腕立て伏せが十回できるようになった時は、なかなか嬉しかった。
それが二十回になり、三十回になった頃には、いちいち数えるのが面倒になっていた。
修行を始めてから、まだ三か月も経っていない。
初めのうちは、走ればすぐに息が切れたし、腕立て伏せをすれば翌朝まで腕が痛んだ。ところが、毎日飯を食って寝て、また身体を動かしているうちに、以前の自分がどれほど弱かったのか分からなくなるくらい、できることが増えていた。
今では、家の周りを一回りする程度では、ろくに息も上がらない。
山道を走るのにも慣れた。足を取られそうな木の根や、雨が降ると滑りやすくなる斜面の場所も覚え、平坦な道よりも、むしろ足場の悪い場所を走る方が楽しくなってきた。
何より驚いたのは、身体の回復の早さだった。
前世の感覚では、あれだけ走った翌日は筋肉痛でまともに動けなくなってもおかしくない。それなのに、夕飯を腹いっぱい食ってぐっすり眠れば、翌朝にはまた走りたくなっている。
もちろん、疲れないわけじゃない。
限界まで走れば足は重くなるし、調子に乗って崖を登り続けた日は、翌朝になっても腕が痛んだ。それでも、少し休んで飯を食えば、また元気に動き回れる。
この世界の人間は、ずいぶん頑丈らしい。
いや、おれが特別なのか?
そんなことを考えながら、今日も家の裏で腕立て伏せをしていた。
「……九十八、九十九、百!」
最後の一回を終え、勢いよく立ち上がる。
まだ余裕があった。
腕を軽く振ってみても、特に痛むところはない。もう一度やれば同じくらいできそうだったが、今日はこの後、森を走るつもりだったのでやめておいた。
「おい、エース」
声をかけられて振り向くと、山賊の一人が薪を抱えて立っていた。
「お前、今いくつ数えてた?」
「百だ」
「……百?」
「おう」
男はおれの腕を見て、それから地面を見下ろした。
「途中で数え間違えたんじゃねェのか?」
「間違えてねェよ! 見てろ!」
腹が立ったので、もう一度腕立て伏せを始めた。
男はしばらく黙って眺めていたが、三十回を過ぎた辺りで薪を地面に下ろし、四十回を超えた頃には一緒に数え始めた。
「……五十八、五十九。おいおい、まだやんのか?」
「まだ余裕だ!」
「お前、腕どうなってんだよ」
百回目を終えて立ち上がると、男は呆れた顔でおれを見ていた。
「お頭に言っとくか……」
「何をだよ」
「いや、何かおかしいだろ、お前」
「鍛えてんだから強くなるに決まってんだろ!」
「そりゃそうなんだがよ……」
男は納得できない様子だったが、それ以上は何も言わず、薪を抱えて家へ戻っていった。
おれはその背中を見送り、少しだけ笑った。
どうやら、今のおれは自分で思っている以上に強くなっているらしい。
*
その日の午後、おれは森へ向かった。
最近は、ただ走るだけでは物足りなくなってきたので、途中にある大きな岩や倒木を利用して、身体を動かすようにしている。
例えば、道を塞ぐ倒木があれば、飛び越えてみる。
最初は足が引っかかって何度も転んだが、今では助走をつければ難なく越えられる。さらに高いところから飛び降りてみたり、木の枝につかまって身体を持ち上げたりするのも楽しかった。
ただし、調子に乗りすぎると痛い目を見る。
先日、木の上から隣の木へ飛び移ろうとした時は、枝が折れて地面に落ちた。幸い、途中で別の枝につかまれたので大した怪我はしなかったが、あれはさすがに肝が冷えた。
おかげで、枝の太さや木の状態を確かめる癖がついた。
今日も、いつもの倒木を飛び越え、その先にある斜面を駆け上がる。木の根を踏み台にして跳び、少し離れた岩の上へ着地した。
「おっ、いい感じ!」
思ったより高く跳べた。
岩の上から周囲を見回すと、少し先に大きな木がある。あそこまで行けば、いつもの道へ戻れるはずだ。
試しに、岩の上から跳んでみることにした。
膝を曲げ、両足で地面を蹴る。
次の瞬間、予想していたよりもずっと高く身体が浮き上がった。
「うおっ!?」
思わず声が出た。
目の前を木の枝が通り過ぎ、慌てて身体をひねる。何とか枝を避けたものの、着地する場所まで考えていなかった。
まずい。
そう思った時には、身体が斜面へ向かって落ち始めていた。
咄嗟に両足を前へ出し、地面に着くと同時に膝を曲げる。勢いを殺しきれずに前へ転がったが、幸い、柔らかい土の上だった。
しばらく仰向けになって空を見上げる。
「……びっくりした」
心臓がどきどきしていた。
それでも、身体のどこにも痛みはない。
立ち上がってさっきの岩を振り返ると、思わず笑ってしまった。
ずいぶん跳んだものだ。
前世なら、助走をつけてもあんな高さまで跳べなかっただろう。しかも、今のおれはまだ三歳だ。
