ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
霊力が戻るまで、地獄の時間で四日かかった。
その間、私はほとんど刀を振らなかった、椿さんに止められたからだ。
「霊力が空っぽの時に無理しても、変な癖がつくだけだ。寝てろ」
「でも、じっとしてると、不安で……」
「なら、頭を使え。体を使わねえ分、考えろ」
だから考えた、アイちゃんと二人で。
『整理します』
精神世界の白い空の下、凪いだ水面に座り込んで、私はアイちゃんの声を聞いていた。
『鬼厳城の特徴は、三つです。一つ目。正常な状態では、技術は高いが、瞬歩の直前に右肩が下がる癖がある』
「右肩」
『二つ目。更木という名前に関わるものを認識すると、意識が乱れる。乱れると、霊圧は倍以上に跳ね上がるが、技術が崩れ、瞬歩を使わなくなる。直線的に、突進するだけになる』
「倍以上……でも、まっすぐ来るだけ」
『三つ目。武器が大きすぎる。広い窪地では脅威ですが、狭い通路では、壁に阻まれて振り回せません』
「椿さんが言ってたやつだね」
水面に迷路の地図がぼんやりと浮かび上がった。
アイちゃんが、私が今まで歩いた道を全部記録していたらしい。
『窪地の北側の通路。前回、マスターが逃げ込んだ場所です。幅は、大人二人分。鬼厳城の刀の長さでは、横に振れば、必ず壁に当たります』
「縦に振られたら?」
『天井は高いので、縦の振り下ろしは可能です。ですが、縦の一撃は、横の一撃より、避けやすい』
「……そっか」
地図の上に、指で窪地から北の通路へと線を引く。
「つまり、こういうこと? まず、鬼厳城さんを北の通路に誘い込む。狭いところなら、刀が振り回せないから、ちょっとだけ有利になる」
『はい』
「でも、それだけじゃ勝てない。始解の弓を作る、八秒がいる」
『はい。その八秒を作るのが、縛道です』
アイちゃんの声が少しだけ硬くなった。
『詠唱つきの縛道で、鬼厳城を縛ります。詠唱は、私が行います。マスターは、霊力を込めて、術の名を呼んでください』
「どの縛道?」
『六十一番、六杖光牢』
「ろくじょう、こうろう……」
『六本の光の帯で、対象の胴を貫いて縛り付ける術です。椿宗玄から聞いた縛道の中で、マスターの霊力で発動できる可能性がある、最も強力なものです』
「六十一番……! 私、まだ一番とか四番とかしか使えないのに」
『詠唱なしでは、マスターに六十一番は不可能です。ですが、詠唱があれば――』
アイちゃんはそこで言葉を切った。
『理論上は、可能です』
理論上。
アイちゃんが「理論上」って言う時は、やってみないとわからない時だ。
「……もし、失敗したら?」
『その場合は、即座に撤退します。北の通路は、そのまま迷路に繋がっています。前回と同じように、逃げ込めます』
「逃げ道まで考えてるんだ」
『はい。マスターの安全は、最優先事項ですので』
「もう一つ、決めておきたいことがあります」
私は水面の地図を見つめながら言った。
『何でしょう』
「鬼厳城さんを、どうやって北の通路まで誘い込むか」
『前回と同じように、窪地で戦闘を開始し、撤退を装って誘導するのが、最も確実です。……ただし、鬼厳城が正常な状態だと、追ってこない可能性があります。前回、追跡がなかったのは、意識が乱れていたにもかかわらず、窪地から出なかったためです』
「乱れてると、まっすぐ来るだけ。でも、窪地からは出ない」
『はい。……あの窪地が、彼にとっての何かなのかもしれません』
「縄張り、みたいな?」
『あるいは、彼が地獄に落ちてきた場所なのかもしれません』
私はしばらく考えた。
鬼厳城さんは窪地の真ん中で空を見上げて、自分を斬った人の名前を叫んでいた。
まるで、そこでずっと待っているみたいに。
「……追ってこさせる方法、ひとつだけ思いついた」
『教えてください』
「鬼厳城さん、私のことを、更木って人の連れと間違えたよね」
『はい』
「だから、私が逃げたら、更木さんの連れが逃げたって思う。……更木さんのところに、案内してくれるかもしれないって」
アイちゃんが黙った。
『……それは、意図的に、彼の意識を乱すということですか』
「うん」
胸がちくりと痛んだ。
あの人の一番痛いところを、わざと触るんだ。
「ずるいって、わかってる。……でも、私、帰らなきゃいけないから」
『…………』
アイちゃんはしばらく黙っていて、それから静かに言った。
『了解しました。作戦に組み込みます。……それと、マスター』
「なに?」
『マスターは、ずるくありません。必要なことを、選んでいるだけです』
「……ありがと」
目を覚ますと、椿さんがくぼみの入り口に座っていた。
珍しく起きていて、迷路の暗闇の方をじっと見ていた。
「……決まったか」
