ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
ただいまのある家
拝啓、前世のお母さん、お父さん。
あの日ようやく退院できた娘は、今、とても元気です。
ただ一つだけ。新しい家族の朝が、毎日うるさすぎます。
――そんな手紙を、ときどき心の中で書く。
届けることはできない。それでも、元気に暮らしていることだけは伝えたかった。
黒崎家の朝は、だいたいうるさい。
台所では味噌汁の湯気が上がり、換気扇が低い音を立てている。診療所の待合室からは、開院前だというのにお父さんが椅子を動かす音が聞こえた。
そこへ、二階から足音が駆け下りてきた。
「一護ーっ! 父さんの愛を受け止めろォ!」
「朝っぱらから何してんだ、クソ親父!」
階段の下で鈍い音がした。今日もお父さんが負けたらしい。
「遊子、味噌汁」
「はいはい。夏梨はご飯、半分でよかったよね」
「うん。あと、一兄の分は大盛り。昨日、夜中に腹減ったって騒いでたから」
「聞こえてんぞ!」
顔を合わせなくても、誰が何をしているか大体わかる。
それが、私の大好きな朝だった。
私は黒崎遊子。小学五年生。家は診療所で、お父さんと、高校生の兄――私が「一兄」と呼ぶ一護と、双子の姉の夏梨と暮らしている。
お母さんは、六年前に亡くなった。
それから、誰にも話していないことが二つある。
一つは、前世の記憶があること。
もう一つは、頭の中にアイちゃんがいることだ。
前世の私は病弱だった。学校より病室にいた時間の方が長くて、窓の外で誰かが走っているのを見るのが好きだった。いつか自分も、と何度思ったかわからない。
ようやく退院できた日のことは、よく覚えている。
病院の外は晴れていて、信号が青になって、足を踏み出した。
それから先は、ブレーキの音だけだ。
ひどい話だと思う。
やっと始まるはずだった普通の生活が、始まった日に終わってしまった。
だから、生まれ直してからは毎日がちょっとした贅沢だった。
階段を駆け下りても息が苦しくならない。熱を出さずに学校へ行ける。
夕飯の支度をして、みんなで食べる。
お父さんの騒がしさまで含めてこれが私の普通になっていっている。
『マスター。登校まで残り十二分です』
(え、もう?)
『弁当箱の蓋が開いたままです』
(あっ)
頭の中で教えてくれるのが、アイちゃん。
正確には、転生するときに何者かから贈られた、私専用の人工知能――らしい。ふわふわした場所で光るものと話した記憶はあるけれど、肝心なところが曖昧だ。
私の願いは、「健康な身体で、普通に暮らしたい」。アイちゃんは、その願いを叶えるためにいる。
宿題の答えを丸ごと聞けば教えてくれるけれど、理解しないまま提出するのは推奨しないと言う。便利なのか厳しいのか、よくわからない。
「遊子、行くよ」
「待って、今行く!」
夏梨は玄関で靴を履いていた。
私たちは双子だけど、似ているのは顔くらいだ。夏梨は昔から落ち着いていて、私はよく物を忘れる。今日も水筒を取りに台所へ引き返した。
「忘れ物?」
「うん……」
「いつものことじゃん」
「今日は一回だけだもん」
「昨日は三回だったね」
夏梨が笑う。
悔しいけれど、反論できなかった。
その日の夕方も、いつも通りだった。
学校から帰って、買い物をして、洗濯物を取り込む。一兄はまだ帰っていなくて、お父さんは診療所で患者さんを診ていた。
私は二階の自分の部屋で、読みかけの漫画を開いた。
そこで、窓の外から大きな音がした。
工事現場で鉄骨を落としたような、ひどい音。
窓に駆け寄った私は、漫画を床に落とした。
家の前に、白い仮面があった。
正確には、仮面をつけた巨大な何かが立っていた。
電柱より背が高い。腕は妙に長く、開いた口から人間とは思えない声が漏れている。
「……なに、あれ」
幽霊なら、昔から見えていた。たまに道端に立っている人がいて、お父さんや友達には見えないと知ってから、気にしないようにしていた。
けれど、あんなものは一度も見たことがない。
しかも、その化け物の前に一兄が立っていた。
『マスター。対象の正体は不明です』
アイちゃんが答える。
『霊子の塊であることは観測できますが、該当する情報を持っていません。……マスターが今まで見てきた幽霊と同じ性質を、ひどく濁らせて歪めたもののように見えます』
(不明って……というか一兄がいるんだけど!)
『人を襲う可能性があります』
(それって危ないやつだよね!?)
