記憶が定着してからしばらく時間が過ぎ、四歳になった。
もっとも、誕生日だからといって、何か特別なことがあったわけじゃない。ダダンに肉を多めに寄越せと要求したら、普段から人一倍食っているだろうと怒鳴られたくらいだ。
結局、山賊の一人が自分の皿から肉を二切れ分けてくれたので、それでよしとした。
おれが鍛錬を始めてから、もう一年近くが経っている。
最初の頃は家の周りを走るだけで息を切らしていたが、今では山道を駆け回っても、そう簡単には疲れなくなった。以前は両手で抱えるのがやっとだった岩も、今では頭の上まで持ち上げられるし、木登りに至っては、手頃な枝さえあれば相当な高さまで登れるようになっている。
最近は、少しばかり大きな木を相手に、登る速さを競うのが気に入っていた。
もちろん、競争相手は自分自身だ。
昨日より速く登れればおれの勝ち。遅ければ負けという、実に分かりやすい勝負である。
「よっ、と!」
太い枝に足をかけ、幹を蹴って身体を持ち上げる。そのまま上の枝をつかみ、勢いを利用して一気に登っていく。
途中、手をかけようとした枝が思ったより細いことに気づき、慌てて別の枝へ持ち替えた。少し時間を食ってしまったが、頂上近くまで登る頃には、昨日より速いことが分かっていた。
「よっしゃ!」
目当ての枝に腰を下ろし、眼下に広がる森を見渡す。
いい眺めだった。
風が気持ちいいし、ここならダダンに見つかる心配もない。もっとも、そろそろ昼飯の時間なので、いつまでものんびりしているわけにはいかなかった。
帰りは少し遠回りして、川沿いを走ることにしよう。
そんなことを考えながら枝から降りようとした時、不意に妙な感覚があった。
何かが、こちらへ近づいてくる。
おれは動きを止めた。
耳を澄ませてみたが、聞こえるのは風に揺れる葉の音と、遠くを流れる川の音くらいだった。
それでも、何となく気になる。
枝の上から周囲を見回していると、少し離れた茂みが揺れた。
「……なんだ?」
目を凝らす。
すると、茂みの中から一頭の猪が姿を現した。
なかなか大きい。少なくとも、今のおれよりはずっと大きかった。
猪は地面の匂いを嗅ぎながら、木の根元へ近づいてきた。
おれは思わず笑った。
なるほど、こいつだったのか。
だが、そこで一つ疑問が浮かんだ。
どうして、猪が近づいてくると分かったんだ?
音が聞こえたわけじゃない。姿が見えたのも、妙な感覚を覚えた後だった。
もしかして。
おれは枝の上で姿勢を正し、もう一度目を閉じた。
*
見聞色の覇気。
その存在を知ってから、おれは毎日のように練習してきた。
最初は目を閉じて周囲の音を聞くところから始めたが、それでは単に耳を澄ませているだけだった。足音や物音を聞き分けるのは上達したものの、覇気らしい感覚は一向につかめなかった。
そもそも、見聞色というのは、耳や目で周囲を探る能力じゃないはずだ。
原作では、相手の気配を感じ取ったり、見えない場所にいる人間の存在を察知したりしていた。極めれば、相手が次にどう動くのかまで分かるようになる。
ならば、今のおれにも、そうした感覚があるはずだった。
だが、実際に何を感じ取ればいいのかが分からない。
それが、これまでの悩みだった。
おれは枝の上で目を閉じ、呼吸を整えた。
足元には太い枝があり、背中には幹がある。今いる場所から落ちる心配はない。
まずは、周囲の音を意識する。
風が吹いている。
葉が揺れている。
遠くでは鳥が鳴いていた。
その中に、先ほどの猪の足音が混じっている。
だが、今度は音を追いかけるのをやめた。
あの時、おれは何かが近づいてくると感じた。実際に猪が現れたのだから、少なくとも何かしらの感覚が働いていたことになる。
それが見聞色なのかは、まだ分からない。
だが、確かめる価値は十分にあった。
おれは目を閉じたまま、木の下にいる猪へ意識を向けた。
姿は見えない。
それでも、そこにいることは知っている。
さっき見たからだ。
では、猪が今どこにいるのか、目を開けずに分かるだろうか。
耳を澄ませると、地面を掘り返すような音が聞こえてきた。どうやら、まだ木の根元をうろついているらしい。
