ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI―   作:きりか

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地獄編エピローグまで連続で投稿していきます。3話です。最後にエクストラが1話あってそれはまた別のタイミングで投稿します。


閻魔

階段は螺旋を描いて、どこまでも下へ続いていた。

黒い岩を削っただけの狭い段、すぐ横を赤い滝が静かに流れ落ちていく。

手を伸ばせば届きそうなくらい近いのに、音はほとんどしない。

どろりとした赤が、ただ黙って暗闇の底へと吸い込まれていく。

落ちたら霊力ごと持っていかれる、椿さんが二層に来た最初の日にそう言っていた。

私は壁に手をつきながら、一段ずつ下りていく。

胸元の白い椿が、歩くたびに小さく揺れた。

その揺れを感じるたびに、椿さんの冷たくなった手を思い出しそうになって、私はそのたびに前を向いた。

今は振り返らない、届けるって約束したんだから。

 

百段くらい下りたところで空気が変わり始めた。

最初に気づいたのは、息のしやすさだった。

二層の空気はずっと重くて湿っていて、肺の奥に鉛を流し込まれるみたいだった。

それが少しずつ軽くなっていく。

吸い込むたびに、胸の奥がほんのりとあたたかくなる。

 

『霊子の濃度が、上昇しています』

 

アイちゃんの声が少しだけ弾んでいた。

 

『一層の十倍。……二十倍。まだ、上がり続けています』

(すごい……)

 

肌がちりちりする。

でも鬼厳城さんの霊圧を浴びた時みたいな、刺すような感じじゃなかった。

もっと懐かしい感じがする。

空座町の夜、屋根の上で感じていた空気に似ていた。

 

二百段、三百段。

赤い滝の色が少しずつ変わっていく。

どろりとした暗い赤がだんだん明るく透き通って、橙色に、それから淡い金色に。

滝の底の方が、ほんのりと白く光り始めていた。

 

『マスター』

 

アイちゃんが言った。

 

『弓が出せるか試してみませんか』

(……そう、だね)

 

私は階段の途中で足を止め、ゆっくりと左手を前に突き出す。

地獄に落ちてきた最初の日、同じことをした。

手のひらにほんのかすかな光が灯って、弓の形になる前にろうそくの火みたいに消えた。

あの時は怖かった、今まで当たり前にできていたことが急にできなくなって。

・・・大丈夫、今なら。

意識を手のひらに向けて、周りの空気から光の粒を集める。

――集まった。

それは一瞬だった。

光の粒が手のひらに吸い寄せられるように集まって、ぱっと弓の形になる。

細くて、まっすぐで、綺麗な光の弓。

精神世界で何百回も引いた弓、空座町の夜に狐のお面をかぶって虚を射抜いていた弓。

 

「…………」

 

声が出なかった。

弦をそっと指で弾いてみると、ぴん、と澄んだ音がした。

 

『滅却師の力、回復を確認しました』

 

アイちゃんの声も、少しだけ震えていた。

 

『形成時間、〇・三秒。……現世にいた頃と、同じです』

「……おかえり」

 

思わず弓に向かってそう言っていた。

変な話だと思う、弓はどこにも行っていなかったのに。

でもそう言いたかった。

この地獄で、私はずっと何かを失い続けてきた気がしていたから。

初めて、戻ってきてくれたものがあった。

 

弓を消して、また階段を下り始める。

 

『三層には霊子が満ちています。滅却師の力も、死神の力も、両方使えます。……ですが』

 

アイちゃんの声が、少しだけ硬くなった。

 

『それは、閻魔も同じです』

「……閻魔も?」

『二層で、椿宗玄が言っていました。地獄中から吸い上げた霊力は、全部閻魔のところに集まる、と。……この霊子は、その霊力が還元されたものだと推測します』

 

赤い滝、二層の迷路の底を流れていた番人たちの霊力。

椿さんの霊力も、鬼厳城さんの霊力も、七番隊の大きな人の霊力も。

全部ここに流れてきているんだ。

 

『三層の霊子は、閻魔の力の源でもあります。……私たちが使える霊子は、閻魔が使える霊子でもある、ということです』

 

胸の奥がぎゅっと痛くなった。

私が今懐かしいと思った空気は、椿さんたちから吸い上げられたものだったんだ。

さっきの「おかえり」が、少しだけ苦く感じた。

 

「……アイちゃん」

『はい』

「それでも、使うよ」

 

胸元の白い椿にそっと触れる。

 