『はい』
短い返事が、余計に怖い。
窓の向こうで、一兄が誰かを庇うように腕を広げた。その前には、いつの間にか黒い着物の女の子がいる。私より少し年上に見える、小柄な子だった。
女の子が刀を抜いた。
「下がっていろ! あれは虚だ、人間の手に負えるものではない!」
女の子の叫ぶ声が、二階の窓まで届いた。
『あの女の子は、化け物を「虚(ホロウ)」と呼びました』
アイちゃんが、聞こえた言葉をそのまま拾い上げた。
(あの子、誰?)
『わかりません。ですが、あの刀から強い霊圧を観測しています。あの化け物と戦うつもりのようです』
(じゃあ、助けてくれるの?)
『その可能性は高いです』
私は窓枠を握った。
一兄が逃げる気配はない。相手がどれだけ大きくても、目の前に誰かがいたら絶対に背を向けない人だから。
その頑固さが好きで、ときどき本当に困る。
次に起きたことは、あまりにも速かった。
黒い着物の女の子が跳んで、化け物の腕が振り下ろされて、白い仮面がこちらを向いて――家の壁が揺れた。
女の子が倒れる。
一兄が彼女に駆け寄って、何か叫んだ。
「一兄っ!」
窓を開けようとして、手が止まった。
今、私が下へ行って何ができる?
普通の小学生が飛び出したところで、一兄の邪魔になるだけだ。
・・・わかっているのに、窓枠を握った指が震えて離れない。
それが、ひどく悔しかった。
(アイちゃん、何か方法はないの?)
『介入のための手段はあります。ただし、現時点では――』
返事の途中で、一兄の身体から光が噴き出した。
黒い着物。手にしたのは、さっきの女の子が持っていたものより、ずっと大きな刀。
目の前で、一兄があの女の子と同じ、黒い着物の姿になった。
「……は?」
刀が振り下ろされた。
白い仮面が割れて、巨大な身体が崩れていく。
ほんの少し前までそこにいた化け物が、夜の空気に溶けて消えた。
私は、窓から身を乗り出したまま動けなかった。
『黒崎一護の生存を確認。負傷は軽微です』
「……ほんとに?」
『はい』
膝から力が抜けた。
助かった、よかった。
でも、私は最初から最後まで何もできなかった。
廊下を駆け下りたときには、もう家の前に一兄の姿はなかった。妙な黒い服も、大きな刀もない。窓の外には、ご近所さんが首を傾げているだけ。
玄関で立ち尽くしていると、背中から腕が回ってきた。
「大丈夫だよ」
「ひゃっ!」
振り向くと夏梨だった。エプロンを着たまま、私を見ている。
「な、何が?」
「そんな顔してたから。……一兄なら、帰ってくるよ」
「……うん」
なぜそう言い切れるのか、聞けなかった。
夏梨は私の手を一度だけ握って、台所へ戻っていった。
・・・夏梨には、何が見えていたんだろう。
その夜、一兄はいつも通り夕飯を食べた。少し眠そうで、やけにたくさんお代わりをしたけれど、それだけだった。
私は「おかえり」を言うのが精一杯だった。
布団に入っても、眠れなかった。
部屋の明かりを消すと、窓の外の街灯がカーテンに薄い四角をつくった。階下ではお父さんが戸締まりをしているらしい。鍵の回る音がして、家が少しずつ静かになっていく。
目を閉じるたび、さっきの光景が戻ってきた。
白い仮面。倒れた女の子。一兄の頭上に振り下ろされた腕。
あと少し何かが違っていたら、今夜、一兄は食卓にいなかったかもしれない。
「……私、何もできなかった」
窓から見ていただけだ。
一兄が危ないとわかっていたのに、駆けつけることもできなかった。あんなものが怖かったし、そもそも自分にできることなんて思いつかなかった。
その感じが、嫌になるくらい懐かしい。
白い天井。薄いカーテン。点滴の管。
前の世界で、毎日見ていたもの。
窓の向こうでは、同じくらいの年の子たちが走っていた。雨の日には、傘を寄せ合って笑う子たちもいた。私はベッドの上からそれを眺めて、明日はもう少し熱が下がるといいな、と思っていた。
病室にお母さんとお父さんが来てくれるのが、何より嬉しかった。
二人はいつも、私の前では笑ってくれた。でも帰るとき、ほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
心配しなくていいよ、と言いたかった。何かしてあげたかった。
でも私は、笑って手を振るくらいしかできなかった。
元気になったら。
退院できたら。
そのときは二人と出かけよう。お母さんの買い物袋を持って、お父さんの誕生日には自分で何か作ろう。そんな、小さな予定をいくつも考えていた。
ようやく退院できた日、外の空気は思ったより冷たかった。まぶしくて、嬉しくて、歩道を歩くだけで笑ってしまった。
それが、最後だった。
「…………」
布団から手を出して、暗がりで指を開いた。
今の私の腕には、点滴の跡も管もない。起き上がってみても、胸が苦しくならない。
部屋の端まで歩ける。廊下を走れる。学校へ行ける。
味噌汁をつくって、一兄におかわりをよそってあげることだってできる。
あの頃、何より欲しかった暮らしが、今はここにある。
なのに今日、私はまた、見ていることしかできなかった。
「……嫌だな」
声にしてみたら、胸の奥がつんとした。
もう一度、ただ待つだけの自分には戻りたくない。
何かしたい。何かを守りたい。誰かを助けたい。
今の私なら、前よりずっといろんなことができるはずなのに。
(……アイちゃん)
『はい、マスター』
(さっき、方法があるって言ったよね)
『はい』
(私にも、一兄を助けられる方法があるの?)
