よろしくお願いします。
石切り場が見えてきた頃には、森の様子はさらに悪くなっていた。
木々はほとんど葉を失い、地面には黒ずんだ落ち葉が積もっている。枝先には鳥の姿もなく、獣の気配すら感じられない。
そして何より酷かったのは匂いだった。
「……臭えな」
俺は顔をしかめた。
木が腐ったような、しかし、普通の腐朽臭とは違った匂いだった。湿った土と、古い血を思わせる鉄臭さが混ざった何とも嫌な匂いだった。
「……魔力の濃度が上がってるわ」
リゼットが呟いた。
その表情は、先ほどよりも遥かに険しい。
「……間違いなく、この先に何かある」
グレイヴが頷き、俺たちはゆっくりと石切場へ足を踏み入れ、――そして全員が足を止めた。
一昨日、岩崩れが起こった場所には一本の大木が生えていた。
「……は?」
俺は、思わず間抜けな声を漏らした。
それは確かに木だった。ただし、どう見ても普通の木ではない。
黒々とした樹皮を持ち、それでいて生物のような滑らかさも感じさせる幹。幾重にも重なり歪に捻じれた枝。天を覆わんばかりに広がる葉のない樹冠。そして、幹の表面を這うように走る血管のような赤黒い筋。
高さは、およそ15メートルほど、幹の太さは、大人3人が手を繋いでも囲みきれそうにない。
そんな大樹が、昨日まで何もなかったはずの岩場に堂々と鎮座していたのである。
「……おいおいおい」
俺は目を丸くした。
「……何だ、これ」
バルドが低い声で呟いた。
「……一昨日はこんなもんなかったよな」
「……ああ」
一昨日、俺達がここで神斧の試し振りをしていた時に岩壁が崩れたこともはっきり覚えている。
しかし、こんな巨大な木はなかった。
絶対になかった。
「……たった2日で生えてきたってのか?」
「……そんな馬鹿なことあるわけがねえ……」
カイルの呟きが聞こえてきたが、俺は思わず首を振った。
普通の木がたった一晩でここまで成長するはずがない。いや、この世界には魔法があるのだから絶対に不可能だとは言い切れない。
しかし、俺は木の根元を見つめた。
黒い根が崩れた岩壁の奥に続いており、まるで山の内部から這い出してきたようだった。
「……成長したっていうより、地面の下から這い出てきたみてえだな」
「……ああ、俺もそう思う」
その言葉にグレイヴが頷き、腰の剣に手を添えた。
「バルドさん、あんたはこの状況を村に伝えてきてほしい。最悪、村から避難してもらわなきゃならんかもしれん」
「……ああ。確かに俺がここにいても、あんたらの足を引っ張るだけだな。マキのこと、頼んだぜ」
「ああ、マキは必ず俺たちが村に帰す」
バルドは悔しそうに唇を噛んだが、頷いた後、俺の肩を叩いてきた。
「絶対に帰ってこいよ。先に村で待ってるぞ」
「ああ。マルタさんに今晩も柔らかい黒パンを頼む、って伝えておいてくれ」
俺がそっとバルドの背中を叩くと、バルドは前のめりに倒れそうになりながらも踏みとどまり、いつものように豪快に笑った。
そして、山道の入り口で一度こちらを振り返った後、村の方へ戻って行った。
「全員、警戒しろ」
グレイヴが低い声で告げると、全員の顔が引き締まった。
フェルンが静かに弓を構える。
リゼットも杖を握り直した。
カイルは盾を前へ出し、俺の前に立つ。
俺は黒い木を見上げた。
「…………」
奇妙な木だと思った。
樹皮の形状は、どこか楢や樫に似ている。
しかし、枝の伸び方が不自然だ。
通常、木の枝は光を求めて天に向かって伸びるものだ。もちろん、周囲の木々との競争によって樹冠の形も変わる。
だが、この木の枝は違っていた。まるで何もかもを掴もうとするかのように、横に大きく枝を伸ばし、そこから下に向かって曲がっている。
しかも、幹には古い傷がない。虫に食われた痕も、風で折れた枝の痕もない。長年そこに立っていた木なら、何かしら残っているはずのものが、まったく見当たらない。
「……気持ち悪い木だな」
俺はそう呟くとともに、無意識のうちに腰に提げた愛用の伐採斧に手を伸ばしていた。
もし本当に魔物だったなら、伐る必要があるかもしれない。そう考えた、そのときだった。
『……そんな……まさか……』
「……ん?」
頭のなかで息を飲むような声が聞こえた。
――ルミエラ?
