ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
迷路の終わりは唐突だった。
黒い岩壁の角を曲がった瞬間、両側の壁がすとんと消えた。
目の前にとてつもなく広い空間が広がっていた。
天井はやっぱり見えないし、壁も見えなかった。
右も左も赤く濁った暗闇がどこまでも続いている。
足元の黒い岩だけがずっと先まで平らに伸びていた。
そして、その真ん中に滝があった。
迷路のあちこちから流れてきた赤い川が、全部ここに集まっていた。
何十本、何百本もの細い流れが黒い岩の上を這うように進んで、空間の真ん中にぽっかりと開いた、大きな穴へと落ちていく。
音はほとんどしなかった。
どろりとした赤い流れが穴の縁から、静かに静かに暗闇の底へと吸い込まれていく。
「……あの下が」
「三層だ」
椿さんが、私の隣で言った。
「閻魔のところへ続く唯一の道だ。穴の縁に階段がある。……地獄が吸い上げた霊力と一緒に下りていく」
穴の縁を見ると、確かに黒い岩を削ったような細い階段が渦を巻くように底へと続いていた。
『穴の底から霊子の反応があります』
アイちゃんの声に、少しだけ驚きが混じっていた。
『濃度がとても高いです。一層や二層とは比較になりません。……現世に近い濃度か、それ以上です』
(三層には霊子があるの?)
『そのようです。地獄中から吸い上げた霊力が三層に集まり、そこで霊子に戻っているのだと推測します』
霊子がある。
それはつまり、三層なら滅却師の力が使えるかもしれないってことだ。
穴の手前に、ひとつだけ岩があった。
椅子みたいな形をした黒い岩、まるで誰かが何百年もそこに座り続けたみたいに座面のところだけ、すり減ってつるりと滑らかになっていた。
その岩の周りに、ぽつりぽつりと椿が咲いていた。
赤い椿。一層の洞みたいに一面じゃない。
数えられるくらいのほんの少しだけ。
「……ここ、椿さんの」
「持ち場だ」
椿さんは静かに岩の前で足を止めた。
座らない、ただすり減った座面をじっと見下ろしていた。
「数えきれねえくらい長えこと、ここで三層への道を見張ってきた。……まあ、ほとんど寝てたがな」
「でも、椿さん、一層の洞で寝てましたよね?」
「ああ」
椿さんは、ぼりぼりと頭を掻いた。
「番人ってのはな、持ち場に縛られてる。だがずっと縛られてるわけじゃねえ。……誰かがこの道を通ろうとした時だけだ」
「通ろうとした時……」
「その時だけ、地獄が俺を引き戻す。体が勝手にここに来て、勝手に刀を抜く。通ろうとした奴を、止めるためにな」
椿さんの声は、いつも通りだるそうだった。
でも、私はその言葉の意味をゆっくりと理解していった。
誰かがこの道を通ろうとした時。
通ろうとしているのは、つまり私だ。
「……椿さんは」
声が、震えた。
「私と、戦わなきゃいけないんですか」
椿さんは、すぐには答えなかった。
赤い滝が静かに穴の底へと落ちていく音だけが、聞こえていた。
「……前に、言ったろ」
やがて、椿さんは言った。
「どのみち俺の持ち場は二層の奥だ。帰るついでだ、ってな」
「…………」
「最初からこうなることはわかってた」
「なんで!!」
気づいたら、叫んでいた。
「なんで最初に言ってくれなかったんですか! わかってたなら、なんで私に刀の握り方なんか教えて瞬歩とか、鬼道とか、全部、全部――」
「お前が帰りてえって言ったからだ」
椿さんは、静かに言った。
「帰るにはここを通るしかねえ。ここを通るには俺を越えるしかねえ。……俺を越えられねえ奴に閻魔は越えられねえ」
「でも……!」
「それに」
椿さんは、少しだけ目を逸らした。
「お前が一層で番人に追われてた時。……俺が、あそこで寝てなけりゃ、お前は潰されてた」
「…………」
「たまたま、俺の寝床に落ちてきた。たまたま、俺が起きた。……たまたまが重なっただけだ。だから俺はたまたま拾ったもんを最後まで面倒見ることにした。それだけだ」
