ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI―   作:きりか

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焔天弦月

弦月の柄を握る手が震えていた。

寒いわけじゃない、二層の最奥は相変わらずむっとするくらい熱くて赤い滝の湿った空気が肌にまとわりついてくる。

 

それでも手が震えて止まらなかった。

目の前に椿さんが立っている。

だるそうに、落椿の切っ先を地面に向けていつもの眠たげな灰色の目で私を見ている。

その目が時々赤く光る。

足元から伸びた赤い糸が椿さんの体のあちこちに絡みついてぎしぎしと軋んでいた。

 

この人と戦うんだ、刀の握り方を教えてくれた人と。

瞬歩で転ぶたびに、やれやれって言いながら待っていてくれた人と。

怪我をするたびに椿の花をそっと乗せて治してくれた人と。

 

(アイちゃん)

『はい』

(大丈夫。……決めたから)

『はい。私も一緒です』

 

覚悟はすでに決めている。

椿さんが初めて私の名前を呼んで、来いって言ってくれた時に。

だからこの震えは迷いからではない、恐怖からでもない。

大好きな人に刃を向けるのはこんなにも手が重いんだって、それだけだ。

 

「来ねえのか」

 

椿さんが静かにそう言った。

 

「来ねえなら、こっちから行くぞ」

 

息を吸う、小指と薬指に力を入れて右足を半歩下げ、重心をお腹の下に落とす。

椿さんに教わった全部で・・・・彼を超える。

 

最初に動いたのは私だった。

足に霊力を半分溜めて地面を蹴り、解き放つ。

瞬歩を使い椿さんの右側へ回り込む、しかし。

 

――いない。

 

椿さんの姿が消えていた。

 

「遅え」

 

声が真後ろから聞こえた。

振り返るより先に背中に何かが当たった。

刀の峰でとん、と軽く本当に軽く椿さんは当てた。

それだけで私の体は前に吹き飛んだ。

 

「っ……!」

 

黒い岩の上を転り受け身を取って立ち上がる。

痛みに耐えながら顔を上げる、椿さんはさっきまで私がいた場所にだるそうに立っていた。

彼は落椿の切っ先を地面に向けたまま言葉を紡ぐ。

 

「何千回もやったんだろ。……お前の力はその程度か?」

 

顔がかっと熱くなった。

悔しかった。

数えきれない程も反復して、転んで、壁にぶつかって、それでも足に覚えさせた瞬歩。

椿さんが一回一回見ていてくれた瞬歩。

それがこんなに簡単に。

 

(違う、悔しがってる場合じゃない)

 

わかってる、いやわかってはいたのだ。

でも胸の奥がぐちゃぐちゃだった。

怖いのと悔しいのと、それから、椿さんの声がいつもと全然変わらないのがなんだか一番つらかった。

 

もう一度瞬歩で今度は正面から弦月を振り下ろす。

小指と薬指に力をさらにこめる。

椿さんは避けもせずに片手で持った落椿で私の刀を受け止めた。

受け止めた、というより刃の上にそっと置いたみたいだった。

私が両手で全力で振り下ろした刀が椿さんの片手の刀の上でぴたりと止まっている。

 

「腹で振れって、言ったろ」

 

椿さんが刀をくいっと捻った。

それだけで私の弦月は手から弾き飛ばされそうになった。

必死に握りしめて、後ろに跳ぶ。

 

『椿宗玄の剣速、反応速度、いずれも鬼厳城を大きく上回っています』

 

アイちゃんの声が硬かった。

 

『正面からの斬り合いは不可能です』

(わかってる……!)

 

わかってる、最初からわかってた。

椿さんに斬り合いで勝てるわけがない。

でも、わかっていても、心のどこかで期待していた。

瞬歩と鬼厳城さんに勝つ事が出来た始解があれば、ほんの少しくらいは届くんじゃないかって。

全然、まったくと言っていいほど今は届いていな。

 

(アイちゃん、鬼道!)

