更新遅くなりすみません。
よろしくお願いします。
木というものは地面の上に見えている部分だけがすべてではない。
太い幹、枝、葉、俺たちが普段目にしているのは、そのほとんどが地上に伸びた部分だ。
しかし、木にはもうひとつ、大切なものがある。
根である。
地中に張り巡らされた根は、樹木の巨体を支え、水や養分を吸い上げ、時には幹を伐られたあとでさえ残された木を生かし続ける。
だから木こりという仕事では、伐採する木の地上部分だけでなく、根元の状態にも注意を払わなければならない。
根元が腐っていれば、思いもよらない方向へ木が倒れることがある。隣の木と根が絡み合っていれば、一本を倒したつもりが周囲の木まで巻き込んでしまうことだってある。
見えているものがすべてではない。
それは、二十年近く木こりを続けてきた俺にとっては当たり前のことだった。
……もっとも。
『おーっほっほっほっほ! 見えない根っこなど、まとめて力ずくで引っこ抜いてしまえばよろしいのですわ!』
その当たり前がまるで通用しない女神も世の中にはいるらしい。
――……お前、昨日の今日で本当に反省してねえな。
『まあ! 失礼ですわね! わたくし、昨日はきちんと反省いたしましたのよ!?』
――そのわりに始末書が増えてなかったか?
『……それとこれとは別問題ですわ』
――別じゃねえだろ。
『それよりマキちゃん! 昨夜はよく眠れまして?』
――……おかげさまでな。
『まあまあ! それは何よりですわ! 8歳の女の子にとって、十分な睡眠は健やかな成長のために必要不可欠ですもの!』
――だったら、朝っぱらから頭のなかで騒ぐのをやめてくれねえか?
『あら? わたくし、まだそれほど大きな声を出しておりませんわよ?』
――お前の声量の基準はどうなってんだよ……。
俺は布団のなかで、深々と溜息をついた。
昨日、俺はリーネル冒険者ギルドの調査隊とともにエルム村の裏山にある古い石切場へ向かった。
そこで遭遇したのが、《喰根の魔樹》と呼ばれる古代の魔物だった。
ルミエラによれば、その真の名は《
数百年前に大陸を脅かし、世界樹の根すら侵そうとしたという、とんでもない化け物らしい。
15メートルほどもある巨大な幹と大きく広がった葉のない樹冠。
血管のように赤黒い筋が走る黒い樹皮。
そして、幹に浮かぶ巨大な眼と、地中から飛び出してくる無数の根。
今でも思い出すだけで背筋が寒くなる。
幸い、俺たちは全員無事に撤退できた。
いや、正確には俺たちは見逃されただけだ。
倒したわけでもなければ、活動を封じたわけでもない。そのうえ、あいつは俺に宿るルミエラの祝福を感じ取っているという。
……まったく。
どうして俺の人生はこんなことになっちまったんだろうな。
つい数日前まで、俺はエルム村で普通に木を伐っていた。
朝になれば山へ入り、木の状態を調べ、必要な分だけ伐採して、夕方には村へ帰る。それだけで十分だった。
なのに、泉へ斧を落としたばっかりに、8歳の幼女にされるわ、巨大な神斧を2本も押しつけられるわ、挙げ句の果てに古代の魔物から目をつけられるわ……。
『ですが、マキちゃんにはわたくしが授けた素晴らしい筋力がありますもの!』
――だから、筋力だけで何でも解決できるわけじゃねえっての。
『まあ! またそのようなことを!』
――昨日だって、カイルに抱えられて逃げたじゃねえか。
『あれはあれで、大変素晴らしい光景でしたわぁ……!』
――思い出して悶えるんじゃねえ!!
俺が布団のなかで頭を抱えた、そのときだった。
――かん、かん、かん!
遠くから乾いた金属音が聞こえてきた。
「……ん?」
俺は顔を上げた。
――かん、かん、かん!
