酒寄家の末妹は今日も人生を満喫している。 作:昼寝の達人
本編とは関係ない話なので、読み飛ばしてもらって構いません。
酒寄家は朝久さんが亡くなってから致命的に変わってしまったのだろうなぁと個人的に思ってて、そこから紅葉さんの子供達への対応は間違ってはいたのでしょうが、紅葉さん自身のあまりに過酷な過去を思うと、虐待の連鎖に近いものを感じてしまって複雑な気持ちになります。唯一その連鎖を断ち切れるのが朝久さんと言う存在だった。とこの作品をAIさんに作ってもらったとき考えたりしてました。
朝というものは、どうしてこうも容赦がないのだろう。
布団の中でそんなことを考えながら、俺は枕元で鳴り続けるスマートフォンに手を伸ばした。画面を見ずにアラームを止め、再び布団を頭まで引き上げる。十月も半ばになると、京都の朝は随分と冷える。寝具の中に溜まった温もりは何物にも代えがたく、できることなら昼までこうしていたい。もっとも、今日は平日である。学校がある。実に残念なことだが、日本の義務教育制度は一人の少女が惰眠を貪ることを許してくれないらしい。
……いや、義務教育そのものに文句はないんだけどさ。
もう少し始業時間を遅くしてくれてもいいと思うんだよね。
「音葉、起きてる?」
寝室の扉が二度、軽く叩かれた。
「んー……」
「もう七時過ぎてるよ。遅刻するで」
「あと五分……」
「それ、五分前にも言うてたやろ」
おや、そうだったか。
記憶にございませんな。
しかし、ここで無視を決め込んでも、母さんが諦めることはないだろう。何しろ相手は弁護士である。職業柄なのか元からなのか、我が母は一度決めたことに関して、なかなか譲らない。特に子供の生活習慣については厳しいお方だ。
俺は仕方なく布団から顔を出した。
「……おはよう、お母さん」
「はい、おはよう。ようやく起きたん?」
扉の向こうから姿を現したのは、酒寄紅葉。俺の母親である。
きちんと整えられた髪に、皺一つないブラウス。既に仕事へ出かける準備を済ませているらしい。朝っぱらから隙のない格好である。対する俺は寝癖をつけたまま、布団に包まっている。親子でありながら、実に対照的な姿だった。
しかし、そんなことは些細な問題だ。
俺には、まだ使っていない手札がある。
「お母さん」
「何?」
「ぎゅーして?」
両腕を広げてみせる。
母さんは一瞬だけ眉を上げた。
「……あんた、もう中学生やろ」
「中学生はお母さんに甘えちゃあかんの?」
「そういう意味やないけど」
「じゃあ、だめ?」
首を傾げてみる。
母さんは何か言いたそうに俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ほんま、甘えん坊なんやから」
そう言いながら、ベッドの端に腰を下ろして俺を抱き寄せてくれる。
ふふふ。
勝ったな。
母さんの身体に腕を回し、肩口に頬を寄せる。洗いたての服から柔軟剤の香りがした。背中をぽんぽんと叩いてくれる手つきも心地いい。いやあ、朝から実に贅沢である。これが母親に甘えるということか。十三年も経験しておいて何だが、いまだに飽きる気配がない。
それにしても、うちの母さんは俺に甘い。
普段は厳格で、勉強や生活習慣についても口うるさい。ところが、こうして甘えてみると結構な確率で応じてくれるのだ。
実にありがたい話である。
「ほら、もう起きなさい。朝ご飯冷めるよ」
「はーい」
十分に堪能したところで、素直に母さんから離れる。
欲張りすぎないことも大切だ。何事にも引き際というものがある。