『詠唱を開始します』

 

アイちゃんの声が変わる。

古い言葉が私の頭の中に響いて、胸の奥から霊力が編み上げられていく。

人差し指を椿さんに向け放つ。

 

「破道の三十一――『赤火砲』!」

 

指先から炎の塊が撃ち出された。

赤くて大きな火の玉。

鬼道の修行の最後の方で、アイちゃんと一緒に何度も練習した術、あれから何度も声に出して練習し詠唱つきなら私でもちゃんと撃てるようになった。

 

火の玉が椿さんに向かってまっすぐ飛んでいく。

椿さんは落椿を軽く一振りした。

刀身から椿の花がこぼれて、赤い花が火の玉をふわりと包み込んだ。

そして火の玉は、花びらの中に吸い込まれるように消えた。

 

「…………」

『……鬼道の霊力を、吸収されました』

 

椿さんは、火の玉を吸い込んだ椿の花を指先でぴんと弾いた。

綺麗な赤い花が私の方へふわふわと飛んでくる。

避ける暇もなくそれは私の左腕にそっと止まって。

 

――ずくん、と。

 

腕から何かが抜けていく感覚がした。

 

『マスター! 霊力が吸われています!』

 

左腕の上で椿の花がどくん、どくんと脈打っている。

脈打つたびに腕から力が抜けていくのが分かる。

一層で番人の腕を枯らした時と同じだ。

 

「っ、う……!」

 

とっさに右手で花を払いのけた。

花は地面に落ちて、すうっと溶けて消える。

でも左腕は指先まで痺れたままだった。

脳裏に椿さんの言葉が響いた。

 

吸うのも治すのも、根っこは同じだって。

その花が今、私から霊力を吸っている。

椿さんが、私に向けてあの花を飛ばしている。

喉の奥が、ぎゅっと詰まった。

 

「始解は、まだか」

 

椿さんが言った。

 

「さっさと撃ってこい。……それとも、俺が待ってやらなきゃ、撃てねえか」

 

挑発だった。

しかし声はどこか硬いと感じた。

私にできる事はもうそれしかないとわかっていた。

だから力いっぱい声を張り上げる。

 

「射抜け、『弦月』!」

 

刀身がほどけて私の斬魄刀が銀色の矢になる。

 

『弓の形成を開始します。……マスター、二層の最奥は霊子の濃度がわずかに高いです。三層に近いためと推測します。形成時間、およそ五秒』

 

五秒、鬼厳城さんの時より三秒短い。

でも五秒あれば椿さんなら私を十回は斬れる。

しかし椿さんは動かなかった。

刀を下げたまま、私が弓を作るのをただ見ていた。

 

一秒、二秒、三秒、本当に待ってくれていた。

 

四秒、五秒。

弓ができた。

 

銀色の矢をつがえて、渾身の霊力を込めて引く。

胸の奥の小さな火を全部矢の先に流し込むように。

 

(届いて)

 

心の中で叫ぶ。

 

「――――っ!」

 

放った。

三日月の形をした光が撃ち出される。

白くて青くてほんの少しだけ橙色が混じった霊力の塊、鬼厳城さんの刀を砕いたあの光。

椿さんは落椿を両手で構え直していた、一歩も弦月の矢を避ける動作はしていない。

そして三日月の光を、真正面から受け止めた。

 

――ぎぃん、と甲高い音がして、光の矢が真っ二つに裂けた。

裂けた光が椿さんの両側を通り過ぎて後ろの暗闇の中へと消えていく。

椿さんは、やはりその場から一歩も下がっていなかった。

 

その光景を見た時膝が崩れそうになった。

私は全部出し切った。

瞬歩も、鬼道も、始解も、今の私にできる全部。

でも届かなかった。

 

悔しい気持ちはあると思う。

届かなかった事で膝を折ってしまったけれど、でも不思議と心は折れていなかった。

 

多分私が椿さんに届かないことなんて、最初からわかっていた。

 

・・・・わかっていて、それでも来いって言われて、私はここに立っているんだ。

椿さんが落椿を下ろした。

 

そして瞬きをする前に、椿さんは私の目の前にいた。

刀の切っ先が私の喉元にぴたりと突きつけられていた。

 

冷たい。

ほんの指一本分、それだけ押し込めば終わる。

息ができなかった。

それでも不思議と目は逸らさなかった。

ここで終われない、家に帰って一兄に言うまで、アイちゃんと二人で帰るまで。

椿さんの灰色の目が、赤い光の向こうから私を見下ろしている。

そして切っ先が私の喉を裂くことな、くすっと引かれた。

 

「……まだだ」

「…………え」

「まだ、終わりじゃねえ」

 

椿さんが後ろにゆっくりと下がった。

その時やっと認めたくなかったことを認めるしかなかった。

 

最初の背中への一撃、刀の峰で刃じゃなかった。

正面からの一撃、受け止めただけで斬り返してこなかった。

始解の弓を作る五秒、黙って待っていた。

今の喉元の切っ先も彼は押し込まなかった。

 

「……椿さん」

 

声が震えた。

 

「本気、出してないですよね」

 

椿さんは答えなかった。

でも、口の端がほんの少しだけ上がった。

 

「本気でやったら、お前、もう三回は死んでる」

 

 

「なら……なんで」

 