村の中央広場にある警鐘だった。
エルム村では、火事や獣の襲撃など、村人に急いで知らせなければならない事態が起きたとき、あの鐘を鳴らすことになっている。
俺は跳ね起きた。
「……おいおい」
昨夜の魔樹が頭をよぎり、心臓が嫌な音を立てた。
「……まさか!」
俺は寝間着を脱ぎ捨て、慌てて木こりの作業着へ着替え始めた。
◇◆◇
「マキ! 起きてるかい!」
階下からマルタさんの声が響いたとき、俺はようやく片方の靴を履き終えたところだった。
「起きてる! 何があった!?」
「東の井戸がおかしいんだよ! バルドたちが調べてる!」
「……井戸?」
嫌な予感がますます強くなった。
俺はもう片方の靴を履くと、腰に愛用の伐採斧を提げ、背嚢を引っ掴んで、階段を駆け下りる。
……いや、正確には、転がり落ちないように一段ずつ急いで下りた。
何しろ今の俺は8歳児である。
前世の身体なら二段飛ばしで下りられた階段も、今では段差が妙に大きく感じられる。
本当に不便だ。
「マルタさん!」
食堂に飛び込むと、マルタさんがちょうど戸口に向かっているところだった。
その傍らには、9歳の少年ティオと、茶色い毛並みをした小さな犬のポルがいた。
ポルはティオが幼い頃から可愛がっている、エルム村のちょっとした人気者である。
「おはよう、マキ」
「挨拶してる場合じゃねえだろ! 井戸がどうしたんだ!?」
「水が濁ってるらしいんだよ。それに、井戸の周りの地面が妙に盛り上がってるって……」
「……っ!」
地面の隆起。
それは昨日、石切場で何度も見た光景だった。
「マキ姉ちゃん……」
ティオが、不安そうに俺を見つめていた。
「もしかして、バルドさんが言ってたおっきな木の魔物なの?」
「……まだわからねえ。だから、今から調べてくる」
「僕も――」
「駄目だ」
俺は即座に言った。
「ティオはマルタさんと一緒にいろ。ポルも連れて、危ないところには近づくなよ」
「……うん」
ティオは残念そうに俯いたが、素直に頷いた。
俺はその頭をぽんと撫でようとして手を止めた。
……危ねえ。
STR9999の筋力を持つ手で、うっかり頭を叩いてしまったら洒落にならない。
結局、指先でそっと髪を撫でることにした。
「……いい子だ」
「えへへ……」
少しだけ笑ったティオの顔を見て、俺は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
俺が守りたいのは、こういう何でもない日常なんだ。
古代の魔物なんぞに、壊されてたまるか。
「マルタさん、俺は井戸へ行ってくる」
「気をつけるんだよ!」
「ああ!」
俺は頷き、宿屋を飛び出した。
◇◆◇
東の井戸は村の中央広場から少し離れた場所にある。村の東側に広がる畑や、森に近い家々で暮らす人たちが普段から利用している共同井戸だった。
俺も何度となく世話になった場所である。
そこに駆けつけると、すでに十数人の村人が集まっていた。
「おう、マキ!」
真っ先に声をかけてきたのは、バルドだった。
村の自警団長を務める大男で、俺がエルム村へやってきて以来、何かと世話を焼いてくれている男だ。
「来たか!」
「ああ! 何があった!?」
「……見てくれ」
バルドが井戸を指差した。
俺は駆け寄り、石積みの縁から中を覗き込んだ。
「……何だ、こりゃ」
井戸の底に溜まっているはずの水が、真っ黒に濁っていたのである。
しかも、ただ濁っているだけではない。水面には油膜のような赤黒い筋が浮かび、ところどころで小さな泡が弾けていた。鼻を近づけると、湿った土と腐った木、それに鉄錆を混ぜ合わせたような嫌な臭いがする。
昨日の石切場で嗅いだものと、よく似ていた。
「……飲んだ奴はいないよな?」
「大丈夫だ。水汲みに来た婆さんが異変に気づいて、すぐ知らせてくれた」
「そりゃよかった」
俺は、ほっと息を吐いた。
しかし、安心するにはまだ早そうだ。
井戸の周囲へ目を向けると、石積みの根元から外側へ向かって、黒い筋が何本も伸びていた。
いや、これはただの筋じゃない。
「……やっぱりか」
俺はしゃがみ込み、地面を観察した。
土の表面に無数の亀裂が走っており、その隙間から髪の毛ほどの細い黒い根が覗いていた。
しかも、それらはじっとしていない。
こちらの視線に気づいたように、ぴくりと1本の根が小さく震えた。
「……ちっ」
俺は、思わず舌打ちした。
「バルド。こいつは昨日の魔樹の根っこだ」
「……やっぱりか」
「ああ。間違いねえと思う」
周囲を見渡すと、井戸の近くに立つ木々は昨日まで青々と葉を茂らせていたはずなのに、今朝はどれも色が悪い。
特に井戸のすぐ脇にある古い栗の木は、葉の半分ほどが茶色く萎れ、根元の苔まで乾いていた。
「……ひでえな」
俺は栗の木に近づいて観察する。
樹皮はまだしっかりしているが、枝先には生気がない。
また、根元の土を少し掘り返してみると水気がなく、昨日石切場に向かう途中で見つけたものと同じような細く黒い根が絡みついていた。
「周りの木から水やら養分やらを奪ってやがる」
「……じゃあ、あの魔樹がもう村まで来ちまったってことか?」
