よろしくお願いします。
女神と別れてから、およそ三十分後、俺は森のなかで立ち尽くしていた。
「……歩きにくい」
実に歩きにくかった。
身体が小さいということは足が短いということ、そして、歩幅が狭いということだ。
以前なら十歩で進むことのできた距離を、今では倍近い歩数で進まなければならない。
しかも、視線が低いせいで、今まで気にも留めなかった下草がやたらと邪魔だった。
「……子供って大変だったんだな」
俺は思わず呟いた。
さらに進んでいると、目の前に、一本の倒木が横たわっていた。
直径は一メートル近く、長さはゆうに20メートルを超えている。普通ならば乗り越えるか、回り道をするしかない。
しかし、と気がつく。今の俺には――。
「そういえば。……試してみるか」
俺は下からすくい上げるようにして倒木に手を伸ばし、両手に少しだけ力を込める。
――ひょいっ。
「…………」
持ち上がった。それはもう、あっさりと。まるで軽い薪でも持ち上げたようだった。
「……すげえ」
俺は思わず感心した。
前世なら、重機が必要になる大きさである。それが、小さな少女の腕で持ち上がってしまった。
「……これなら運搬作業は、随分楽になるな」
木こりとしては、非常にありがたい能力だった。
伐採した木を運び出す作業は、時として木を伐ること以上に大変なのだ。
しかし、今の筋力なら同じ木が何本、いや、何十本あったとしても簡単に担ぎ上げて――。
「……いや、待てよ」
俺は倒木を見上げた。
朽ち折れてしまった巨大な幹が、それでも茂っていた頃の威容のままに頭上に浮かんでいる。
20メートルを超えるその巨体を小さな身体で支えているせいで、ひどく身体が左右に振られて不安定だった。
もし足元が滑れば、もし斜面でバランスを崩せば、どうなるかは火を見るより明らかだった。
「……危ねえな」
俺は慎重に倒木を道の端へと下ろした。
――どすんっ。
地面が揺れた。もし足を滑らせるようなことがあれば、この衝撃がそのまま自分に襲いかかっていたということだ。
筋力があるということと、安全に扱えるということは別の話であり、重いものを持ち上げられても、それを運ぶには技術が必要になる。
何しろ、今の俺の身体は8歳児なのだから。
「……やっぱり、慣れるまでは無茶はできねえな」
俺は小さく頷いた、そのとき――。
――きゃああああっ!
「……っ!?」
悲鳴が、子供の叫び声が聞こえた。
俺は反射的に声のした方を振り返ると、森の奥から聞こえてくるようだ。
村へ向かう道から、少しばかり外れた場所だ。
「……何だ?」
耳を澄ますと、再びの悲鳴が聞こえてきた。
「だ、誰かぁっ! 助けてぇぇっ!」
俺は考えるより先に、駆け出していた。
前世で新人を助けようとしたときと同じで、何があったのか理解しようとする前に、勝手に身体が動いていた。
ただし、以前とはあまりにも勝手が違っていた。
「うおっ!?」
走り出した途端、足がもつれる。小さくなってしまった身体は、思った以上に前に進んでくれない。
「くそっ、走りにくい!」
俺は歯噛みした。
筋力はある。それも世界最高峰の筋力が。しかし、俊敏さはむしろ下がっている。
それでも、枝を避け、倒木を飛び越え、下草をかき分けて進む。
その間も、悲鳴は続いていた。
やがて声のする場所までなんとかたどり着き、木々の隙間から開けた視界の先に、木にしがみついている小さな人影が見えた。
「……ティオ!?」
そこにいたのは、村の少年だった。
年齢は9歳、宿屋の女将マルタの甥っ子で、俺とも顔見知りである。普段なら村の広場で遊んでいる、元気な男の子だった。
そのティオが、低木に登り切ることができず、しがみついて助けを求めている。
そして、彼が縋っている木の下では、巨大な猪がぐるぐると幹の周りを回っていた。
「……おいおい」
俺は思わず立ち止まった。
猪といったが、そこにいたのは普通の野生動物としての猪ではない。
肩までの高さだけで大人の背丈を超え、全身を黒々とした剛毛に覆われている。
口元から伸びる4本の牙は、まるで鋭く研ぎ澄まされた鉈のようだった。
額にはごつごつとした骨の突起があり、太い四肢が地面を踏みしめている。
この世界の魔物、《大牙猪》だ。
熟練した狩人が何人も集まって、あるいは罠まで使ってようやく相手をするような危険な獣である。
「……何でこんな森の浅い場所にいやがる」
大牙猪は森の奥に生息するため、村の近くに現れることは滅多にない。
何かがおかしい。
しかし、今はそんなことをゆっくりと考えている場合ではなかった。
「ティオ!」
俺の声に気づいた少年がこちらへ振り返る。
「……え?」
彼の目は、一瞬、「誰?」と言うように細められた。それもそのはず、その目に映ったのは、見知らぬ幼い少女だったのだから無理もない。
つい数時間前まで、成人男性だった俺なら、すぐに気づいてくれたはずだ。
……気付いてくれたよな?