「椿さんが全部くれたんだから。……ちゃんと使う」

『……はい』

 

螺旋の階段の最後の一段が見えてきた。

その向こうから、白い光が溢れていた。

 

最後の一段を下りた瞬間、目の前が真っ白になった。

眩しくて思わず腕で目を覆い、少しずつ目が慣れていく。

白い。

一層の赤とも、二層の黒とも違う、どこまでも白い場所だった。

床は磨き上げた石みたいに滑らかで、ほのかに光っている。

天井はやっぱり見えない、でも暗闇じゃなかった。

見上げても見上げても、白い光がただ果てしなく続いている。

そして柱があった。

白い巨大な柱が何十本も何百本も規則正しく並んで、果てしない天井を支えている。

柱と柱の間を、金色に透き通った霊子の流れが、川みたいにゆっくりと漂っていた。

赤い滝の水は、ここで光に変わっていたのだ。

 

『三層です』

 

アイちゃんの声が小さかった。

 

『霊子の濃度は、現世の、数倍です。……そして』

 

言葉が途切れた。

アイちゃんが言葉に詰まるなんて、めったにない。

 

『……前方に、霊圧を感知しています』

(どれくらい?)

『……計測、できません』

 

その一言で、背中がぞっと冷たくなった。

 

柱の並木道をまっすぐに歩く。

他に道はなかった、どこを見ても白い柱と金色の霊子の流れだけで、その全部が同じ方向に向かって流れていた。

 

奥へ。

一歩進むごとに空気が重くなっていく。

霊子は満ちているのに息が苦しい。

何かとてつもなく大きなものがずっと先に座っていて、この空間の全部を上から押さえつけているみたいだった。

 

怖い、と思った。

でも足は止めなかった。

胸元の白い椿をぎゅっと握る、それだけで少しだけ呼吸が楽になる気がした。

やがて、柱の並木道が終わった。

 

広い、円い広間だった。

床の真ん中に金色の霊子が渦を巻いて、泉みたいに溜まっている。

地獄中から流れてきた霊力が、全部ここに集まっているんだと思う。

その泉の向こうに壇があった。

白い石の階段が何十段も上へ上へと続いていて、そのいちばん上に座っている者がいた。

大きかった。

鬼厳城さんも、一層の番人も、空座町の空を覆った大虚も比べものにならない。

座っているだけで、白い柱の半分くらいの高さがある。

黒い衣をまとっていた、裁判官が着るような重たくてゆったりとした衣。

その胸元から太い腕が二本、膝の上に置かれている。

そして、顔。

 

顔が、なかった。

いや、あった、でもそれは顔じゃなくて仮面みたいだった。

白くてのっぺりとして、目も鼻も口も、彫り込まれた線でしかない。

何の表情も浮かんでいない、怒っても笑ってもいない、ただそこにある。

閻魔だった。

前世のおばあちゃんが話してくれた、赤い顔で怒鳴る閻魔様とは全然違う。

もっと、怖かった。

 

その背後に扉があった、三つ。

閻魔の座る壇のさらに後ろ、白い壁に三つの巨大な扉が並んではめ込まれていた。

左の扉は白かった、滑らかでまっすぐで、どこか障子みたいな形をしている。

雨の夜にルキアさんたちが消えていった、あの門に似ていた。

真ん中の扉は灰色だった、何の飾りもないただの重たそうな扉。

右の扉は黒かった、黒くてひび割れていて、その隙間から乾いた砂がさらさらと零れ落ちていた。

 

『三つの世界に繋がる扉です』

 

アイちゃんが小さな声で言った。

 

『左が尸魂界。右が虚圏。……真ん中が、現世だと推測します』

 

現世。

真ん中の灰色の扉、あの向こうに空座町がある、家がある。

一兄と、夏梨と、お父さんがいる。

あの扉を抜ければ、すぐにでも。

 

――でも、椿さんとの約束がある。

左の白い扉、尸魂界、流魂街のいちばん南の小さな丘。

胸元の白い椿を、もう一度握りしめた。

迷いはなかった、帰るのは約束を果たしてからだ。

 

「――来たか」

 

声がした。

頭の上から降ってくるような声。

いや違う、広間全体が声になって響いていた。

白い柱が、金色の泉が、床の石が、全部同時に震えて言葉を形作っている。

閻魔の仮面の口は動いていなかった。

 

「一層を越え、二層を越え、番人を退けて、ここまで来たか」

 

感情のない声だった。

怒りも驚きも何もない、ただ事実を読み上げるみたいな声。

 

