よろしくお願いします。
第十六話に続いてフェルン寄り視点です。
太陽がようやく中天を過ぎた頃、石切場には黒い根が幾つも転がっていた。
その多くは赤黒い瘤を破壊され、もはや再び動きだす気配はなかった。
フェルンは弓を下ろし、短く息を吐いた。
長時間にわたって弓を引き続けた両腕は重く、指先にも僅かな痺れが残っている。
普段から鍛錬を欠かしていないとはいえ、これほど長い時間、緊張を保ちながら射続けるのは簡単なことではなかった。
矢筒のなかも随分と寂しくなっており、予備の矢束を合わせても、残りは決して多くない。
……ですが、あと少しです。
フェルンは魔樹の幹を見上げた。
最初に確認した副根は14本。
そのうち3本はマキたちと協力して討伐し、その後も村人たちと力を合わせて1本ずつ赤黒い瘤を破壊していき、既に11本の副根が動きを止めていた。
残っている3本のうち2本は、いつの間にか幹の近くまで退いており、今のところこちらに襲いかかってくる様子はない。
そして、最後の1本。
その副根だけが岩盤の割れ目を縫うように素早く動き回り、こちらの攻撃を避け続けていた。
ほかのものと比べればやや細いが、そのぶん動きが速く、鉤矢を射込もうとしても身を捩って逃げてしまう。
何度か放った鉤矢も深く刺さらず、返しが樹皮の表面を削るだけで弾かれてしまった。
「……厄介ですね」
フェルンは小さく呟いた。
このままでは、矢も体力も無駄に消耗してしまう。
しかも、先ほどから副根は何度もこちらに跳びかかろうとしており、まるで岩棚の上にいる自分を狙っているかのようだった。
「フェルン! どうする! あの根、なかなか捕まらねえぞ!」
バルドの声にフェルンは小さく頷いた。
「……少し、待ってください」
そう答えながら、副根の動きをじっと観察する。
根は左右に激しく身体をくねらせ、岩の割れ目に潜っては再び姿を現し、こちらが狙うたびに素早く身を捩って逃げていく。
しかし、よく見ていると、その動きには一定の癖があるようだった。
こちらから距離を取ろうとするのではなく、むしろ岩棚に近づく機会を窺いながら、何度も同じ場所を通っているのだ。
……なるほど。それなら利用させてもらいましょうか。
「バルドさん。左の巻き上げ機を使いたいのですが」
「……左?」
「ええ。あの二つの岩の間に、綱で大きな輪を作っていただけませんか?」
フェルンが指差した先には、大きな岩塊が二つ並んでいる場所があった。
その間は副根が何度も通っており、しかも周囲の地形の関係で、ほかの場所よりも進路を予測しやすい。
「根があの間を通ろうとした瞬間に、綱を引き絞りたいんです」
バルドはしばらく考え込んでいたが、やがて何かに気づいたように口元を緩めた。
「……なるほどな! 網を張って追い込んだ獲物を捕まえるようなもんか!」
「ええ。ただし、あの根の速さですから、綱を張るタイミングが重要になります」
「分かった! どうだ、ガント爺さん。できそうか?」
バルドが振り返ると、ガントは二つの岩を見比べながら顎髭を撫でていた。
「……ふむ。あの岩に滑車を掛けて、綱を輪にして通せばできんことはないじゃろう。じゃが、締めるのが遅れたら逃げられるぞ」
「だったら、逃がさねえようにすりゃいいだけだな!」
ブラスがそう言って笑うと予備の綱と滑車を手に取り、数人の村人たちへ声をかけた。
「よし、お前ら! あっちの岩まで綱を送るぞ! ただし、根っこの進路に直接入るんじゃねえぞ!」
村人たちはすぐに動き始め、岩の陰から慎重に綱を送り込んだ。
二つの岩の間には、根が通り抜けられるほど大きな綱の輪が作られ、その上側は簡単に外れる木製の支えによって保持されていた。輪を作る太綱の一端は滑車を経由して巻き上げ機に繋がれ、木製の支えには、それを外すための細い引綱が別に取り付けられている。