「お、お前、誰だよっ!? こっちに来たら危ないから逃げろよっ!」
ティオが叫んだが、大牙猪はこちらを向いた。
赤黒い瞳が、小さな俺を捉える。
――ぶふぅぅっ。
鼻息が荒くなった。強靭な前脚が地面を蹴りつける。一目で分かる、突進の構えだった。
「……ちっ」
俺は舌打ちした。
どうする。
どうする。
どうする。
手元には斧がある。しかも、とんでもなく巨大な斧が2本だ。
だが、いきなり戦闘に使えるかどうかはわからない。そもそも俺は木こりであって、戦士ではない。前世でも今世でも、人間や魔物と戦う訓練など受けたことがない。ましてや、あの巨大な斧で無節操に斬りかかれば、余波でティオが大怪我をしてしまいかねない。
しかし、目の前には、危険に晒されている子供がいる。
このままではいずれ力が尽きたティオは木から滑り落ち、大牙猪の餌食となってしまうだろう。それならば――。
「……やるしかねえだろ」
俺は右手を猪の方に向けて伸ばした。
その小さな白い掌の中に、金色の光が集まっていく。
――ずしんっ!
巨大な金色の両刃斧が、俺の手に現れた。
「…………」
ティオは黄金に輝くクソデカダブルアックスを見て、木に掴まったまま呆然としていた。
大牙猪も、その煌々とした輝きに気圧されたように一瞬だけ動きを止めた。
知性があるとは思えない猪の魔物であっても思考を停止してしまうほどに、小さな少女と、その身体を遥かに上回る巨大な両刃斧という光景は、異様で異質なものだったのだろう。
しかし当の俺は、そんなことを気にしている余裕などなかった。
「ティオ! そのまま掴まってろ!」
「えっ!?」
「動くなよ!」
俺は斧を構えた。
その瞬間、我に返った大牙猪が地面を蹴った。
――どどどどどっ!
土煙を上げ、中型のトラックほどもある巨体が凄まじい勢いで突進してくる。
太い牙が陽光を反射して煌めく。もしあの牙がこの小さな身体に触れたなら、ずたずたに引き裂かれてしまうだろうと思われた。
俺は身体を低くした。正面から受け止めるつもりなどない。いくら俺の筋力が強くても、体重差がありすぎて、突進してくる猪の巨体にぶつかられれば、こちらが吹き飛ばされる可能性の方が高かった。
狙うべきは、猪との正面対決ではない。
その進路を奪うことだ。
「……そこっ!」
俺は素早く斧を振り下ろした。
突進してくる猪にではなく、猪の進路に突き出していた、太い木の根へ向けて。
――どっがああああああああんっ!!
「…………は?」
俺は思わず声を漏らした。
木の根が砕けた。
いや、砕けたどころではない。
斧が地面へ突き刺さり、根元の土ごと周囲を抉り取ってしまったのだ。
木屑と土砂が爆発のように飛び散り、大牙猪が驚いて身を捩った。
そして、抉れて柔らかくなった地面に前脚を取られ、その巨体が横倒しになる。
――ぶぎゃあああっ!