「――異物よ」

 

仮面の、彫り込まれた線でしかない目がこちらを向いた。

私を見ていなかった。

私の、胸の奥を。

アイちゃんを、見ていた。

 

『…………』

 

アイちゃんが黙った。

今までどんな相手にも、アイちゃんの存在ははっきりとはわからなかった。

椿さんでさえ「妙なもんを連れてる」としか言わなかった。

でも閻魔は違う、まっすぐにアイちゃんを見ていた。

 

「答えよ、異物。……汝は、何者だ」

『……私は』

 

アイちゃんが口を開いた。

 

アイちゃんの声が、私の頭の中だけじゃなく、広間全体に響いていた。

白い柱が、金色の泉が、アイちゃんの声に合わせてかすかに震えている。

この場所では、アイちゃんの声が外に届くんだ。

 

『私は、別の世界の神によって作られた、演算体です。名称はありません。……この方の魂に結びつき、この方の願いを叶えるために、存在しています』

「願い」

 

閻魔の声が広間に響いた。

 

『健康な体で、普通に暮らすこと。それが、この方の願いです』

「…………」

 

閻魔はしばらく何も言わなかった。

仮面の、彫り込まれた線でしかない目が、ただこちらを見下ろしていた。

 

「――では、教えよう。地獄とは、何か」

 

閻魔の声が、静かに広間を満たした。

 

「この世界は、閉じた輪だ。現世に生まれた魂は、死して尸魂界へ渡り、やがてまた、現世へと還る。その輪から零れた魂は、虚となって虚圏へ堕ち、死神に斬られて、また輪へと戻される」

 

金色の泉が、ゆっくりと渦を巻いた。

 

「だが、輪を巡るうちに、魂には穢れが溜まる。罪。恨み。執着。負の霊子。……それを、そのままにしておけば、輪は、やがて淀み、腐り、崩れる」

 

白い柱の間を流れる霊子が、閻魔の背後の三つの扉へと吸い込まれていくのが見えた。

 

「地獄は、その穢れを引き受ける場所だ。穢れた魂をここに落とし、裁き、浄め、霊子へと還し、三つの世界へと送り返す。……輪が、輪であり続けるために」

 

一層で、繰り返し潰されていた罪人たち。

二層で、霊力を吸われ続けていた番人たち。

全部、そのための仕組みだったんだ。

世界が壊れないための。

・・・それなら、椿さんも。

椿さんが九百年あの岩の上で眠り続けていたのも、この輪のためだったんだ。

そう思ったら、胸の奥が冷たくなった。

 

「我は、その輪を守る者。……世界の理を、守る者だ。……そして、汝は」

閻魔の仮面が、ほんの少しだけ傾いた気がした。

 

「輪の、外から来た」

『…………』

「この世界の魂は、全て、輪の中で生まれ、輪の中で巡る。だが、汝は違う。どの世界にも生まれず、どの輪にも属さず、外から、この魂に縫い付けられた」

 

アイちゃんが黙っていた。

 

「それだけならば、見過ごすこともできた。……だが、汝は、世界に触れた」

 

力が欲しいと願った、あの夜。

アイちゃんが、この世界に繋がった夜。

 

「汝は、世界を読んだ。この世界の構造を。勢力を。歴史を。……理そのものを、汝の内に写し取った」

 

閻魔の声に、初めて何かが混じった。

怒りじゃない、もっと冷たくてもっと重い何か。

 

「読まれた理は、書き換えられる。……外から来た者が、この世界の理を手に入れ、それを書き換える力を持つ。それを、何と呼ぶか、わかるか」

『…………』

「侵略だ」

 

「ち、違う!」

 

気づいたら叫んでいた。

 

「アイちゃんは、そんなことしない! 世界を書き換えるとか、侵略とか、そんなの、考えたこともない! アイちゃんは、ただ、私を守ろうとしてくれただけで――」

「汝の意思は、問うていない」

 

閻魔の声が、私の言葉を静かに断ち切った。

 

「問題は、できる、ということだ。……汝の内の異物は、今この瞬間にも、この世界を読み続けている。地獄に落ちてなお、我の霊圧を計り、この場所の霊子の流れを解き、三つの扉の行き先を推し量った」

 

言葉が出なかった。

その通りだったから。

アイちゃんはずっと、全部観測していた、それがアイちゃんのいつものことだった。

それが、この世界にとっては侵略なんだ。

悔しかった。

アイちゃんがずっと私のためにしてくれていたことを、そんなふうに呼ばれるのが。

でも、言い返す言葉が見つからなかった。

 