おれはその音を頼りに、猪の位置を想像した。
右側。
いや、少し前か。
目を開けて確かめると、猪は想像していた場所よりも、ずっと左側にいた。
「……違ったか」
まあ、そう簡単にはいかないだろう。
それからしばらく、目を閉じては猪の位置を想像し、目を開けて確かめることを繰り返した。
猪の方は、こちらに気づく様子もない。
地面を掘り返したり、木の根元に鼻を突っ込んだりしている。何か食えるものでも探しているのだろう。
おれは枝の上からその様子を眺めながら、ふと気づいた。
そういえば、さっきは猪がいることを知る前に、何かを感じたんだったな。
今やっていることは、結局、音や記憶を頼りに位置を推測しているだけじゃないのか。
これでは、いつまで経っても同じだ。
おれは一度、猪から意識を外した。
どうすれば、あの感覚をもう一度つかめるのだろう。
*
結局、その日は昼飯の時間まで木の上で粘ったものの、これといった成果は得られなかった。
猪は途中で森の奥へ帰ってしまったし、おれも腹が減ったので家へ戻ることにした。
「エース! てめェ、また昼飯の時間に遅れやがったな!」
家へ戻るなり、ダダンの怒鳴り声が飛んできた。
「まだ残ってるだろ!」
「そういう問題じゃねェんだよ!」
「じゃあ、どういう問題なんだよ!」
「口答えすんな!」
相変わらず、理不尽な女だった。
だが、今はそんなことより飯だ。
おれは空いている席へ腰を下ろし、皿に残っていた肉を取ろうとした。
その瞬間、横から別の手が伸びてきた。
「おっ、いただき!」
「あっ、てめェ!」
山賊の一人が、おれの皿から肉を奪っていった。
「返せよ!」
「早いもん勝ちだぜ、エース!」
「ふざけんな!」
慌てて立ち上がり、男の腕をつかもうとする。
だが、男は笑いながら身体を引き、おれの手をかわした。
そのまま肉を口へ運ぼうとする。
次の瞬間、おれは男が腕を引くよりも先に、そちらへ手を伸ばしていた。
「おっと!」
男が慌てて肉を持ち上げる。
だが、おれの手はすでにその動きについていっていた。
肉をつかみ、そのまま奪い返す。
「よっしゃ!」
「うおっ!? お前、今のどうやったんだよ!」
「へへっ! 油断したな!」
勝ち誇って肉を頬張ると、男は呆れたように笑った。
「ったく、ガキのくせに妙なところばっかり強くなりやがって」
「お前が鈍いんだろ!」
「言いやがったな、この野郎!」
男が笑いながら手を伸ばしてきたので、今度は皿を抱えて逃げた。
背後からダダンの怒鳴り声が聞こえてきたが、聞こえないふりをしておいた。
それにしても、今のは少し妙だった。
男が肉を持ち上げるよりも先に、そちらへ手を伸ばしていた。
相手の動きを見てから反応したというより、何となく、そう動く気がしたのだ。
朝の猪の時と、少し似ている。
おれは口の中の肉を飲み込みながら、思わず笑った。
これは、もう少し試してみる必要がありそうだった。
*
それから数日間、おれは見聞色の練習に夢中になった。
とはいえ、山賊たちに頼んで攻撃してもらうわけにもいかない。そんなことをすれば、何を考えているんだと怒鳴られるのが目に見えている。
そこで、まずは森の中で動物の気配を探ることにした。
鳥や小動物なら、家の近くにもたくさんいる。
最初は、目を閉じて周囲の音を聞き分けるだけだった。だが、何度も繰り返しているうちに、時々、音とは別の感覚が混じるようになってきた。
例えば、木の上にいる鳥。
鳴き声が聞こえなくても、何となく、あそこに何かがいると感じることがあった。
目を開けて確かめると、実際に鳥が止まっている。
もちろん、外れることも多かった。
何かがいると思って目を開けたら、ただの枝だったこともある。逆に、すぐ近くに鳥がいるのに、まったく気づかないこともあった。
それでも、おれは楽しかった。
少なくとも、何かが変わり始めている。
今までまったく分からなかったものが、少しずつ分かるようになってきたのだ。
しかも、身体の鍛錬と違って、こちらは力任せにやればいいというものでもないらしい。
むしろ、余計なことを考えている時ほど、うまくいかなかった。