「うわわっ!?」
猪と俺が、同時に悲鳴を上げた。
何という威力だ。俺はただ木の根を切って足をかけてやろうとしただけなのに、大斧は木の根はおろか地面にまで突き進み、大きなクレーターが開いている。
しかも、間の悪いことに、大斧は地面へ深く食い込んでしまっていた。
「……抜っ……けねえっ!?」
いや、筋力的には簡単に引き抜けるはずだった。
しかし、巨大すぎる斧頭が地中の根や石を巻き込んでしまっているせいで、斧を真っ直ぐ引き上げられない。
無理に引けば、また周囲の地面ごと破壊しかねず、ティオが掴まっている木にまで被害が及びかねなかった。
「……くそっ!」
俺が心中で【収納】と呼びかけると、地面に深く突き立った大斧は金色の光の粒子へと姿を変え、やがて光の粒子は俺の掌に集まって消えた。
そうこうするうち、大牙猪が立ち上がった。
その赤黒かった双眸は、真っ赤に染まり、ぎらぎらと俺を睨んでいた。
怒っている。
ものすごく怒っている。
「……ま、そりゃ怒るよな」
思わず苦笑した。だが、笑っている場合ではない。
ティオはまだ木の上から逃げられずにいる。
ここで俺が逃げれば、次に狙われるのはあの子だ。
そのときだった。
『おーっほっほっほっほ!』
「…………」
頭のなかに、聞き覚えのある笑い声が響いた。
「……おい」
『まあまあまあ! なんという素晴らしい展開なのでしょう!』
「ルミエラ?」
『はい! あなたの女神、ルミエラですわ!』
「何で聞こえるんだよ!」
『祝福を授けた相手とは、念話でお話しできるのですわ!』
「そういうことは先に言え!」
『それにしても!』
女神の声が、嬉しそうに弾んだ。
『まさか、こんなに早くお渡しした双斧の出番が訪れるだなんて!』
「…………」
『小さな少女が、巨大な魔物を相手に大立ち回り!』
「おい」
『しかも、相手は自分の何倍もの巨体! それを自分よりも大きな双斧で迎え討つ!』
「黙れ」
『はああああっ! これぞ浪漫ですわぁぁぁっ!』
「黙ってろ、この駄女神ぃぃぃっ!!」
俺は思わず叫んだ。
ティオがびくりと肩を跳ねさせた。
「えっ!? 誰!?」
「あ、いや。何でもねえ!」
俺は慌てて答えた。
大牙猪が再び突進の構えを取る。
俺は深呼吸して心を落ち着ける。今は女神の相手をしている場合ではない。
「……落ち着け」
俺は小さく呟いた。
敵は巨大な猪で、俺は木こり。
そもそも、目的はティオを逃がすことであって、正面きって猪と戦う必要はない。
俺が得意なのは何だ?今の俺にできることは何だ?
木を伐ることだろうが。
「……そうか」
俺は周囲を見渡した。
そして、一際大きな枯れ木に目を留めた。
幹の半分が腐朽し、大きく傾いた古木だった。根元には菌類が生え、風が吹くたびに枝が軋んでいる。
いずれは幹の中心まで完全に朽ちて、自然に倒れるだろう木だった。
その倒れるだろう方向はティオとは反対側の獣道に向かって既に傾いており、普通の伐採なら、見送るべき危険木である。
しかし、今は違う。
俺には、人間離れした筋力がある。
ならば、できることはある。
「……倒す方向を調整してやればいい」
俺は枯れ木へと向かって走った。
大牙猪は走る俺の背後から追ってくる。
重い足音と荒い鼻息が背後から迫る。
だが、俺は視線を枯れ木に固定し、振り返らなかった。
幹の傾きを、根元の腐り具合を、枝の張り方を、そして、猪が突進してくる方向をもう一度確認する。
「……よし」
俺は両手を伸ばした。
右手に金、左手には銀。
この手の中に、2振りの巨大な斧が現れる。
――ずしんっ!
その圧倒的な重量を、俺は小さな腕で支えきった。
以前の身体なら、到底不可能な構えだっただろうが、今は違う。
筋力だけなら、この身体は世界中の誰にだって負けはしない。
『き……!』
頭のなかで、女神が震えていた。
『来ましたわ……!』
「…………」
『ついに! ついに! わたくしが夢にまで見た、この瞬間が!』
「……うるせえ」
『幼女! 大斧! 巨大な魔物!』
「…………」
『なんという完璧な構図なのでしょう!』
「黙れ」
『さあ! 思いっきり振り回してくださいまし!』
「黙ってろって」
『力こそパワーですわぁぁぁっ!』
「うるせえぇぇぇぇっ!!」
俺は金色の斧を振り下ろした。狙いは枯れ木の根元、倒す方向を定めるための切り込みだ。
普通なら何度も斧を振らなければならない。
だが、この身体にそんなことは必要ない。
――がああああんっ!!
