よろしくお願いします。
宿屋に辿り着いた俺は言葉を失った。
普段、薪や水桶を置いている建物東側の地面が、大きく盛り上がっていたのである。
しかも、黒い根がその下から伸びており、宿屋の壁を押し上げるように蠢いていた。
――みしみしみしっ!
木材の軋む音が聞こえる。
「……まずい!」
俺は慌てて周囲を見渡した。
幸い人影はない。どうやら、マルタさんたちはすでに避難した後らしい。
しかし、このままでは宿屋そのものが倒壊しかねなかった。
「……くそったれ!」
俺は右手を伸ばした。
金色の光が集まり、神斧《金剛》が現れる。
だが、すぐには振るわなかった。
黒い根が建物の床下へ潜り込んでいる今、あの根を不用意に斬れば、支えを失った建物が崩れる可能性がある。
しかも、根の表面には赤黒い瘤が見えた。
再生能力を持つ太い根だ。
「……どうすりゃいい……?」
俺は歯を食いしばった。
力ならある。
斧もある。
だが、力任せに斬ればいいわけではない。
俺が木を伐るとき、何より大切にしてきたのは安全だった。
自分が怪我をしないことはもちろん、周囲の人を巻き込まないこと、そして必要以上に森や建物を傷つけないことだ。
今もそれは変わらない。
「マキ!」
背後から聞き覚えのある声がして振り返ると、ガント爺さんがこちらへ向かってくるところだった。
その手には太い木の棒と鉄製の楔が握られていた。
「爺さん!」
「おう! バルドから聞いたぞ!」
ガント爺さんは宿屋の壁を見上げた。
「……こりゃあ、ひどいのう」
「ああ。根が床下へ潜り込んでやがる」
「……ふむ」
ガント爺さんはしばらく建物を見つめていた。
そして、壁の下にある太い柱を指差した。
「マキ。あの柱を見てみい」
「……ん?」
俺は、言われた場所に視線を向けた。
柱の根元が、僅かに浮き上がっているが、壁全体が崩れているわけではない。
「……まだ保ってるな」
「そうじゃ」
ガント爺さんが頷いた。
「じゃが、あの根を斬れば一気に沈むかもしれん」
「……ああ」
「それなら、先に支えを入れればよい」
「……支え?」
ガント爺さんは持ってきた太い木材を掲げた。
「ほれ。これをあの下に入れるんじゃ」
俺は目を見開いた。
「……なるほど!」
そういうことか。
根を斬る前に建物を支えておけばいい。
「……よし!」
俺は金剛を【収納】すると、ガント爺さんから木材を受け取った。
そして、宿屋の壁の下へ差し込むが、無理に押し込むわけではない。
柱の傾きを測り、建物の重みを予測し、地面の状態に合わせる。それらを丁寧に確かめながら、少しずつ木材を立てていく。
「……こんなもんか?」
「もう少し右じゃ」
「……ここか?」
「そうそう。そこで止めい」
俺が木材を支えている間に、ガント爺さんが楔を打ち込んだ。
――かぁんっ!
――かぁんっ!
木材がしっかりと固定されていく。
「……よし! これで、多少は保つじゃろう」
「……ありがとな、爺さん!」
「礼などいらんわい。それより、早うあの根を始末せい!」
「おう!」
俺は再び金剛を【召喚】し、黒い根の表面に浮かぶ瘤を睨みつける。
……まずは、あれだ。
しかし、俺が近づこうとすると、何かを察知したように瘤が大きく脈打ち、黒い根がずるりと動いて瘤を地面の下へ隠してしまったのである。
「……あっ!」
俺は、思わず声を上げた。
「こいつ、逃げやがった!」
『マキちゃん!』
ルミエラの声が響いた。
『お気をつけくださいまし!』
――わかってる!