声が勝手に出ていた。

 

「なんで本気出さないんですか。地獄に引っ張られてるんですよね。私を止めなきゃいけないんですよね」

「止めてるだろ」

 

椿さんはだるそうに言った。

 

「お前はまだ、一歩も階段を下りてねえ」

「…………」

「地獄が俺に命じてんのは、通すなってことだけだ。殺せとは言われてねえ」

 

椿さんの足元で、赤い糸がぎしぎしと軋んでいた。

椿さんの体を前へ前へと引っ張ろうとしているように見える。

でも椿さんはそこから一歩も動かなかった。

地獄の意思に多分逆らっている。

 

胸の奥が熱くなった。

悔しいのか、悲しいのか、嬉しいのか、もうわからなかった。

手加減されている、それはつまり、私は椿さんにとってまだ守る側の子どもだってことだ。

でも手加減してくれるってことは椿さんが地獄に逆らってでも、私を傷つけたくないってことだ。

どっちも本当でどっちも苦しかった。

 

「だが」

 

灰色の目がすっと細くなった。

 

「このままずっと手加減してやれるほど、俺も暇じゃねえ」

 

椿さんが落椿を胸の前に立てた。

刀身がゆっくりと白く光り始めた。

 

「お前に見せてやる。……俺の、全部だ」

『マスター』

 

アイちゃんの声が張り詰めた。

 

『椿宗玄の霊圧が急激に変化しています。……これは』

 

椿さんが静かに言った。

 

「卍解」

 

雪が降る、この殺風景な地獄に。

赤く濁った暗闇のどこか高いところから、白いものがひらひらと舞い降りてくる、ひとつ、ふたつ、数えきれないくらい。

いや違う、これは雪じゃない、花びらだった。

白い椿の花びら。

 

「――『雪華落椿』」

 

椿さんの声と一緒に足元の黒い岩がひび割れた。

ひび割れから木が生えた。

細くてしなやかな幹、濃い緑の葉。

それが一本、二本、十本、百本と、黒い岩を突き破ってぐんぐん伸びていく。

私の周りに、椿さんの周りに、二層の最奥の見渡す限りに。

そしてその全ての枝に、白い椿が咲いた。

 

それは一瞬だった。

赤い地獄の真ん中に、白い椿の林が広がる。

白い花が雪みたいに静かに降り続けて、赤い滝の流れも黒い岩も、全部白い花びらの向こうに霞んでいく。

綺麗だった、泣きたくなるくらい綺麗だった。

白い椿、雪椿、小雪さんの好きだった花。

前の夜、椿さんが話してくれた。

流魂街の南の外れの小さな村、白い椿の丘の上で薬草を配っていた人、遅いですが口癖の人。

これは、椿さんがずっと抱えてきたものなのだと思う。

九百年分の小雪さんへの想いが、この林になってるんだ。

 

「この林の中じゃ、俺は倒れねえ」

 

白い花の向こうから椿さんの声がした。

姿が見えない、林のどこにいるのかわからない。

 

「斬られても、焼かれても、椿が咲く限り俺は治り続ける。……そして、林の中にいる俺以外の全部から霊力を吸い続ける」

 

その言葉と同時に体から力が抜け始めた。

降ってくる白い花びらが、私の肩に、腕に、髪に触れるたびにほんの少しずつ霊力が吸われていく。

 

『マスター、霊力が減少しています! この空間全体が、吸収の領域です!』

(逃げ場は……!?)

『林の範囲が、広すぎます。瞬歩で抜けるには、霊力が足りません』

 

膝ががくりと崩れた。

白い花びらが降ってくるたび私の霊力が吸われ続け止まらない

降ってくる花は静かに優しく、雪みたいに私を包む。

 

始解の弓はもう作れない、周囲の霊子まで椿さんが操っているのだと思う。

鬼道も撃てない、瞬歩の霊力も残っていない。

諦めるつもりはなかった。

椿さんに来いって言われて、ここに立った。

ここで倒れたら椿さんの覚悟まで無駄にしてしまう。

立たなきゃ、と思うのに体が言うことを聞かなかった。

 

(まだ、何か……何か、あるはず)

 

頭の中で手札をひとつずつ数える。

瞬歩、鬼道、始解、全部もう使い全部届かなかった。

それでも胸の奥の小さな火だけは、まだ消えていなかった。

 

三層へ行くには、多分この火をもっと大きくしなきゃいけない。

椿さんの林を越えるくらいに。

でも、どうすればいいのかわからなかった。

白い花びらが降ってくる。

視界が白く霞んでいく。

 

「……遊子」

 

遠くで、椿さんの声がした。

 