「はい」
「そうか」
椿さんはそれ以上は聞かなかった。
代わりに、ぼそりと言った。
「ひとつだけ、言っとく」
「はい」
「頭で考えた作戦は、だいたい、途中で崩れる。……崩れたら、腹で動け」
「腹で」
「お前は、もう、刀の握り方を知ってる。瞬歩の止まり方を知ってる。始解の撃ち方を知ってる。……それは、全部、頭じゃなくて、腹に入ってる」
椿さんは自分のお腹をとんと叩いた。
「迷ったら、そこに聞け」
「……はい!」
遠くで、またあの声が響いた。
更木、更木、更木。
私は立ち上がった。
霊力は満ちていて、肩の痺れももうない。
「行ってきます」
「おう」
椿さんはいつものように、だるそうに手を振った。
窪地にもう一度降り立った。
鬼厳城さんは前と同じ場所にいた、赤い川の渦の真ん中で空を見上げて。
でも私が降り立った瞬間、叫び声がぴたりと止んで、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……また来たか、ちっこいの」
今日は最初から正気の目をしていた。
「この前は、尻尾巻いて逃げやがったな」
「今日は、逃げません」
嘘だった、作戦では逃げるふりをするんだから。
でも鬼厳城さんはそれを聞いて、口の端を吊り上げた。
「いい度胸だ」
分厚い刀を、肩から下ろす。
『右肩を見てください』
アイちゃんの声。
鬼厳城さんの右肩がほんの少しだけ沈んだ。
――来る。
瞬歩、私は左へ跳んだ瞬間に鬼厳城さんの巨体がさっきまで私がいた場所に現れて、刀が空を切った。
「……ほう」
鬼厳城さんが眉を上げた。
「読んだか」
また右肩が沈む、また跳ぶ、また空を切る。
三回、四回、全部避けられた。
前回は一回避けるのが精一杯だったのに。
(アイちゃん、すごい!)
『観測は、得意ですので』
でも五回目、右肩が沈まなかった。
「――読まれてんのは、わかってんだよ」
刀が真横から来た。
『マスター!』
瞬歩は間に合わない。
とっさに弦月で受けて、体ごと吹き飛ばされる。
でも前回みたいに壁に叩きつけられはしなかった。
空中で体を捻って足から着地する、瞬歩の止まり方を体が覚えていた。
「っ……!」
腕が痺れる、でも刀は離さない。
「癖ってのはな、気づかれたら直すもんだ」
鬼厳城さんが刀を担ぎ直した。
「伊達に、剣八を名乗ってたわけじゃねえ」
作戦の一つ目が崩れた。
右肩の癖は、もう当てにならない。
(アイちゃん、北の通路に――)
『了解。撤退を装います』
瞬歩で窪地の北側へ全力で。
でも北の通路の入り口に着く前に、目の前に巨体が現れた。
鬼厳城さんが通路の入り口を塞いでいた。
「この前も、ここから逃げたな」
「…………」
「同じ手が、二度通じると思うなよ」
作戦の二つ目も崩れた。
鬼厳城さんは正気だった。
まだ一度も「更木」と叫んでいないし、私を更木さんの連れだと思っていない、ちゃんと私を見ている。
逃げ道を読まれている。
『マスター……!』
アイちゃんの声に焦りが混じった。
頭が真っ白になりかけた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
――崩れたら、腹で動け。
椿さんの声が聞こえた気がした。
鬼厳城さんの刀が振り上げられる。
私は頭で考えるのをやめた。
お腹の下に重心を落として、足に霊力を半分だけ溜める。
前に踏み出した、後ろでも横でもなく、鬼厳城さんの方へ。
「なっ――」
瞬歩。
振り下ろされる刀の内側へ、鬼厳城さんの巨体の足と足の間へ。
私の体はちっこかった、鬼厳城さんの股下を頭を下げただけですり抜けられるくらいに。
刀が、私の頭の上で空を切った。
通り抜けた先は北の通路だった。
「……てめえ」
背後で鬼厳城さんの声がした。
低くて震えている声だった。
振り返ると、鬼厳城さんがゆっくりとこちらへ向き直っていた。
その目から、正気の光がすうっと消えていくのが見えた。
「ちっこい……ガキが……」
ぶつぶつと呟いている。
「あの時も……足元を……ちょろちょろと……あいつの、肩から、降りて……」
その記憶が何なのか私にはわからない。
でも私が、あの人の一番痛いところを踏んでしまったことだけはわかった。
「更木ぃぃぃぃっっ!!!」
霊圧が爆発した。
鬼厳城さんが北の通路に突っ込んできた。
瞬歩じゃない、ただまっすぐに走ってくる、一歩ごとに地面が砕ける。
刀が横に振られた。
――がつん、と。
刃が通路の壁に食い込んだ。
幅は大人二人分、鬼厳城さんの刀は長すぎた。
「――――っ!」
鬼厳城さんが刀を引き抜こうとする。
壁の岩が砕けて、ばらばらと崩れ落ちる。
一秒、二秒。
『マスター、今です!』
人差し指を鬼厳城さんに向けた。
(アイちゃん、お願い!)