「ああ。少なくとも、根の一部はな」
バルドが険しい顔になった。
「……まずいな」
「ああ。とにかく、井戸には誰も近づけないほうがいい。水も使うな。飲み水は別の場所から――」
足元からみしりと嫌な音がした。
「……ん?」
俺が反射的に井戸へ視線を向けると、石積みの一部が、みしみしと軋みを上げながら僅かに外側へ膨らんでいる。
「……バルド!」
「何だ!?」
「全員下がらせろ!」
俺が叫んだ次の瞬間には、井戸の石積みが内側から弾け飛んでいた。
「うおおっ!?」
「きゃあああっ!」
村人たちの悲鳴が響き渡る。
砕けた石材が宙を舞い、黒い水が周囲に飛び散った。
そして、崩れた井戸のなかから、大人の胴体ほどの太さがある1本の巨大な黒い根が這い出してきたのである。その表皮には血管のような赤黒い筋が走り、石積みの奥に隠れた部分では瘤のような膨らみが不気味に脈打って見えた。
「……っ!」
俺は咄嗟に右手を伸ばした。
金色の光が集まり、重量300kgの巨大な両刃斧《金剛》が姿を現す。普通の人間なら持ち上げることすらできない巨大な斧だが、俺にとっては違う。
「……どっせいっ!」
俺は金剛を振り下ろした。
『特殊スキル《大斧遣い》が発動します』
――ざんっ!!
井戸から飛び出してきた黒い根が、真っ二つに断ち切られた。切り離された先端が地面に落ち、びくびくと痙攣する。
しかし、次の瞬間には、切断された根の断面からずるりと黒い液体が滲み出してきた。
「……げっ」
昨日と同じだ。
魔樹の根は、切っただけでは再生してしまう。
「……くそっ!」
俺は金剛を構え直した。
だが、再生を待つ根の脇で、さらに別のものが動いていた。
井戸の石積みの隙間から、何十本もの細い根が這い出してきたのである。それらは地面を這い、周囲の家々へ向かって伸び始めていた。
「……おいおいおい!」
俺は顔をしかめた。
「どんだけいやがるんだよ、こいつら!」
『まあまあ! なんという数でしょう!』
――ルミエラ!
『これは実に斬り甲斐がありそうですわね!』
――見りゃわかるだろ! 今それどころじゃねえんだよ!
『……ええ』
意外なことに、ルミエラはすぐにふざけた口調を引っ込めた。
『マキちゃん。どうかお気をつけて』
――……ああ。
俺は短く答えた。
昨日の魔樹を見てから、ルミエラの様子は少しおかしい。普段なら巨大な斧が活躍する場面で大喜びするくせに、あの魔樹が相手だと、時折ひどく真剣な声になる。
……それほど危険な相手だということなのだろう。
「バルド! みんなを逃がしてくれ!」
俺は叫ぶと同時に、再び金剛を構え直した。
「俺がここを抑える!」
「お前一人で大丈夫なのか!?」
「大丈夫かどうかじゃねえ! 今は誰も近づけねえことが先だ! ついでと言っちゃ何だが、細い根は任せていいか」
バルドは一瞬だけ俺を見つめ、大きく頷いた。
そして、振り返ると村人たちへ怒鳴った。
「おう、任せろ。野郎ども! 女子供を東の通りから離せ! 井戸には近づくな! 水も使わせるんじゃねえぞ!」
「お、おう!」
「それから、道や畑に伸びてる細い根は手の届く範囲でぶった切れ! ただし、太い根には近づくんじゃねえぞ!」
「わかった!」
「無理すんなよ! 俺たちみんなの命あっての村だ!」
村人たちが慌ただしく動き始めたのを横目で確かめながら、再び正面を睨みつける。
目の前には、再生を果たし蠢く太い根。
コイツをここで抑えられれば、他は随分楽になるはずだ。
――……よし。
必要なのは、正確な一撃だ。力任せに振り回せば、家や井戸の残骸まで吹き飛ばしかねない。
そんなことになれば、村を守るどころではない。
「……ったく」
2回、大きく深呼吸をして息を整え、金剛の刃を低く構えた。
「ただの木こりに、随分と面倒な仕事を押しつけてくれるじゃねえか!」
そして、振り下ろされる根の尖った先端を金剛で迎え撃った。
◇◆◇
太い根とはいっても、ただ断ち切ること自体は難しくなかった。
昨日、石切場で見た根の瘤は地上には出てきておらず、いくら切っても再生されてしまう。
それでも、俺がここで相手をしているからなのか、コイツが俺を狙っているからなのか、太い根は井戸に陣取ったままだった。
こいつの目的は分からないが、こいつをここから動かさないという俺の目的は果たされている。
とはいえ、限界はある。
金剛はあまりにも大きい。
重さの問題ではない。刃の長さも、柄の長さも、今の俺の身体には過剰なのだ。
地面すれすれに刃を通そうとすれば、足元にも気を配らなければならないし、狭い場所では斧そのものが邪魔になる。
そして、いかに力が強くても、俺の身体はあくまで8歳児相当の体力しかなく、金剛を振り回す腕に痛みを感じなくとも、疲れは蓄積されていった。
「……元の体くらい体力がありゃ、こんなに苦労はしてねえのにな!」
俺は悪態をつきながら、少し間合いを開けた。
すると、黒い根は大きく身を捩り、その先端を俺に向かって振り下ろしてきた。
「……っ!」
俺は金剛を横に構えた。
受け止めるのではなく、刃を斜めに当てて根の進む方向を逸らす。
――がぁぁぁんっ!