『…………』
返事がない。
あの駄女神が、こんな巨大な木を目の前にして黙っているなど、天地がひっくり返ってもあり得ないはずだ。
――おい、ルミエラ?
『……マキちゃん』
ようやく返事があったが、その声はいつもと違っていた。普段のような高笑いも、浪漫がどうのという戯言もない。ルミエラに似つかわしくない妙に真剣で、そして焦りを感じる声だった。
――……何だ?
『……その木には、近づかないでくださいまし』
俺は目を瞬かせた。
――は?
『……今すぐ、その場を離れてください』
女神の声が僅かに震えていた。
俺は思わず黒い木を見上げた。
――どういうことだ?
『……お願いですわ』
いつになく、静かな声だった。
『……それは、普通の魔物ではありません!』
女神が俺の頭のなかで叫んだ、その瞬間――。
――どくん。
「……っ!?」
黒い木の幹が脈打ち、表皮を這う赤黒い筋が一斉に光り出した。
――みしみしみし……!
そして、幹の中央に大きな亀裂が走った。
「……おい!」
グレイヴが叫んだ。
「全員下がれ!!」
俺たちは反射的に後退した直後、ぎょろりと、亀裂の奥で巨大な眼が開いた。
俺は息を呑んで、それを見上げた。
それはどう見ても眼だった。
赤黒い瞳と縦に細長く伸びた瞳孔、それは幹の内部から不気味な視線でこちらを睨みつけてきた。
「何……だよ、これ……」
『……《
女神が低い声で告げた。
『……まさかとは思いましたが、生き残っておりましたのね』
――グルートニー? 知ってるのか?
『……ええ』
女神は少しだけ間を置いてから答えた。
『……かつて、親木から切り分けられた1本の根として生を受け、森を喰らい、山をも喰い尽くし、大陸すらその牙にかけ、世界樹の根までも侵そうとした古代の魔物ですわ。地上の言葉では《喰根の魔樹》と伝わっていたようですわね』
世界樹、始まりの泉。
俺が元の身体へ戻るために探さなければならない場所。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に嫌な予感が広がったが、それをゆっくりと考える時間はなかった。
一昨日の石切場と同じように地面が大きく揺れ、俺は反射的に後ろに飛び下がった。同時に、先ほどまで俺がいた場所の地面から、土砂と砕けた岩を巻き上げながら黒い根が飛び出した。
「うおおっ!?」
盾を構えたカイルに太い根が凄まじい勢いで襲いかかった。人の胴体より太い根が盾に叩きつけられて鈍い金属音が響き、カイルの身体が後ろへ押し込まれた。
「……くっ!」
「カイル!」
リゼットが叫び、すぐさま杖を掲げた。
「《炎槍》!」
杖の先に赤い光が集まり、光が燃え盛る槍を生み出すと、それが黒い根へ向かって放たれる。
炎の槍は黒い根の表皮で爆ぜ、人の頭ほどの穴を空けると、さらに炎が周囲の表皮に絡みつき、黒い根から焦げ臭い匂いが立ちのぼる。
しかし、穴の内側から新しい黒い組織が盛り上がると、焼けた部分を覆い隠すように瞬く間に再生していく。
「……嘘でしょ!?」
リゼットが目を見開いた。
グレイヴが剣を抜いた。
「……再生するって話は、本当らしいな!」
そして、そのまま飛び出してきた根に斬りかかった。鋭い一閃が根を断ち切る。
しかし、ぐじゅりと切断面から黒い液体が滲み出すと、その液体がまるでアメーバのように蠢き、断たれた根の切断面を再び繋ぎ合わせた。
「……ちっ! なんて厄介な野郎だ!」
俺はその光景を呆然と見つめていた。
そこにいるのは紛れもなく魔物だった。
木の形をしてはいるが、これはただの木ではない。
俺は腰の伐採斧を握った。
「グレイヴ! 俺にも何かできることはないか!」
「……何!?」
「魔物だろうが、木を伐ることなら俺の専門分野だ!」
グレイヴは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに首を横に振る。
「駄目だ!」
「……っ!」
「お前さんは非戦闘員だ! 今回の目的は調査であって討伐じゃねえ!」
「……でも!」
「退くぞ!」
グレイヴははっきりと告げた。
「今の俺たちには、こいつの正体も能力もわからねえ。無理に戦えば全滅しかねん!」
俺は歯を食いしばった。
確かにそうだ。
今の俺には筋力しかない。戦闘技術も魔法も、まともな防御能力もない。
俺の筋力で巨大な斧を振り回せば何とかなるかもしれないが、それはただの希望的観測に過ぎない。
もし失敗すれば、そのときは周囲の仲間まで巻き込んでしまう。
「……わかった!」
俺が頷くのを見てグレイヴが叫ぶ。
「フェルン! 退路を確保しろ!」
「了解!」
「リゼット! 牽制を頼む!」
