれは一度息を整え、足を踏み込んだ。
拳が岩にめり込み、亀裂が一気に広がる。続けてもう一発打ち込むと、岩は大きな音を立てて二つに割れた。
「よっしゃあ!」
割れた岩を前に拳を突き上げると、サボが駆け寄ってきた。
「やったな、エース! 前よりずっと早かったぞ!」
「だろ! 次は一発で割ってやる!」
「そうなる前におれは自分の岩を砕かねぇとな!」
「まだ割れてねェのかよ」
「うるせェ! もう少しなんだよ!」
いつものように言い合っていると、背後からガープの笑い声が聞こえた。
「ぶわっはっはっは! なかなかやるじゃないか!」
振り返ると、ガープは満足そうに腕を組んでいた。
「ちょっと前まで拳を痛めるばかりじゃったのに、ずいぶん身体の使い方がよくなったのう」
「そりゃ毎日やってたからな!」
「うむ。じゃが、まだまだ無駄な力が入っとる。拳を当てる時に肩が上がる癖も直っとらんぞ」
「えっ、ほんとか?」
「最後の一発はよかったがのう。最初からあれができれば、もっと早く砕けるわい」
褒められたと思ったら、もう駄目出しが始まった。
けれど、ガープが実際に見てくれたのは去年の三日間だけだ。自分では直したつもりだった癖が残っているなら、聞いておいて損はない。
「なあ、じいちゃん。今の、もう一回やってみてくれよ」
「何じゃ、わしの拳骨が見たいのか?」
「違う! 肩が上がってるってやつ。どこを直せばいいんだ?」
「おお、そういうことか」
ガープはおれを岩の前へ立たせると、拳を構えさせた。肩や肘の位置を直され、足の向きまで少し変えられる。
「力を入れるのは拳を当てる時じゃ。最初から全身を固めとったら、身体がうまく動かん」
「こうか?」
「違うわい。ほれ、もう一度じゃ」
何度か構えを直されているうちに、サボまで隣で真似を始めた。
「じいさん、おれも見てくれよ!」
「よし、二人とも構えろ!」
それからしばらく、ガープはおれたちの拳の打ち方を見て回った。去年と同じように、少しでもおかしなところがあれば容赦なく指摘してくる。
ようやくガープが満足した頃には、サボもおれも汗だくになっていた。
「さて、エース。今度は武装色を使ってみい」
「おっ、そっちも見てくれるのか!」
「当たり前じゃ。去年からどれだけ変わったか、確かめてやろう」
おれは両手を軽く振ってから、右拳へ意識を集中させた。
この一年、岩を殴る時は覇気を使わなかったが、それ以外の鍛錬までやめていたわけじゃない。狩りや組手でも使っていたし、普段から少しずつ身体にまとわせる練習も続けている。
拳を覆う武装色の感覚は、去年よりずっと馴染んでいた。
「よし、できたぞ」
ガープが目を細める。
「ほう……」
「どうだ?」
「そのまま、わしの手を殴ってみい」
「いいのか?」
「遠慮はいらん。思いっきり来い!」
差し出された大きな手のひらを見て、去年のことを思い出した。あの時もガープにはまるで歯が立たなかったが、一年間鍛えた今なら、少しは手応えが違うかもしれない。
おれは足を踏み込み、武装色をまとわせた拳を打ち込んだ。
拳がガープの手のひらにぶつかり、乾いた音が響く。
ところが、ガープはびくともしなかった。
「……相変わらず硬ェな、じいちゃん」
「ぶわっはっは! わしを殴り飛ばすには百年早いわ!」
「百年もかかってたまるか!」
ガープは笑いながらも、おれの拳をじっと見ていた。
「じゃが、去年より確実に強うなっとるぞ」
「本当か!?」
「うむ。覇気のまとい方も安定しとるし、拳に乗る力もずいぶん増した。去年のお前なら、今ほどの威力は出せんかったじゃろう」
思わず頬が緩む。
自分でも強くなっている実感はあったが、ガープにそう言われると、やっぱり嬉しい。
「なあ、じいちゃん。武装色も毎日使ってたんだけど、それがよかったのか?」
「それもあるじゃろうな。じゃが、理由はそれだけじゃないぞ」
ガープは足元に転がっていた岩の破片を拾い、軽く握った。
「覇気は信じる力じゃ。自分の力を疑ってばかりおる奴が、強い覇気を使えるわけがない」
「それは分かる。おれも最初から使えると思って練習してたしな」
「じゃが、覇気は気持ちだけで強くなるもんでもない。お前の身体に宿る力なんじゃからな」
ガープは手の中の岩を握り砕くと、粉になった破片を地面へ落とした。
「元になる身体が弱けりゃ、どれだけ立派な覇気を使おうとしても、その力を十分に発揮できん。身体を鍛えれば、それだけ覇気も強くなる。だから、わしはお前らに岩を殴らせたんじゃ」
「なるほどな……」
覇気の練習をしているだけでは、覇気を十分に強くできない。頭では身体を鍛える必要があると分かっていたが、実際にガープからそう言われると、この宿題にも納得がいった。
「じゃあ、これからも岩を殴ってりゃいいんだな!」
「ぶわっはっは! それだけで強くなれるなら苦労はせんわい!」
「今、身体を鍛えろって言っただろ!」
「岩を殴る以外にも鍛え方はいくらでもある! 走るのも、泳ぐのも、飯をたらふく食うのも大事じゃ!」
「最後のはじいちゃんが食いたいだけじゃねェか?」
「馬鹿もん! 食わんでどうやって大きくなるんじゃ!」
それには反論できなかった。実際、去年より飯の量が増えているし、ダダンには毎日のように食いすぎだと怒られている。
隣で話を聞いていたサボが、ふと思い出したように口を開いた。
「なあ、じいさん。おれはまだ覇気を使えねェけど、身体を鍛えてりゃ、そのうち使えるようになるのか?」
「もちろん、身体を鍛えるのは大事じゃ。じゃが、覇気を使いたいなら、覇気そのものを感じ取る鍛錬もせにゃならん」
「それはエースに教わってるんだけどな。なかなかうまくいかねェんだよ」
「ほう? なら、あとでわしが見てやろう」
「本当か!?」
「ただし、まずはお前の岩じゃな!」
ガープがサボの岩を指さした。
「エースは宿題を終わらせたぞ。お前はどうするんじゃ?」
サボは一瞬だけ口をつぐんだが、すぐに拳を握った。
「決まってんだろ! 今から砕いてやる!」
「おっ、言ったな!」
「エース、お前も見てろよ! 絶対に砕くからな!」
サボが岩の前へ走っていく。
おれも後を追おうとすると、ガープに頭をわしづかみにされた。
「痛ッ! 何すんだよ!」
「お前はもう一つ、別の岩を探してこい!」
「何でだよ!?」
「さっきの拳骨をもう一度見せてみい。今度は肩を上げずに打てるか確かめてやる!」
そう言って笑うガープを見て、おれもつられて笑った。
「いいぜ! 今度はもっと早く砕いてやる!」
サボが向こうで拳を打ち込む音を聞きながら、おれは新しい岩を探しに走り出した。