金剛の刃にぶつかった黒い根が、横へ弾かれる。
根の先端は弾かれて地面にぶつかった勢いそのままに、地中へと潜っていく。
「……いってえ!」
怪我こそしなかったが、根を弾いた反動で足を取られ、俺は思わず尻餅をついた。
根の攻撃をまともに受けていなくても、8歳児の身体では踏ん張りきれなかった。
……情けねえ。
『マキちゃん! 大丈夫ですの!?』
――ああ! 心配すんな!
俺が立ち上がろうとしたとき、聞き覚えのある声が背後から響いた。
「ポル! そっちに行っちゃダメ!」
「……っ!?」
振り返ると、井戸の反対側にある小さな物置小屋の脇で、ティオが何かを追いかけていた。
その少し先には、茶色い犬の姿があった。
「……ティオ!? お前何してんだ!」
「マキ姉ちゃん! マルタさんと一緒に西の広場へ行こうとしてたんだけど、ポルが鐘の音に驚いて逃げちゃって……!」
「馬鹿野郎! すぐ戻れ!」
「でも、ポルが!」
「俺が何とかする! お前は――」
しかし、最後まで言い終わる前に物置小屋の足元が大きく盛り上がっていく。
黒い根が地面の下を通って伸びていく、その方向には――。
「ティオ! そこから離れろぉぉぉっ!!」
「うわあああっ!」
次の瞬間、物置小屋の床板が内側から弾け飛び、ティオが悲鳴を上げた。
黒い根が床を突き破り、木材を砕きながら伸びていく。
ポルが吠えた。
そして、崩れかけた小屋の壁が突き出した根に押されてティオの方に向かって傾き始めた。
「くそったれぇぇぇっ!!」
――間に合え!
必死で駆け出したが足が短い。
どれだけ力を込めても、地面を蹴る速度は思うように上がらない。
この距離では、間に合わない。
「……っ!」
俺は金剛を両手で握った。
いや、違う。
必要なのは斧そのものを投げることじゃない。
今壁を吹き飛ばしてもティオが怪我をする。
あの壁を押し倒そうとしている根を先にどうにかすることだ。
俺は立ち止まり、金剛を構えたまま伐るべき場所を確認した。
根の位置、伐り倒すべき方向、周囲の建物、ティオとポルの位置。
そのすべてを、ほんの一瞬で見極める。
「そこだぁぁぁっ!」
『特殊スキル《大斧遣い》が発動します』
俺は金剛を横薙ぎに振るった。
ただし全力ではなく、斧から生まれる衝撃が根に届く程度に。
金色の刃が空を裂き、鋭い風が地面を這うように走った。
――ざんっ!!
