ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI―   作:きりか

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剣八

声は迷路の奥から、何度も何度も響いてきた。

同じ名前を繰り返し、喉が裂けるんじゃないかと思うくらいの大声で。

 

「……椿さん。あの人、どこにいるんですか」

「最奥へ行く道の途中だ」

 

椿さんは迷路の暗闇を見たまま答えた。

 

「迂回する道はねえのか、って顔だな」

「……はい」

「ねえ。二層の最奥に行くには、あいつの縄張りを通るしかねえ」

 

心臓がぎゅっと縮んだ。

 

「三層に行くなら、避けては通れねえってことだ」

 

歩くほど声は近くなって、空気が変わっていった。

二層の空気はずっと重くて湿っていたけど、その声に近づくにつれて、何か別のものが混ざり始めた。

ちりちりと肌を刺すような、荒々しい何か。

 

『霊圧です』

 

アイちゃんが言った。

 

『距離はまだあります。それでも、肌で感じられるほどの霊圧が、垂れ流しになっています。……抑える気が、まったくないようです』

 

迷路の角を曲がると、壁のくぼみの抜け殻たちが、みんな同じ方向にわずかに顔を向けていた。

何も見ていないはずの目が、声のする方を向いていた。

 

「……みんな、気にしてる」

「眠れねえんだろ。あんだけうるさけりゃな」

 

椿さんの声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。

 

迷路が急に開けた。

一層の広場とは比べものにならないくらい広い場所だった。

黒い岩壁にぐるりと囲まれた円い窪地、底には赤い川が何本も流れ込んで、真ん中で渦を巻いている。

その渦の真ん中に、男が立っていた。

大きかった。

七番隊の抜け殻の人も大きかったけど、それよりもっと。

肩幅が私が両手を広げたくらいあって、腕は私の胴より太い。

黒い長い髪が、ばさばさに乱れて背中まで垂れていた。

ぼろぼろの黒い着物の上に白い羽織、でもその羽織は真ん中からざっくりと裂けていて、背中に書かれていたはずの字も裂け目に呑まれて読めない。

そして、胸に。

大きな斜めの傷が走っていた。

肩から脇腹までまっすぐに、乾いた血が黒くこびりついている。

死んで地獄に落ちてきてからも、ずっと塞がらずに残っている傷。

男は、天井の見えない赤く濁った暗闇を見上げていた。

そして、叫んだ。

 

「――――更木ぃぃぃぃっっ!!」

 

耳が割れるかと思った。

窪地の岩壁がびりびりと震えて、赤い川の渦が大きく波打つ。

 

「出てこいぃぃっ!! 俺と、もう一度、やれぇぇっ!!」

『鬼厳城と呼ばれていた個体です』

 

アイちゃんが小声で言った。

……小声で言う必要はないのに、私の頭の中でしか聞こえないのに。

 

『胸の傷は、死因と推測します。斬撃によるものです。……かなり、深いです』

(その、ざらき、って人に、やられたのかな)

『可能性は高いです』

「あいつが、元・剣八だ」

 

椿さんが窪地の縁に立ったまま、静かに言った。

 

「先代の剣八だった男だ。更木ってのは、たぶん、あいつを斬って、剣八の名を奪った奴だろうよ」

 

剣八、護廷で一番強い人が名乗る名前、先代を斬って奪う。

椿さんの話を思い出す。

 

「……斬られて、名前を奪われて、それで、地獄に落ちてきたんですね」

「ああ。外の時間じゃ、死んで、まだ日が浅え。だから、まだ自分が誰だか覚えてる。……覚えてるから、ああやって、叫び続けてる」

 

椿さんは少しだけ目を細めた。

 

「自分を斬った奴の名前をな」

 

男の叫び声が、ふいに止まった。

窪地がしんと静まり返って、赤い川の渦だけがごぼごぼと低い音を立てていた。

男がゆっくりとこちらを向いた。

大きくて四角い顔、太い眉、血走った目。

その目が、窪地の縁に立つ私たちを捉えた。

まず、椿さんを見た。

白い羽織、眠たげな目、腰の刀。

男の顔には何の反応も浮かばなかった。

たぶん知らない顔なんだと思う、ずっと昔の隊長のことなんてこの人は知らない。

次に、私を見た。

黒い死覇装、腰の刀。

男の目がすっと細くなった。

 

「……死神か」

低い声だった。

叫んでいた時とは全然違う、地面の底から響いてくるみたいな重い声。

 

「ちっこい死神が、何しに来やがった」

「……ちっこい言うな」

 

思わず言い返していた。

 

『マスター』

(だって、今のは反射で!)