副根の先端が輪を通り抜け、太い胴がその内側に差しかかったところで細い引綱を引けば、木製の支えが外れ、保持されていた綱の輪が副根の胴に落ちて掛かる。
そして、副根がさらに前進しようとすれば、その動きによって綱が引かれ、胴に掛かった輪が締まっていく仕組みだった。
もちろん、普通の獣を捕らえる罠とは違う。
相手は大人の胴よりも太い魔樹の根であり、綱を無理に引き絞れば、巻き上げ機の軸や綱そのものが破損してしまうおそれがある。だからこそ、最初から強く締めつけるのではなく、副根自身の動きによって少しずつ輪を絞り、岩盤と繋がった大きな岩の張り出しまで誘導する必要があった。
その間、村人たちは巻き上げ機の制動を調整しながら綱に掛かる負荷を逃がし、副根が自ら動きを制限されるように仕向けるのである。
「……準備できたぞ!」
バルドの声を聞いたフェルンは静かに頷き、矢を番えた。
今度は鉤矢ではなく、普通の矢だ。
狙うのは根そのものではなく、そのすぐ横にある岩盤だった。
副根はこちらから狙われるたびに身体を捩り、岩棚へ近づこうとしている。どうやら、矢が飛んでくる方向を察知し、それを避けるように動いているらしい。
ならば、その癖を利用することで、村人たちが仕掛けた罠まで誘導する。
ただし、根が輪を避けたり、上を飛び越えたりしてしまえば、仕掛けは何の役にも立たなくなる。
……慎重にいきましょう。
フェルンは呼吸を整え、静かに弓を引き絞った。
「――シッ!」
鋭い吐息とともに放たれた矢が、副根のすぐ脇にある岩盤の割れ目へと打ち込まれると、黒い根は矢が飛んできた方向を避けるように大きく身を捩り、岩棚に向かって勢いよく跳ね上がった。
しかし、その動きはフェルンの予想を僅かに上回っていた。
副根は身体を大きく反らせ、岩棚の手前に向かって高々と持ち上がっていく。このままでは、仕掛けた綱の輪を上から飛び越えてしまいかねない。
――高すぎます!
フェルンは咄嗟に二の矢を番えた。
先ほどよりも素早く弓を引き絞り、跳ね上がった副根の進行方向、そのすぐ先に突き出している岩の縁へ狙いを定める。
「――シッ!」
放たれた矢が岩の縁を鋭く叩き、乾いた音とともに小さな石片を飛び散らせた。
すると、副根はその音と振動に反応したかのように身体を捩り、持ち上げていた先端を僅かに下げる。
……よし!
フェルンは足元を確かめながら、少しだけ後方へ下がった。
視線の先では、黒い根が大きくしなりながら、岩棚の手前に向かって飛び込んでくる。
その進路には、村人たちが用意した綱の輪が待ち構えていた。先端が輪の内側を通り抜け、続いて太い胴が二つの岩の間へ差しかかる。
「今です!!」
「おう! 落とせぇぇぇっ!!」
バルドの号令に合わせ、岩陰で待機していた村人が作動用の細い引綱を引くと、綱の輪を保持していた木製の支えが外れ、輪の上側が副根の胴に向かって落下する。
太い綱が黒い樹皮に掛かり、その胴体を左右から垂れ下がった綱が取り囲んだ。
だが、副根は構わず前進を続けようとしたことで、根の胴体や派生した細根にまで綱が絡みついていく。
そして、なおも動き続ける副根によって輪を作る太綱が引かれ、滑車を経由して巻き上げ機へ繋がっていた綱が、徐々に張り始める。
「絡んだぞ! 制動を掛けろ!」
「おう!」
バルドの声に応え、村人たちが巻き上げ機の制動を調整した。
副根がさらに進もうとするたび、胴に掛かった綱の輪が少しずつ締まり、さらに細根に綱が絡まり、ギリギリと根の身体を捉えていく。
しかし、力任せに巻き取ろうとはしなかった。