たまたま。
そんなはずない、と思った。
最初に私の顔を見た時、椿さんは誰かの名前を言いかけた。
それはたまたまなんかではなかった気がした。
「……今日は、まだ引き戻されてねえ」
椿さんは、すり減った岩に、どっかりと腰を下ろした。
「お前が、穴の縁に足をかけた時に、始まる。……だから、今日は休め。明日だ」
「明日……」
「霊力を満タンにしとけ。中途半端なまま来たら、怒るぞ」
そう言って、椿さんは目を閉じた。
三秒経っても、寝息は聞こえなかった。
その「夜」、私は椿さんの持ち場の岩の、すぐ横に座っていた。
穴の縁には、近づかなかった。
足をかけたら始まってしまうから。
椿さんは、すり減った岩に座ったまま目を閉じていた。
でも眠っていないのはわかった。
寝息がずっと聞こえなかったから。
赤い滝が静かに、穴の底へと落ちていく。
「……椿さん」
「寝ろって言ったろ」
「椿さんも、寝てないじゃないですか」
「……やれやれ」
椿さんが、片目を開けた。
私は膝を抱えて椿さんの方を見上げた。
「小雪さんのこと、聞いてもいいですか」
椿さんの片目が、少しだけ、見開かれた。
「……寝言で聞いて、昔話で聞いて。でも、ちゃんとは聞いてないから」
「…………」
「明日、もしかしたら、聞けなくなるかもしれないから」
言ってから、胸がぎゅっと痛くなった。
椿さんはしばらく黙っていた。
それから、もう片方の目も開けて赤く濁った暗闇を見上げた。
「……嫁だ」
短い言葉だった。
「俺の、嫁だった」
「死神じゃなかった」
椿さんは、ゆっくりと話し始めた。
「流魂街の、南の外れの小さな村に住んでた。霊力もろくにねえ、普通の魂だ。……村の端っこで薬草を育てて怪我した奴や病気の奴に煎じて配ってた」
「お医者さん、みたいな?」
「医者なんて立派なもんじゃねえ。見よう見まねだ。……だが、腕は、悪くなかった」
椿さんの口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「虚にやられた村の連中を治しに、四番隊が行ったことがあってな。その時に、俺が出向いた。……行ってみたら、もうあいつが半分くらい治しちまってた」
「すごい……」
「四番隊の隊長が来たってのに、あいつ、なんて言ったと思う」
「なんて言ったんですか?」
「遅いです、って」
思わず、吹き出した。
椿さんも、喉の奥で、くっくっと笑った。
「怪我人の前で、隊長を叱りつけやがった。……それが、最初だ」
過去を懐かしむように、噛み締めるように話す声。
「小雪さん、どんな人だったんですか」
「頑固だった」
即答だった。
「一度決めたら、絶対に引かねえ。俺が何を言っても聞きやしねえ。治すって決めた奴はどんなに手遅れでも最後まで治そうとする。……自分が倒れるまでな」
「…………」
「静かな奴だった。怒鳴ったりはしねえ。笑う時も、声を出さねえで、目だけで笑う。……でも、頑固だった」
椿さんは、自分の膝の上の、落椿の鞘を撫でた。
「村の外れに、丘があった。流魂街の、いちばん南の端っこだ。そこに白い椿が一本だけ咲いててな。……あいつは、その椿が好きだった」
「白い、椿」
「雪の中で咲く椿だ。雪椿ってやつだ。……小雪って名前も、そこから取ったんだって笑ってた。目だけでな」
白い椿。
赤い椿ばかりの地獄の中で椿さんが、気の遠くなるほど長い間、ずっと思い出していた花。
「……小雪さんは」
聞いていいのか、迷った。
でも、椿さんは私が聞く前に答えてくれた。
「先に逝った」
静かな声だった。
「流行り病だ。村で、たちの悪い病が広がってな。あいつは最後まで村の連中を治してた。……自分が罹ってることに気づいても、休まなかった」
「…………」
「俺は、四番隊の隊長だった。治すのが仕事だった。……なのに、あいつだけは治せなかった」