僅か一撃で、巨大な刃が幹深くへと食い込む。
木屑が弾け飛び、太い幹に深い切れ込みが生まれた。
強すぎる!
予想していたよりも遥かに深い。
俺は慌てて金剛を【収納】し、金剛によって深く抉れた幹の様子を確かめた。
「駄目だ、まだだ」
このままでは、まだ元々傾いていた側に倒れてしまう。
俺は立ち位置を変え、金剛を打ち付けた箇所とは反対側に回り込む。
大牙猪はすぐ目の前まで迫っていた。
地面が震え、鉈のような太い牙が突き出される。
「……っ!」
俺は白銀を手放して横へ跳んだ。
そのすぐ脇を大牙猪が通り抜けていく。その衝撃で、俺の身体が強い風圧に煽られた。
「うわっ!」
小さな足が地面を滑り、危うく転ぶところだったが、何とか踏みとどまった。
「……あっぶねえ!」
心臓が激しく脈打っていた。
怖い。
当たり前だ。
巨大な猪が全力で突進してくるのだ。
もし避け損ねていたら、撥ね飛ばされていたか、牙で引き裂かれていたか、どちらにしても死んでいたかもしれないのだ。怖くないわけがない。
でも、ここで逃げるわけにはいかない!
俺は白銀を【収納】し、すぐさま【召喚】する。掌に集まる鋭い銀色の光をぐっと握りしめた。
そして、枯れ木へ視線を戻す。
「……今度こそ!」
先ほどと同じように、今度は銀色の斧を振るう。
狙いは、残すべき木の繊維を見極めた位置。刃を入れ、幹を切り離しながら、倒れる方向を制御する。
前世でも今世でも、何千回と繰り返してきた作業、その経験が、今の俺を支えていた。
――がきぃぃんっ!!
銀色の刃が幹を裂き、そして次の瞬間――。
――みしっ。
木が倒れる直前、最期に発する懐かしい音がした。
俺は即座に白銀を【収納】した。
「倒れるぞぉぉぉっ!!」
声を張り上げ、あらかじめ見定めていた退避方向へ跳んだ。
――みしみしみしみし……!
枯れ木が傾き、大牙猪が振り返る。
だが、遅かった。
――どっごおおおおおおおおおんっ!!
巨大な枯れ木が、大牙猪の進路へ倒れ込んだ。
――ぶぎゃあああああっ!?
大牙猪が慌てて身体を捻るが、その巨体は急には止まれない。
倒れ込む幹を避けきれず、その巨体は、より大きな巨木に圧し潰された。
――ずどぉぉんっ!
大牙猪は巨大な幹の下敷きとなって動かなくなり、巨木と共に道を塞いでいる。
『伐採成功。経験値を獲得しました』
『職業スキル《伐採技術》の熟練度が上昇しました』
『特殊スキル《大斧遣い》を習得、熟練度が上昇しました』
『特殊スキル《斧双流》を習得、熟練度が上昇しました』
『女神の祝福により、特殊スキル《筋力礼賛》が解放されました』
「……よしっ! ん? なんか最後に変なスキルが見えたような……。まあ、いいか」
俺は思わず拳を握った。
狙いどおりだった。
もっとも、完全に仕留められたかは分からない。
野生の獣ですら、心臓を貫かれてもなお反撃してくると、前世で知り合った猟友会の爺さんたちは言っていた。
野生動物よりなお強靭な体を持つ大牙猪という魔物が生きているのか死んでいるのか、職業が《狩人》や《戦士》でない俺には、動物や魔物を狩ることで熟練度が上がらないため、熟練度の上昇で確認することはできない。
しかし、今のところ大牙猪が動く気配はなく、生きているとしても気絶しているのは間違いないだろうと思われた。
俺は倒木から慎重に距離を取り、木の上に向かって叫ぶ。
「ティオ! 今のうちに逃げるぞ!」
少年は呆然としていた。
「……え?」
「早く!」
「は、はいっ!」
ようやく我に返ったティオは、木の上から滑り降りてくると、俺の方へ駆け寄ってきた。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「う、うわああああんっ!」
「お、おい!」
ティオが俺に飛びついた。いや、抱きつこうとした。だが――。
「うわっ!? うわわっ!」
俺は反射的に両手を上げた。
危ない。
今の筋力で子供を抱きしめたら、何が起こるかわからない。いや、良くないことが起きるだろうという想像だけは容易にできた。