黒い根が、物置小屋の手前で断ち切られた。
『特殊スキル《大斧遣い》の熟練度が上昇しました。習熟度が一定の水準に達したため、《大斧遣い》は大斧装備中、自動的に効果を継続するようになりました』
俺は今までに見たことのないアナウンスに一瞬目を丸くした。しかし、今の状況では悪いことではなさそうだったので、返事になるのか分からなかったが軽く頷いておいた。
切り離されて支えを失った根が地面に落ち、倒れかけていた壁の動きが僅かに鈍る。
だが、完全には止まらない。
「……くそっ!」
俺は金剛を【収納】して、そのままティオのもとへ飛び込んだ。
「……マキ姉ちゃん!?」
「頭下げろ!」
右手でティオを抱き寄せ、ポルの首輪を掴んだ。
その直後、柱が折れ、支えるものを失った物置小屋の壁が崩れ落ちてくる。
俺は左手を伸ばし、倒れてくる木材を受け止めた。
「……ぐっ!」
ずしりと重みがかかる。
しかし、STR9999の俺にとって木造の壁一枚など大した重さではない。
問題は俺の小さな身体だった。
腕に力はあるが足場が悪く、崩れた木材の上で踏ん張ろうとしても、靴底が滑って身体が傾いてしまう。
「……っ!」
俺は歯を食いしばった。
「ティオ! ポルを連れて、さっさと逃げろ!」
「で、でもマキ姉ちゃんが!」
「俺は大丈夫だ! いいから行け!」
ティオは泣きながら頷いた。
そして、ポルを抱き上げ、崩れた小屋の外へ走り出す。
……よし、これでいい。
俺は木材を支えたまま二人が離れるのを待った。
しかし黒い根の断面がずるりと持ち上がり、再び動き始めた。
「……げっ」
切断された根の断面からは黒い液体が伸びている。
このままでは、再び小屋の残骸を巻き込んで立ち上がってくると気づき、俺は支えていた壁を根の断面に向かって押し倒した。衝撃とともに土埃が舞い上がり、崩れた壁が地面に倒れたのと同時に、俺もその場から転がるように離れる。
「……げほっ、げほっ!」
肺に埃が入り、思わず咳き込む。
小屋の残骸はしばらくの間、ガタガタとがれきを押し上げるように動いていたが、間もなく静かになった。
……ふう。
何とかここは一件落着、かな。
「マキぃぃぃっ!」
遠くからマルタさんの声が聞こえて顔を上げると、こちらに走ってくるところだった。
その傍らにはティオとポルもいる。
……よかった。
二人とも無事だったらしい。
俺はほっと息を吐いた。
「マルタさん! ティオもポルも無事だぞ!」
「ああ、聞いたよ!」
マルタさんは俺の前に来た途端、両手を広げて俺の身体を引き寄せてきた。突然のことに驚いた俺は、少し経ってからようやく抱きしめられたのだと気付いた。
「ちょっ! マルタさん?!」
「……まったく! あんたまで危ないことをして!」
「……いや、だってよ!」
「言い訳するんじゃないよ!」
そう言うとマルタさんはもっと強く俺の背中を抱きしめた。
「……ありがとうね、マキ」
「…………」
何だか妙に照れくさくて、俺は言葉に詰まってしまった。
「……別に、大したことじゃねえよ」
「ふふっ。そうかい」
笑ったマルタさんの向こうで、ティオが目を真っ赤にしながら頭を下げていた。
「……マキ姉ちゃん、ごめんなさい」
「ああ。ティオがポルを助けたかった気持ちはわかるよ」
「……うん」
「だけどな。お前まで怪我したら、ポルもマルタさんも悲しむだろ?」
「……うん」
「だから、今度からは大人を呼べ。いいな?」
「……うん!」
俺はそっとティオの頭を撫でた。
今度はちゃんと力加減にも気をつけた。
そのとき、地中でどくんと何かが小さく脈打つのを感じた。
俺は気配を追って顔を上げ、井戸のほうで黒い根が再び動いているのを見た。
しかも、1本ではない。
2本、3本と太い根が鎌首を持ち上げ、さらに周囲の地面からも細い根が這い出し始めていた。
「……おいおい、まだ来やがるのかよ……!」
俺が覚悟を決めて右手に金剛を再び【召喚】したとき、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
村の西側から、二台の荷馬車がこちらへ向かってくる。
先頭の馬車に乗った見覚えのある大男が俺の姿を見つけて叫んだ。
「マキぃぃぃっ! 無事かぁぁぁっ!?」
リーネル冒険者ギルドの支部長グレイヴだった。
「……グレイヴ! 助かった……」
俺は思わず顔を綻ばせた。
「遅えぞ! こっちは朝から大騒ぎだ!」
「悪いな! こっちも古い記録を探すのに手間取っちまった!」
グレイヴは馬車から飛び降り、周囲の惨状を見渡した。崩れた井戸と倒壊した物置小屋、さらには地面から突き出た巨大な3本の根と地面を這い回る無数の黒い根を見て、その表情が一瞬で険しくなる。