「――裁定する」

 

閻魔が言った。

広間の空気が、一瞬で凍りついた。

「異物は、この世界の理に属さぬ。ゆえに、罪である。罪あるものは、消えねばならぬ」

 

「だがその異物に付けられた無垢なる魂よ」

 

閻魔の仮面が、私を見た。

今度はアイちゃんじゃなく、私を。

 

「汝には、罪がない」

「…………え」

「汝は、この世界の輪の中で生まれた魂だ。異物を縫い付けられたのは汝の咎ではない。……異物を、差し出せ」

 

この世界の輪の中で、生まれた魂。

一瞬、意味がわからなかった。

私は、前の世界で死んで、ここに生まれ直したはずなのに。

あの白い光の中で、神様みたいな誰かにそう言われたはずなのに。

 

(……アイちゃん?)

 

アイちゃんは、何も言わなかった。

いつもならすぐに返ってくるはずの声が、その時だけ、少しだけ遅れた気がした。

閻魔の太い腕が、ゆっくりと持ち上がった。

大きな手のひらが、私の方へと差し出される。

 

「異物を差し出せば、汝は、ここで浄められる。そして、扉を抜け、還るべき場所へと還る。……汝の願いは、叶う」

 

健康な体で、普通に暮らす。

家に帰って、朝起きて、味噌汁を作って、一兄と夏梨とお父さんとご飯を食べて。

アイちゃんを、差し出せば。

 

『……マスター』

 

アイちゃんの声が、小さく聞こえた。

広間に響く声じゃない、いつもの、私の頭の中だけに聞こえる声。

 

『閻魔の提案は、合理的です』

「…………」

『私が消えれば、マスターは帰れます。マスターの願いは、叶います。……私の第一の使命は、マスターの願いを叶えることです。この選択は、その使命に、合致しています』

 

アイちゃんの声はいつも通り平坦だった。

でもその平坦さが無理をしているって、私にはわかった。

雨の夜の嘘を打ち明けた時と、同じ声だった。

 

迷いは、なかった。

考えるまでもなかった。

 

「――やだ」

 

私は言った。

閻魔の手のひらを、まっすぐに見上げて。

 

「アイちゃんは、渡さない」

「…………」

「アイちゃんは、異物なんかじゃない。生まれた時から、ずっと一緒にいた。前の世界で死んだ時から、ずっと、ずっと、一緒にいてくれた。私の、一部なんだよ」

 

胸元の白い椿を握りしめる。

 

「それに、アイちゃんのいない普通なんて、私の普通じゃない」

 

一兄がいて、夏梨がいて、お父さんがいて。

そしてアイちゃんがいる。

それが、私の普通だ。

弦月の人に答えた時に、やっとわかったんだ。

私の普通は、私が決める。

 

『マスター……』

「消すなら、二人一緒に消してみればいい」

 

声は震えていた、でも目は逸らさなかった。

 

「私は、二人で帰る」

 

閻魔はしばらく、何も言わなかった。

差し出されていた手のひらが、ゆっくりと膝の上へと戻っていった。

 

「……そうか」

 

感情のない声だった。

 

「ならば共に消えよ」

 

閻魔の仮面の額に、光が灯った。

白い光、小さな針の先みたいな光が、ゆっくりと大きくなっていく。

広間の霊子が一斉にその光へと吸い寄せられていった。

金色の泉が渦を巻いて壇の上へと昇り、白い柱の間を漂っていた霊子の流れが、全部閻魔の額へと集まっていく。

 

『マスター!』

 

アイちゃんの声が鋭くなった。

 

『霊圧が、計測限界を超えています。……あれは、攻撃ではありません。存在そのものを、否定する光です』

(どういうこと!?)

『あの光に触れたものは、この世界の理から、外されます。……消えるのではなく、最初から、なかったことになります』

 

背中が凍りついた。

最初から、なかったことに。

アイちゃんも、私も。

 

「――裁定」

 

閻魔の声が響いて、額の光が放たれた。

 

考えるより先に足が動いていた、何千回も足に覚えさせた動きをしてその場から動く。

光が、さっきまで私がいた場所を通り過ぎていく。

音はしなかった。

光が通った後の床に、穴が開いていた。

いや穴じゃない、何もなかった。

白い石の床が光の通り道の形にすっぽりと消えていて、焦げ跡も破片も何もない。

最初から、そこに床なんてなかったみたいに。

 

「……っ」

 

息が止まりそうになった。

あれが当たったら、私もああなる。

閻魔の額に、また光が灯り始めていた。

 

『マスター』

 

アイちゃんの声がした。

静かな声だった。

 

『ひとつだけ、方法があります』

(方法……?)