「お前の刀は、まだ顔を見せねえのか」

 

意識が白い雪の中に沈んでいった。

 

気がつくと精神世界にいた。

白い空、凪いだ水面、でもいつもと違った。

空の月が満ちていた。

三日月じゃない、半月でもない、まんまるの大きな銀色の満月が空のてっぺんに浮かんでいた。

その光が水面いっぱいに広がって、月の真下までまっすぐに道を作っていた。

 

「アイちゃん……」

『はい。ここにいます』

 

アイちゃんの声は少しだけ遠かった。

 

『……マスター、行ってください。私はここで待っています』

 

アイちゃんの声は静かで、少しも迷っていなかった。

私は光の道を走る。

 

その人は、満月の真下に立っていた。

白い着物、ゆらゆらと揺れる長い髪、手に古くて長い弓。

そして――顔が見えた。

月の光に滲んで見えなかった顔が、今ははっきりと見えた。

驚きで息が止る、その顔は私だった。

でも今の私じゃない、もっと大人の背の高い髪の長い私。

そしてその目が燃えていた。

橙色の静かな炎みたいな目、精神世界で受け取ったあの小さな火と同じ色。

 

「……あなたは、私?」

 

その人は微笑んだ。

声は出さずに静かに笑っている。

 

「私は、あなたの火」

 

今までで一番近い声で、私の声によく似ていた。

 

「あなたがずっと小さいと思い込んできた、あなた自身」

 

小さいと思い込んできた。

三パーセント、何もできない、見ているだけ、守れない、弱い。

 

全部、私が無意識に自分に言い聞かせてきた言葉だった。

三パーセント。

アイちゃんが私を守るためについた嘘。

 

昨日の夜にそれを知って、アイちゃんの願いだったんだって受け止めた。

でも、あの時どうして私はあんなに簡単に信じたんだろう。

 

・・・それはたぶん、私自身が自分を小さく見積もっていたからだ。

目の前の人は私の顔をしていて、大人になった私が燃える目で私を見ていた。

この人が私だっていうなら、私はこんなふうになれるってことなのに。

 

「顔を見せなかったのは、あなたが自分を見ようとしなかったから」

 

その人は古い弓をゆっくりと構えた。

弦に光の矢がつがえられて、その切っ先がまっすぐ私の胸を狙っていた。

 

「もう一度聞きましょう」

 

燃える目が私を見ていた。

 

「――あなたは、何のために射るの」

 

前は答えられなかった。

帰るため、違う。

一兄に会うため、違う。

 

一層で椿さんを守ろうとした時にわかった。

誰かの普通を守るため。

でも今はそれだけじゃ足りない気がした。

椿さんの言葉を思い出す。

 

――あいつは最後まで頑固で、それで倒れた。お前は倒れるな。

小雪さんは、誰かの普通を守って、自分を後回しにして倒れた。

椿さんはそれを、気の遠くなるほど長い間悔やみ続けてきた。

そして今、白い林の中で椿さんは自分の霊力を削りながら私の前に立っている。

 

私も小雪さんのように、そうしようとしていた。

誰かのためなら、自分のことは後回しでいいって。

誰かの役に立てるならそれでいいって。

 

でもそれじゃ駄目なんだ。

本当はずっと言うのが怖かった、自分のための願いを口に出すのが。

わがままだって、欲張りだって思われるのが。

前の人生でたくさんの人に迷惑をかけて、何も返せないまま終わった私がまた何かを欲しがっていいのかって。

 

「……誰かの、普通を守るため」

 

私は言った。

 

「それから」

 

胸の奥の小さな火をぎゅっと握りしめるように。

 

「私自身の、普通も守るため」

 

その人の目がほんの少しだけ見開かれた。

 

「私も帰りたい。帰って朝起きて、お味噌汁作ってみんなと一緒にご飯食べて、普通に暮らしたい。……誰かのためだけじゃなくて、私が!そうしたいから」

 

言ってしまったら、涙が出てきた。

前世で白い部屋の天井を見上げながらずっと願っていたこと。

 

健康な体で、普通に暮らしたい。

 

それは誰かのための願いじゃなかった、私の私だけの願いだった。

ずっと、それを大事にしちゃいけない気がしていた。

 

「だから、射る。誰かの普通も私の普通も、全部守るために」

 

弓が下ろされた。

その人は笑っていた、今度は声を出して。

私と同じ笑い方で。

 

「――やっと、言った」

 

炎がぶわっと大きく燃え上がった。

橙色の炎が、着物を、髪を、弓を全部包み込んでいく。

熱くはなくとてもあたたかかった、冬の朝の台所のコンロの火みたいに。

 