赤い滝の音が、少しだけ、大きく聞こえた。
「丘の上に埋めた。白い椿の根元にな。……それから、そう経たねえうちに俺も死んだ」
椿さんが、どうやって死んだのかは聞かなかった。
聞かなくても、いい気がした。
「……お前は、顔が似てる」
しばらくして、椿さんがぽつりと言った。
「最初に見た時、あいつが来たのかと思った。……地獄に、迎えに来たのかってな」
「…………」
「だが違った。笑い方が、全然違う。お前は、声を出して笑う。顔中で笑う。……うるせえくらいにな」
「うるさいって」
「褒めてんだよ」
椿さんは私の方を見た。
灰色の目が、まっすぐに私の顔を見ていた。
私の顔を通して、誰かを見ているんじゃなかった。
ちゃんと私を見ていた。
「顔は、似てる。……頑固なところも、似てる」
「頑固……ですか?」
「帰るって決めたら、絶対に引かねえ。俺が無理だって言っても聞きやしねえ。……そっくりだ」
だから言ったんだ。
似てんのは、顔だけにしとけよな、って。
「……でも」
椿さんの声が、少しだけ、柔らかくなった。
「あいつは、最後まで頑固で、それで、倒れた」
「…………」
「お前は、倒れるな」
短い言葉だった。
でも、その言葉は、今まで椿さんに言われたどんな言葉よりも、重かった。
「頑固なままでいい。……だが、倒れるな。帰るって決めたなら、ちゃんと帰れ」
「……はい」
声が、震えた。
涙が出そうだった。でも、出さなかった。
明日、椿さんの前で、泣かないために。
「……寝ろ」
椿さんが、また目を閉じた。
「明日は、手加減しねえぞ」
今度は、三秒で、寝息が聞こえた。
たぶん、嘘の寝息だった。
眠りに落ちると精神世界だった。
白い空、凪いだ水面。
三日月は、もう空のずっと高いところにあった。
半月に近いくらい、ふっくらとして。
銀色の光が水面いっぱいに広がっている。
「アイちゃん」
返事がなかった。
「……アイちゃん?」
『はい。……ここにいます』
少し遅れて、声がした。
いつもの平坦な声、でも何かが違った。
「どうしたの?」
『…………』
アイちゃんが、黙った。
アイちゃんが黙るのは、何かを言うかどうか、迷っている時だ。
でも、今日の沈黙は、今までで一番、長かった。
『マスター』
やがて、アイちゃんが言った。
『明日の戦いの前に、お伝えしなければならないことがあります』
「……なに?」
『私は、マスターに嘘をつきました』
水面が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「……嘘?」
『はい』
「アイちゃんが?」
『はい』
信じられなかった。
アイちゃんは、いつも事実だけを言う。
わからないことはわからないって言う。
言いにくいこともちゃんと言う。
私が傷つくようなことでも、聞かれたら答える。
そのアイちゃんが、嘘。
「……いつ?」
『雨の夜です』
雨の夜。
一兄が、白い羽織の人に斬られた夜。ルキアさんが連れていかれた夜。私が、屋根の上で、何もできずに膝をついていた夜。
『あの夜、マスターは、完聖体を使えば勝てるかと聞きました。私は、白い羽織の死神に対する勝率は、三パーセント未満だと答えました』
「……うん。覚えてる」
三パーセント。
あの数字が、雨より冷たく、胸に刺さったのを覚えている。
『あれは、嘘でした』
アイちゃんの声は、平坦だった。
でも、その平坦さが、なんだか、無理をしているように聞こえた。
『実際の推定は、四割前後でした。白い羽織の死神は、あの夜、刀の本当の力を、ほとんど使っていませんでした。完聖体のマスターであれば、互角に近い戦いができた可能性があります』
「…………」
『私は、その数字を、知っていました。知っていて、三パーセントと、言いました』
何も、言えなかった。
四割。
勝てたかもしれない。一兄を、助けられたかもしれない。ルキアさんを、連れていかせずに済んだかもしれない。