俺は慌てて手の力を抜き、慎重にティオの肩へ触れた。
「だ、大丈夫だ。もう大丈夫だから」
「こ、怖かったよぉぉっ!」
「ああ、そうだろうな」
俺は少年の背中をそっと撫でた。
そのときだった。
『……はああああああっ!』
「…………」
頭のなかに、女神の声が響いた。
『幼女が少年を守るため、巨大な双斧で魔物と戦う!』
「…………」
『しかも、最後は木こりの技術で勝利するなんて!』
「…………」
『なんという素晴らしい物語なのでしょう!』
「おい」
『これぞ、わたくしが求めていた浪漫!』
「ルミエラ」
『ああっ! わたくし、感動で涙が止まりませんわぁぁぁっ!』
俺は、深く息を吸い込んだ。
「お前は始末書を書いてろって言っただろぉぉぉぉっ!!」
森中に、幼女の絶叫が響き渡った。
ティオが、びくりと肩を跳ねさせて、恐る恐る顔を上げると、こちらの顔をのぞき込んでくる。
「ひっ!?」
「……あ」
俺は固まった。
「……お前、誰と話してんの?」
「…………」
俺は、遠い目をした。
「……気にすんな」
「……え?」
「……独り言だ」
「……そ、そうなの?」
「ああ」
俺は深々と溜息をついた。
まったくとんでもない女神に目をつけられてしまったものだ。
◇◆◇
俺たちがエルム村へ戻った頃には、陽が傾き始めていた。
森を抜けた先には、見慣れた景色が広がっている。
木造の家々とそれを繋ぐ石畳の小道。
中央広場にある古い井戸。
周囲を低い木柵に囲まれた人口百人にも満たない、小さな辺境の村。
それが、俺が転移してからの二年間を暮らしてきた第二の故郷だった。
「……なんとか、帰ってきたな」
思わず呟いた。
村の入口に近づくと、見張りをしていた男が、こちらに気づいたのか駆け寄ってくる。
「……ん? あれは……」
大柄で革鎧の上からでも分かるほど筋肉質な身体。
短く刈り込んだ髪と無精髭を生やした厳つい顔。
村の自警団をまとめているバルドだった。
「おう、ティオじゃねえか!」
「あっ、バルドのおっちゃん!」
「お前、どこ行ってたんだ? マルタが血相変えて探してたぞ!」
「うっ……」
ティオの顔が青ざめた。
俺は思わず苦笑する。
そりゃそうだ。
森に入った子供が夕方まで戻ってこなければ、誰だって心配するに決まっている。
無論、俺だってそうだ。
だが、だからこそフォローはしてやる必要があると思った。
「まあ怒らないでやってくれよ。ティオも森の奥まで行ってたわけじゃない。浅いところにいただけなのに、大牙猪が出るなんて想像できるわけがないんだしよ」
「大牙猪だ?! こんな村の近くにか?! それが本当ならすぐ自警団の連中を走らせなきゃならん。場所はどのあたりだ?」
「森に入って奥に進む道をまっすぐ、ほんの10分程度だ。木で圧し潰したが、生きてるか死んでるかまでは確認できなかった」
「……妙だな。大牙猪がこんな浅いところまで出てくるなんて、今までなかったことだぞ。ともかくすぐに確認せにゃならんな。とはいえ……」
バルドは一度言葉を切ると、ティオを向き直り、力強く頭を撫でた。
「……まあ、無事で何よりだ」
バルドはそう言って、今度は俺に視線を向け、そのままじっとこっちを見ている。
「…………」
「よう、バルド」
俺は片手を上げた。
だが、バルドは返事をせず、やはり、じっと俺を見つめていた。
「…………」
「おい、バルド。どうした?」
「……嬢ちゃん」
「ん?」
「どこの子だ?」
「…………」
まあ、当然の反応だろうと、俺は苦笑した。
「……俺だよ、俺」
「……あ?」
「マキトだ」
「…………」
バルドが瞬きした後、俺を見た。
そして、ティオを見てから、もう一度俺を見た。
「…………」
それから、大きく息を吸い込んだ。
「……何言ってんだ、嬢ちゃん?」
そして、ため息とともに心底困惑した声を上げた。
あまりに予想通りなその反応に、俺は頭を掻いた。
「……いや、まあ、そうなるよな」