しかし、そう答えた瞬間、黒い根が建物の床下から一気に持ち上がり、宿屋の壁の一部が内側から弾け飛んだ。支え木が軋み、壁が崩れ、そして屋根の一部が大きく傾いた。
「……くそっ!」
俺は、反射的にガント爺さんの前に立った。
そして、落ちてきた木材を金剛の斧腹で受け止める。
「……ぐっ!」
ガンガンと叩きつけるような衝撃が腕を伝って身体に響いた。
しかし、何とか受け止めきった。
「……爺さん! 離れろ!」
「お、おう!」
ガント爺さんが後ろへ下がったのを見届け、俺は木材を誰もいない場所に押しのけた。
土埃が舞い上がる。
そして、俺の目の前で、宿屋の東側の壁がとうとう崩れ落ちた。
「…………」
俺は呆然とその光景を見つめた。
壊れた壁。
傾いた屋根。
散らばった木材。
そして、その下を這う黒い根。
「……畜生」
ここは俺の帰る場所だった。
前世で死んで、この世界へやってきて、行く当てもなく、金もなく、どうしたらいいのかわからなかった俺を、マルタさんたちは受け入れてくれた。
木こりとして働けばいいと言ってくれた。
寝床を貸してくれた。
飯を食わせてくれた。
そして、8歳の幼女にされてしまったあとも、変わらず家族のように接してくれた。
その家が、今、目の前で壊されている。
「……ふざけんな」
俺は金剛の柄を握り締め、気づけば両手の指が白くなるほど力を込めていた。
斧を握る力を緩めなければならない。
そんなことは、わかっている。
……なのに、指が言うことを聞かなかった。
「……ふざけんなよ、てめえ!」
黒い根が再び動き始め、建物が軋みを上げる。
マルタさんの宿が、俺の家が壊される。
怒りで目の前が真っ赤に染まり、俺は刃を構えた。
「てめえらまとめてぶった斬ってや――」
その時、背後から飛んできた水の塊が俺の頭にぶつかった。文字通り冷水を浴びせられて濡れ鼠になった俺が後ろを振り返ると、カイルが空のバケツを手に立っていた。
さらに後方には、杖先を正面に向けたリゼットとこっちに走ってくるグレイヴの姿が見えた。
「マキ! 落ち着け!」
冷たい水を浴びせられ、俺は思わず息を呑んだ。
「……な、何しやがる!」
反射的に金剛を【収納】して詰め寄ろうとした直後、横から伸びてきた太い腕が俺の身体を抱え上げた。
「悪いな! だが、ここは危険だ!」
「カ、カイル!?」
返事を待たず、カイルはそのまま宿屋から離れていく。
「お、おい! 下ろせ! 俺はまだ――」
「マキ!」
グレイヴの怒号がその言葉を遮った。
ハッとした俺の視界の端を一本の矢が横切り、宿屋の床下へ潜り込もうとしていた黒い根の先端に深々と突き刺さった。
根が一瞬だけ身を捩り、その動きが鈍る。
「今です!」
フェルンが叫んだときには、リゼットの詠唱はすでに終わり、杖の先には冷たく輝く槍の穂先が浮き上がっていた。
「《氷槍》!」
放たれた氷の槍は、突き刺さった根の表皮から周囲に霜を広げ凍りつかせていく。
「マキ!」
ようやくカイルから解放された俺が呆然としていると、グレイヴが叫んだ。
「今のうちに、その根を建物から切り離せ!」
「……おう!」
俺はハッと我に返って頷くと、右手を伸ばして金色の光とともに神斧《金剛》が【召喚】する。
そして、黒い根の付け根を見極めると金剛を振り下ろした。
――ざんっ!!