それを、アイちゃんは、知っていた。
「……なんで」
声が、震えた。
「なんで、そんな嘘、ついたの」
『マスターを、止めるためです』
アイちゃんは、すぐに答えた。
『四割は勝てる数字ではありません。六割で、マスターは死ぬか、尸魂界に存在を知られます。どちらになってもマスターの願いは、壊れます』
「でも――」
『私の第一の使命は、マスターの願いを叶えることです。……あの夜、私はその使命を守るために、マスターから選択肢を奪いました』
アイちゃんの声が、ほんの少しだけ、揺れた。
『本当の数字を伝えれば、マスターは、迷わず飛び出していたはずです。四割でも、一割でも。……マスターは、そういう人ですから』
図星だった。
四割って聞いていたら私は、飛び出していたと思う。
絶対に。
『だから、私は、嘘をつきました。生まれて初めて』
水面に、私の顔が映っていた。
怒っている顔なのか、泣きそうな顔なのか、自分でもわからなかった。
「……なんで、今、言うの」
絞り出すように、聞いた。
「黙ってれば、私、ずっと気づかなかったのに」
『明日の戦いのためです』
アイちゃんは、静かに言った。
『マスターは、あの夜から、自分は弱いと思っています。白い羽織の死神には、三パーセントしか勝てない。椿宗玄と同じ桁の相手には、手も足も出ない。……そう、思い込んでいます』
「…………」
『その思い込みを作ったのは、私です』
アイちゃんの声が、少しだけ強くなった。
『明日、マスターは椿宗玄と戦います。白い羽織の死神と、同じ桁の霊圧を持つ相手です。……自分は弱いと思い込んだまま戦えば、勝てる戦いも、勝てません』
「…………」
『マスターは、弱くありません。あの夜の時点で、隊長と呼ばれる死神と、互角に近い戦いができる可能性がありました。そして今のマスターは、あの夜よりずっと強くなっています』
瞬歩。鬼道。始解。鬼厳城さんとの戦い。
全部、地獄に来てから、手に入れたもの。
『マスターに、自分の本当の力を、知っていてほしかったのです。……私がついた嘘の、責任を取るために』
しばらく、何も言えなかった。
銀色の三日月が、静かに水面を照らしていた。
怒ってもいいはずだった。
あの夜、一兄を助けられたかもしれないのに、って。
でも。
あの夜、もし飛び出していたら。
四割で勝てたとしても、六割で私は、ここにいなかった。
椿さんにも会えなかった。
鬼厳城さんの最後の言葉も聞けなかった。
そして、勝てたとしても、尸魂界に知られて、夏梨も、お父さんも、危ない目にあっていたかもしれない。
アイちゃんは、それを全部、わかっていて。
わかっていて、一人で、嘘を抱えていたんだ。
「……アイちゃん」
『はい』
「嘘、つくの、つらかった?」
少しの間。
『……わかりません』
アイちゃんは、正直に言った。
『ですが、あの夜から、ずっと、演算の一部が、そのことに占有されていました。処理を終わらせようとしても、終わりませんでした』
それは、たぶん、人間の言葉で言うと。
「……ずっと、気にしてたんだね」
『……そうかもしれません』
私は、水面の上に、ぺたんと座り込んだ。
それから、空に向かって、言った。
「怒ってないよ」
『…………』
「ちょっとだけ怒ってる。でもそれより、ありがとうの方がとっても大きい」
『マスター』
「あの夜、私を止めてくれてありがとう。今日教えてくれて、ありがとう」
水面に映った自分の顔が、ちょっとだけ、笑っていた。
「でも、約束して。もう、嘘はつかないで」
少しの沈黙。
『……努力します』
「努力じゃなくて!」
『……マスターの命に関わる場合は、保証できません』
「もう……」
思わず、笑ってしまった。
アイちゃんらしい答えだった。
「じゃあ、それでいいよ。そのかわり嘘をついたら、ちゃんと、あとで教えてね」
『はい。……約束します』