「わかったわ!」
「カイル! マキを守れ!」
「任せろ!」
調査隊は素早く動き始めた。
俺も後退しようとしたその時、下からみしりと小さな音がした。
俺が音のした方へ反射的に視線を落とすと、何かが土の下を這っているかのように地面が盛り上がっていた。そしてそれは、俺の足元に向かって伸びていた。
「……っ!」
俺が咄嗟に横に跳んだ直後、黒い根が地面を突き破って飛び出してきた。
その先端は鋭く尖り、まるで槍のようだった。
「……危ねえ!」
俺は地面に倒れたまま、さらに横に転がった。
そのすぐ脇を黒い根が貫いていく。
もし反応が一瞬遅れていれば間違いなく身体を貫かれていた。
「……マキ!」
カイルが俺の方へ駆け寄りながら叫んだ。
そして、俺と飛び出した根の間に身体を割り込ませると盾を構え、何度も叩きつけてくる黒い根を防ぎ切る。
「……くっ!」
激しい衝撃にカイルの足が地面を滑る。
俺はカイルが稼いでくれた時間で慌てて立ち上がったが、目の前には別方向から黒い根が迫っていた。
「……くそっ!」
俺は右手を伸ばした。
金色の光が集まって形をなし、神斧《金剛》が【召喚】された。俺は巨大な両刃斧の重量を片手で支え、迫ってくる黒い根に向けて振るう。
ただし全力ではない。刃の角度、カイルの位置を確かめ、最小限の動きだけで根を断つ。
『特殊スキル《大斧遣い》が発動します』
――ざんっ!
金色の刃が、黒い根の先端から根の伸びる方向へと走り、まるで薪を割るように縦に切り裂いた。
「……おおっ!?」
俺は目を丸くした。
普通の木を伐るよりも、遥かに容易く金剛は木の根を断ち切った
しかし、切断面からぐじゅりと黒い液体が滲み出し、それ自身がまるで生き物のように蠢き始めた。
「……おいおい、これでも再生すんのかよ」
だが切断された根が結合しようとする瞬間、俺はあることに気づいた。
「……ん?」
切断された根の断面、そこには普通の木とは違う組織があった。
黒く硬そうな管の内側を柔らかそうな赤黒い筋が走っており、黒い液体はその筋から染み出していた。また、筋の走る方向を目で追っていくと、それは真っ直ぐに幹の方に向かって繋がっている。そして根の先と幹の途中には表皮が膨れて瘤のようになったものが脈動していた。
「……なるほど」
この魔物は普通の植物とは根本的に違う。
しかし、それでも木や生物に似た構造を持っていることには変わりない。
「……つまり、伐る場所と方法を間違えなきゃ何とかなるかもしれねえ」
俺は、巨大な魔樹を見上げた。
黒い幹、赤黒い筋、巨大な眼。
その姿は確かに恐ろしかった。
しかし、俺には20年近く木を伐ってきた経験がある。
木の構造を見極めることも、力のかかり方を読むことも、そして最も効率よく刃を入れる位置を判断することも、前世だろうが異世界だろうが、誰にも負けない自信があった。
「グレイヴ!」
俺は叫んだ。
「こいつには弱点があるかもしれねえ!」
グレイヴが振り返った。
「何!?」
「根のなかに、赤黒い筋が通ってる! たぶん、あれが水やら魔力やらを運んでやがるんだ!」
俺は魔樹の根を指差した。
「それに、あそこを見てみろ!」
根の途中で瘤のように膨らんだ部分が、規則正しく脈打っていた。
「あんな長い根の先まで、幹から何もかも送り込んでるとは考えにくい。もしかしたら、あの瘤が途中で魔力を蓄えたり、送り出したりしてるんじゃねえか?」
「……魔力を蓄える器官?」
リゼットが目を見開いた。
「ああ。人間の心臓みてえに、何かを送り出すポンプの役目をしてるのかもしれねえ」
「……なるほど。だったら、あそこを攻撃すれば……!」
「再生が止まるかどうかはわからねえ。だけど、試してみる価値はある!」
グレイヴがにやりと笑った。
「……なるほどな」
しかし、すぐに真面目な顔へ戻る。
「だが、今回はそこまでだ!」
「……え?」
「弱点の手掛かりが見つかっただけでも十分だ! 今は退くぞ!」
俺は唇を噛んで頷いた。
「……わかった!」
その瞬間、地面が大きく揺れ始めた。
「……っ!?」
俺たちは反射的に身を低くした。
黒い魔樹の幹がゆっくりと動き始め、赤黒い筋が激しく脈打っていた。
そして――。
――ぎょろり。
巨大な眼が真っ直ぐに俺を見た。
「…………」
背筋に冷たいものが走った。
何故だろう。
あの魔物は明らかに俺を狙っている。
ほかの誰でもない俺だけを。
何故だかわからないが、そう確信してしまった
『マキちゃん』
女神の声が響いた。
その声はいつものような高笑いではなく、ひどく真剣だった。
『あの魔樹は、あなたを狙っておりますわ』
――やっぱりか。でもなんでだ?