「嬢ちゃん、どう見ても女の子じゃねえか!」
「ああ」
「しかも、こんなちっこい!」
「ああ」
「マキトはどこ行った!?」
「だから俺だって」
「嘘つけぇぇぇっ!」
バルドの叫び声が村中に響き渡った。
その声を聞きつけて、近くにいた村人たちが顔を出す。
「何だい、騒々しいねえ!」
最初にやってきたのは宿屋の女将マルタだった。
恰幅のいい身体に白いエプロン。
威勢のいい声。
俺が転移してから二年間、何かと世話になってきた女性である。
「あっ、おばちゃん……」
ティオが小さく呟いた声を聞きつけ、マルタの視線が、ぴたりと少年を捉えた。
「……ティオ」
「ひっ!」
「……あんた、どこ行ってたんだい?」
「え、えっと……」
「森へ行っちゃいけないって、何度言ったと思ってるんだい!」
「ご、ごめんなさぁぁいっ!」
ティオが泣き出した。
マルタは怒鳴りながら少年に駆け寄ったが、すぐに表情を変えた。
ティオの服は泥だらけで、あちこち擦り傷があった。
「……あんた、怪我してるじゃないか!」
「だ、大丈夫だよ……」
「大丈夫なもんか!」
マルタは少年を抱きしめた。
その背中が、小さく震えている。
俺はその様子を見つめながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。
無事でよかった。
本当に。
そう思った。
やがてマルタが顔を上げた。
「……ところで、その子は?」
その目は怪訝そうな色を湛えて俺を見ている。
やっぱりか。
「……あー」
俺は困ったように頭を掻いた。
「……ただいま、マルタさん」
「……はい?」
「マキトだよ。ちょっと色々あってな」
「…………」
マルタは言葉の意味を理解できず黙り込み、バルドは先ほどまでと同じように頭を抱えている。
そんな中、ティオだけが不思議そうに俺を見つめていた。
「……マキト?」
ややあって、マルタがゆっくりと呟いた。
「……ああ」
「……あんた、本当にマキトなのかい?」
「そうだって」
「…………」
マルタは俺をじっと見つめたかと思うと、突然しゃがみ込んだ。
目線が合う。
以前なら俺が見下ろしており、先ほどまでは俺が見上げていた女性が、今は目の前にいる。
その事実を何とも奇妙だと思った。
「……ちょっと」
「……ん?」
「手を見せてごらん」
「……手?」
俺は首を傾げたが、言われたとおりに両手を差し出す。
小さな掌と白く細い指。
以前のような厚い皮膚も、大きな節もない。
男の樵だった俺の名残は手から消え失せていた。
マルタはその手を見つめ、今度は俺の顔に視線を戻して穴が空くほど見つめた。
「……本当に、マキトなのかい?」
「……ああ」
「……じゃあ、昨日のウチの夕飯は?」
「豆の煮込みと、塩漬け肉。あと、いつもの硬い黒パンだ」
「…………」
「……黒パン、もうちょっと柔らかくならねえかな?」
いつものように軽口がこぼれた瞬間、マルタが膝立ちになった。
――むぎゅっ。
「うわっ!?」
そして、次の瞬間には、俺は抱きしめられていた。
マルタの腕が、俺の小さな身体を包み込んでいた。
「……まったく、あんたって子は!」
「ちょ、マルタさん!?」
「何があったか知らないけどねえ! 無事で帰ってきたんなら、まずはそれでいいんだよ!」
「……っ」
俺は言葉を失った。
大きな腕。
柔らかな身体。
そして、少しだけ震える声。
そのすべてが温かかった。
前世で両親を亡くしてから、こんなふうに抱きしめられたことなどなかった。
異世界へ来てからも、ずっと一人で生きてきたつもりだった。
しかし、どうやらそうではなかったらしい。
「……ただいま」
俺は小さく呟き、マルタが微笑んだ。
「……ああ。おかえり、マキト」
その声を聞いた瞬間、何だか少しだけ胸の奥が熱くなった。
『……ああっ』
そして、頭のなかで、空気の読めない女神の声が響いた。
「…………」
『小さな少女が、お母様のような女性に抱きしめられる……』
「…………」
『何という尊い光景なのでしょう……!』