副根の動きを完全に止めようとすれば、巨大な根に引かれて巻き上げ機の方が壊されてしまう。
だからこそ、綱が緩みすぎない程度に張力を保ちながら、危険なほど大きな負荷が掛かったときには制動を緩め、少しずつ綱を繰り出していた。
「張りすぎるなよ! 根が引いてきたら、無理せず逃がせ!」
ガントの声が響く。
村人たちは互いに頷き合い、巻き上げ機の取っ手と制動具を慎重に操作した。
一方、突然綱を掛けられた副根は、それを振りほどこうと激しく身を捩っている。
だが、輪が締まったことで自由に動ける範囲が狭まり、そのうえ左右には岩盤から削り残された巨大な岩の張り出しがあった。
前進しようとすれば綱が張り、横へ逃れようとすれば岩に身体を押しつけられる。
それでも副根は力任せに暴れ続けたが、その動きによって、かえって自分自身の身体を岩の間へ押し込んでしまっていた。
黒い樹皮が岩肌で擦れ、重苦しい音を立てる。
しかも、逃れようとして身体を捩るたびに、幹と繋がる根元付近には大きな曲げの力が掛かり、地中に隠れていた部分が少しずつ持ち上がり始めていた。
……なるほど。
フェルンは思わず目を見開いた。
自分たちは、あの巨大な根を力任せに押さえつけているわけではない。副根が暴れる力を利用し、その動きを岩盤に押しつける方向へと誘導しているのだ。
しかも、相手が無理に抜け出そうとすればするほど、根元の樹皮へ大きな負担が掛かっていく。
……これなら、いけます!
フェルンは静かに弓を引き絞った。
その視線の先では、根元付近の黒い樹皮に深い皺が寄り、奥から赤黒い瘤が僅かに覗いている。
しかし、まだ露出している部分が小さく、今のままでは確実に矢を届かせられるとは限らない。
「バルドさん! もう少し、右へ引いてください!」
「おうよ! 右の綱だな!」
バルドが指示を飛ばすと、村人たちは右側の滑車に繋がる綱を僅かに巻き取り、引く角度を調整した。
その間も、反対側の綱は過度に張り詰めないよう、慎重に負荷を逃がしている。
すると、岩の間へ押しつけられた副根の胴体が捻れ、根元付近の樹皮に刻まれていた皺がさらに深まった。
みしみしと軋みを上げながら分厚い樹皮の裂け目が少しずつ広がり、その奥に隠れていた赤黒い瘤が今度こそはっきりと姿を現す。
――そこです!
フェルンは静かに弦から指を離した。
鋭い風切り音を残して矢が飛び、狙い過たず赤黒い瘤へ深々と突き刺さった。
硬い樹皮が割れる乾いた音が響き、瘤の表面へ細かな亀裂が走る。
しかし、まだ完全には砕けていない。
「もう一度だ!」
バルドが声を張り上げると、村人たちは呼吸を合わせながら、綱の張り具合を慎重に調整した。
副根はなおも激しく暴れており、そのたびに太い綱が軋み、巻き上げ機の木枠も重苦しい音を立てている。
だが、今度は誰も慌てていなかった。
ガントは綱に掛かる負荷を注意深く見守り、ブラスは巻き上げ機の軸と制動具の状態を確かめている。
危険なほど大きな力が掛かれば、いつでも綱を繰り出せるよう準備を整えていた。
「……よし。今は巻くな! そのままの張りを保つんじゃ!」
ガントの指示に従い、村人たちは慎重に巻き上げ機を操作し続けた。
そして、岩の間から抜け出そうとしていた副根が、再び大きく身を捩った瞬間、黒い樹皮が岩肌に強く押しつけられ、根元付近の裂け目が大きく開く。
そして、綱が根の進路を制限したことで、暴れていた副根の動きがほんの僅かに鈍った。
「……今です!!」
フェルンは静かに、しかし力強く呟いた。
次の矢を番え、弓を引き絞る。
長時間にわたって射続けたせいで指先には痺れが残っていたが、それを意識から追い払い、赤黒い瘤へと狙いを定めた。