 

男は一瞬ぽかんとした顔をして、それから口の端をゆっくりと吊り上げた。

笑ったんだと思う、でも全然笑っているようには見えなかった。

 

「……面白え」

 

男が背中に手を回した。

そこには、私の背丈より長い分厚い鉈みたいな刀があった。

刃こぼれだらけで、ところどころ欠けている。

それを片手で軽々と引き抜いた。

 

「誰でもいい」

 

男が一歩踏み出すと、赤い川の水がじゅうと音を立てて蒸発した。

 

「俺は、剣八だ。……剣八は、斬り続けるもんだ。斬って、斬って、斬り続けて、それで初めて、剣八なんだ」

 

血走った目が、私をまっすぐに捉えた。

 

「てめえで、勘を取り戻してやる」

「椿さん……!」

 

思わず隣を見上げた。

椿さんは窪地の縁に立ったまま腕を組んでいて、腰の落椿には手もかけていなかった。

 

「お前の喧嘩だ」

「えっ」

「あいつは、お前に用があるって言ってる。俺じゃねえ」

「で、でも――」

「三層に行くんだろ」

 

椿さんの灰色の目が私を見下ろした。

眠たげな目、でもその奥は少しも眠っていなかった。

 

「三層には、閻魔がいる。お前を消すために、わざわざ地獄に引きずり込んだ奴だ。……あいつ一人に勝てねえで、閻魔の前に立てると思うか」

「…………」

「死にそうになったら、拾ってやる。それまでは、手は出さねえ」

 

それだけ言って、椿さんは岩壁にもたれた。

本当に見ているだけのつもりだ。

 

『マスター』

 

アイちゃんの声がした。

 

『椿宗玄の判断は、合理的です。……ですが、マスターが戦う必要はありません。撤退を選ぶこともできます』

(撤退したら、三層に行けない)

『はい』

(なら、やるしかないよ)

 

私は腰の弦月の柄を握った、小指と薬指に力を入れて。

 

窪地の底に飛び降りた。

着地した瞬間足元の岩がじりっと鳴って、赤い川の熱気が下から吹き上げてくる。

男――鬼厳城さんは、分厚い刀を肩に担いだまま渦の真ん中からこちらを見ていた。

 

「……来たか」

 

弦月を抜いた。

両手で構えて、右足を半歩下げて膝を曲げ、重心をお腹の下に。

椿さんに教わった構え。

鬼厳城さんはそれを見て、鼻で笑った。

 

「教科書通りだな」

 

次の瞬間、鬼厳城さんの姿がぶれた。

――瞬歩。

そう思った時には、もう目の前にいた。

巨体が私の視界を全部埋め尽くして、肩に担いでいた刀が振り下ろされる。

考えるより先に足が動いた。

瞬歩、千六百回足に覚えさせた動き、体が横へ撃ち出される。

刀がさっきまで私がいた地面を叩き割った。

轟音、岩が砕けて破片が四方に飛び散る。

窪地の底に、私の背丈くらいある深い亀裂が走っていた。

 

「……っ!」

 

着地して止まる。

でも止まった時には、もう鬼厳城さんがこちらを向いていた。

 

「ちょこまかと」

 

また瞬歩。

速い、椿さんの瞬歩みたいな見えない速さじゃない、でも重い。

巨体が地面ごと揺らしながら、まっすぐ突っ込んでくる。

横薙ぎの一撃を、弦月で受けた。

――受けた、つもりだった。

腕が肩から抜けるかと思った。

刀と刀がぶつかった瞬間、体ごと紙みたいに吹き飛ばされて、窪地の岩壁に背中から叩きつけられる。

 

「が……っ」

 

息が全部肺から押し出された。

 

『マスター!』

 

弦月を落とさなかったのが、不思議なくらいだった。

 

壁から剥がれ落ちるように膝をつく。

手が震えていた、弦月の柄を握る指が痺れて感覚がない。

 

『正面からの打ち合いは不可能です。重量も、腕力も、桁が違います』

(わかってる……!)