『あなたの魂に宿るわたくしの祝福を感じ取っているのでしょう』
俺は息を呑んだ。
つい先日、森の泉でルミエラから授けられた【泉の女神の祝福】――世界最強の筋力と二振りの神斧。
それらがあの魔物を引き寄せているというのか。
「……冗談じゃねえぞ」
俺は小さく呟いた。
その直後、俺とルミエラの繋がりをさらに感じ取ったのか、魔樹の幹が大きく裂けた。
黒い樹皮が剥がれ落ち、赤黒い光が幹の内部から溢れ出した。
そして、巨大な眼の下にもうひとつの亀裂が生まれた。それはまるで口のようだった。
――Gyiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!!
木が軋むような、岩が擦れるような、何かが呻くような、そのすべてが混ざり合ったような不気味で耳障りな音が響いた。
『マキちゃん』
女神ルミエラが静かに言った。
『ひとつだけ、お願いがありますの。絶対に、絶対に無理だけはなさらないと約束してくださいまし』
俺は予想外の言葉に目を見開いた。
あの駄女神が。
幼女が巨大武器を振り回す姿を見るためだけに人の体を改造し、今なお平気で始末書を増やし続けている救いようのない女神が。
こんなことを言うとは思わなかった。
あまりのギャップに、こんな時だというのに俺は思わず笑みをこぼした。
――心配すんな。
『……マキちゃん?』
――俺は木こりだ。
俺は巨大な魔樹を見上げた。
確かに恐ろしい魔物だった。
しかし、俺の手には斧がある。
木を伐るために磨いてきた技術がある。
そして何よりも、女神が授けてくれた史上最強の筋力がある。
――木を伐ることなら任せとけ。
俺はにやりと笑った。
するとしばらく沈黙していた女神がぽつりと呟いた。
『……やっぱり』
――ん?
『やっぱり、マキちゃんは最高ですわぁぁぁぁっ!』
「今いいところだったのに台無しだろぉぉぉぉっ!!」
俺の絶叫が石切り場に響き渡った。
石切場にいる全員の視線が俺に集中する。
「……マキ?」
カイルが、困惑したようにこちらを見た。
「……いや、何でもねえ」
俺は顔を逸らした。
……ったく、この駄女神は。
「お前さん、ずいぶん余裕があるな」
グレイヴが苦笑した。
「悪い。ちょっと、うるせえ奴がいてな」
「……そうか。だが、今は気を抜くなよ」
「……ああ」
俺は金剛を握り直した。
確かに、いつまでも駄女神の相手をしている場合ではない。
グレイヴたちが退路を確保するまで、俺も自分にできることをしなければ。
そう考えたとき、魔樹の幹が大きく脈打ち、足元の地面が盛り上がる。
「全員、警戒しろ!!」
グレイヴの怒号と同時に、地面を突き破って3本の巨大な黒い根がまるで巨大な蛇のように這い出してきた。
その太さは大人の胴体ほどもあり、先端は鋭く尖っていた。
「退避!」
グレイヴが叫び、全員が盾を構えたカイルの後ろに下がる。
「させるかよ!」
鈍い音が響き、2本の根がカイルの盾で防がれる。
その隙を突いて、グレイヴがその先端の1本を斬り落とすが、次の瞬間には切断面からあふれ出した黒い液体が切られた根に向かって伸びる。
しかし、切断面のさらに幹側にある根の瘤に向かって、リゼットが炎の槍を飛ばし、フェルンが弓を限界まで引き絞って矢を放った。
それらは瘤に命中し、破壊するには至らなかったが切断面の先端から溢れる黒い液体の動きが明らかに鈍くなった。
――Gyiaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!