黄金の刃が根を断ち切る。
しかし、切断面から黒い液体が溢れ出し、再び根を繋ぎ合わせようとしていた。
「……くそっ!」
俺は歯を食いしばった。
「瘤が隠れてやがる!」
「……わかってる!」
グレイヴが頷いた。
「だが、今は再生を遅らせるだけで十分だ!」
「……何!?」
「家を守ることより、人を守ることが先だ!」
「…………」
グレイヴは真っ直ぐに俺を見つめていた。
「マキ。あの家が大切なのはわかる。だが、お前さんまで怪我をしたら、マルタさんたちはもっと悲しむぞ」
「…………」
俺は唇を噛んだ。
……そうだ。
そのとおりだ。
木こりとして、何度も学んできたはずじゃねえか。
倒れる木を無理に支えようとするな。
危ないときはまず逃げろ。
道具よりも、仕事よりも、人の命が大切だ。
なのに俺は、自分の大切なものが壊されるのを見て、冷静さを失っていたらしい。
「……悪い。……ちょっと、頭に血が上ってた」
「……ああ。まあちょっとどころじゃなさそうだったが」
グレイヴはにやりと笑った。
「それがわかってりゃ、十分だ」
そして、剣を構え直す。
「さあ、もうひと踏ん張りだ!」
「……おう!」
俺も金剛を握り直した。
今、俺が守るべきものは何なのか。
それを、もう一度胸に刻みながら。
◇◆◇
村の防衛戦が一段落したのは、昼を大きく過ぎた頃だった。
リゼットの氷魔法によって根の動きが鈍り、フェルンが地中の動きを見極め、カイルが攻撃を巧みに防ぎ、グレイヴが再生する根の瘤を狙って切断していく。
そして俺は、建物や畑へ伸びる細い根を片っ端から断ち切った。
もちろん、すべての根を始末できたわけではない。再生能力を持つ太い根は、瘤を地中へ隠してしまう。こちらが攻撃しようとすれば、別の場所から新しい根が伸びてくる。
それでも、村人たちの避難が完了するまでの時間を稼ぐことはできた。
やがて、黒い根の動きは少しずつ鈍くなり、地表へ出ていたものの多くが、地中へ引っ込んでいった。
「……退いた、のか?」
俺が金剛を握ったまま呟くと、グレイヴが首を横に振った。
「……いや。一時的に活動を抑えられただけだろうな」
「……そうか」
「ああ。あの魔樹本体が生きている限り、また伸びてくる可能性は高い」
……厄介な話だ。
だが、いくら俺でも村中の地面を掘り返して根を全部切断するわけにはいかない。
そんなことをしたら、魔樹に村を壊されるより先に俺が村を壊してしまう。
「……まったく。こんなに面倒な木を相手にするのは初めてだぜ……」
『まあまあ! さすがは古代の魔物ですわね!』
――感心してる場合かよ。
『いえ、もちろん心配しておりますわ! ですが、あれほどの巨大な樹木を相手に、マキちゃんが見事な斧捌きを披露なさる姿は、やはり素晴らしく……!』
――……お前なあ。
『……こほん。今は自重いたしますわ』
……珍しい。
本当に少しは反省しているのかもしれない。
俺は金剛を【収納】すると、周囲を見渡した。
崩れた井戸。
大きく裂けた村道。
枯れ始めた東側の林。
壊された畑。
そして、一部の壁と屋根が崩れた宿屋。
酷い有様だった。
それでも、村のみんなは生きていた。
怪我をした者は何人かいたらしいが、幸い命に関わるような重傷者はいないという。
それだけが、せめてもの救いだった。
「……マキ!」
声をかけられて振り返ると、マルタさんがこっちに歩いてくるところだった。
その後ろにはティオとポルもいた。
「……マルタさん。……悪い」
「ん?」
「……宿屋、壊されちまった」
マルタさんは少しだけ目を丸くしたが、俺の頭にそっと手を置いて撫で始めた。
「……馬鹿だねえ」
「……え?」
「あんたが謝ることじゃないだろう?」
マルタさんは柔らかく笑った。
「家なんて、壊れたら直せばいいんだよ」
「……でも」
「それより、あんたが無事でよかった」
「…………」
何も言えない俺をマルタさんは抱きしめた。
「……ありがとうね、マキ」
「…………」
「ティオも、ポルも、あんたが守ってくれたんだろう?」
「……ああ」
「だったら、それで十分さ」
「……うん」
……何だろうな。
こういうとき、どうにも涙腺が緩くなって困る。
前世ではこんなに涙もろい人間じゃなかったはずなんだけどな。
心が身体に引っ張られているのだろうか?