『――詠唱を、開始します』
アイちゃんの声が変わった。
いつもの平坦な、事実だけを告げる声じゃなかった。
低くて静かで、古い言葉を紡ぐ声。
椿さんが白雷を唱えた時と同じ、意味が半分もわからない、でも一つ一つの音に重みのある言葉。
アイちゃんの声が、私の頭の中に響く。
その言葉が一つ紡がれるたびに、胸の奥が熱くなっていく。
――わかった。
これは、アイちゃんの言葉じゃない。
アイちゃんが唱えているのに、その言葉は私の胸の奥から湧き上がってきていた。
私の霊力がアイちゃんの言葉に絡みついて、編み込まれて、指先へと流れていく。
糸を紡ぐみたいに。
ひとつの魂から、ひとつの術が生まれていく。
鬼厳城さんが壁から刀を引き抜いた、振り上げる。
『――詠唱、完了』
私は叫んだ。
「縛道の六十一――『六杖光牢』!」
指先から光が放たれた。
六本の細長い光の帯が、鬼厳城さんの胴を四方八方から貫いた。
刃のような光が巨体に突き刺さって、そのまま空中に縫い止める。
振り上げられた刀が止まって、鬼厳城さんの体がぴたりと動かなくなった。
「が……っ、あ……!」
「…………」
通路の上、黒い岩壁の縁に、いつの間にか椿さんが立っていた。
腕を組んで、私と光に縛られた鬼厳城さんを見下ろしている。
その灰色の目が見開かれていた。
「……中の奴が、唱えてやがるのか」
小さな声だった、でも私にはちゃんと聞こえた。
「そんなやり方……千年やそこら生きてて、いや、死んでて、見たことがねえ」
『縛道、発動を確認。……持続時間は、長くありません』
アイちゃんの声が、すぐにいつもの調子に戻った。
『鬼厳城の霊圧が、光の帯を内側から押し返しています。推定、十秒前後で破られます』
十秒。
弓の形成に、八秒。
「――射抜け、『弦月』!」
叫んだ。
手の中の刀身がほどけて、銀色の光が細く長くまっすぐに伸びて、一本の矢になる。
三日月みたいに、ゆるく弧を描いた鏃。
『弓の形成を開始します』
左手に霊子が集まり始めた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、二層の薄い薄い霊子をアイちゃんが一粒ずつかき集めていく。
一秒。
「ぐ……おおおおっ……!」
鬼厳城さんが唸った。
六本の光の帯がぎしぎしと軋んで、巨体が少しずつ縛めの中で動き始める。
二秒。
左手の光が、細い弧を描き始めた。
三秒。
光の帯の一本に、ぴしりとひびが入った。
「更木……更木……っ!」
四秒。
弓の両端が形になる、でもまだ弦がない。
五秒。
二本目の光の帯にひびが走る。
『マスター、霊力を、弓に回してください。縛道の維持は、私が引き受けます』
(アイちゃん、そんなこともできるの!?)
『わかりません。初めてです』
(――いいよ、お願い!)