既に生じている亀裂の奥。ほんの僅かに覗いている、その隙間へ矢を届かせる。
フェルンは大きく息を吸い込み、呼吸を止めた。
そして、弦を握る指を離す。
鋭い音を残して矢が放たれ、一直線に赤黒い瘤へ向かって飛んでいく。
その鏃は、既に刻まれていた亀裂の奥へと吸い込まれるように突き刺さると、何かを砕いたような甲高い音を上げた。
それと同時に瘤が内側から爆ぜ、副根が激しく痙攣した。
黒い根は岩盤に何度も身体を打ちつけながら綱を揺らしたが、その抵抗も長くは続かず、やがて力を失ってゆっくりと地面へ崩れ落ちる。
フェルンはしばらく弓を構えたまま様子を窺っていたが、根が再び動き出す気配はなく、瘤から赤黒い液体が滔々と流れ出しているのを確認すると、ようやく小さく息を吐いた。
……終わりましたね。
そう確信した瞬間、全身から力が抜けそうになった。
フェルンはゆっくりと弓を下ろし、深く息を吐いてから、岩棚の下へ声をかけた。
「……やりました」
その声を聞いたバルドが、目を見開いた。
「……本当か!?」
「ええ。もう動きません」
「……いよっしゃあああっ!!」
バルドが拳を突き上げた。
「12本目だ! やったぞ、お前ら!」
その叫び声を合図に、村人たちの歓声が石切場に響き渡った。
互いの肩を叩き合う者もいれば、力が抜けたように岩に腰を下ろす者もおり、なかには思わず涙ぐんでいる者までいた。
彼らの顔には疲労と安堵が入り混じっていたが、その表情には確かな達成感も浮かんでいる。
無理もない。
つい先日まで、普通に木を伐り、畑を耕し、村で暮らしていた彼らが、古代の魔樹を相手に12本もの副根を討ち取った。
もちろん、彼らだけで倒したわけではない。
最初の3本はマキと冒険者たちの助けがあってこその戦果だったが、それでも残る9本をフェルンと村人たちの力で討伐したことに変わりはなかった。
しかも、その間には太い枝による妨害もあった。
だが、こちらへ伸びてくる危険な枝先は、マキたちが次々と切り詰めてくれた。
もし彼女たちが頭上の脅威を取り除いてくれていなければ、巻き上げ機を動かすことさえ難しかったかもしれない。
フェルンが石切場の向こうへ目を向けると、そこでは、ちょうど最後の太い枝が切断されようとしていた。
黄金の神斧が黒い樹皮に深々と食い込み、切り口から木片が飛び散る。
枝は激しく身を捩ったものの、その動きによって傷口が広がり、やがて長く垂れ下がっていた枝の先端が完全に切り離された。
巨大な枝先が採掘跡へ落下し、石切場の端にもうもうと土煙が立ち上る。
フェルンは、その光景を静かに見つめていた。
幹から伸びる太い枝そのものがなくなったわけではない。
しかし、こちらまで届いていた枝の先端部分はそのほとんどが切り詰められ、今では岩棚の上に随分と広い空間ができている。
……あちらも、終わったようですね。
どうやら、マキたちも頭上の脅威を減らすことに成功したらしい。
「フェルン!」
バルドが歩み寄ってきた。
「やったな!」
「……ええ。皆さんのおかげです」
「何言ってんだ! お前の弓がなきゃどうにもならなかったぞ!」
「……いえ」
フェルンは静かに首を振った。
「僕の矢だけでは、あの瘤は壊せませんでした。皆さんが綱をかけ、根を引いてくれたからこそ狙うことができたんです」
その言葉にバルドはしばらく黙っていたが、やがて豪快に笑い出した。
「はっはっは!」
大きな手がフェルンの肩を叩く。
「だったら、俺たち全員の勝ちってことだな!」
「…………」
その言葉にフェルンは少しだけ目を見開き、それから静かに微笑んだ。
「……ええ。そのとおりですね」
そう答えたとき、不思議なほど胸が温かくなった。