……8歳児の身体ってのは、本当に不便なもんだ。
◇◆◇
その日の夕方、俺たちは村長の家へ集まっていた。
グレイヴ、カイル、リゼット、フェルン。
バルドにガント爺さんと村長、そして俺。
卓の中央には古い羊皮紙と数冊の分厚い書物が広げられていた。
「……さて」
グレイヴがゆっくりと口を開いた。
「まずは今日の防衛戦についてだ」
村の地図に視線を落とすと、村の東側を中心に、いくつもの赤い石が置かれていた。
「井戸は使い物にならなくなった。東側の畑もかなり被害を受けてる。村道も何か所か壊されてるな」
「……ああ」
バルドが頷いた。
「だが、死者は出てねえ。今のところ村人たちは全員無事だ」
「それは何よりだ。ただし、安心はできねえ」
「……だろうな」
俺も頷いた。
「根っこをいくら斬っても、それだけじゃ魔樹は倒せねえんだろ?」
「……ああ」
グレイヴは古い書物を開いた。
そこには、昨日石切場で見たものとよく似た巨大な魔樹の絵が描かれていた。しかし、幹や枝などの地上に出ている部分だけでなく、地中に広がる根の様子まで詳しく描かれている。
「昨夜、ギルドの書庫を調べ直してな。ようやく数百年前の討伐記録が見つかった」
「……討伐記録?」
俺は身を乗り出した。
「そうだ。かつて《喰根の魔樹》を倒した英雄たちが残した記録らしい」
グレイヴは、羊皮紙の一枚を指差した。
「まず、あの魔樹には幹に近いところから伸びる8本の主要な根がある」
「……8本?」
「ああ。どれも太さ2メートルほどもある、化け物じみた根だ」
……太さ2メートルの根、そんなものが8本もあるのか。
しかも、あの巨大な幹の近くに。
「こいつらは、それぞれ独立した意思を持っているらしい」
「……根っこが、自分で考えて動くってことか?」
「そういうことだ」
グレイヴは頷いた。
「さらに、主要根には幹と同じような眼状の瘤がある。この瘤が根の動きや再生に関係しているらしい」
「……なるほど」
俺は昨日の石切場で見たものを思い出した。
あの瘤は攻撃されると地中へ引っ込んだ。
そして、今日はリゼットとフェルンが瘤を破壊したことで根の再生が止まった。
やはり、あれは重要な器官だったのだ。
「……それで?」
俺が尋ねると、グレイヴは頁をめくった。
「主要根以外にも、太さが人間の胴体ほどある根が多数存在する。こいつらは魔樹自身がまとめて操っているらしい」
「……なるほど」
「この太い根にも瘤があってな。そこを完全に破壊してから切断すれば、再生できなくなるらしい」
「……今日、俺たちがやったのと同じだな」
リゼットが頷いた。
「ええ。あれで間違っていなかったみたいね」
「それから、もっと細い根には瘤がない」
グレイヴは俺を見た。
「マキ。お前さんが今日切っていた根だ」
「……ああ」
「こいつらは切断すれば再生しない。ただし、数がとんでもなく多い」
「……そりゃ、身をもって知ったぜ」
朝から何本斬ったのか、もう数える気にもならない。
「……それで、幹は?」
俺が尋ねると、グレイヴは次の頁を開いた。
そこには巨大な枝を振り回す魔樹の姿が描かれていた。
「幹に近づくと、下向きに曲がった枝で攻撃してくるらしい。槍や鞭のように使うそうだ」
「……枝まで動くのかよ」
「ああ。ただし、枝は切断してしまえば再生しない」
「……なるほど」
俺は少しだけ口元を緩めた。
枝を払うのは木こりの得意分野だ。
それに、この世界の俺には《枝払い》という職業スキルもある。今日、グルートニーの根を伐って回っていた時に《伐採技術》が発動していたことを思えば、きっとこのスキルも役に立つはずだ。
もっとも、相手が動き回る魔物の枝となれば、普通の木と同じようにはいかないだろう。
それでも、何とかできる可能性はある。
「……それから、もうひとつ重要なことがある」
グレイヴは声を低くした。
「こいつの樹皮には、触れた生物から魔力を吸い取る能力があるらしい」
「……魔力を?」
リゼットが眉をひそめた。
「ええ。今日も森全体の魔力が奪われていたけれど、直接触れると、もっと速く吸収されるようね」
「……ちっ」
俺は自分の右手を見つめた。
昨日の石切場で、金剛の柄を這い上がってきた黒い糸に触れたときに感じた無数の棘で刺されたような痛み。
あれは魔力を吸い取られたせいだったのだろうか。
「……ちなみに、魔力が少ねえ奴が触ったら、どうなるんだ?」
「……危険だろうな」
「……だよなあ」
「最初は魔力を奪われるだけだろうが、そのまま触れ続けていると生命力まで吸い取られる可能性があるな」
「……げっ」
俺は顔をしかめた。
今の俺の魔力はたったの5。
ゴミめ、と馬鹿にされても文句は言えないくらい低いし、魔法なんてものとは全く縁がない。
そんな俺が魔力を吸い取られたら、あっという間に枯渇してしまうだろう。
あのとき感じた痛みは、魔力が一瞬で枯渇して、生命力を吸い取られていたことが原因なんじゃないのか?