胸の奥のあたたかい光を、左手に流し込む。
縛道に注いでいた霊力がふっと軽くなって、代わりにアイちゃんがそこを支えてくれているのがわかった。
六秒。
弦が張られた。
細くて途切れ途切れで、今にも消えそうな不格好な光の弓。
一層で初めて始解した時と同じだった。
でもあの時より、ほんの少しだけ太かった。
七秒。
三本目の光の帯が砕けた。
鬼厳城さんの右腕が、刀を握った右腕が自由になる。
「があああああっ!」
八秒。
私は銀色の矢を、弦につがえた。
引く。
矢の先に霊力が集まっていく。
胸の奥のあの小さな光、精神世界で三日月の人から受け取った小さな火。
それが全部、矢の先へと流れ込んでいく。
鬼厳城さんが、残りの光の帯を力任せに引きちぎった。
自由になった巨体が刀を振り上げる。
血走った目が私を見ていた。
――いや、私の後ろにいる誰かを見ていた。
もうここにはいない、誰かを。
「更木ぃぃぃぃっっ!!」
刀が振り下ろされる。
私は、指を放した。
「――――っ!」
矢の先から光が撃ち出された。
三日月の形をした大きな光、白くて青くて、それからほんの少しだけ橙色が混じっていた。
振り下ろされる刀と三日月の光が、正面からぶつかった。
音が消えた。
一瞬、何も見えなくなった。
そして――。
鬼厳城さんの刀が砕けていた。
分厚い鉈みたいな刃が、真ん中から粉々に。
破片がきらきらと宙を舞って、赤い岩の上にぱらぱらと落ちていく。
三日月の光は刀を砕いて、そのまま鬼厳城さんの胸に届いていた。
肩から脇腹へ、斜めに走った古い傷の上をなぞるように。
巨体がゆっくりと傾いて、膝が地面につく。
砕けた刀の柄を握ったまま、鬼厳城さんは通路の真ん中に崩れ落ちた。
「…………」
通路が静かになった。
遠くの窪地で、赤い川の渦がごぼごぼと低い音を立てているだけだった。
左手の弓がふっと消えて、手の中に元の刀が戻ってくる。
膝ががくがくと震えていた。
「……勝った、の?」
『はい』
アイちゃんの声がすぐそばで聞こえた。
『鬼厳城の霊圧、急激に低下しています。戦闘継続は、不可能と判断します』
「……アイちゃん」
『はい』
「できたね。二人で」
少しの間。
『……はい。できました、マスター』
アイちゃんの声はいつもと同じ平坦な声だった。
でもその「できました」は、今までで一番嬉しそうに聞こえた。
鬼厳城さんは通路の真ん中に、仰向けに倒れていた。
胸の傷から、黒い霧みたいなものが細く立ち上っている。
血じゃない、霊力だ。
体の中に残っていた霊力が、少しずつ少しずつ抜けていく。
私はおそるおそる近づいた。
鬼厳城さんの目は開いていて、天井の見えない赤く濁った暗闇を見上げていた。
でもその目は、さっきまでの血走った目じゃなかった。
濁りが取れて静かで、まるで長い夢から覚めた人みたいな目だった。
「……ちっこいの」
掠れた声がした。
「は、はい」
「てめえ……名前は」
「黒崎……黒崎、遊子です」
「くろさき」
鬼厳城さんはその名前を、口の中で転がすように繰り返した。
「……知らねえ名だ」
「はい。知らないと、思います」
「更木の、連れじゃねえのか」
「違います。更木って人のこと、全然知りません」
「……そうか」
鬼厳城さんはふっと息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「あいつはな」
しばらくして、鬼厳城さんがぽつりと言った。
「名前を、持ってなかった」
「……え?」
「流魂街の、一番奥の、一番荒れたところから、ふらっと出てきやがった。名前も、何も持ってねえ。持ってたのは、刀一本と、肩に乗っけた、ちっこいガキだけだった」
鬼厳城さんの声は静かだった、叫んでいた時とはまるで別の人みたいに。
「それが、いきなり、十一番隊の隊舎に来やがって。……剣八と、斬り合いに来たってな」
「…………」
「俺は、剣八だった。何人も斬って、その名前を手に入れた。……その名前が、俺の全部だった」
砕けた刀の柄を、鬼厳城さんの指がぎゅっと握りしめた。
「なのに、あいつは」
声が少しだけ震えた。
「あいつは、剣八の名前なんか、欲しがってなかった。俺を斬った後で、名乗るもんがねえから、ついでに名乗るか、みてえな顔をしやがった」
「…………」
「俺が、全部を懸けてしがみついてたもんを。……あいつは、拾った石ころみてえに、拾っていきやがった」
だから叫んでいたんだ、更木、更木、更木って。
奪われた名前を取り返したかったんじゃない。
自分が全部を懸けたものを、あっさり拾っていった人に、もう一度ちゃんと向き合ってほしかったんだ。
「……悔しかったんですね」
言ってしまってから、しまったと思った。
でも鬼厳城さんは怒らなかった。
「……ああ」
小さく頷いた。
「悔しかった」
鬼厳城さんの胸から立ち上る霧が、少しずつ細くなっていった。
『マスター。鬼厳城の霊力が、限界に近づいています』
アイちゃんが静かに告げた。
『この状態が続けば、まもなく――』
(……抜け殻に、なるの?)