ロジャーの息子というのは、想像以上にすごいらしい。
いや、原作のエースを思い出せば、これくらいできても不思議じゃないのかもしれない。あいつは子供の頃から山で猛獣と戦っていたし、十歳になる頃には虎を仕留めていたはずだ。
今のおれだって、鍛錬を続ければ、いずれはそれくらいできるようになるだろう。
そう考えると、俄然やる気が湧いてきた。
「よし、もう一回だ」
今度は、着地する場所を確かめてから跳ぶことにした。
*
それから、おれの鍛錬は少しずつ変わっていった。
走る距離を伸ばすだけでなく、斜面を駆け上がったり、木の枝から枝へ飛び移ったり、岩を持ち上げたりするようになった。
初めは両手で抱えるのがやっとだった岩も、何日か続けているうちに、胸の高さまで持ち上げられるようになった。さらに大きな岩にも挑戦したが、さすがにそれはびくともしなかった。
悔しかったので、毎日少しずつ持ち上げようとしていたら、ある日、ほんの少しだけ地面から浮いた。
「おおっ!」
嬉しくなって、そのまま持ち上げようとしたところで、腕から力が抜けた。
慌てて岩を落とし、足を引っ込める。
危うく足の指を潰すところだった。
「……危ねェ」
さすがに、持ち上げられたからといって、自由に扱えるわけではないらしい。
それでも、確実に強くなっている。
走る速度も、跳べる高さも、持ち上げられる重さも、以前とは比べものにならなかった。
しかも、成長が止まる気配がない。
毎日同じことを繰り返しているだけなのに、少しずつ身体が強くなっていく。昨日できなかったことが今日はできるようになり、今日できたことが明日にはもっと簡単になる。
こんなに分かりやすく成果が出るなら、鍛錬が楽しくならないはずがなかった。
もっとも、ダダンにとっては迷惑だったらしい。
「エース! てめェ、また何か持って帰ってきやがったな!」
ある日、家の前まで岩を運んでいると、ダダンが怒鳴りながら飛び出してきた。
「何って、岩だ!」
「見りゃ分かるわ! なんでそんなもん持ってきたんだよ!」
「鍛錬に使うんだ」
「山でやれ!」
「毎回取りに行くの面倒くせェだろ!」
「知るか! 家の前に置くんじゃねェ!」
仕方なく、少し離れた場所へ運ぶことにした。
岩を抱え直し、よろよろと歩いていると、ダダンが妙な顔でこちらを見ていた。
「……おい、エース」
「なんだ?」
「お前、それ一人で持ってきたのか?」
「そうだぞ」
ダダンは岩を見て、それからおれの顔を見た。
「……まあ、ガープの孫だしな」
「何だよ、それ!」
「何でもねェ! さっさと運べ!」
ひどい言い草だった。
だが、少しだけ嬉しくもあった。
ガープの孫。
つまり、あの爺さんの血を引いていると思われるくらいには、強くなっているということだろう。
実際には血のつながりはないんだが、そこは黙っておいた。
*
身体の成長に比べて、覇気の方は相変わらずだった。
毎晩、寝る前に身体の内側へ意識を向けているが、いまだにそれらしい感覚はつかめていない。
ただ、以前とは少し違うこともあった。
身体を鍛えるうちに、筋肉の動きや呼吸の変化が、前よりはっきりと分かるようになってきたのだ。
例えば、岩を持ち上げる時。
腕だけで持ち上げようとすると、すぐに力が尽きる。だが、足で地面を踏み締め、腹に力を込めて身体全体を使うと、同じ岩でもずっと楽に持ち上げられる。
走る時も同じだった。
足を速く動かすことばかり考えていた頃より、身体の傾きや腕の振り方を意識した方が、余計な力を使わずに走れる。
そうした感覚が、覇気の習得に直接役立つのかは分からない。
それでも、自分の身体を理解することが無駄になるとは思えなかった。
今日も、いつものように目を閉じる。
呼吸を整え、身体の内側へ意識を向ける。
何かが流れているような気がする。
だが、それが血液なのか、単に身体が温まっているだけなのか、それとも本当に覇気なのか、今のおれには判断できなかった。
「……まあ、いいか」
焦る必要はない。
まだ三歳だ。
この調子で身体を鍛えていけば、七歳になる頃には、相当な力がついているはずだ。
その頃になったら、ガープに本格的な鍛錬を頼んでみよう。
もちろん、それまでに覇気を使えるようになれば言うことはない。
おれは布団の中で拳を握り、軽く腕に力を込めてみた。
以前より、ずっと力強い。
だが、まだ足りない。
十歳で虎を仕留める原作のエースに、今のおれがどこまで迫れるのか。
いや、せっかく三歳から鍛えているんだ。
追いつくだけじゃ、もったいない。
明日は、今日持ち上げられなかった岩にもう一度挑戦してみよう。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。