……おいおい。
勘弁してくれよ。
「しかも厄介なことに、布や革、鉄の防具でも、長時間接触していれば魔力吸収を通してしまうらしい」
「……何!?」
カイルが目を見開いた。
「じゃあ、鎧を着てても駄目なのか?」
「……ああ、すぐにってわけじゃないらしいがな。それに、魔力を通さない素材もある」
「……例えば?」
「石や鉛だ」
「……鉛?」
俺は思わず首を傾げた。
鉛。
前世でもよく知っている金属だ。
比重が重く、柔らかく、加工しやすい。
ただし、武器や鎧の主要な材料としてはあまり向いていない。何しろ、柔らかすぎて、強い衝撃を受ければ変形してしまうし、ぶ厚く使えば重くなりすぎる。
「……なるほど。魔力を通さねえのはありがてえけど、鉛だけで武器や防具を作るのは難しいな」
「……そうじゃのう。じゃが、使い方によっては役に立つかもしれんぞ」
「……ん?」
「鉛そのものを防具にする必要はあるまい」
ガント爺さんは俺の小さな手を見つめた。
「例えば、鉄の篭手の内側に鉛の板を仕込むとかな」
俺は目を瞬かせ、思わず声を上げた。
「それだ! それなら根っこを直接掴んでも魔力を吸われずに済むかもしれねえ!」
「そういうことじゃ。ただし、相当に重くなるぞ」
「へへっ」
俺はガント爺さんの見つめる先で、自分の小さな拳を握りしめた。
「重さなら、なんの心配もいらねえよ」
「じゃろうな」
ガント爺さんが愉快そうに笑った。
「じゃが、篭手の形は考えねばならん。指の関節に隙間があれば、そこから魔力を吸われかねんしのう」
「ああ。それに、根を掴んだときに滑らねえようにしねえとな」
「……ふむ。なるほど」
ガント爺さんは、何やら考え始めた。どうやら職人としての血が騒いでいるらしい。
……ありがてえ。
本当にありがたい話だ。
俺一人では、こんな道具は作れない。
筋力がいくらあっても、鍛冶や金属加工の技術まで身につくわけではないのだから。
「……さて、話を戻すぞ」
「あ、ああ。悪い」
俺は慌てて居住まいを正し、グレイヴが開いた最後の頁を確認する。
そこには、巨大な魔樹を取り囲むように立つ何人もの武装した人物の姿が描かれていた。
「これが、数百年前の英雄たちによる討伐の記録だ」
「おお」
その頁には、かつての英雄たちが魔樹と戦う様子が描かれていた
ある者は剣を、ある者は槍を手にし、またある者は盾で仲間たちの前に立つ。そして矢を射掛ける者、杖を掲げる者、そして大きな斧を持つ者もいた。
英雄たちの視線の先には、巨大な魔樹が描かれている。
「当時の英雄たちは、まず無数の枝を斬り払い、次に太い根の瘤を破壊して1本ずつ切断した」
「なるほど」
「そして、8本の主要根をすべて無力化したあと、幹を伐り倒したそうだ」
「幹を?」
「ああ。それによって魔樹は活動を停止し、英雄たちは討伐に成功したと記録されている」
「…………」
俺は、その言葉を聞いて、何となく違和感を覚えた。
幹を伐り倒して討伐した。
枝を払い、根を切断し、幹を伐り倒した。
それ自体は、普通の木の伐採と大して変わらない。いや、相手が魔物であることを考えれば、十分に合理的な方法と言えるだろう。
しかし、だ。
……何か、おかしくねえか?