母さんが部屋から出ていくのを見届け、俺はようやくベッドから立ち上がった。
そして、壁に掛けられた姿見の前で足を止める。
そこに映っているのは、茶色がかった長い髪に、まだ幼さの残る顔立ちをした少女だった。大きな瞳に、柔らかそうな頬。寝起きなので髪は少々乱れているが、それを差し引いても十分に可愛い。
うん。
今日もいい顔をしている。
誰あろう、この美少女こそが俺である。
名前は酒寄音葉。十三歳。中学一年生。
そして、前世は男だった。
いわゆるTS転生というやつだ。
前世では日本で普通に暮らしていた男だったのだが、死んだと思ったら赤ん坊になっていた。それも女の子の身体である。最初はさすがに驚いたものの、そこから十三年も生きていれば慣れるというものだ。
むしろ、今となっては女に生まれ変わってよかったとさえ思っている。
だって可愛いし。
いや、見た目がいいってのは本当に得だよ。鏡を見るだけでも気分がいいし、可愛い服を着る楽しみもある。しかも俺の場合、家族にまで恵まれているのだから言うことがない。
母さんは厳しいけど優しい。
兄貴は格好よくて面倒見がいい。
姉ちゃんは美人で、頑張り屋で、何より俺に甘い。
実に素晴らしい。
前世で何か徳でも積んだのだろうか。特別な善行をした記憶はないんだけどな。道に落ちていた財布を交番に届けたことくらいならあるが、あれでこんな待遇を受けられるなら、世の中の人間はもっと積極的に財布を拾うべきだと思う。
「音葉ー! ご飯!」
「今行くー!」
いかんいかん。
母さんを待たせてしまう。
俺は手早く制服に着替え、洗面所で顔を洗った。寝癖を直すのには少々手間取ったが、髪を梳いて後ろでまとめれば、それなりに見られる姿になる。
鏡の前で軽く笑ってみる。
よし。
今日も可愛い。
さて、朝飯だ。
◇
「いただきます!」
食卓には炊きたてのご飯と味噌汁、焼き魚、それから卵焼きが並んでいた。
なかなか豪華な朝食である。
向かいに座った母さんは、湯気の立つ味噌汁を一口飲んでから、俺の顔を見た。
「昨日、遅うまで起きてたん?」
「えっ?」
「朝、なかなか起きへんかったやろ」
「……ちょっとだけ」
「何時に寝たん?」
「十一時くらい?」
「音葉」
「十時五十分!」
「ほとんど変わらへんやろ」
ごもっとも。
俺は卵焼きを口に運びながら、素直に反省することにした。
昨日はゲームの区切りが悪かったのだ。あと少し、あと少しと進めていたら、いつの間にか寝る時間を過ぎていた。恐ろしいことである。ゲームには人間の時間感覚を狂わせる悪魔的な力があるに違いない。
「今日は早めに寝るんよ」
「はーい」
「返事だけにならんようにな」
「大丈夫だよ、お母さん」
俺は胸を張った。
今日こそ早めに寝るつもりである。
……まあ、面白いところまで進んでしまったら分からんけど。
そんなことを考えていると、母さんが仕事用の鞄に目を向けた。
「そうや。今日、帰るん少し遅くなると思う」
「お仕事?」
「うん。ちょっと長引きそうでな」
「そっかぁ」
母さんは弁護士として働いている。
詳しい仕事内容については知らないことも多いが、忙しい仕事だということくらいは分かる。帰宅が遅くなる日も珍しくないし、休日に仕事関係の電話がかかってくることもある。
正直、よくやるなあと思う。
俺だったら、できればもっと楽な仕事に就きたい。
いや、働くこと自体が嫌いなわけではないんだけどさ。どうせなら自由時間は多いほうがいいじゃん?