「さぁ、私の本当の名前を呼んで」

 

炎の中から声がした。

 

「あなたの火で、全部を照らすために」

 

満月が燃える、銀色の月が橙色の炎に包まれて空いっぱいに燃え広がっていた。

その名前はもう聞こえていた。

 

そうして静かに目を開けると、白い花びらが降っていた。

私は白い椿の林の真ん中で膝をついている。

霊力はほとんど残っていなくて、花びらが触れるたびにまだ少しずつ吸われていく。

でも、胸の奥が熱かった。

今までの小さな火じゃない、大きな焔が静かに私の中で燃えていた。

 

『マスター……!』

 

アイちゃんの声が驚いていた。

 

『マスターの死神の霊力が急上昇しています。……これは私が管理している領域の外からです。私にも制御できません』

(大丈夫)

 

不思議と怖くない。

さっきまであんなに怖かったのに。

 

私は弦月の柄を静かに、しかし力強く握る。

刀身はもう矢の形じゃなくて元の刀に戻っていて、その刀身が内側から橙色に光っていた。

 

(これは、私の火だから)

 

立ち上がる。

膝はもう震えていなかった。

 

白い林の向こうに椿さんが立っている。

白い花びらの中に、ぼんやりと白い羽織の背中が見えて、ゆっくりとこちらを振り返る。

灰色の目が私を見て、ほんの少しだけ見開かれたように見えた。

 

「……やっと、顔を見せたか」

 

小さな声だった。

その声が少しだけ嬉しそうに聞こえた。

 

・・・そうか、椿さんはこれを待っていたんだ。

そう思ったら胸がぎゅっと痛んだ。

でも今は痛がっている場合じゃなかった。

私は弦月をまっすぐ前に構えた。

刀身の橙色がどんどん強くなって、熱が指先から腕へ、胸へ、全身へと広がっていく。

息を吸い、そして力強くその名を呼んだ。

 

「――卍解」

 

炎が噴き上がった。

私の足元から、私の背中から、私の胸の奥のいちばん深いところから。

橙色の炎が渦を巻いて、天井の見えない暗闇へとまっすぐに昇っていく。

降っていた白い花びらが、炎に触れた瞬間ふっと燃え上がった。

白から赤へ、赤から橙へ、それから灰になってひらひらと消えていく。

 

炎の中で、弦月の形が変わっていった。

刀身がほどける、銀色の光じゃなかった。

橙色の炎がほどけて伸びて、一本の矢の形になる。

始解の時よりも細くてまっすぐで、鏃の先に小さな三日月が燃えている。

 

そして私の背後に、大きな大きな弓が2つ現れた。

私の背丈の三倍はある、炎でできた大弓。

弦も弓幹も全部が燃えていて、その弦にそれぞれ私の手の中の矢と同じ形の炎の矢がつがえられている。

 

精神世界であの人が持っていた、古くて長い弓。

あれが二つになって、私の後ろに立っていた。

 

「――『焔天弦月<えんてんげんげつ>』」

 

名前を呼んだ。

炎が一際大きく燃え上がった。

 

『マスター……』

 

アイちゃんの声が震えていた。

 

『霊圧計測しています。・・・これは、これまでのマスターのどの霊圧とも違います。あまりも巨大な――』

(アイちゃん、弓も支えなくていいよ)

 

私は、手の中の炎の矢を見下ろした。

 

(この弓は霊子から作ってるんじゃないから。……私の火だから)

 

二層の薄い霊子なんて関係なかった。

自分の中の霊力で戦うのが死神の力、椿さんが最初にそう教えてくれた。

この炎は全部、私の中から出てきたものだった。

 

不思議な気持ちだった。

力が湧いてくるのに、少しも嬉しいとも思わなかった。

ただ静かだった。

やっと自分の手で自分の火を握れた、そんな安堵感を感じていた。

 

「……やれやれ」

 

白い林の向こうで椿さんが呟いた。

燃え上がる林の中で椿さんは落椿を構え直していた。

でもその口の端は確かに笑っていた。

 

「派手な卍解だな」

「……椿さんに、言われたくないです」

「くくっ。……違えねえ」

 

いつもの会話、洞で、広場で、迷路のくぼみで、何度も交わしたくだらないやりとり。

それが今、燃える林の中で交わされている。

泣きそうになって唇を噛んだ。

 

右手の矢を構える。

背後の二つの大弓が、私の動きに合わせてゆっくりと弦を引き絞った。

狙うが椿さんじゃない、その白い林を。

椿さんは言った、この林の中じゃ俺は倒れない、椿が咲く限り治り続ける。

なら、狙うは林ごと。

そう決めた瞬間、手が止まりそうになった。

この林は小雪さんの花だ。

椿さんが、九百年抱えてきた想いだ。

それを、私が燃やす。

 