『……はい』
胸がぎゅっと痛くなった。
私がやったんだ。
勝たなきゃいけなかった、三層に行くために、帰るために。
でも勝った結果、この人は自分が誰だったかも忘れてしまう。
「……ごめんなさい」
気づいたらそう言っていた。
鬼厳城さんの目が、ゆっくりと私の方を向いた。
「……何を謝ってやがる」
「だって、私が……」
「勝った奴が、謝るな」
鬼厳城さんはぶっきらぼうに言った。
「てめえは、勝った。俺は、負けた。……それだけだ。斬り合いってのは、そういうもんだ」
「でも――」
「それに」
鬼厳城さんの口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「久しぶりに、まともな斬り合いだった」
「…………」
「最後の一発。……あれは、いい矢だった」
血走っていない静かな目が私を見ていた。
もう私の後ろの誰かじゃなく、ちゃんと私を。
「ちっこいくせに、強えな。……黒崎、遊子」
名前を呼ばれた、剣八だった人に。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
鬼厳城さんはもう一度ふっと息を吐いて、それから天井の見えない暗闇を見上げた。
「……更木の野郎に、会うことがあったら」
かすれた声が、最後に言った。
「次は、俺が勝つって、伝えとけ」
胸から立ち上っていた霧が、ふっと途切れた。
鬼厳城さんの目から光がすうっと消えていった、開いたまま、何も見ないまま。
砕けた刀の柄を握った指から、力が抜けていく。
通路がしんと静まり返った。
もうどこからも、あの叫び声は聞こえなかった。
「…………」
私はその場にぺたんと座り込んだ。
涙がぽろぽろとこぼれた。
勝ったのに、嬉しいはずなのに、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
「……やれやれ」
頭の上から声が降ってきた。
椿さんが通路の壁の上からひらりと飛び降りてきて、私の隣に立って、動かなくなった鬼厳城さんを見下ろす。
「最後は、叫ばなかったな」
「……え?」
「更木の名前を、叫ばなかった。……お前の名前を、呼んで、終わった」
椿さんはしゃがみ込んで、鬼厳城さんの開いたままの目を、そっと手のひらで閉じた。
抜け殻の人たちは、みんな目を開けたままだった。
でも鬼厳城さんだけは、眠っているみたいに目を閉じていた。
「しがみついてたもんを、最後に手放せたんだ」
椿さんの声は、いつもよりほんの少しだけ優しかった。
「悪い終わり方じゃねえよ」
椿さんは眠っている鬼厳城さんの顔を、しばらく見下ろしていた。
「……日が浅えっつっても、外の時間の話だ」
「え?」
「ここの時間は、外よりずっと速え。外で数日、数年でも、ここじゃ、何百年にもなる。……こいつは、それだけの間、ずっと、ああやって叫んでたはずだ」
「何百年も……」
「霊力を吸われ続けて、普通なら、とっくに抜け殻になってる。それを、自分を斬った奴の名前ひとつで、ここまで持たせやがった」
椿さんはふっと息を吐いた。
「……やべえ奴だよ、こいつは。大したもんだ」
その声には呆れと、それからほんの少しの敬意が混じっていた。
椿さんはしばらく鬼厳城さんの隣にしゃがみ込んでいて、それからゆっくりと立ち上がった。
迷路のさらに奥の方を見た。
赤く濁った暗闇の向こう、窪地を抜けて北の通路を抜けた、そのさらに先。
「……最奥は、もうすぐだ」
ぼそりと呟いた。
その横顔が、なぜかすごく遠くに見えた。
「椿さん?」
「なんでもねえ」
椿さんは私の頭にぽんと手を置いた。
大きくて、少しだけ冷たい手だった。
「よくやった」
それだけ言って、椿さんは迷路の奥へ歩き出した。
ぼろぼろの白い羽織の背中が、赤い暗闇の中に少しずつ遠ざかっていく。
私は涙を袖で拭って、その背中を追いかけた。
振り返ると、通路の真ん中で鬼厳城さんが静かに眠っていた。