自分は冒険者で彼らは村人。
立場も経験も身につけている技術も違う。
だが、そんなことは今この場所では関係なかった。
誰もが同じ目的のために、自分のできることを精一杯果たしたのだ。
遠くで戦っているマキたちも、きっと同じだろう。
彼女たちが頭上の枝を切り詰め、自分たちが地中から伸びる副根を討伐する。
それぞれの役割は違っていても、目指しているものは同じなのだ。
……そうですね。
フェルンはもう一度、疲れ切った村人たちを見回した。
……これは、僕たち全員の勝利です。
◇◆◇
最初は、ほんの小さな振動だった。
フェルンは微笑んだまま足元を見下ろしたが、すぐに何かがおかしいことに気づいた。
今朝からの戦闘中にも地面が揺れることは何度もあった。
巨大な枝が岩盤を叩くたびに石切場全体が震えていたし、副根が地中から飛び出してくる際にも足元まで衝撃が伝わってきたのだから、多少の揺れには既に慣れてしまっていた。
だが、今の振動は違う。
地表で何かがぶつかったような衝撃ではなく、もっと深いところからじわじわと伝わってくるような、そんな不気味な揺れだった。
「……バルドさん」
フェルンが声をかけると、バルドが振り返った。
「ん? どうした?」
「みなさんも、少し静かにしてください」
「……あ?」
バルドは不思議そうな顔をしたが、フェルンの表情を見るなり、すぐに口を閉じた。
周囲の村人たちも次第に静かになっていくと、異変は一層はっきりと感じられるようになった。
先ほどまで石切場を満たしていた騒音が、少しずつ小さくなっているのだ。
副根の攻略を一通り終えたことで巻き上げ機は既に止まっており、マキたちも太い枝を切り詰め終えたため、石切場に響き続けていた音は随分と減っていた。
しかし、それだけではない。
幹の近くで蠢いていた細根が、まるで何かの合図を受けたかのように動きを止め始めている。
さらに、切り詰められて短くなった太い枝も、ゆっくりと、幹のほうへと引き寄せられるように持ち上がっていた。
……おかしい。
フェルンは石切場の中央へ視線を向けた。
魔樹の巨大な幹から伸びる枝は、先ほどまで残った先端を不気味に揺らしていたはずなのに、今はほとんど動かずに奇妙な沈黙を保っている。
残っていた2本の副根も幹の近くへ退いたまま、地表には姿を現そうとはしない。
まるで、魔樹そのものが何かを待っているかのようだった。
……一体、何が起こっているのでしょうか。
そのときだった。
――ドクン。
足元から伝わる妙な振動を感じ、フェルンは思わず息を止めた。
――ドクン。
もう一度、重く鈍い振動が響く。
それは先ほどまでの岩盤を叩く衝撃とはまるで違い、大地の奥底で巨大な心臓が脈打っているかのようだった。
「……バルドさん」
フェルンはゆっくりと弓を握り直した。
「作業を止めてください」
「……何だ?」
「……何かが来ます」
その言葉が終わるより早く、地面が大きく震え始めた。足元に転がっていた小さな石片がカタカタと音を立て、岩棚の縁から細かな砂がぱらぱらと落ちていく。
村人たちが慌てた様子で周囲を見回すなか、フェルンは前方の岩盤に亀裂が走るのを見て思わず息を呑んだ。
……まずい。
あれは、ただの地鳴りではない。
「バルドさん! 退避の合図を!」
「お、おう!」
バルドは吊り下げていた鐘を掴むと、まず一度だけ強く打ち鳴らした。
――カァァンッ!!
作業停止を知らせる鐘の音が石切場に響き渡る。
しかし、その直後にも足元の振動は激しさを増し、魔樹の幹を取り囲む岩盤が大きく隆起し始めた。
「……っ! 全員、退避だ!」
バルドはさらに鐘を三度打ち鳴らした。
――カァンッ! カァンッ! カァンッ!!