(ごめんなさい)

 

誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。

椿さんにか、小雪さんにか、それとも燃やすと決めた自分にか。

 

(ごめんなさい。……でも、帰るって決めたから)

「――――っ!」

 

三本の炎の矢が同時に空を裂いた。

手元の一本と背後の二本、その三本が空中でぱっと分かれた、十本に、二十本に、数えきれないくらいの炎の矢になる。

炎の矢の雨が白い林に降り注いだ。

一本一本がまるで意思を持っているみたいに曲がって、追いかけて、白い椿の木の一本一本に突き刺さっていく。

白い林が燃えた。

白い花が炎に包まれて赤く染まり、雪みたいに降っていた花びらが火の粉になって舞い上がる。

燃えていく、全部燃えていく。

白い椿の林が、小雪さんの好きだった雪椿が。

 

「…………」

 

焼いているのは林なのに、自分の胸の奥を焼いているみたいだった。

でも、それでも手は止めなかった。

止めたら椿さんの思いを裏切てしまう気がしたから。

 

炎の向こうで、椿さんが動いた。

瞬歩で燃える木々の間を白い羽織が駆け抜けてくる。

私はもう一度矢を構え背後の大弓がまた弦を引き絞る。

椿さんが目の前に現れて落椿が振り下ろされる。

 

その瞬間炎の矢を放った。

三本の矢が至近距離で椿さんに向かって飛ぶ。

 

椿さんの刀が一本を弾いた。

二本目を弾いた。

三本目が、椿さんの胸に届く――。

その直前。

椿さんの刀が、すっと下がった。

 

弾けたはずだった、椿さんなら三本目も絶対に。

でも椿さんは刀を下ろした。

時間がゆっくりになった。

椿さんの目が私を見ていた。

眠たげで、だるそうで、いつもと同じ灰色の目。

その目が、ほんの少しだけ笑っていた。

 

とっさにだめ、と声がでた。

止まってと思った。

でも炎の矢は椿さんの胸に突き刺さった。

 

炎が椿さんの体を包み込む。

白い羽織が橙色に染まっていく。

椿さんの足元で、赤い糸がぶちぶちと音を立てて千切れていった。

地獄の意思が、椿さんから引き剥がされていく。

燃える林の中で、椿さんはゆっくりと膝をついた。

落椿が手から滑り落ちた。

 

「――椿さんっ!」

 

私は走り出していた。

背後の大弓がふっと消えて手の中の炎の矢が元の刀に戻り、卍解が解けていく。

体中の霊力は空っぽに近かった。

 

燃え尽きて灰になって、ひらひらと消えていく白い林の中を走る。

椿さんの元へ行きたかったのだ。

 

 

椿さんは灰になった林の真ん中で座り込んでいた。

胸に焦げた跡が残っていて、白い羽織がところどころ黒く焼けていた。

 

「椿さん……っ、椿さん!」

「……うるせえな」

 

椿さんが薄く目を開けた。

いつもの眠たげな目だった、もう赤く光ってはいなかった。

地獄の糸は、全部焼き切れていた。

 

それでも生きてる。

それだけで膝から力が抜けそうになった。

 

「なんで……なんで最後、刀下ろしたんですか!」

 

涙が勝手に溢れてきた。

 

「弾けましたよね! 椿さんなら絶対、弾けましたよね!」

「…………」

「なんで――」

「お前が、通れねえだろうが」

 

椿さんはぼそりと言った。

 

「地獄の糸がついてる限り俺はお前を止め続ける。……あれを焼き切るには、あの一発をまともに食らうしかなかった」

「…………」

「最初からそのつもりだった。……卍解まで引っ張り出せたら、な」

 

背中への峰打ちも、受け止めるだけの刀も、待っていてくれた五秒も、喉元で止めた切っ先も、白い林も。

全部私に卍解を引っ張り出させるためだったのだ。

椿さんは最初から私に撃たれるつもりでここに立っていたんだ。

 

何も知らなかった。

本気で怖がって、本気で悔しがって、本気で椿さんに勝とうとしていた。

その全部を、椿さんは黙って受け止めていた。

椿さんの口の端が、少しだけ上がった。

 

「よく引っ張り出したな遊子。上出来だ」

 

私は何か言おうとした。

でもその前に、視界がぐらりと揺れた。

体に力が入らない。

卍解で全部出し切ってしまって、白い林に吸われた分も取り戻せていない、座っていることさえつらかった。

 