魔樹の幹から悲鳴のような叫び声が上がった。
効いている。
そう思った直後、後方から届いた轟音に振り返ると、カイルを攻撃しなかった1本の巨大な根が山道の入り口に向かって打ち付けられた。
土砂が舞い上がり、岩が砕け、山道の入口は黒い根によって塞がれてしまっていた。
さらに都合の悪いことに、魔樹は瘤になっている部分を地中に引き戻してしまった。
「……ちっ! 頭の良い野郎だ!」
グレイヴが舌打ちした。
「どうやら逃がしてくれる気はねえらしいな。退路を塞ぎやがった」
「……どうするんだ!?」
カイルが叫ぶ。必死で根による攻撃を防いでくれているが、いずれ限界が来る。
グレイヴは周囲を見渡し、その目が奥にある崩れた岩壁へ向くが、すぐに首を振った。
あちらに行くのは危険だ。
岩崩れでまだ不安定な岩塊が残っており、無理に進めば二次崩落に巻き込まれかねない。
「……くそっ!」
このままでは逃げ道がない。
しかも、魔樹は俺を狙っているらしい。
「グレイヴ! 俺が道を開く!」
「……何!?」
俺は山道の入り口を塞ぐ黒い根を指さした。
「あの根を切りゃいいんだろ!」
グレイヴは俺を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「無理はするな。お前を必ず村に帰すとバルドさんに約束した」
「……ああ、任せろ!」
俺は、右手の金剛を握り直した。
ただし、全力で振るつもりはない。
あんな巨大な斧をここで全力で振り回せば、周囲の仲間まで巻き込んでしまう。
必要なのは正確な一撃だ。
木こりとして培ってきた技術と世界最高の筋力。
その二つを組み合わせる。
「よし」
俺は山道の入り口を塞ぐ根の形を見極めた。
地面から伸びる巨大な根は表面こそ硬そうだが、金剛でなら断ち切ることができた。それでも無駄に力を込めれば、飛び散った破片や風圧で仲間を危険にさらすことになる。
せり出した根の付け根まで近づき、さらに観察すると、山道を塞ぐ巨大な根は地面から這い出したところで大きく湾曲し、道を横切るように伸びていた。
その曲がり角の内側では、黒い表皮が無理に引き伸ばされたように歪み、ほかの部分よりも僅かに細くなっている。
「……そこか」
あそこなら、最低限の力で刃が通る。
そして、地表に露出した根の向きから考えれば、その地下には先ほど引っ込んだ瘤と、さらに幹へと続く根があるはずだった。
「カイル!」
「何だ!」
「少しずつ入り口の方に下がりながら、俺が根を切ったらすぐにみんなを逃がしてくれ!」
「……わかった!」
カイルが頷くのを見て、俺は息を整えて金剛を構えた。
足を開き、刃筋を定める。
そして根の付け根付近に向かって必要な力だけを込めて金剛を振り下ろした。
「……ふっ!」
『特殊スキル《大斧遣い》が発動します』
――ざんっ!!
黄金の刃が黒い根を断ち切り、巨大な根が地面に落ちた。しかし、断ち切られた根に向かって切断面からアメーバのような液体が伸び、再び結合しようとしている。
俺は、すぐさま根の切断面から幹に向かって視線を走らせた。地表の土が僅かに盛り上がり、しかも、その隆起はまっすぐ魔樹の幹へと続いていた。
「……そこか」
地中の根が、比較的浅い場所を通っている。
俺は左手に神斧《白銀》を【召喚】すると、その隆起に刃を向けた。
狙うのは、目の前の巨大な根を支える地中の繋がりだ。
「こいつも食らっとけ!」
俺は白銀を構え、液体が伸びる切断面と魔樹の幹との間にある地面に叩き込んだ。
『特殊スキル《大斧遣い》が発動します』
『特殊スキル《斧双流》が発動します』
――ざくんっ!