『始解を推奨します。ですが、弓の形成には時間がかかります。二層の霊子濃度では、最低でも八秒』

 

八秒。

鬼厳城さんの瞬歩は、たぶん一秒もかからない。

 

「どうした」

 

鬼厳城さんが窪地の真ん中からこちらへ歩いてくる。

急ぐ様子もなく、刀を肩に担いでのしのしと。

 

「勘を取り戻すにも、ならねえな」

(アイちゃん、鬼道は)

『白雷なら、詠唱なしで撃てます。ですが、マスターの白雷では、あの霊圧の防御を抜けません』

(それでも――)

 

人差し指を立てた。

 

「破道の四、白雷!」

 

指先から白い光が走った。

細くて頼りない光が、まっすぐ鬼厳城さんの胸に向かって飛んでいく。

そして、当たった。

ぱちん、と小さな音がした。

鬼厳城さんの胸の古い傷の上に、指先くらいの小さな焦げ跡がついた。

それだけだった。

鬼厳城さんは自分の胸を見下ろして、それから私を見た。

 

「……蚊か?」

 

顔がかっと熱くなった。

悔しかった、怖いのにそれより悔しかった。

 

「破道の一、衝!」

 

足元に向けて撃った。

砂と岩の破片が舞い上がって、一瞬だけ鬼厳城さんの視界を遮る。

その隙に瞬歩、横へ、もう一度横へ、窪地の縁に沿ってぐるりと回り込む。

 

『マスター、弓の形成を開始しますか』

(お願い!)

 

左手に霊子が集まり始める。

ゆっくりと、本当にゆっくりと。

一秒、二秒。

砂煙の向こうから鬼厳城さんの姿が現れて、こちらをまっすぐに見ている。

三秒。

瞬歩。

鬼厳城さんの巨体が目の前に現れた。

左手の形になりかけた弓が、刀の一振りで粉々に砕けた。

 

「何を企んでるか知らねえが」

 

鬼厳城さんが見下ろしていた。

 

「待ってやる義理はねえ」

 

刀が振り上げられた。

 

刀が落ちてくる。

避けられない、瞬歩の霊力を足に溜める時間がない。

――その瞬間、足元が勝手に弾けた。

 

『介入します!』

 

アイちゃんの声。

足元のわずかな霊子が無理やり爆ぜて、私の体を横へ突き飛ばした。

一層の番人から逃げた時と同じだった。

刀が左肩をかすめた。

熱い。

死覇装の袖が裂けて、肩から赤いものが飛び散った。

 

「っ、あ……!」

 

地面を転がる。

肩を押さえた手のひらが、ぬるりと濡れた。

 

『浅い傷です。動けます。……動いてください、マスター』

 

アイちゃんの声が震えていた。

痛い、すごく痛い。

でもアイちゃんが動けって言うなら、まだ動ける。

歯を食いしばって立ち上がる。

顔を上げると鬼厳城さんがこちらを見ていた、でもさっきまでとは何かが違った。

 

鬼厳城さんは、刀を振り下ろした姿勢のまま固まっていた。

血走った目が、私を見ていた、私の顔を、私の小さな体を。

 

「……ちっこい」

 

ぼそりと呟いた。

 

「ちっこい、ガキ……」

 

その声は、さっきまでの重くて低い声じゃなかった。

どこか遠くを見ているみたいな、ぼんやりとした声。

 

『マスター。対象の霊圧が、不安定になっています。……意識の揺らぎを検知』

「……あの時も」

 

鬼厳城さんの目が焦点を失っていく。

 

「あの時も、いた。あいつの肩に。ちっこいガキが。……笑ってやがった。俺が斬られるのを見て。けらけら、笑ってやがった」

 

何のことかわからなかった。

でも、鬼厳城さんの顔がだんだん歪んでいくのがわかった。

怒りと恐怖と、それからすごく、すごく悔しそうな顔に。

 

「てめえ……」

鬼厳城さんの目が、ぎょろりと私に焦点を合わせた。

でもその目は私を見ていなかった、私を通して誰か別の人を見ていた。

 

「てめえ、あのガキか……! 更木の……っ!」

「ち、違います! 私、そんな人知らな――」

「更木ぃぃぃぃっっ!!!」

 

叫び声と一緒に、霊圧が爆発した。

 

窪地の空気が一気に重くなった。

肌がちりちりと焼けて、赤い川がごうっと音を立てて沸き立つ。

壁のくぼみの抜け殻たちが、窪地の外で一斉にかすかに身を震わせた気がした。

 

『霊圧が急上昇しています! 制御が、完全に外れています!』

 

鬼厳城さんが突っ込んできた。

瞬歩じゃなかった、ただまっすぐ地面を蹴って走ってきた。

でもその一歩一歩が地面を砕いていた。

刀が振り回される。

さっきまでの一撃は重くて正確だった、でも今のは違う、滅茶苦茶だった。

右に左に、上から下から、狙いも何もなく、ただ目の前にあるものを全部叩き潰そうとするみたいに。

 

「更木っ! 更木ぃっ! てめえが、てめえさえいなけりゃっ!」

瞬歩で避ける、避ける、避ける。

避けた後ろの岩壁が次々と砕けていく。

 

『技術が崩れています。ですが、威力は、さっきの倍以上です。……一撃でも当たれば、終わりです』

(どうすれば……!)