「じゃあ、今日の晩ご飯、私が作っとこうか?」
そう提案すると、母さんは少し驚いた顔をした。
「ええの?」
「うん! 冷蔵庫に材料ある?」
「豚肉と野菜はあるけど……無理せんでええよ。帰ってから作るし」
「大丈夫だよ。私もお料理したいし」
実際、料理をするのは嫌いではない。
手間はかかるが、自分の好きな味付けにできるし、上手く作れたときは気分がいい。それに、母さんが帰ってきてから夕飯の準備を始めるとなると、食事の時間も遅くなってしまう。
それなら俺が先に作っておいたほうが合理的だ。
母さんも楽になる。
俺も早めに夕飯を食べられる。
おまけに、感謝までしてもらえる。
素晴らしいではないか。
「じゃあ、お願いしてもええ? 危ないことはせんといてな」
「うん!」
「ありがとうな、音葉」
母さんは嬉しそうに笑って、俺の頭を撫でてくれた。
ふふふ。
こういうところだよなあ。
俺が母さんのことを大好きな理由は。
別に褒めてもらうためだけに家事をするわけではないが、褒められれば当然嬉しい。母さんの手は温かいし、撫で方も優しい。ついでに言えば、俺が頭を撫でられるのを好きだと知っていて、こうして自然に撫でてくれるのもいい。
世の中、親孝行には色々な形がある。
俺の場合は、母さんを喜ばせて、その反応を堪能することも立派な親孝行の一つである。
……いや、異論は認めるけどね。
◇
学校という場所は、基本的に退屈である。
いや、友達と話すのは楽しいし、授業も全部がつまらないわけではない。体育だって嫌いじゃないし、給食も美味しい。
しかし、一度社会人を経験した身としては、今さら中学校の勉強を最初からやり直すというのは、なかなか不思議な気分だった。
もっとも、前世の知識があるからといって、成績が飛び抜けていいわけではない。
数学なんて普通に忘れているし、英語も怪しい。
前世で習ったはずの内容なのに、いざ問題を出されると答えられない。人間の記憶力というのは、実に信用ならないものである。
「音葉、今日の数学の宿題やった?」
昼休み。
隣の席の友人が、弁当を食べながら話しかけてきた。
「やったよ?」
「えー、見せて」
「ええよ。でも、写したら先生に怒られるよ?」
「分かってるって。答え合わせだけ!」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
あまり信用できない返事である。
とはいえ、答えを見せるくらいなら構わない。俺は鞄からノートを取り出し、友人に渡した。
「ありがとう! 音葉って優しいよね」
「えへへ、そうかな?」
「うん。うちのお姉ちゃんなら絶対見せてくれへんもん」
「そうなんだ?」
友人は大げさに頷きながら、俺のノートと自分のノートを見比べ始めた。
俺はその様子を横目で眺めつつ、弁当の卵焼きを口に運ぶ。
ちなみに、今の宿題は半分くらい自信がない。
特に最後の問題なんて、答えは合っている気がするものの、途中の計算が怪しい。友人がそれを参考にした結果、二人揃って間違えていたら少々笑える。
いや、笑っている場合ではないんだけど。
「あれ? 音葉、ここ答え違わへん?」
「えっ?」
「ほら、こっち」
指差された問題を見る。
……あ。
符号を間違えている。
「ほんとだ!」
「音葉も間違えるんやね」
「そりゃ間違えるよぉ」
二人で笑いながら、ノートを訂正した。
うむ。
持つべきものは友人である。
どうやら今日も、俺は善行によって利益を得てしまったらしい。
いやあ、世の中よくできているねえ。
◇
放課後、寄り道もせずに帰宅した俺は、玄関で靴を脱ぐと、そのまま自室へ向かった。
制服を脱ぎ、部屋着に着替える。
その後、ベッドに倒れ込んだ。
「あー……疲れたぁ」
誰もいない部屋で、思いきり伸びをする。
今日も一日頑張った。
偉いぞ、俺。
実に偉い。
褒美として、今すぐゲームをしたいところである。
しかし、残念ながら今日は先にやることがあった。
夕飯の準備だ。
俺はスマートフォンの画面を確認する。
午後四時半。
母さんの帰宅は八時頃になるらしいから、時間には余裕がある。
先に宿題を終わらせて、夕飯を作って、それからゲームをする。
完璧な計画ではないか。
問題があるとすれば、この計画を立てている俺自身が、今すぐゲームを始めたくて仕方ないことくらいである。
……誘惑に負けてはいけない。
ここで遊び始めたら、絶対に時間を忘れる。