白銀の刃が地面を斬り裂くと、切断面から伸びていたアメーバ状の液体が動きを留めて地面に溢れた。
――Gyiaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!
魔樹の幹から耳をつんざくような音が鳴り響く。
それを無視して、俺は金剛を握り直した。
刃を立てる必要はない。
邪魔な根を横へ押しのけるだけでいい。
「……どっせいっ! カイル、今だ!」
俺は金剛の巨大な斧腹を切断された根の側面へ叩きつけた。
腹に響く音を残して巨大な根が岩場の上を転がっていき、山道の入口が開いた。
「全員走れ!」
カイルの叫びに、グレイヴも頷き、残った根の先端を斬り落とした。すぐに再生してしまうとしても、僅かばかり時間が稼げれば十分だ。
「全員退避!」
フェルンが先頭を走った。
その後ろをリゼット、そしてグレイヴが続き、カイルは盾を構えながら最後尾を警戒する。
俺もその後を追おうとした、そのときだった。
「……ぐっ!?」
俺は、根を殴りつけたのと同時に感じた痛みで足が止まってしまった。
金剛の柄を這い上がるように伸びた黒い糸状のものが俺の右手をかすめ、無数の棘で刺されたような痛みが手の甲に走っていた。
咄嗟に金剛を【収納】し、右手を確かめると、出血こそしていないものの触れられた部分が微かに赤くなっている。
「マキ! 早くしろ!」
「……何だったんだ、今の……?」
痛みはすぐに薄れた。
しかし、ぞっとした。
金剛そのものを壊すことはできなくても、俺の身体には直接傷を負わせることができるらしい。
「……あの根、触らねえほうがよさそうだな」
グレイヴが俺を振り返った。
「マキ!」
「ああ!」
俺もすぐさま駆け出した。
――どくん。
その背後から奇妙な振動が伝わってきた。
あまりに強烈な殺気に思わず振り返ると、魔樹の巨大な眼が赤黒く輝いていた。
そして切断した根に向かって、切断面から再びアメーバ状の液体が溢れだしていた。
「おいおい、……冗談じゃねえぞ」
根の切断面から、再び黒い液体が溢れ出している。
「……くそっ。もう繋がりやがったのか?」
白銀で断ち切ったのは地下の根だ。瘤そのものを破壊できたわけではない。
そのため、幹と根の繋がりが修復されれば再び魔力が送り込まれるのだろう。
だが、切断した根を横へ大きく押しのけたおかげで切り離された部分同士にはまだ距離がある。
黒い液体が糸のように伸びているものの、完全に再生するまでにはまだ少しだけ時間がかかりそうだった。
「……今なら逃げ切れる!」
俺は山道の入り口に向かって走った。
ただし足は短いうえに8歳児の身体だ。
大人たちと同じような速さでは走れない。
「……くそっ!」
「マキ!」
歯を食いしばりながら必死に足を動かしているとカイルが戻ってきた。
そして、俺の身体を抱き上げる。
「うわっ!?」
「悪い! ちょっと我慢してくれ!」
「……お、おい!」
俺は抱えられたまま思わず叫んだ。
「……自分で走れるって!」
「知ってる!」
カイルは笑った。
「でも、俺が抱えたほうが速い!」
「…………」
俺は言葉を失った。
何とも屈辱的な話だったが、ぐうの音も出ない正論だった。
STR9999、世界最高の筋力。
それなのに逃げるときには、大人の男に抱っこされるほうが速い。
「……くそっ」
俺はしょんぼりと項垂れた。
『はあああああっ!』
――お前ほんとに空気読めよ。
『世界最高の筋力を宿した小さなマキちゃんが! 筋力でははるかに劣る勇敢な戦士さんに抱き上げられて脱出するという圧倒的なギャップ!』
――黙れって。
『ああっ! これぞ浪漫ですわぁぁぁっ!』
「お前は本当に黙ってろぉぉぉぉっ!!」
幼女の絶叫が響き渡り、カイルがびくりと肩を跳ねさせる。
「……うおっ!?」
「……あ」
俺がまたしてもやらかしてしまった恥ずかしさで俯いていると、カイルは走りながら苦笑した。
「さっきといい、今といい。よく分からんが大変そうだな」
「……わかってくれるか」
「まあ、何となくな」
俺は感動していた。
コイツは、いいヤツだ。
こんな俺を見ても、バルドのように茶化したりすることもなく親身になってくれる。