「……ちっ。予想よりかなり早えな」
続いて、カイル、リゼット、フェルンが奥の馬車から降りてきた。
カイルはすぐさま盾を構え、リゼットは杖を握り直す。フェルンは周囲の地面を観察し始めた。
「……グレイヴ」
リゼットが低い声で言った。
「このあたりの魔力、昨日よりずっと薄くなってるわ」
「……ああ、よくねえ状況らしいな。マキ、悪いが詳しい話はあとだ」
「……ああ。まずは、こいつらをどうにかしねえとな!」
俺が答えると、グレイヴは獰猛な笑みを浮かべて笑いながら剣を抜き放つ。
「おうよ! 全員、戦闘準備!」
そのよく響く声がエルム村の東の通りに響き渡った。
◇◆◇
グレイヴが到着してから村の防衛は一気に組織立ったものになった。
何しろ、それまでの俺たちには魔樹の根がどこから現れるのかも、どこを攻撃すれば止まるのかも、はっきりとはわかっていなかったのだ。
それに対して、グレイヴたちは違った。
数々の魔物を相手にしてきた冒険者としての経験がある。そして今回は、古い討伐記録から得た情報も持ち帰ってきたのだという。
「カイル! 井戸の前を塞げ! 家のほうに根を通すな!」
「任せろ!」
「フェルン! 地面の動きを見ろ! 根の位置を知らせろ!」
「了解しました!」
「リゼット! 魔法で根の動きを抑えられるか!?」
「やってみる!」
指示を受けた3人がすぐさま散開した。
俺はグレイヴの隣に駆け寄った。
「グレイヴ!」
「何だ!」
「俺は何すりゃいい!?」
「お前さんは細い根を頼む!」
「細い根?」
「ああ! 太い根には再生能力があるが、細い根は再生しねえらしい!」
「何!?」
目を丸くする俺に頷くと、グレイヴは井戸から伸びている黒い根へ視線を向けた。
「詳しい話はあとだ! とにかく村の家や畑へ伸びてる細い根を片っ端から断ち切れ! 太い根には不用意に近づくなよ!」
「おう!」
なるほど、細い根は切断すればそのまま再生しないのか。
だったら話は早い。
俺は金剛を【収納】すると、腰から愛用の伐採斧を抜いた。
何も神斧でなければ木が伐れないわけではない。
むしろ、細かい作業には長年使い慣れた普通の斧のほうが向いている。
俺は地面を這っていた黒い根へ近づいた。
「……よし」
一本の根が、近くの家の床下へ潜り込もうとしていた。俺は周囲の人が避難していることを確かめてから斧を構え、必要な分だけ力を込めて刃を入れる。
――ざくっ!
根が切れる。
切断された根は地面に落ち、確かに再生はしないようだ。切断面から黒い液体は僅かに滲み出しているが、昨日の石切場で見たような、アメーバ状の組織が伸びてくることはなかった。
『伐採成功。経験値を獲得しました』
「ん? どういうことだ?」
それに、魔物のはずのグルートニーの根を切っているというのに経験値が入っている。
大牙猪を倒木で倒した際には伐採による経験値以外獲得できなかったというのにだ。
「元が木の魔物だからか? そんなことあるのか?」
それに、昨日の石切場やさっきの物置小屋でも、散々デカい根を切った。それなのに、その時にはこんなアナウンスは出てこなかった。
昨日やさっきとの違いといえば根が再生していないことだろうか。
「ステータス」
ステータスを開いて確認すると、俺の職業である《樵》に付随する職業スキルの《伐採技術》が青く光っている。普通の木を伐っている時も同じように職業スキルが自動的に発動していた。
この世界にシステムのようなものがあるとして、魔物と普通の木、俺の職業やスキルをどのように判定しているのかは全く分からない。
だが、少なくともそのシステムとやらは、グルートニーを木だと判断しているようだ。
もっと詳しく確認したい気もするが、今そんな余裕はない。俺の職業とスキルがグルートニーを倒すのに有利に働いているということが分かっただけで十分だった。
意識を目の前へと戻し、横に向かって伸びようとしていた別の細い根にも刃を向ける。
――ざくっ!
『伐採成功。経験値を獲得しました』
こういう仕事なら得意だし、むしろ本来の木こりの仕事に近い。
根の伸び方を見極めて必要な場所へ刃を入れる。周囲の建物を傷つけないように注意しながら、地面を這う根を一本ずつ断ち切っていく。
『伐採成功。経験値を獲得しました』
いつもどおりの仕事を、いつもどおりにこなしていくだけだ。
『まあまあ! マキちゃんったら実に見事な斧捌きですわ!』
――当たり前だろ。
俺は斧を振るいながら答えた。
――こちとら、20年近くこれで飯食ってきたんだよ。
『素晴らしいですわ! しかも今はこんなに可愛らしい小さな女の子のお姿で!』
――そこは関係ねえだろ!