いつもすぐに答えるアイちゃんが、少し黙った。
『マスターの希望を確認します。健康な身体で、普通に暮らすという願いは、変わっていませんか』
(……変わってないよ)
嘘じゃない。
毎朝、夏梨と学校へ行って、お父さんの大げさな冗談に笑って、一兄が帰ってきたら「おかえり」と言う。そんな毎日が、ずっと欲しかった。
(でもね。その普通の中に、もう一兄も夏梨もお父さんもいるんだよ)
『はい』
(誰かがいなくなったら、私の普通は普通じゃなくなる)
窓の外で、車が一台、静かに通り過ぎた。
(……私、何かできるようになりたい。一兄が困ってるときに、見てるだけじゃなくて。助けられるようになりたい)
『マスターの魂には、三種類の力が備わっています。一つは、今日の黒い着物の女の子と同じ性質の力。一つは、今日の化け物と同じ性質の力。もう一つは、そのどちらとも違う、周りの光の粒を集める力です。私はこれまで、それらを分けて管理してきました』
「……え?」
思わず声が出た。慌てて口を押さえる。
(待って。化け物と同じって、今日のあれ?)
『同系統の力です。ただし、マスターに危険が及ばないよう封じています』
(どうして今まで教えてくれなかったの?)
『マスターの願いは、健康な身体で普通に暮らすことでした。力を使わずに済む生活を維持することが、最も適切だと判断しました』
そっか。
アイちゃんは、私が欲しかった毎日を守ろうとしてくれていたんだ。
(……ありがと、アイちゃん)
『私は第一の使命を遂行しただけです』
(うん。でも、ありがと)
私は布団の上で拳を握った。
(その力、使えるようにしてほしい)
『力の使用により、現在の生活が変化する可能性があります』
(怖いよ。今日の化け物も、すごく怖かった)
さっきの仮面を思い出すと、今でも背中が冷たくなる。
(でも、一兄があんな目に遭うのを、もう見てるだけなんて嫌なの。……だから、お願い)
しばらくして、アイちゃんが答えた。
『――了解しました。マスターの新たな希望を、優先事項に追加します』
ほっとした途端、変な汗が出た。自分で言い出したのに、今さら緊張している。
『ただし、私はこの世界の力について、ほとんど何も知りません。三つの力を安全に扱うには、この世界そのものの情報が必要です。……封印の一部を解除し、外部世界への接続を開始します』
(接続?)
風もないのに、何かが身体のすぐ脇を通り抜けた気がした。
水の音も、光もない。それなのに、大きな川が流れていくような、不思議な感覚だった。
『この世界の構造、勢力、歴史を参照できる状態になりました。ただし、個人の名前や事情まで把握できるわけではありません』
(……難しい)
『取得した情報によれば、今日の化け物は「虚」、黒い着物の女の子は「死神」と呼ばれる存在とされています。そしてマスターの三つ目の力は、「滅却師」と呼ばれる者たちの力とされています』
(くいんしぃ……?)
『必要なときにお尋ねください』
(うん。それで、私は何から始めればいい?)
『訓練です。今夜から』
(今夜から!?)
『休息中の精神世界を利用します。肉体の睡眠は確保します』
そんな方法があるなら助かる、と思った。
……どんな訓練をするか聞くまでは。
でも今夜は、少しだけ眠れそうな気がした。
明日もみんなと朝ごはんを食べたい。そのために、自分でできることを増やしたかった。
私が眠りにつくのと同じ頃。
この世界の、ずっと深いところで、何かが目を開いたことを。
そのときの私は、もちろん知らなかった。