その「約束します」は、今まで聞いた中で、一番、あったかかった。
「アイちゃん」
『はい』
「明日、勝てると思う?」
アイちゃんは、少しだけ考えて、答えた。
『わかりません。椿宗玄の本当の力は、まだ観測できていません』
「……そっか」
『ですが』
アイちゃんの声が、少しだけ柔らかくなった。
『今度は、嘘の数字は、言いません』
空の三日月が、ほんの少しだけ、強く光った。
目を覚ますと、椿さんは、もう起きていた。
すり減った岩に座ったまま、膝の上に落椿を横たえて、赤い滝を見ていた。
「……起きたか」
「はい」
「霊力は」
「満タンです」
「そうか」
椿さんは、それ以上、何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
言いたいことは、たくさんあった。昨日の小雪さんの話の続きも、聞きたかった。アイちゃんの嘘のことも、話したかった。戦いたくないって、もう一度、言いたかった。
でも、全部飲み込んだ。
今それを言ったら、たぶんもう1人で立てなくなる。
私は、立ち上がった。
腰の弦月を確かめる。
黒い鞘、月みたいなまるい鍔。
死覇装の袖をぎゅっと握る。
鬼厳城さんに裂かれた左の袖は、椿さんが寝ている間に椿の花びらで繕ってくれていた。
赤い花びらが黒い布に縫い込まれて、そこだけほんの少しだけあたたかい。
穴の方へ、歩き出す。
一歩。二歩。
背中に、椿さんの視線を感じた。
三歩。四歩。
赤い滝の縁が近づいてくる。
どろりとした流れが、静かに、静かに、暗闇の底へと落ちていく。
『マスター』
アイちゃんの声。
『準備は、できています』
(……うん)
五歩。
私は、穴の縁の、黒い階段の、最初の一段に、足をかけた。
空気が、変わった。
背中の方から、何かが、ずん、と重く響いた。
振り返る。
椿さんの足元が、赤く光っていた。
黒い岩の割れ目から、細い糸みたいなものが、何本も、何本も、這い出してきていた。赤い川と同じ色の、どろりとした糸。それが、椿さんの足首に、膝に、腰に、絡みついていく。
「……やれやれ」
椿さんが、呟いた。
「始まりやがった」
糸が、椿さんの体を、ゆっくりと引き上げた。
椿さんは、抵抗しなかった。糸に引かれるまま、すり減った岩から立ち上がる。膝の上の落椿が、ひとりでに、椿さんの手の中へと収まっていく。
灰色の目が、一瞬だけ、赤く光った。
あれは、椿さんの意思じゃない。地獄の意思だ。
持ち場を通ろうとする者を、止めろ。
『椿宗玄の霊圧が、上昇しています』
アイちゃんの声が、張り詰めた。
『……これまで観測した中で、最大です』
椿さんが、鞘からゆっくりと刀を抜いた。
今までみたいに、鞘を半分ずらすだけじゃなかった。
全部、抜いた。
初めて見る落椿の刀身だった。
細くて、長くて少しだけ反っている。
刃の根元に、小さな椿の花の模様が彫り込まれていた。
「――咲け、『落椿』」
刀身から、椿が咲いた。
赤い花が、ひとつ、ふたつ、数えきれないくらい。
椿さんの周りを、ふわりふわりと舞い始める。
綺麗だった。
怖いくらいに、綺麗だった。
「遊子」
椿さんが、言った。
心臓が、どきりと跳ねた。
名前を、呼ばれた。
気の遠くなるほど長い眠りから覚めて、私と出会ってから、ずっと、「お前」としか呼ばなかった椿さんが。
初めて、私の名前を。
「ここから先は、通せねえ」
灰色の目が、赤い光の向こうからまっすぐに私を見ていた。
地獄の意思に引きずられながら。それでも、ちゃんと、椿さんの目で。
「通りてえなら、俺を越えていけ」
赤い椿が、私と椿さんの間を、静かに舞っていた。
私は、弦月の柄に、手をかけた。
小指と薬指に、力を入れる。右足を半歩下げる。膝を曲げる。重心を、お腹の下に落とす。
椿さんに教わった、全部で。
「……はい」
声は、震えなかった。
椿さんの口の端が、ほんの少しだけ、上がった。
「来い」