『おーっほっほっほ! 何をおっしゃいますの! むしろ一番重要なところですわよ!』
……駄目だ。
こいつは、何があっても変わらねえらしい。
俺は深々と溜息をついた。
……まあ、いい。
今はとにかく、目の前の仕事を片づけることだ。
「マキ! 右だ!」
フェルンの声が飛んできて反射的に右へ視線を向けると、地面の下を通っていた黒い根がすぐ近くまで迫ってきているのに気付いた。
しかも、今までのものより太いやつだった。
「……っ!」
俺は咄嗟に伐採斧を引き、後ろに跳んだ。
しかし足元が悪く、バランスを崩して尻もちをついた俺の目に、地面を突き破って現れた太く黒い根が鋭く尖った先端を振り下ろすのが映った。
「……しまっ!」
――がぁぁぁんっ!!
その瞬間、目の前に大きな盾が現れた。
「……ぐっ! 大丈夫か、マキ!」
カイルが巨大な根の一撃を盾で受け止め、そのまま俺の前へ立ち塞がった。
「……あ、ああ!」
「よし!」
カイルは歯を食いしばったまま、口角を上げてこっちを見た。
「こういうのは、俺に任せとけ!」
「……悪い!」
俺は慌てて体勢を立て直した。
……助かった。
昨日の石切場でもそうだったが、やはりカイルの防御能力は頼りになる。重騎士という職業は伊達じゃないらしい。
「リゼット! 頼む!」
「ええ!」
カイルの叫びに答え、少し離れた場所でリゼットが杖を振り上げた。
「《氷槍》!」
青白い光が集まり、鋭く尖った氷の槍が生まれる。
それが黒い根へ向かって放たれると、氷の槍は根の表皮を食い破って次々に突き刺さる。
そして、命中した部分から白い霜が広がり始め、黒い表皮が凍りついていく。
「おおっ!」
根の動きが明らかに鈍くなっている。
「すげえ! 効いてるじゃねえか!」
「ええ! 古い記録にあったとおりね!」
「……記録?」
「あの魔樹、もともとは植物に近い性質を持っているから、寒さが苦手みたいなの!」
「……なるほどな」
植物の種類にもよるが、低温によって活動が鈍ったり、組織が損傷したりすることは珍しくない。
魔物とはいえ、あいつにも似たような性質が残っているのだろう。
「……ただ、魔樹の幹に近い根ほど、寒さへの抵抗力が強くなるらしいわ! 今のうちに何とかして!」
「わかった!」
しかし、俺が動き出すよりも早く、1本の矢が飛んでくると凍りついた根の表皮へ突き刺さった。
その鏃が穿った先には赤黒く脈打つ瘤があった。
「……そこです!」
フェルンは矢をつがえて叫ぶと、小さく照準を整えて続けざまに2本の矢を放った。
それらはほぼ同時に、1本目の矢と同じ場所に命中すると小さな破砕音を響かせた。
瘤の表面に幾筋もの亀裂が走り、内部から赤黒い液体が噴き出す。
さらに、瘤の中央が内側へ潰れるように陥没すると、脈動していた赤黒い光が完全に消えた。
「……やりました! 瘤の反応が消えましたよ! グレイヴさん!」
「おう! 次は俺の番だ!」
グレイヴが地面を蹴り、その手に握った長剣で鋭い軌跡を描く。
――ざんっ!!