『マスター。霊力が危険な水準まで低下しています。……このままでは、三層へ下りることはできません』

 

アイちゃんの声が遠くに聞こえた。

椿さんが私の様子を見て、小さく息を吐いた。

 

「……手を出せ」

「え……」

「いいから、出せ」

 

言われるまま震える手を差し出す。

椿さんは地面に落ちていた落椿を拾い上げた。

刀身から椿の花がひとつだけこぼれた、赤い花、始解のいつもの花。

それを、私の手のひらにそっと乗せた。

あたたかい光が、手のひらから体の中に流れ込んでくる。

一層の洞で、初めて傷を治してもらった時と同じあたたかさ。

でも今度は止まらなかった。

光がどんどん、どんどん流れ込んできて空っぽだった体が少しずつ満たされていく。

 

『……マスターの霊力が、急速に回復しています。』

 

アイちゃんの声が途中で止まった。

 

『――いけません。マスター。椿宗玄の霊圧が低下しています』

 

心臓が止まりそうになった。

 

「椿さん、やめて!」

 

手を引っ込めようとした。

でも椿さんの大きな手が私の手をしっかりと包み込んで離さなかった。

 

「やめてください! それ、やったら、椿さんが――!」

「吸うのも、治すのも、根っこは同じだ」

 

椿さんは静かに言った。

最初に洞で教えてくれた言葉だった。

 

「霊力を流す向きが、逆なだけだ」

「でも……っ!」

「閻魔は俺よりずっと強え。……空っぽのまま行かせられるか」

 

灰色の目が私を見ていた。

 

「長えこと寝てたんだ。……霊力だけはたんまり溜まってる。使い道がやっと見つかった」

 

嫌だった、全部嫌だった。だって椿さんが自分の命を削っているのが分かったから。

あたたかければあたたかいほど、椿さんが心が削れていくのがわかった。

私が撃って、私が受け取って、私が椿さんを空っぽにしていく。

 

「いらない……っ」

 

泣きながら首を横に振った。

 

「いらないです、そんなの。私、自分で回復するまで待ちます。何日でも待ちます。だから――」

「待ってる間に、俺がまた糸に繋がれたらどうする」

 

椿さんの声は静かだった。

 

「地獄は俺を放っちゃおかねえ。焼き切れた糸も、いずれまた伸びてくる。……今しかねえんだよ、遊子」

 

言い返せなかった。

椿さんの言っていることが正しいって、わかってしまったから。

 

光は流れ続けた。

椿さんの手から私の手へ、椿の花を通ってまっすぐに。

私の体が満たされていくのと同じ速さで、椿さんの顔から色が抜けていった。

 

「……落椿に、聞かれたことがある」

 

椿さんがぽつりと言った。

 

「お前は、自分を削ってでも、そいつを治したいか、ってな」

「…………」

「小雪の時は答えられなかった。……答える前に、あいつは逝った」

 

椿さんの声が、少しずつ小さくなっていく。

 

「今は、答えられる」

 

手のひらの椿の花が、ふっと溶けて消えた。

流れ込んでくる光が止まった。

私の体は満たされていた、卍解の前よりもずっと。

そして椿さんの手は、とても冷たくなっていた。

その冷たさが怖かった。

握った手を離したくなかった。

離したら、その瞬間に椿さんがいなくなってしまう気がした。

 

「……遊子」

 

椿さんが、落椿をもう一度持ち上げた。

その刀身から、最後にひとつだけ花がこぼれた。

白い椿だった。

雪みたいに白い小さな椿、卍解の林は全部燃えてしまったのに、その一輪だけが刀身の根元からぽつりと咲いていた。

椿さんはそれを私の手に乗せた。

さっきの赤い花みたいに溶けて消えたりはしなかった、ひんやりとして柔らかくて、ちゃんとそこにあった。

 

「頼みが、ある」

「……はい」

「それを、小雪の墓に供えてくれねえか」

 

声が出なかった。

 

「尸魂界の、流魂街の、いちばん南の端っこだ。小さな丘の上に、白い椿の木がある。その根元にあいつは眠ってる」

 

椿さんの目が、少しだけ遠くを見た。

 

「……九百年も前だ。木なんざとっくに枯れてるかもしれねえ。墓も残ってるかもわからん」

 

私は、白い椿を両手でそっと包み込んだ。

枯れてるかもしれない、残ってないかもしれない。

それでも椿さんは頼んでくれた、九百年誰にも頼めなかったことを、私に。

 

「――ううん」

 

涙でぐしゃぐしゃの声だった、でもちゃんと言えた。

 

「行くよ! 絶対、行く!」

 