俺は書物に描かれた魔樹の絵を見つめた。
巨大な幹。
無数の枝。
地中に張り巡らされた8本の主根と、無数の副根。
そして、それらが集まる、グルートニーという巨木を支える根元の部分。
「……なあ、グレイヴ」
「……ん?」
「英雄たちは、本当にこいつを討伐したのか?」
室内が静まり返った。
グレイヴが眉をひそめて聞き返してくる。
「……どういう意味だ?」
「いや、幹を伐り倒したんだろ?」
「ああ」
「枝も払って、太い根も全部切断した」
「そうだ」
「……だったらさ」
俺は書物に描かれた魔樹の根元を指差した。
「切り株はどうしたんだ?」
「……切り株?」
「ああ」
俺は頷いた。
「幹を伐ったあとに残る、あの部分だよ」
グレイヴは書物に視線を落とした。
「……そこまでは……書かれていないな」
「じゃあ根っこは?」
「……何?」
「地下に残ってるはずの根株はどうしたんだ? 全部掘り起こしたのか?」
グレイヴは黙り込んだ。
「……なあ、グレイヴ。木ってのはな、幹を伐ったからって必ず死ぬわけじゃねえんだよ」
「…………」
「切り株から新しい芽が出る木もある。根が生きてりゃ、また幹を伸ばすことだってあるんだ」
ガント爺さんがゆっくりと頷いた。
「……確かに、そうじゃのう」
「もちろん、全部の木がそうってわけじゃねえ。でもさ、そういう木もあるんだよ」
俺は書物の中央に坐すグルートニーを見つめた。
こんな化物が、幹を伐り倒したくらいで簡単に倒されてくれるもんか?
「まして、あいつは魔物だ。普通の木とは違うかもしれねえ」
「……マキ」
グレイヴが低い声で呟いた。
「……お前さん、何が言いたい?」
「もし、あいつの本体が幹じゃなかったら?」
「…………」
「もし、幹を伐り倒しても、地下に残った根株が生きていたとしたら?」
誰ひとり口を開くものはなく、俺はゆっくりと言葉を続けた。
「そいつが、何百年もかけて力を蓄えて、もう一度幹を伸ばしたんだとしたら?」
グレイヴの表情が変わった。
「……まさか」
「ああ」
俺は地図の中央に描かれた石切場を指差した。
「あいつの本体は、地面の下にあるんじゃねえのか?」
沈黙が落ちた。
もちろん、これは俺の想像に過ぎない。だが、それを否定できるだけの要素もない。
事実として、討伐されたはずのグルートニーが、今ここにいるのだから。
しばらくして、リゼットが口を開いた。
「……でも、それなら説明がつくかもしれないわ」
「……ん?」
俺が顔を上げると、彼女は真剣な顔で続けた。
「昨日から、森の魔力はずっと地下へ向かって流れているの。私たちは根が吸い上げた魔力は、その先にある幹に集まっているんだと思っていたけれど……」
リゼットは地図へ視線を落とした。
「……もし、魔力が幹じゃなく地下にある何かに集まっているのだとしたら? 地下に蓄えられた魔力が成長に必要な分だけ幹に送られていたのだとしたら?」
「そういうことだ」
フェルンも、静かに口を開いた。
「……そういえば、昨日の石切場でも黒い根は崩れた岩壁の奥から伸びていました」
「……ああ」
昨日まで何もなかったはずの岩場に、突然姿を現した十五メートルもの大木。
あの巨大な魔樹を見たとき、俺は何と言った?
成長したというより、地面の下から這い出してきたみたいだ、と。
そう言ったのではなかったか?
……まさか、本当にそうだったのか?
グレイヴが頭を抱えて呟いた。
「……つまり、数百年前の英雄たちは、魔樹の幹を伐り倒したことで討伐したと思い込んでいたっていうのか……?」
「そうかもしれねえ。だけど、実際には地下の根株が生き残っていて、何百年もかけて復活したんだとしたら……」
「……なるほどな。だから、あいつはまた現れたのか」
「もちろん、まだそうと決まったわけじゃねえけどな」
俺は肩を竦めた。
「俺だって、魔物の生態に詳しいわけじゃねえ。ただ、木こりとして考えたら、そういう可能性もあるってだけだ」
「……いや」
グレイヴは、首を横に振った。
「それで十分だ」
「……ん?」
「数百年前の記録にそこまで書かれていなかったのは確かだ。だったら、俺たちがそれを確かめる価値はある」
「だろ?」
「お前さん、本当にいい木こりだな」
「……へへっ」
俺は、少しだけ照れくさくなった。
……まったく。
こういうふうに褒められるとどうにも弱い。
しかも、今の俺は8歳児の身体だ。
嬉しい気持ちが、そのまま顔に出てしまう。
『はああああっ!』
――うるせえぞ、ルミエラ。
『小さなマキちゃんが! 歴戦の冒険者たちを前に、堂々と専門知識を披露していらっしゃる!』