何かを感じ取ろうと必死になっていると、周囲の音ばかりが気になってしまう。逆に、何も考えずにぼんやりしている時の方が、不意に気配を感じることがあった。
おれは、その違いを何度も確かめた。
目を閉じて、呼吸を整える。
身体の力を抜き、周囲へ意識を向ける。
鳥の鳴き声が聞こえる。
風が吹いている。
少し離れたところで、何かが動いた。
今度は、音が聞こえるよりも先に、その存在を感じた気がした。
おれは目を開けた。
すると、少し離れた茂みの中から、一羽の鳥が飛び立った。
「……おおっ!」
思わず声が出た。
今のは、間違いない。
おれは確かに、鳥が動く前に、その存在を感じ取っていた。
しかも、今までとは違って、どこにいるのかも何となく分かった。
胸の奥が、急に熱くなった。
やっぱりだ。
おれには、覇気がある。
いや、そんなことは最初から分かっていた。
ロジャーの息子で、原作でも覇王色を使っていたエースに、覇気の才能がないはずがない。今のおれがその力を使えるようになるのも、当然のことだ。
問題は、どうやって使うかだけだった。
そして、今ようやく、その入り口が見えた。
「ははっ! やっぱりな!」
おれは嬉しくなって、その場で飛び跳ねた。
四歳で見聞色の感覚をつかんだ。
これがどれほど早いのかは分からないが、少なくとも、原作のルフィが本格的に覇気を習得したのは、もっとずっと後のことだ。
ならば、今から鍛え続ければ、大きくなる頃にはどれほど強くなれるのだろう。
想像するだけで、笑いが止まらなかった。
*
その夜、おれはいつもより早く布団に入った。
昼間につかんだ感覚を、もう一度確かめたかったからだ。
家の中では、山賊たちが酒を飲みながら騒いでいる。ダダンの怒鳴り声も聞こえるし、誰かが大声で笑っている声もする。
おれは目を閉じ、呼吸を整えた。
昼間と同じように、周囲へ意識を向ける。
すると、しばらくして、何となく人の気配が分かるような気がしてきた。
奥の部屋には、何人かの山賊がいる。
そのうちの一人が立ち上がった。
いや、今のは足音が聞こえただけかもしれない。
おれはもう一度、意識を集中させた。
今度は、音を聞こうとするのをやめる。
ただ、そこに人がいることを感じようとした。
すると、不意に、何かが近づいてくる感覚があった。
おれは目を開けた。
次の瞬間、部屋の戸が勢いよく開いた。
「エース! てめェ、もう寝たのか!」
ダダンだった。
「なんだよ、うるせェな!」
「何だとは何だ! 明日の朝は薪割り手伝えよ!」
「分かったよ!」
「返事だけはいいんだからな、てめェは!」
ダダンはそう言い残し、戸を閉めて戻っていった。
おれはしばらく、その戸を見つめていた。
今のは、確かに分かった。
足音が聞こえるよりも先に、誰かが近づいてくると感じたのだ。
しかも、昼間の鳥よりも、ずっとはっきりしていた。
おれは布団の中で拳を握った。
「……よし!」
思わず声が出た。
まだ自由に使えるわけじゃない。目を閉じて集中しなければ、ほとんど何も分からないし、感じ取れる範囲だって狭い。
それでも、ようやく自分の中にある力を自覚できた。
見聞色の覇気。
これが、漫画の中で何度も見てきた、あの力なのだ。
ならば、次は武装色だ。
見聞色が使えるようになったのだから、武装色だって必ず使えるようになる。
おれは布団から右手を出し、拳を握った。
昼間、岩を持ち上げた時の感覚を思い出す。
腕に力を込めるのではなく、身体の内側にあるはずの覇気を、拳へ集める。
当然、何も起きなかった。
だが、もう以前のように、何をすればいいのか分からないまま闇雲に力を込めるつもりはない。
見聞色の感覚をつかんだ時も、最初は何も分からなかった。それでも、何度も試しているうちに、少しずつ違いが分かるようになったのだ。
武装色だって、きっと同じだろう。
おれはもう一度、拳を握り直した。
今度は、身体の内側へ意識を向ける。
何かが流れているような気がした。
それが本当に覇気なのか、今はまだ分からない。
だが、必ずつかんでみせる。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。