今まで出会ったなかでも、かなりまともな部類に入る。
なにより女神と違って話が通じる。
「しかし」
カイルがふっと笑った。
「こうして抱えてると、本当に軽いな」
「……ん?」
「これで世界最高の筋力があるってんだから、世の中わかんねえもんだ」
「……まあな」
「でも、可愛い妹ができたみたいでちょっと嬉しいぜ」
「…………は?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
カイルの顔にはからかいなど欠片もなく、ただ子供に向けられる慈愛の感情だけが宿っていた。
「誰が妹だぁぁぁぁっ!!」
再び幼女の絶叫が響き渡る。
カイルは豪快に笑っていた。
……駄目だ。
こいつも完全にまともというわけではなかったらしい。
◇◆◇
俺たちが石切場から離れると魔樹の追撃は止まり、黒い根が伸びてくる気配もない。
ただし、森の空気は相変わらず重苦しいままだった。
俺たちは、比較的開けた場所で足を止めた。
「……全員、無事か?」
グレイヴが尋ねた。
カイルが頷く。
「俺は大丈夫だ」
「私も」
リゼットも答え、フェルンも怪我はないらしい。
「マキ、お前さんは?」
「……大丈夫だ」
俺は不貞腐れた顔で頷いた。
ここまでカイルに抱えられてきたため、ほとんど疲れていない。
ただし、精神的には随分と疲れた。
何しろ、巨大な魔物に狙われた挙句、駄女神に茶化され、大人の男に抱っこされて逃げてきたのだ。
だが、それで逃げ切れたのも事実であるため怒るにも怒れず、実に複雑な気分である。
「それにしても」
グレイヴはゆっくりと息を吐いた。
「本当に、喰根の魔樹だったとはな」
リゼットが頷いた。
「……ええ。あの再生能力と、周囲の魔力を吸い上げる性質。記録と一致しているわね」
フェルンも、真面目な顔で続けた。
「根の広がり方から考えて、すでに石切場の周辺一帯への侵食はかなり進んでいる可能性があります」
「……まずいな。あのまま放っておいたら村まで来るんじゃねえのか?」
「……可能性はあるな」
俺の呟きにグレイヴが頷いた。
やはり、と思うのと同時に、放ってはおけないという思いが胸の奥からふつふつと湧いてきた。
「なあ」
「……ん?」
「あの魔樹、どうすりゃ倒せるんだ?」
グレイヴは少し考え込んだ。
「……正直、今のところわからん」
「……そうか」
「ただ、今日の調査でわかったことはある。お前さんが言った赤黒い筋のことだ」
「……ああ」
「あれが魔力の流れだとすれば、その元を断つことで再生を遅らせられるかもしれん」
リゼットが頷いた。
「ええ。ただし、普通に切断するだけでは、さっきみたいにすぐに再生してしまうわ」
「……だったら、根っこを全部切り離すしかねえのかな?」
「全部?」
カイルが目を丸くした。
「ああ。木だって根から水や養分を吸い上げるだろ。あの魔樹も似たような仕組みなんじゃねえかな」
「……なるほど」
グレイヴが、顎へ手を当てた。
「……根を断って、再生する前に本体を仕留める……か」
「……まあ、言うのは簡単だけどな」
俺は肩を竦めた。
あれほど巨大な魔樹である。
地下にどれだけ根を張っているのか、見当もつかない。
しかも再生能力まであるときた。
普通の方法では倒せないだろう。
「とにかく」
グレイヴははっきりと告げた。
「一度ギルドへ戻って対策を考える。記録もより詳しく調べなけりゃならん。その間、村には警戒を強めてもらう必要があるな」
「ああ。バルドが伝えてくれてるだろうが、俺からも村長には話しておくよ」
俺も小さく頷いた。
しかし、胸の奥には嫌な予感が残っていた。
あの魔樹は確かに俺を見ていた。
しかも、ルミエラは魔樹が俺の祝福を感じ取っているのだと言っていた。
もしそれが本当なら、あいつは俺を追ってくるかもしれない。
「…………」
俺は、自分の小さな手を見つめた。
STR9999。
女神の趣味によって与えられた途轍もない力。
その力が、まさかこんな形で問題を引き寄せることになるとは想像もしていなかった。
「……やれやれ」
どうやら、俺の木こり幼女としての生活は俺が思っていた以上に波乱に満ちたものになりそうだと思った。