瘤の近くで根が切断され、断面から黒い液体が滲み出す。
だが、目を凝らしても液体は流れ落ちるばかりで、いつまで経っても切断された根と繋がらない。
「……おおっ! 再生しねえ!」
「……ああ!」
俺が思わず大きな声をあげると、グレイヴも頷いた。
「記録どおりなら、瘤を完全に破壊した根は再生できねえ!」
「……なるほどな!」
そういうことか。
昨日の石切場でリゼットとフェルンが瘤を攻撃したとき、黒い液体の動きが明らかに鈍くなっていた。
あれは偶然ではなかったのだ。
「……こいつは、いいことを聞いたぜ!」
俺は意気込んで再び斧を構えたが、すぐに異変に気づいた。
地中で何かが大きく脈打っている。
それも一度だけではない。二度三度と回数を増すごとに脈動は大きくなっていた。
「……っ!?」
「……全員、下がれ!」
グレイヴの怒号が響いた次の瞬間、井戸の周囲に残っていた黒い根が一斉に動き始めたのである。
◇◆◇
そこから先は、まさに戦場だった。
井戸の周囲だけではない。東の畑からも、家々の床下からも、村道のあちこちからも、黒い根が次々と姿を現し始めた。
細い根は地面を這い、井戸の残骸を伝い、畑に植えられた作物に絡みついていく。
太い根は土を盛り上げ、柵を破壊し、家を基礎から押し上げていった。
「……ちっ!」
俺は伐採斧を握り直した。
「これじゃ、いくら斬ってもきりがねえぞ!」
「マキ!」
グレイヴが叫んだ。
「無理に全部を相手にするな! まずは家の周りの細い根だけでいい!」
「……わかった!」
「カイル! 東の通りを守れ!」
「了解!」
「リゼット! 地面の動きを止められるか!?」
「……少しの時間なら!」
リゼットが杖を掲げると、青白い光がその先端へ集まっていく。
「……地を這う冷気よ、脈動する魔力を封じなさい! 《氷界封脈》!」
リゼットが杖の石突で足元を叩くと、彼女を中心に足元から淡い青色の魔法陣が広がっていく。
地面を這っていた黒い根は、広がる魔法陣に触れるそばから表面が次々と白く染まった。
魔法陣は東通り一帯を覆うと、冷気とともに地中に染み込んでいく。
そして、地面の下で何かが軋むような音が響いたと思うと、土の表面を覆っていた黒い筋が次々と動きを止めていく。
「……おおおっ!」
これが元素魔道士の魔法の力か!
俺は思わず目を見開いた。
「すげえな、リゼット!」
「……はあっ、はあっ!」
しかしリゼットは、杖に身体を預けるようにして大きく息を吐いた。
「……そんなに長くは、もたないわ!」
「……いや、十分だ!」
グレイヴが叫んだ。
「今のうちに村人を避難させろ!」
「おう!」
バルドが頷き、村の男衆に向かって怒鳴る。
「聞いたか野郎ども! 動ける奴は東の家を回れ! 子供と年寄りを西の広場に連れていくんだ!」
「おう!」
「食い物や荷物はどうする!?」
「後回しだ! 命より大事なもんなんざねえ!」
バルドの号令の下、男たちが走り出した。
俺はその背中を見つめながら、少しだけ胸が熱くなった。
エルム村は小さな村だ。
大きな城壁があるわけでもなければ、強力な騎士団が駐屯しているわけでもない。普段から村を守っているのは、バルドを中心とした自警団員――ただの村の住人だ。
それなのに、誰一人として身勝手に逃げ出そうとはしていなかった。
怖くないはずがない。
あんな化け物みたいな根が突然家の床下から出てきて襲いかかってくるのだ。
正直なところ俺だって怖いくらいだ。
それでも、村人たちは互いに声を掛け合い、子供や年寄りを助け、壊れた家から必要なものを運び出していた。
……そうだ。
こういう村なんだよな。
俺が、この世界で2年間暮らしてきた場所は。
「……よし! 俺も、やることやらねえとな!」
『その意気ですわ、マキちゃん!』
――ああ! やってやるぜ!
俺は地面を這う黒い根へ向かって走り出した。
それからしばらく、俺はひたすら根を斬り続けた。
家の床下に伸びる根。
畑の作物に絡みつく根。
井戸の周囲から村道へ広がろうとする根。
細いものを優先して、1本ずつ確実に断ち切っていく。
途中、何度も足を取られそうになった。
息も上がった。
腕に力は残っていても、小さな身体には長時間動き続けるだけの持久力がない。
それでも、俺は手を止めなかった。
――ざくっ!
「次!」
――ざんっ!
「こっちも!」
木を伐る。
根を断つ。
周囲を確かめる。
経験値の獲得や熟練度の上昇を告げるアナウンスを見るのが億劫になるほど、何度も何度もそれを繰り返す。
俺がやっていることは、いつもの山仕事と大して変わらなかった。
ただ、相手が生きて動く魔物の根だというだけだ。
……いや、それが一番大きな違いなんだけどな。
「マキ!」
不意にバルドの声が聞こえた。
「……ん!?」
振り返ると、彼が東の通りの向こうからこっちに走ってくるところだった。
その顔には、焦りが浮かんでいた。
「宿屋のほうに根が伸びてる!」
「……何!?」
俺は、思わず息を呑んだ。
宿屋。
マルタさんの宿。
俺が、今の身体になってからも変わらず居場所を与えてもらっている、あの家だ。
「……くそっ!」
俺は地面を蹴った。
嫌な予感で胸が締め付けられそうだったが、それを振り払うように小さな手足を必死で振った。
そうしてようやく辿り着いた俺は、言葉を失った。
本日中にもう1話更新予定です。