俺は自分の欲望をよく理解している。
というわけで、まず宿題を片づけることにした。
数学の問題集を開き、学校で訂正した箇所を確認する。友人に指摘された問題は、やはり途中の符号を間違えていただけだったらしい。残りの問題を解き終え、英語の単語を確認したところで、ようやく机から離れる。
時計は五時を少し過ぎていた。
よし。
次は夕飯だ。
冷蔵庫を開くと、朝に母さんが言っていた豚肉と野菜が入っていた。キャベツ、玉ねぎ、人参。それから豆腐と卵。調味料も一通り揃っている。
ふむ。
豚肉と野菜の炒め物でいいか。
味噌汁も作ろう。
ご飯は炊飯器に任せればよろしい。
実に合理的な献立である。
俺はスマートフォンでレシピを確認しながら、調理を始めた。
まず米を研いで炊飯器にセットする。次に野菜を洗い、包丁で切っていく。玉ねぎの皮を剥いていると、目が痛くなってきた。
……くそっ。
玉ねぎめ。
人類はこれだけ科学技術を発展させておきながら、いまだに玉ねぎの涙問題を完全には解決できていないのか。
いや、対策は色々あるらしいけどさ。
今度調べておこう。
そんなことを考えながら包丁を動かしていると、玉ねぎの切れ端がまな板から転がり落ちた。
「あっ」
危ない危ない。
拾って洗い直そう。
それから豚肉に下味をつけ、フライパンで炒める。肉の色が変わってきたところで野菜を加え、調味料を入れた。
じゅう、と小気味よい音が鳴る。
醤油と生姜の香りが広がって、腹が減ってきた。
おお。
いいじゃないか。
見た目も悪くない。
少し味見をしてみる。
「……うん、美味しい!」
我ながら上出来である。
いやあ、こういう瞬間は料理の楽しさを感じるねえ。
もっとも、毎日やれと言われたら遠慮したい。
料理は好きだが、献立を考えて、買い物をして、毎食作るとなると話は別だ。俺はあくまで気が向いたときに料理を楽しみたいのであって、料理人になりたいわけではない。
そう考えると、姉ちゃんは本当に偉い。
東京で一人暮らしをしながら勉強して、アルバイトまでしているのだ。
しかも料理が上手い。
いや、本当にすごいと思う。
俺なんて宿題を終わらせただけで自分を褒めているのに。
……まあ、俺には俺の長所がある。
主に愛嬌とか。
うん。
大切だよね、愛嬌。
何しろ、こうして家族に甘やかしてもらえるのだから。
俺は完成した料理を皿に移し、味噌汁の鍋に蓋をした。使った調理器具も洗っておく。
これで準備は完了だ。
母さんが帰ってきたら温め直せばいい。
時計を見る。
午後六時前。
素晴らしい。
まだ二時間近くあるではないか。
「ふふふ……」
誰もいない台所で、思わず笑みがこぼれた。
これぞ計画的な行動というものだ。
面倒なことは先に終わらせる。
そして、残った時間を存分に楽しむ。
我ながら立派な人生哲学である。
さて。
ゲームしよ。
◇
「ただいま」
玄関から母さんの声が聞こえてきたのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。
俺はゲームを中断し、椅子から立ち上がる。
ちょうどいいところだったのだが、仕方ない。
家族のお出迎えは大切である。
「お母さん、おかえり!」
廊下を歩いて玄関へ向かうと、母さんが靴を脱いでいるところだった。
片手には仕事用の鞄。もう片方には小さな紙袋を持っている。
「ただいま、音葉。遅うなってごめんな」
「ううん! お仕事お疲れさま!」
俺は母さんに近づき、鞄を持とうと手を伸ばす。
「持つよ?」
「ありがとう。重たいから気ぃつけてな」
「はーい」
鞄を受け取り、リビングへ運ぶ。
母さんは上着を脱ぎながら、台所のほうを見た。
「あれ、ええ匂いするな」
「えへへ。晩ご飯、作っといたよ!」
「ほんま? ありがとうな」
「今日はお肉と野菜炒めたの! あとお味噌汁!」
「そっか。楽しみやわ」
母さんは嬉しそうに俺の頭を撫でてくれた。
うむ。
いい反応だ。
頑張って作った甲斐があるというものだ。
俺は母さんが着替えている間に料理を温め直し、食卓に並べた。母さんも戻ってくると、食器を運ぶのを手伝ってくれる。
二人で席に着き、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまーす!」
母さんはまず野菜炒めを一口食べた。
俺はその様子をじっと観察する。
……どうだ?
美味しいか?