椿さんがふっと笑った。

目だけじゃなかった、顔中で。

 

「……やれやれ。頑固なところはほんとにそっくりだ」

 

誰に、とは聞かなかった。

聞かなくてもわかった。

 

「閻魔の後ろの扉を抜けたら、尸魂界に出られる」

 

椿さんは続けた、声がどんどんかすれていく。

 

「丘の近くに……古い門がある。現世に渡るための、ちっぽけな門だ。……俺と小雪が、内緒で使ってた。今も、動くかは、わからねえが……」

「わかった。探す。ちゃんと、探すから」

「……そうか、最後の最後にわがままを言ってすまねぇな」

 

椿さんはそう言ってゆっくりと、背後のすり減った岩にもたれかかった。

気の遠くなるほど長い間、座り続けた持ち場の岩に。

 

「……少し、眠い」

「椿さん……」

「心配すんな。……いつもの、昼寝だ」

 

嘘だとわかった、今までで一番下手な嘘だった。

嘘だってわかってるのに、信じたかった。

いつもみたいに三秒で寝て、寝息を立てて、しばらくしたら「やれやれ」って起きてくるって、そう思いたかった。

椿さんの灰色の目が、最後に私の顔を見た。

私の顔を通して誰かを見ているんじゃなかった、ちゃんと私を。

 

「頑張れよ、遊子」

 

それが、最後の言葉だった。

椿さんは自分でそっと目を閉じた。

いつもみたいに三秒で、眠るみたいに。

でも、寝息は聞こえなかった。

 

どれくらいそこに座っていたのか、わからない。

灰になった林の真ん中で、椿さんの隣で、白い椿を両手で包んだまま。

泣いて、泣いて、涙が出なくなるまで泣いた。

泣きながらずっと考えていた。

私が地獄に落ちてこなければ、椿さんは今もここで、静かに眠っていられたのに。

でもそう思うたびに、椿さんの声が聞こえる気がした、やれやれって。

勝った奴が謝るなって鬼厳城さんも言っていた。

椿さんはきっと、もっと面倒くさそうに同じことを言う。

 

『マスター』

 

アイちゃんが静かに言った。

 

『椿宗玄の魂は活動しています。……ですが、意識と呼べるものは観測できません』

「……抜け殻に、なったんだね」

『……はい』

 

椿さんの顔は穏やかだった。

抜け殻の人たちはみんな目を開けたままだった、でも椿さんは、鬼厳城さんと同じように目を閉じていた。

自分で閉じた目だった。

 

「……椿さん」

 

私は立ち上がった。

体には霊力が満ちていた、彼が私に託してくれた力。

その霊力が体の中であたたかく巡っていて、椿さんが私の中にいるみたいだった。

白い椿を、死覇装の胸元にそっと挿す。

椿さんが繕ってくれた左の袖が、ほんの少しだけあたたかかった。

 

「行ってきます」

 

頭を下げた。

深く、深く。

 

「小雪さんにちゃんと届けてくるね」

 

返事はなかった。

でも長い長い間座り続けた岩の周りで、ぽつりぽつりと咲いていた赤い椿が、ほんの少しだけ揺れた気がした。

 

穴の縁の、黒い階段の前に立った。

赤い滝が静かに暗闇の底へと落ちていく。

その底から、濃い霊子の気配がゆっくりと立ち上ってきていた。

 

『マスター。経過時間を報告します』

 

アイちゃんの声がした。

 

『地獄に落ちてから、約二百六十日。現世の時間に換算すると、約七日です』

「七日……」

 

七日、家では私じゃない私が七日分、普通に暮らしている。

一兄はもう帰ってきたのかな、それともまだルキアさんを助けに行ったままなのかな。

わからない、でも帰ったら今度こそちゃんと言うんだ。

 

『三層には閻魔がいます。……この世界から、私を排除するために、マスターを引きずり込んだ存在です』

「うん」

『怖いですか』

「怖いよ」

 

正直に言った、本当に怖かった。

椿さんでさえ届かないと言った相手。

今度は、誰も助けてくれない、椿さんももういない。

 

「でも帰るって、決めたから」

 

腰の弦月の柄を握って、胸元の白い椿にそっと触れる。

 

「それに、約束もしたし」

『……はい』

 

アイちゃんの声が、少しだけあたたかくなった。

 

『行きましょう、マスター』

 

怖いのは変わらなかった、でも足は前に出た。

誰かの普通を守るために、それから、私の普通も守るために。

椿さんが残してくれた火を、ちゃんと消さないで持っていくために。

私は階段の最初の一段を踏みしめた。

今度は、誰も止めに来なかった。

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