「…………」
『これはもう、額縁に入れて神殿に飾りたいくらいですわ……!』
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、心のなかで呟いた。
――お前、本当にいい加減にしろよ。
返ってきたのは、どこまでも嬉しそうな笑い声だった。
『おーっほっほっほ! もちろんですわ!』
……この駄女神、絶対にわかっていない。
◇◆◇
その夜、俺は宿屋の食堂に座っていた。
正確には、椅子の上に置かれた厚い座布団に座っていた。そうでもしなければ、テーブルに顔が届かないのである。
「……屈辱だ」
思わず呟いた声を耳ざとく聞きつけて、向かいに座っていたバルドが豪快に笑った。
「がはははっ! 似合ってるじゃねえか!」
「笑うな」
「いやあ、まさかあのマキトが、こんな可愛い嬢ちゃんになるとはなあ!」
「だから笑うなって」
「がははははっ!」
駄目だ。
完全に面白がられている。
俺は溜息をついた。
結局、村の連中には、今日こうなった事情を説明することにした。
泉に斧を落としたこと。
女神が現れたこと。
祝福を授けられた結果、身体が幼女になってしまったこと。
そして、筋力がとんでもないことになったこと。
もちろん、最初は誰も信じなかったが、俺が村の裏手に置いてあった巨大な丸太を片手で持ち上げてみせると、全員が黙った。
その直後、バルドが腹を抱えて笑い出した。
まったく、失礼な男である。
「……それにしても、泉の女神様ねえ」
バルドが酒を飲みながら呟いた。
「正直者が財宝をもらうってな話はガキの頃に聞いた覚えがあるがよ、まさか財宝ってのが斧と力と幼女の姿とはなあ」
「俺だって聞いたことねえよ」
「で、その斧は?」
「……見たいか?」
「おう!」
「……ここじゃ危ねえ。外で見せるよ」
俺はバルド達を引き連れて宿屋から出ると、広場まで移動した。これだけの広さがあれば、万が一の心配もないだろう。
とはいえ、笑われるであろうことは想像できているため、俺は渋々、右手を伸ばして、金剛を【召喚】した。
小さな掌に金色の光の粒子が集まり、やがて長大な形を形成していく。
――ずしんっ!
俺の手のなかに巨大な両刃斧が出現した。
ただし、間違っても広場の石畳に突き刺さってしまわないよう、慎重に持っている。村長から大目玉を食らうのは勘弁だからな。
「…………」
バルドもマルタも、広場に集まった村人たち全員が、そのあまりの威容に息を呑んだ。
俺は少しだけ得意げに笑った。
「ふふん、どうだ?」
バルドが口を開いた。
「……おい」
「ん?」
「……そりゃあ、斧か?」
「見りゃわかるだろ」
「……デカ過ぎねえか?」
「俺もそう思う」
バルドが額を押さえた。
「……いやいやいや。こんなもん、どうやって振るんだよ」
「……こうやって」
俺が軽く力を入れると、巨大な斧がひょいと持ち上がった。
「…………」
再びの沈黙の後、マルタが小さく尋ねてきた。
「……あんた、本当にマキトなんだねえ」
「だから、そうだって」
俺が斧を【収納】すると、金色の光が手の中から溶けて消える。
集まった村人たちは興奮冷めやらぬといった感じだったが、こちらとしてはさっきから腹の虫が鳴いていた。
改めて宿屋に戻り、机に並んだ夕飯へ視線を向けた。
豆の煮込み。
焼いた肉。
温かい野菜のスープ。
そして、黒パン。
いつもと変わらない、だが、紆余曲折あったが無事に帰ってこられたと思えるメニューだった。
「……いただきます」
俺は匙を手に取り、夕餉のスープに手をつけるが、違和感を感じて手が止まった。
「……あれ?」
匙が大きい。
いや、匙だけではない。
皿も、杯も、すべてが大きかった。
いや、正確には、俺の身体が小さくなってしまったせいなのだが。
「……食いにくい」
思わずぼやく。
それを聞いたマルタが、くすくす笑った。
「ちょっと待ってな」
彼女は厨房へ戻り、しばらくすると、小さな木の匙と浅い器を持って戻ってくる。