――それが俺の仕事だからな。
『そして、褒められて照れていらっしゃるはにかんだお顔が、また何とも愛らしい!』
――お前、いい加減にしろよ。
『おーっほっほっほ! こればかりはやめられませんわぁ!』
……駄目だ。
やっぱり、こいつは何も変わってねえ。
◇◆◇
会議が終わる頃には、すっかり日が傾いていた。
エルム村の東側では、グレイヴたちと自警団の男たちが交代で見張りに立ち、松明を掲げながら村道を巡回していた。
昼間に地表へ現れた黒い根は、そのほとんどが切断され、あるいは地中へ引っ込んでいたが、完全に引っ込んだわけではない。枯れ始めた栗の木の根元では、細く黒い根がなおも僅かに蠢いていた。
しかし、まだ残ったままの黒い根も昼間のように激しく動き回る様子はなかった。村のみんなも、避難した家族を落ち着かせながら、壊れた道や家の状況を確かめ始めている。
俺はといえば宿屋の前に立っていた。
「…………」
東側の壁が壊れ、屋根の一部が傾いている。
幸い、建物全体が倒壊したわけではない。
とはいえ、このままでは安心して眠ることもできないだろう。
「……絶対、直してやるからな」
ここは、俺にとっては帰る場所だった。
その場所を、あんな魔物に壊されたままで、奪われてたまるものか。
「……マキ」
背後から声がして振り返ると、ガント爺さんが立っていた。
「……爺さん」
「……ふむ。随分とひどい有様じゃのう」
「ああ。……でも、直せるだろ?」
「当然じゃ。木でできた家なら、木を使って直せばよい。それが、わしらの仕事じゃろうが」
「……へへっ」
ガント爺さんが笑って言うので、俺もつられて笑った。
「……そうだな」
「それより、マキ。さっきの篭手の話じゃがな。本当に、あんな根を直接掴むつもりか?」
「……ああ。必要になったらだけどな」
「……ふむ」
ガント爺さんはしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……だったら、少し考えてみるかのう」
「おっ! 本当か!?」
「ただし、すぐにできるとは限らんぞ。材料もいる。鉄の加工もせねばならん。鉛を仕込むなら、なおさらじゃ」
「……わかってる! 必要なもんがあったら言ってくれ! 俺にできることなら何でも手伝う!」
「……ほっほっほ」
俺が力強く頷くと、ガント爺さんは愉快そうに笑って言った。
「ならば、まずは明日の朝からじゃな」
「……おう!」
俺は小さな拳を握りしめた。
……よし。
やることが少しずつ見えてきた。
グルートニーは強い。とんでもなく強い。
何しろ、数百年前に大陸を脅かした古代の魔物だ。
しかも、過去の英雄たちですら完全に討伐できなかった可能性がある。
だが、だからといって諦めるわけにはいかない。
俺には守りたい場所がある。
守りたい人たちがいる。
そして、木こりとして二十年近く培ってきた知識と技術がある。
それに――。
「……へへっ」
俺は自分の小さな手を見つめた。
STR9999という、ルミエラが押しつけてきた途轍もない筋力。
正直、今でも納得しているわけではない。
8歳の幼女にされたことも、巨大な神斧を2本も押しつけられたことも、まったくもって不本意である。
でも、この力があればできることもある。
この力があったからこそ、今日、ティオとポルを助けることができた。
村のみんなを守ることもできた。
……そう考えると。
「……まあ、悪いことばっかりじゃねえのかもな」
俺は、小さく呟いた。
『……マキちゃん?』
頭のなかでルミエラの声が響いた。
――何だ?
『今、何とおっしゃいましたの?』
――別に何でもねえよ。
『いいえ! わたくし確かに聞きましたわ!』
――うるせえな。
『マキちゃんが! わたくしの授けた筋力に好意的なお言葉を!』
――言ってねえ!
『まあまあまあまあ! とうとう筋力の素晴らしさをご理解いただけたのですわねぇぇぇっ!!』
――だから、そういう意味じゃねえって!
『おーっほっほっほっほ! 力こそパワー! 筋力こそ、すべてを解決する究極の力なのですわぁぁぁっ!』
「……だから、違うっつってんだろぉぉぉぉっ!!」
俺の絶叫が夕暮れのエルム村に響き渡った。
「……マキ?」
ガント爺さんが怪訝そうにこちらを見た。
「……何をそんなに怒っとるんじゃ?」
「……いや、何でもねえ」
……まったく。
この駄女神だけは、本当にどうしようもねえ。
俺は深々と溜息をついた。
『……マキちゃん』
不意にルミエラの声が静かになった。
――ん?