撤退を命じる甲高い音が響くと、村人たちはあらかじめ決めていた退路に向かって動き始めた。
その途中、道具を抱えて逃げようとした男を別の者が慌てて引き止める。
「馬鹿! 道具は置いていけ!」
「で、でも!」
「命のほうが大事だろうが!」
その声に男は慌てて荷物を放り出し、仲間たちとともに岩棚の裏へ駆け込んだ。
フェルンは村人たちが退避したことを確認してから、再び石切場の中央へと向き直った。
視線の先ではマキたちも異変に気づいたらしく、グレイヴが何かを叫び、カイルとリゼットが周囲の岩棚の方に退避していく。
一方、マキは金剛を肩へ担いだまま、足元の岩盤を見つめていた。
その小さな身体の周囲では、地中から伝わる振動によって石屑が跳ね上がり、砕けた岩盤の隙間から黒い土が噴き出している。
……一体、何が起ころうとしているのでしょうか。
その答えは、すぐに現れた。
――ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
凄まじい轟音とともに、魔樹の幹を取り囲む岩盤が大きく裂けた。乾燥した黒い土が噴き上がり、巨大な岩塊が内側から押し上げられる。
その奥から何かがゆっくりと姿を現したが、最初に見えたのは、岩のように硬く、深い皺が幾重にも刻まれた黒い樹皮だった。
しかし、それが地中からさらに持ち上がった瞬間、フェルンは自分の目を疑った。
……大きい。
あまりにも大きすぎる。
太さは優に直径2メートルほどもあるだろうか。
副根とは比較にならないほど太く、そして長い巨大な根。それは、まるで樹齢数百年を超える大木が地中から這い出してきたかのような異様な光景だった。
しかも、その巨大な根は地上へ現れてなお動きを止めず、黒い身体を大きくしならせながら周囲の岩盤を押し砕いていく。
圧し潰された岩塊が砕け散り、土煙が噴き上がる。
だが、それだけではなかった。
別の場所でも地面が盛り上がり、同じような黒い根が姿を現した。
さらに、その向こうでも。
魔樹の巨大な幹を取り囲むように、太い根が次々と地中から這い出してくる。
その一本一本が、まるで長い眠りから目覚めた神代の大蛇のように身体をくねらせ、岩盤を押し砕きながら地上に姿を現していた。
フェルンは息を呑み、その数を目で追った。
ひとつ。
ふたつ。
さらに、別の場所でも地面が裂ける。
やがて、すべての根が姿を現したとき、彼はようやく理解した。
……8本。
古い討伐記録に記されていた8本の主要根。
そのすべてが、今、目の前に現れていた。
「……ば、馬鹿な……」
岩棚の裏から顔を覗かせていたバルドが、呆然と呟いた。
「……あんなのが、8本もあるってのか……?」
村人たちの顔から、見る見る血の気が引いていった。
無理もない。
先ほどまで苦戦していた副根ですら、彼らにとっては恐ろしい相手だったのだ。
その副根が、まるで細い枝に見えてしまうほど巨大な根が8本もあり、しかも、その一本一本が独立した生き物のように動いている。
太い根が持ち上がるたびに大地が震え、岩盤が砕け、土砂が崩れ落ちる。
しかも、根は地中から姿を現したところで動きを止めるわけではなかった。
黒い樹皮に覆われた巨大な身体が岩盤の上を這い、長々と伸びた先端が石切場の端へ向かって動き始めている。
あれほど太い根が、あんな速さで動けるなど、フェルンには到底信じられなかった。
……これが、喰根の魔樹の主要根。
フェルンは思わず弓を握り締めた。
古い討伐記録に記されていた古代の魔樹の力。
だが、それと同時に、グレイヴとの会話が頭を過ぎった。
かつての魔樹には、30本以上の副根があったという。しかし、今ここで確認できた副根は14本だけだった。
その理由は分からない。
地中に隠れているものがほかにもあるのかもしれないし、数百年前の討伐記録が間違っていた可能性だってある。
あるいは、本当にまだ十分な力を取り戻していないのかもしれない。
……もし、そうなのだとしたら。
これで完全に復活したわけではないというのなら……。
フェルンは、目の前で蠢く巨大な根を見つめた。