『撤退を。今の対象は、マスターを正確に追えていません』

(でも、椿さんは――)

 

窪地の縁を見上げる。

椿さんはまだ岩壁にもたれて、腕を組んで目を細めていた。

でも腰の落椿の柄に、いつの間にか手が添えられていた。

死にそうになったら、拾ってやる。

椿さんの言葉を思い出す。

――まだ死にそうじゃない、だから拾われたくない。

 

「……アイちゃん、撤退する」

『了解しました。窪地の北側、迷路への通路が最も近いです』

「破道の一、衝!」

 

鬼厳城さんの足元に撃った。

さっきよりもほんの少しだけ強い衝撃、岩の破片と砂がぶわっと舞い上がって、鬼厳城さんの巨体が一瞬だけ砂煙の向こうに消える。

その隙に瞬歩、一回、二回、三回。

窪地の北側の細い通路に飛び込んだ。

背後で鬼厳城さんの叫び声が響いた。

 

「更木ぃぃぃっ! 逃げるなぁぁっ! 戻ってこいぃぃっ!」

 

振り返らなかった。

迷路の中を、瞬歩で走って、走って、走った。

 

叫び声が聞こえなくなったところで、足がもつれた。

黒い岩の上に倒れ込む。

肩が痛い、息ができない、体中の霊力が空っぽだった。

 

「……はぁっ、はぁっ……」

『追跡は、ありません。対象は、窪地から動いていないようです』

「……そっか」

 

仰向けになって、天井の見えない暗闇を見上げた。

負けた。

何もできなかった。

白雷は蚊扱いされて、弓は作る前に砕かれて、最後は誰かと間違えられて逃げてきた。

悔しかった。

涙が勝手に目の端からこぼれた。

 

「……やれやれ」

 

頭の上から、眠そうでだるそうな声が降ってきた。

いつの間にか、椿さんが私を見下ろしていた。

 

「負けたな」

「…………はい」

「死ななかったな」

「……はい」

 

椿さんはしゃがみ込んで、私の肩に椿の花を一輪そっと乗せた。

あたたかい光が傷に染み込んでいく。

 

「なら、上出来だ」

 

 

迷路の奥の小さなくぼみで、その「夜」を過ごした。

抜け殻の人がいない空っぽのくぼみ。

椿さんはその入り口に背をもたれて座っていて、私はくぼみの奥で膝を抱えていた。

肩の傷はもう塞がっていて、痛みもない。

でも刀を受けた時の腕の痺れが、まだ指先に残っている気がした。

遠くで、またあの声が響いた。

更木、更木、更木。

 

「……あの人、ずっと叫んでるんですね」

「ああ」

「私のこと、誰かと間違えてました」

「更木って奴の、連れだろうよ。……ちっこいガキが肩に乗ってた、って言ってたな」

 

椿さんは迷路の暗闇の方を見ていた。

 

「斬られた時のことが、頭から離れねえんだ。だから、似たようなもんを見ると、全部そこに繋がっちまう」

「……かわいそう」

 

思わず口から出ていた。

椿さんがちらりとこちらを見た。

 

「斬られかけた相手に、かわいそう、か」

「だって……あの人、すごく、悔しそうでした」

 

怒鳴っていた、暴れていた。

でもその声の奥にあったのは、怒りよりもっと別のものだった気がする。

 

「名前を奪われて、それでも、自分は剣八だって、言い続けてて。……そうしないと、自分が誰だかわからなくなっちゃうみたいに」

「…………」

 

椿さんはしばらく黙っていて、それからぼそりと言った。

 

「それが、ここで自我を保つってことだ」

「え?」

「霊力を吸われ続けて、それでも自分を忘れねえためには、何かにしがみつくしかねえ。あいつは、剣八って名前と、自分を斬った奴への恨みにしがみついてる。……しがみついて、しがみついて、そのうち、それしか残らなくなる」

 

椿さんは、自分の膝の上の落椿の鞘に目を落とした。

 

「俺も、似たようなもんだ」

 

椿さんが何にしがみついているのか、聞かなくてもなんとなくわかる気がした。

 

 

「……勝てる気が、しないです」

 

膝に顔をうずめて、私は言った。

 

「瞬歩で避けるのが精一杯で、刀は受けたら吹っ飛ばされて、白雷は蚊って言われて、弓は作る前に壊されて」

「全部、事実だな」

「慰めてください」

「慰めて勝てるなら、いくらでも慰めてやる」

 