「ほら。これなら食べやすいだろ?」
「……ああ。ありがとよ」
俺は匙を受け取った。
小さな掌によく馴染む小さな食器の感想は、何とも情けないような、ありがたいような、複雑な気分だった。
しかし、スープを一口飲むと、いつもと変わらない味わいにささくれだった心が解されていくのを感じた。
「……美味い」
思わず口をついて出た言葉を皮切りに、俺は夢中で食事を進めた。
温かい。
野菜の甘みが、口いっぱいに広がる。
森のなかで走り回ったせいか、腹が減っていたらしい。
その様子を見ていたマルタが、にっこり笑った。
「……ふふっ」
「……ん?」
「いやねえ。あんた、そうしてると本当に可愛い女の子だよ」
「……やめてくれ」
「いいじゃないか。せっかく可愛くなったんだから」
「よくねえよ!」
食堂に笑い声が広がった。
俺がむっと頬を膨らませると、やっぱり子供みたいだと、さらに笑われた。
「……くそっ」
面白くはなかったが、しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。
少なくとも、ここには俺を知っている人たちがいる。
身体が変わっても、名前が変わっても、俺を俺として迎えてくれる人たちがいる。
それだけで、十分ありがたかった。
ありがたかったのだが……。
『……はああああっ!』
「…………」
頭のなかで、女神の声が響いた。
『頬を膨らませたお顔……!』
「…………」
『なんという愛らしさ……!』
「…………」
『これはもう、天界の絵師に描かせて永久保存ですわ……!』
俺は、静かに匙を置くと、心のなかで呟いた。
――ルミエラ。
『はいっ!』
――始末書。
『…………』
――三百枚。
『……ううっ』
――ちゃんと書けよ。
『……わ、わかっておりますわ……』
今度こそようやく静かになり、俺は小さく息を吐いて、再び匙を取った。
まったく、やっぱりとんでもない女神に目をつけられたものだ。
◆◇◆
同じ頃、神々の住まう天界では、白亜の柱が立ち並ぶ、荘厳な神殿の一室で、上位女神たるルミエラが巨大な机に向かっていた。
机の上には、山のように積み上げられた羊皮紙。そのすべてが、マキの件に関する未作成の始末書だった。
「……ううっ」
女神は、涙目になりながら羽根ペンを走らせていた。
「……わたくしが悪うございました……」
さらさら、と羽根ペンが羊皮紙の上を滑る。
「……祝福対象の意思を尊重せず……」
さらさら。
「……女神権限を不適切に行使し……」
さらさら。
「……無断で肉体構造を変更したことを……」
そこで、女神はぴたりと手を止めた。
「ですが!」
勢いよく顔を上げた。
「やはり、幼女が巨大な双斧を振り回す姿は最高ですわぁぁぁっ!」
神殿中に、歓喜の声が響き渡った。
しかし、次の瞬間、無機質な声が同じく神殿内に響いた。
『女神ルミエラ』
「……ひっ」
『反省の色が見られません』
「…………」
『始末書を百枚追加します』
「ひゃ、百枚追加ですってぇぇぇっ!?」
女神が絶叫した。
『合計四百枚です』
「そ、そんなぁぁぁぁっ!」
女神は机に突っ伏した。
しかしその口元にはほんの僅かに満足げな笑みが浮かんでいた。
「……ですが……」
女神は、そっと呟いた。
「……わたくし、後悔はしておりませんわ……」
机の上には、小さな魔法の鏡が置かれていた。
そこには、宿屋で眠る一人の少女が映っている。
寝乱れた柔らかな栗色の髪、閉じられた大きな琥珀色の瞳。そして、世界最高の筋力を宿しているなどと、とても信じられない小さな身体。
女神ルミエラは、少女を眺めながらうっとりと微笑んだ。
「……ああ……」
その声は、どこまでも幸せそうだった。
「……明日のマキは、どんな素晴らしい浪漫を見せてくださるのでしょう……」
そして女神は、満面の笑みで呟いた。
「やっぱり、力こそパワーですわね!」
『反省が見えませんので始末書をさらに百枚追加します』
「いやああああああああああっ!!」
天界に、女神の絶叫が響き渡った。