……数百年前の英雄たちは、一体どれほどの怪物と戦ったのでしょうか。
背筋に冷たいものが伝った。
自分たちは今、既にとんでもない怪物と戦っている。それでもなお、目の前の相手が本来の力を取り戻していないのだとしたら。
……考えたくもありませんね。
フェルンは小さく息を吐き、弓を構え直した。
「……おいおい」
そのとき、前方から聞き慣れた幼い声が聞こえてきた。
顔を上げると、石切場の中央、砕けた岩盤の上に小さな人影が立っていた。黒鉄の篭手を嵌めた幼い少女の肩には、巨大な黄金の神斧が担がれている。
マキだった。
「……へへっ」
少女は目の前にそびえる巨大な根を見上げ、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「ようやくお出ましかよ」
「マキ!」
グレイヴが叫んだ。
「油断するな! こいつは今までの根とは訳が違うぞ!」
「分かってるって!」
マキは笑いながら頷くと、左手を前へ突き出した。
「……来い! 白銀!」
瞬間、白銀に輝く巨大な神斧が、その小さな手のなかへ現れた。右手には黄金の《金剛》、左手には白銀の《白銀》。
二振りの神斧を手にした少女が、ゆっくりと足を開き、腰を落とす。
身長僅か120センチ程の小さな身体。
両腕に装着された重厚な黒鉄の篭手と、その手に握られている幼い少女の身長など遥かに上回る巨大な二振りの神斧。
その姿は、いや、存在そのものがあまりにも異様だった。
だが、フェルンには不思議とその異様な姿が頼もしく見えた。
それこそ、過去の討伐記録に描かれていた、神々の加護を受けた英雄のように。
……本当に、不思議な子ですね。
今までだって何度も驚かされてきた。
あの小さな身体からは想像もできないほどの怪力に、木こりとして培ってきた確かな技術。
そして何より、どれほど恐ろしい相手を前にしても、決して諦めようとしない、その心に。
だが、今のフェルンには、もうひとつ分かっていることがあった。
マキは決して、一人だけで戦っているわけではない。
先ほどの枝払いでも、グレイヴが枝の攻撃を引きつけ、カイルが仲間を守り、リゼットが魔法で動きを鈍らせていた。
彼女の怪力だけでは、あれほどの数の太い枝を次々と切り詰めることなどできなかっただろう。
そして、それは自分たちの副根攻略も同じだった。
自分一人の弓では、9本もの副根を討伐することなど到底できなかった。
だからこそ、フェルンには分かる。
仲間とともにいるあの少女が、どれほど頼もしい存在であるのかということを。
「……さて!」
マキが二振りの神斧を構え直した。
「ここからが、いよいよ本番ってわけだな!」
その幼い響きを残した声が石切場に響き渡ると、まるで言葉に応えるかのように、8本の主要根が一斉に持ち上がった。
大地が震える。
既に切り詰められた枝は、高い樹冠の上で不気味に揺れ、黒い根が幹の周囲で巨大な身体をくねらせた。
その光景は、まるで石切場そのものが巨大な生き物へと変わってしまったかのようだった。
フェルンは、静かに弓を握り直した。
……どうやら。
本当の戦いは、まだ始まったばかりのようですね。
眼下ではカイルが大盾を構え、その後ろでグレイヴが長剣を抜き直し、リゼットも杖を握り締めている。
マキは二振りの神斧を手に、巨大な根を見上げていた。
そして、少し離れた岩棚では、バルドたち村人が息を呑みながら、その光景を見つめていた。
「全員、構えろぉぉぉっ!!」
グレイヴの怒号が響く。
その声に応えるように、8本の主要根が大きくしなった。
そのうちの1本が、ゆっくりと先端を持ち上げる。
直径2メートルにも及ぶ巨大な根が岩盤から離れ、まるで眼下の小さな人間たちを見下ろすかのように、高々とそびえ立った。
その先端が動きを止めた一瞬、石切場には不気味な静寂が訪れた。
フェルンは息を呑み、弓を握る手に力を込めた。
次の瞬間、空気をかき分ける強烈な音を伴った巨大な黒い影が石切場の上空を覆った。
マキ達の戦闘シーンはまだまだこれからだ!!(白目)