椿さんは相変わらずだった。

 

「あいつの弱点は、わかったろ」

「弱点……?」

「更木の名前が出ると、壊れる。壊れると、力は上がるが、技は崩れる。……それに、あいつの刀は、でかすぎる。広い場所なら強えが、狭い場所じゃ振り回せねえ」

「狭い場所……迷路の通路、とか」

「そういうこった」

『補足します』

 

アイちゃんが口を挟んだ。

 

『戦闘中の観測から、対象の瞬歩には、一定の癖があります。踏み込みの直前に、必ず右肩が下がります。また、霊圧が暴走している間は、瞬歩を使っていません。直線的に走るだけです』

(すごい、そんなとこまで見てたの)

『マスターが戦っている間、私は、観測以外にすることがありませんでしたので』

 

少しだけ、すねたような声だった。

 

「……でも、やっぱり、弓を作る時間がないです」

 

私は顔を上げた。

 

「始解なら、届くかもしれない。でも、八秒もかかったら、絶対、その前に壊される。縛道で止められたらいいけど、私の縛道じゃ、たぶん、一瞬も止まらない。詠唱つきなら、もしかしたら……でも、私、三言目で詰まるし」

 

言いながら、どんどん声が小さくなっていった。

結局、全部私が弱いからだ。

 

『マスター』

 

アイちゃんの声がした。

 

『ひとつ、提案があります』

「提案?」

『詠唱を、私が行うことは、可能でしょうか』

「え……」

 

くぼみの入り口で、椿さんがぴくりと眉を動かした。

私が「え」と声に出したから、何か聞こえたと思ったのかもしれない。

 

「……アイちゃんが、詠唱を?」

 

口に出して繰り返すと、椿さんがゆっくりとこちらを向いた。

 

「中の奴が、何か言ったか」

「アイちゃんが、自分が詠唱をする、って」

「…………」

 

椿さんは眉をひそめた。

 

「前に言ったはずだ。鬼道は、唱えた者の霊力に、言葉を乗せる術だ。他人が唱えた言葉に、自分の霊力は乗らねえ」

『私は、他人ではありません』

 

アイちゃんの声は静かだった、でもはっきりしていた。

 

『私は、マスターの魂に結びついています。マスターの力を分割し、管理しているのも、私です。私の言葉は、マスターの魂の外から来るものではありません。マスターの魂の中から、発せられるものです』

 

私はそれを、そのまま椿さんに伝えた。

椿さんは長いこと黙っていた。

灰色の目が私の胸のあたりを、私の中にいるアイちゃんを見ようとするみたいに、じっと見ていた。

 

「……知らねえ」

 

やがて、椿さんは言った。

 

「そんなやり方、聞いたこともねえ。試した奴も、たぶん、いねえ。……そもそも、魂の中に、別の何かが住んでる奴なんざ、お前くらいのもんだ」

「じゃあ……」

「できるかどうか、俺にはわからねえ」

 

椿さんはそう言って、また迷路の暗闇の方を向いた。

 

「わからねえことは、試すしかねえな」

 

『ですが、問題があります』

 

アイちゃんが続けた。

 

『今のマスターの霊力は、ほぼ枯渇しています。試すためには、回復を待つ必要があります。そして、回復した霊力を試しに使えば、また、回復を待つことになります』

「……つまり?」

『確実に試せるのは、一度だけです。次に、鬼厳城と戦う時に』

「ぶっつけ本番、ってこと?」

『はい』

 

私は膝を抱えたまま、しばらく黙っていた。

怖かった。

できなかったらまた蚊扱いされる、今度は逃げられないかもしれない。

でも。

 

「……アイちゃん」

『はい』

「アイちゃんは、できると思う?」

 

少しの沈黙。

 

『わかりません。計算できない要素が、多すぎます』

 

アイちゃんは正直だった。

 

『ですが』

声

がほんの少しだけ柔らかくなった。

 

『私は、マスターの魂の一部として、マスターと一緒に戦いたいと考えています。……観測しているだけでは、なく』

 

胸の奥がじんと熱くなった。

さっきすねたような声だったのは、そういうことだったんだ。

 

「……うん」

 

私は顔を上げた。

 

「やろう。二人で」

『はい、マスター』

 

くぼみの入り口で、椿さんが小さく息を吐いた。

 

「……やれやれ。ぶっつけ本番か」

 

その声は呆れているようで、なんだか少しだけ楽しそうだった。

遠くで、またあの声が響いた。

更木、更木、更木。

私は腰の弦月を、ぎゅっと握りしめた。

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