味付けは結構自信があるんだが。
「うん、美味しい」
「ほんと!?」
「うん。上手にできてるやん」
「えへへ、よかった!」
やったぜ。
心の中でガッツポーズを決める。
他人に褒められるというのは、何歳になっても気分がいいものだ。特に、自分が頑張ったことを褒めてもらえるのは嬉しい。
しかも相手は母さんである。
これはもう、喜ばない理由がない。
「音葉、今日は友達と遊ばんかったん?」
食事の途中、母さんがそんなことを尋ねてきた。
「うん。今日はまっすぐ帰ってきたよ」
「そうなん?」
「お母さん、遅くなるって言ってたから」
そう答えると、母さんは箸を止めた。
「……音葉」
「ん?」
「家のこと、無理してやらんでもええんよ?」
「え?」
「まだ中学生なんやし、友達と遊んだり、自分の好きなことしてくれてええんやから」
母さんは少し申し訳なさそうだった。
おやおや。
どうやら何か勘違いしているらしい。
別に俺は、友達と遊ぶのを我慢して夕飯を作ったわけではない。今日は最初から遊ぶ約束なんてなかったし、家事を終えた後は思う存分ゲームを楽しんでいた。
むしろ、かなり充実した放課後だったと言える。
「無理なんてしてないよ?」
「でもな……」
「私、お母さんのこと大好きだから、お手伝いしたいの」
にっこり笑ってみせる。
嘘は言っていない。
母さんが好きなのは本当だし、手伝ってあげたいと思ったのも本当だ。
ついでに自分の自由時間を確保したかったという事情はあるが、それをわざわざ説明する必要もないだろう。
世の中、物事の動機なんて一つとは限らないのだ。
母さんはしばらく俺を見つめていたが、やがて柔らかく笑った。
「……ありがとうな、音葉」
「えへへ」
「でも、無理はせんといてな。困ったことがあったら、ちゃんと言うんよ」
「うん!」
素直に頷いておく。
母さんは本当に優しい。
俺のことを大切に思ってくれているのが、よく分かる。
だからこそ、こちらも母さんには元気でいてほしいと思うのだ。
もっとも、母さんが心配しているような自己犠牲の精神は、残念ながら持ち合わせていない。
俺は自分の楽しみが大好きなのである。
誰かのために人生を犠牲にするなんて、まっぴらごめんだ。
ただ、好きな人が喜ぶ姿を見るのは楽しい。
そのために少しくらい働くのなら、別に苦でもない。
そういう話である。
「そうや、音葉」
「なあに?」
「今度の休み、何かしたいことある?」
おっ?
「お母さん、お休みなの?」
「うん。今のところ予定入ってへんから」
「ほんと!?」
「最近、一緒に出かけられてへんやろ。どこか行きたいところあったら、連れていこうと思って」
ほほう。
これは素晴らしい提案が飛び出してきたではないか。
母さんとお出かけ。
しかも行き先は俺が決めていいらしい。
これはもう、遠慮する理由がない。
「じゃあね、お母さんとお買い物行きたい!」
「買い物?」
「うん! 新しいお洋服見たいなって!」
「そうなん? ええよ」
「やったぁ!」
俺は思わず椅子から腰を浮かせた。
服を見るのは好きだ。
今の身体は何を着てもそれなりに似合うし、店頭で気に入った服を見つけるのも楽しい。それに母さんは服を選ぶのが上手い。
以前、一緒に買い物へ行ったときに選んでもらったワンピースなんて、今でもお気に入りである。
ああ、楽しみだ。
今度はどんな服を選んでもらおうか。
いや、せっかくだから母さんの服も見たいな。母さんは美人なのだから、もっと色々な格好をすればいいと思う。
「音葉、そんなに嬉しいん?」
「うん! お母さんとお出かけするの大好き!」
「……そう」
母さんは嬉しそうに笑った。
ふふふ。
実にいい笑顔である。
こういう顔を見ると、こちらまで嬉しくなってしまうねえ。
「じゃあ、お母さん」
「何?」
「お買い物のとき、お母さんのお洋服も一緒に見ようね!」
「私の?」
「うん! お母さん、綺麗だから、可愛いお洋服も似合うと思う!」
「……あんたはほんまに」
母さんが苦笑する。
おや、照れているのかな?