『……どうか、無理だけはなさらないでくださいまし』
「…………」
俺は、少しだけ目を瞬かせた。
……またか。
昨日の石切場でも、こいつは同じことを言っていた。あのときの声もいつものふざけたものではなく、本当に俺を心配しているように聞こえた。
「……ああ、わかってるよ」
俺はガント爺さんに聞こえないように小さく答えた。
『……マキちゃん』
――何だ?
『……あなたが、木こりとしての誇りを大切にしていることは、わたくしも存じておりますわ』
「…………」
『ですから、どうか……』
ルミエラは少しだけ言葉を詰まらせた。
『……その誇りを、無謀さと取り違えないでくださいましね』
「…………ああ」
……そうだな。
そのとおりだ。
木こりとして、何より大切なのは、生きて山から帰ることだ。
木を伐る技術がどれほど優れていても、どれほど力が強くても、命を落としてしまえば意味がない。
だから、無茶はしない。
自分一人で何でもできると思い込まない。
危ないときは仲間を頼る。
そして、できる限りの準備をする。
……それが、木こりってもんだ。
「……心配すんなよ、ルミエラ。俺はちゃんと帰ってくるさ」
『……ええ。信じておりますわ』
……まったく。本当に、調子が狂う。
いつもこのくらいまともなら、少しはありがたいんだけどな。
そう思いながら、俺は夕暮れの空を見上げた。
西の空が、茜色に染まっている。村のあちこちからは、夕飯の準備をする音が聞こえてきた。
壊れた家を仮修繕する槌の音。走り回る子供たちの声と村の男衆に指示を出すバルドの怒鳴り声、マルタさんがティオを叱る声。
そんな、何でもない音が俺の耳に届いてくる。
ああ。
やっぱりいい村だ。
俺はこの村が好きだ。
だから――。
「絶対に、守ってやるからな」
俺は決意を胸に静かに呟いた。
その視線の先には、遠く、裏山の黒い影が見えていた。
あの山の奥に、グルートニーがいる。
地中深くに根を張り、周囲の命を喰らいながら、今もなお力を蓄えているのだろう。
しかも、俺たちが切断した根は、明日になればまた伸びてくるかもしれない。だからこそ、今度はこちらから行かなければならない。
根を調べ、瘤を破壊し、再生する力を奪う。
中でも自分の意思を持つという8本の主根は絶対に残せない。
枝を払い、根を伐り、幹を伐る。
そして、もし、本当に地下の根株が生き残っているのなら。
「……そいつも、きっちり始末してやるよ」
俺は拳を握りしめた。
木を伐ることと根を掘り起こすことは違う。
普通の伐採なら幹を倒したところで仕事が終わることも多いが、根まで取り除かなければならない仕事だってある。
そのためには、それ相応の準備が必要だ。
……上等じゃねえか。
こちとら、20年近く木こりをやってきたんだ。
普通の木だろうが、魔物の木だろうが、相手がどれほど大きかろうが、やるべき仕事は変わらない。
「……さて」
まずは今夜の寝床をどうするかだな。
そんなことを考えていると、通りの向こうからマルタさんの声が聞こえてきた。
「マキぃ!」
「いつまで外にいるんだい! 夕飯だよ!」
「ああ! 今行く!」
「今日は宿屋が使えないから、村長さんのところで食べるよ!」
「わかった!」
俺は元気よく返事をする。しかし、駆け出そうとしたところで足元の小さな石に躓いた。
「うおっ!?」
慌てて両手を振って身体を立て直し、なんとか泥まみれになるのは逃れることができた。
……危ねえ。
本当に今の身体は不便だ。
『まあまあ! マキちゃんったら! STR9999の世界最強幼女が小石に躓いて転びそうになるなんて何という愛らしいギャップでしょう!』
――だから、そういうのはもういいっつってんだろぉぉぉっ!!
俺は心のなかで盛大に叫んだ。
……やれやれ。
この調子では明日も騒がしい一日になりそうだ。
それでもこんな日常がこれからも続いてくれるのなら、この救いようのない駄女神の声を聞くのも、案外悪くないのかもしれない。
……いや、やっぱりうるせえのは勘弁してほしいな。