◆◇◆
その夜、天界の神殿では女神ルミエラが、珍しく真面目な顔で表紙に神代文字が刻まれた古い書物を開いていた。
開いた頁には、今日石切場に現れた巨大な魔樹とそっくりな絵が描かれていた。
「……《
女神は小さく呟いた。
「……まさか、本当に生き残っていたなんて」
その声に普段の軽薄さはなかった。
遥か昔、神々がまだ地上へ直接干渉していた時代に世界樹の根を侵食しその生命力を奪おうとした魔物が存在した。
神々からは《
地上では《喰根の魔樹》と呼ばれた1本の巨木。
それは、神々の加護を得た地上の英雄たちによって数百年前に討伐されたはずだった。
「……完全には、滅びていなかったのですわね……」
女神はゆっくりと本を閉じた。
そして、机の上に置かれた四角い鏡に視線を向ける。そこには、エルム村の宿屋で眠る少女の姿が映っていた。
「マキちゃん」
女神は少しだけ眉を下げた。
「わたくし、あなたを危険な目に遭わせてしまったのかもしれませんわね」
しばらく沈黙が続いた。
「……ですが」
女神はゆっくりと顔を上げた。
その青い瞳には何かを決意したような強い光が宿っていた。
「あなたには、わたくしが授けた力があります」
女神は小さく微笑んだ。
「そして、何よりも、あなたには木こりとしての誇りがありますものね」
鏡のなかでマキが寝返りを打ち、小さな身体が布団のなかへすっぽりと埋まる。
女神は微笑みながら静かにそれを見ていた。
神界管理局の監査官もルミエラの様子を見ていた。
『本日は勤務中の加護対象への過度な私的観察はないようですね』
この程度の観察に留めるならば大目に見てやろう。
加護を与えた人間が可愛いくて仕方ないのは、神にとっては当然のことなのだから――。
「……それに」
その口元がゆっくりと緩んだ。
「……巨大な魔樹と、巨大な双斧を操る幼女……」
ルミエラの頬が赤くなり両手が胸の前で組まれる。
「……はああああああああっ!」
女神はとうとう叫んだ。
『…………』
「何という浪漫なのでしょうぉぉぉぉっ!!」
歓喜の声が響き渡った。
「巨大な魔樹! 巨大な双斧! そしてSTR9999の可憐なる幼女!」
女神は目を輝かせていた。
『……反省の態度なし、と』
監査官はため息をついた。
「これぞ、わたくしが夢にまで見た究極の戦いですわぁぁぁっ!」
『女神ルミエラ』
冷たい声が響いた。
「……ひっ」
『勤務時間中の私的な観察を確認しました。改悛の情も認められないようですね』
「……ま、待って、待ってくださいまし」
『始末書を100枚追加します』
「いやあああああああああっ!!」
天界に駄女神の絶叫が響き渡った。
◇◆◇
そして同じ頃、エルム村の裏山では黒い魔樹がゆっくりと根を広げていた。
赤黒い眼が見つめる視線の先には、小さな村があった。
その村では1人の幼い少女が何も知らずに眠っていた。
「……むにゃ……大きな木は……倒す方向を……ちゃんと……」
そんな寝言を呟きながら幸せそうに眠っていたのである。
しかし、その夜、村の外れに立つ一本の古木の根元でみしりと小さな音がした。
その根には糸のような黒い根が無数に絡まり、木から生命を吸い取り始めていた。
魔樹の根はゆっくりと村に向かって伸び始めていた。
【この世界の異種交配について】
この世界で人間と判断されている9種族のうち、普人種以外の種族が異種交配をしたときは子供が産まれず、普人種が異種交配したときに産まれる子供は『半◯人』と呼ばれるハーフの存在となります。
また、ハーフは親の種族か同種のハーフとの交配でしか子供が産まれず、親の種族とハーフが交配したときは親の種族の子供が、同種のハーフ同士が交配した場合、子供は同種のハーフとして産まれてきます。
なお、各種族の交配の生態についてはセンシティブなので控えさせていただきます。
(例)
普人種 × 普人種 = 普人種
獣人種 × 獣人種 = 獣人種
普人種 × 獣人種 = 半獣人
獣人種 × 森人種 = 子供は産まれない
半獣人 × 普人種 = 普人種
半獣人 × 獣人種 = 獣人種
半獣人 × 半獣人 = 半獣人
半獣人 × 半森人 = 子供は産まれない