普段は厳格な母さんがこういう反応を見せるのは、なかなか貴重である。
もう少し褒めてみようか。
「私、お母さんみたいな綺麗な人になりたいなぁ」
「もう、調子ええこと言うて」
「ほんとだよ?」
母さんは俺の頭を撫でた。
その手つきが普段より少し優しかったので、俺は大人しく撫でられておくことにした。
いやあ。
楽しいねえ。
褒められるのも好きだが、褒めるのも結構楽しい。
特に、普段はあまり表情を変えない人が照れる瞬間なんて、見ていて実に愉快である。
母さんには悪いが、俺はこういう反応が大好きなのだ。
もちろん、褒めている内容は本心である。
うちの母さんは本当に美人だし。
何より、俺の大好きな母親なのだから。
◇
夕食を終え、食器を片づけた後。
俺は風呂に入り、寝間着に着替えて自室へ戻った。
時計は午後九時半を少し過ぎたところだった。
今日はもうゲームをやめておこう。
明日も学校があるし、母さんに夜更かししないと約束したばかりである。さすがに一日で約束を破るのはよろしくない。
俺はベッドに腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。
すると、メッセージアプリに通知が届いていることに気づいた。
送り主は姉ちゃんだった。
『音葉、元気にしてる? 最近寒なってきたし、風邪ひかんようにな』
ふむ。
相変わらず心配性である。
姉ちゃんは東京で一人暮らしをしている。
勉強にアルバイトにと忙しい毎日を送っているらしいが、こうして時々俺のことを気遣って連絡をくれるのだ。
実にありがたい。
俺は早速返事を打った。
『元気だよ! お姉ちゃんも無理しないでね! 大好き!』
送信。
しばらくすると、既読がついた。
『ありがとう。私も大好きやで』
おお。
なんと素晴らしい。
愛情の往復書簡である。
しかも相手は美人で優しい姉ちゃんときた。
これはもう勝ち組と言っても過言ではないのでは?
いや、家族に好かれているだけで勝ち組を名乗るのはどうかと思うが、少なくとも俺は十分に幸せである。
姉ちゃんともう少しやり取りをしてから、スマートフォンを充電器につないだ。
そして、ベッドに潜り込む。
ふかふかの布団。
温かい部屋。
美味しい夕飯。
優しい母親。
格好いい兄貴。
可愛い姉ちゃん。
……うん。
改めて考えても、俺の人生は恵まれている。
前世では、ごく普通の男として生きていた。
それなりに楽しいこともあったし、不満もあった。仕事は面倒だったし、休日はもっと欲しかった。美味しいものを食べたり、ゲームをしたりする時間が何より好きだった。
そんな俺が死んで、気づいたら女の子に生まれ変わっていた。
しかも、美少女である。
何度でも言うが、ここは重要だ。
美少女なのである。
前世の俺が聞いたら、羨ましがるに違いない。
……いや、前世の俺って今の俺なんだけどさ。
とにかく、今の生活に不満はない。
もちろん、将来について考えることだってある。
いつまでも家族に甘えてばかりというわけにもいかないだろうし、いずれは自分で働いて生活していかなければならない。
だが、それは今すぐ考えることではない。
俺はまだ十三歳なのだ。
今は中学生として学校に通い、友達と遊び、家族に甘えながら、毎日を楽しく過ごせばいい。
そのうち高校生になって、大学生になって、大人になる。
そうなったら、また別の楽しみが見つかるだろう。
人生二周目。
せっかくの機会なのだから、思う存分楽しませてもらおうじゃないか。
俺は布団の中で寝返りを打った。
明日は何をしよう。
学校が終わったらゲームの続きをやりたいし、週末は母さんと買い物だ。兄貴とも久しぶりに遊びたい。姉ちゃんのところにも顔を出したいなあ。
考えるだけで、楽しみが増えていく。
そういえば、兄貴には最近あまり甘えていなかった気がする。
今度会ったら、思いきり甘えてみようか。
あの兄貴のことだ。きっと嬉しそうにしてくれるだろう。
ふふふ。
想像しただけで愉快になってきた。
いやあ、実に素晴らしい。
優しい家族に恵まれ、可愛らしい身体に生まれ変わり、好きなことを楽しめる毎日。
これ以上を望んだら罰が当たるというものだ。
……まあ、望むだけなら自由だけどね。
俺は枕元の照明を消した。
明日も楽しい一日になるといいなあ。
そんなことを考えながら目を閉じる。
ちなみに、このときの俺はまだ知らなかった。
今度の買い物で母さんが服を何着まで買ってくれるのか、という非常に重要な問題について。
予算はどれくらいだろう。
一着か、それとも二着か。
いや、母さんは俺に甘いからなあ。
ふふふ。
楽しみだ。
……などと考えていたら、すっかり目が冴えてしまった。
いかん。
明日も学校なのに。
俺は慌てて布団を被り直した。
まったく、楽しいことが多すぎるというのも考えものである。
まあ。
幸せな悩みではあるけどね。