第40代 内閣総理大臣に就任する予定の陸軍少将に憑依した俺は安穏な余生を送るために合衆国との戦争回避に奔走することになった 作:フォークロア
1934年(昭和9年)晩秋。
国際連盟脱退に次ぎ満州帝国制定の報が世界を駆け巡り、日本が国際社会の中心から外れ戦時体制への傾斜がいっそう強まろうとしつつあったこの時期、ある一人の陸軍将官が意識を失った。
場所は福岡・久留米。
歩兵第24旅団の司令室から見える空は、冷夏の名残を引きずった薄曇りで、どこか重苦しい雰囲気を漂わせていた。
冷たい風が頬を撫でると、男の意識が覚醒する。
目を開けると、そこは見慣れた防衛省の執務室ではなかった。
木製の机、墨の匂い、壁に掲げられた軍旗。
男が戸惑いながらも、鏡に映る自分の姿を見て絶句する。
軍服姿に丸い眼鏡。肩章には「少将」の階級章。
日本人なら一度は歴史の本や映像で見たことがある人物の姿がそこには映っていた。
(……まさか、東条英機?)
東条英機少将その人は茫然自失とする。
(自分は、東条英機ではない。令和の日本で、防衛大臣を務めていた政治家・大泉幸次郎だったはずだ!?)
記憶が、二つの世界で軋み合う。
東条英機としての軍歴、同僚、軍務での人生。
そして、大泉幸次郎としての現代日本の政治、国会、内閣での人生。
その感覚は、夢の残滓のようにぼんやりとしたものだったが、次第に輪郭を持ち始める。
二つの人格が衝突し、混ざり合い、やがて一つの人格として収束した。
(いや……私は……俺は東条英機だ!)
その瞬間、部屋の空気が揺らぎ、淡い光が形を成した。
「やっと気づいたようね、大泉さん――いえ、東条さん」
光の中から現れたのは、白い衣をまとった女性だった。
その姿は神秘的で、しかしどこか人間らしい親しみを帯びていた。
「あなたは……誰だ?」
「そうね。便宜上は女神のようなものかしら。あなたの人格を、興味本位でコピーして、この世界の東条英機に“上書き”しました。ごめんなさいね。でも、あなたならこの時代を変えられると思ったの」
女神は微笑む。
「……変えられる? この国の未来をか?」
「ええ。あなたは未来を知っている。防衛大臣としての経験もある。だからこそ、過去を救える。ただし――超常的な力は与えられません。代わりに、これを」
彼女が指を鳴らすと、机の上に黒い箱が現れた。
差し出したのは、ノートパソコンとプリンターだった。
「インターネットは繋がっています。あなたの元の世界の情報も全部見られる。未来の情報は、あなたの武器になるでしょう。ただし、政治と軍事を動かすのは、あなた自身の手にかかっています」
女神はくるりと背を向け、光の中へ消えていく。
「せいぜい頑張って。あなたの未来は、史実よりずっと面白くなるはずよ」
光が消え静寂が戻ると、東条は頭を抱え物思いに耽る。
(歴史を変えるなんて簡単に行くわけないだろ……しかし、このまま俺が“何もしないで行く”と、アメリカとの戦争に負けて、東京裁判で責任を取らされ絞首刑となる運命か。陸軍大臣や総理大臣等の要職につかず、過ごすか?いや、それでも日本が敗戦してしまえば日本軍は解体され、自分は良くて公職追放。今まで築いてきたキャリアを失い、無職となるのが容易に想像が付く。60過ぎだと、転職とか厳しいだろう。そうでなくとも“別の形で連合国から責任を追及される恐れ”もある。となると……)
大泉――いや、東条英機少将は深く息を吸った。
(日本を滅ぼさせないために、対米戦争は絶対に避けなければならない。そのためには……)
机上のパソコンを開く。
画面には、昭和の世界情勢、第二次大戦時の兵器、未来の基礎科学技術、未来の政策情報等々が次々と映し出される。
そして――
「……大慶油田」
東条はパソコンの画面を閉じる。
(よし。大体の方針は固まったな。あとは……)
その時――机の上のラジオが、突然ノイズを発し、ニュースが流れ始めた。
『……東北地方では、深刻な冷害と凶作により、農村の困窮が極めて深刻化しております。青森・岩手・秋田の各県では、栄養失調に伴う自殺・行き倒れが相次ぎ、欠食児童も急増しており……』
東条は足を止めた。
ラジオの音声は淡々としていたが、その内容はあまりに重かった。
『……政府は救農土木事業の縮小を決定しましたが、現地では「最大の現金収入源を失った」との声が上がっております……』
(……縮小? この時期に、救農事業を縮小しただと……?)
東条は眉をひそめた。
軍事費が膨張し続ける中、大蔵省は「景気回復」を理由に農村救済予算を削った――それが、東北大飢饉をさらに悪化させてしまうことに繋がったのである。
ラジオは続ける。
『……娘の身売り相談所が各地に設置され、十代前半の少女が人買いに連れられていく姿が日常化しております……』
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
(……これは、軍人としての責務以前に、“人間として”見過ごせるものではない)
東条は静かに拳を握った。
その瞬間、彼の中で何かが決定的に変わった。
女神から告げられた「歴史を変えよ」という言葉が、遠い幻ではなく、今この瞬間の現実として胸に落ちてきた。
(……行くしかない。俺が、この身体で、この時代で、やるしかない)
東条は、静かに立ち上がる。
彼の中で東条英機として生きる覚悟が、ようやく形を成した。
その瞳に、令和の政治家としての冷静さと、未来を知る者としての確信が宿っていたのである。
次回『東北大飢饉と運命の出会い』