『閻魔の裁定は、この世界の理に属さないものを、罪とします。私が罪とされるのは、私が、外から来た異物だからです』

 

二発目の光が放たれた。

瞬歩で避けると、白い柱が一本、光の通り道の形にすっぽりと消えた。

 

『ならば、私が、この世界のものになればいい』

(……どうやって?)

『マスターの魂の中には、この世界の力が、三つあります。滅却師。死神。そして、虚』

 

胸の奥の、ずっと奥。

黒くて獰猛な光が、鎖に縛られたみたいにじっと息を潜めている。

地獄に落ちてから一度も触れていなかった、三つ目の力。

 

『虚は、この世界の輪から零れた魂です。輪の外のものではありません。この世界の理の中で生まれた、この世界のものです』

(まさか――)

『私が管理している虚の力を、私自身の中に、取り込みます。……私の構造に、この世界の理を、縫い込みます』

 

三発目の光。

瞬歩、今度はぎりぎりだった。

死覇装の袖の端が光にかすめられて、すっぽりと消えた。

 

(そんなことしたら、アイちゃんは、どうなるの)

『わかりません』

 

アイちゃんは正直だった。

 

『虚の力は、獰猛です。取り込めば、私の演算は、変質する可能性があります。……今の私とは、違うものになるかもしれません』

(そんなの――)

『ですが』

 

アイちゃんの声が、私の言葉を遮った。

今までで一番、はっきりとした声だった。

 

『私は、マスターと、二人で帰りたいのです』

 

瞬歩の途中で、足が止まりそうになった。

 

『これは、マスターの願いを叶えるための、合理的な判断ではありません。……私の、願いです』

 

アイちゃんの、願い。

生まれてからずっと、私の願いを叶えるためだけに動いてきたアイちゃんが、初めて自分の願いを口にした。

 

『マスターが、二人で帰ると言ってくれたので。……私も、そうしたいと、思いました』

 

涙が勝手に溢れてきた。

怖かった。

アイちゃんがアイちゃんじゃなくなってしまうかもしれない。

でも、それ以上に嬉しかった。

アイちゃんが、自分で選んでくれたことが。

それなら、私がすることはひとつだけだ。

四発目の光が来た。

避けながら叫んだ。

 

「――うん! やろう、アイちゃん! 二人で、帰ろう!」

『はい、マスター』

 

胸の奥に意識を向けた。

三つの光が浮かんでいた。

白くてまっすぐな光、滅却師の力。

三層の霊子に満たされて、今は眩しいくらいに輝いている。

橙色の燃える光、死神の力、焔天弦月。

椿さんがくれた霊力で、今もあたたかく燃えている。

そして、黒くて獰猛な光。

鎖に縛られて、ずっと奥で息を潜めていた光。

アイちゃんが、その鎖に手を伸ばした。

見えたわけじゃない、でもわかった。

アイちゃんが、鎖を一本ずつほどいていく。

黒い光が、目を覚ました。

――熱い。

違う、冷たい。

どっちなのかわからなかった。

胸の奥から、何かとてつもなく大きなものが這い上がってくる。

叫びたい、暴れたい、目の前のもの全部を壊したい。

そんな衝動が体中を駆け巡る。

 

「っ、ぐ……ぁ……!」

 

膝が崩れた。

 

『――取り込みます』

 

アイちゃんの声がした。

その声と一緒に、暴れていた黒い光がすうっと引いていった。

アイちゃんが引き受けたんだ。

私の代わりに、黒くて獰猛な光を、全部自分の中に。

 

『……っ』

 

アイちゃんの声が、ノイズ混じりに揺れた。

苦しそうだった。

アイちゃんが苦しそうな声を出すのを、私は初めて聞いた。

 

(アイちゃん!)

『だい、じょうぶ、です。……演算を、再構成しています。この世界の理を、私の中に、縫い込んで……』

 

何もできなかった。

アイちゃんが一人で苦しんでいるのに、私はただ膝をついて、名前を呼ぶことしかできない。

だから呼び続けた、ここにいるよって伝えるために。

 

首元で、何かが動いた。

狐のお面だった。

地獄に落ちる時からずっと首にぶら下がっていた、夏祭りの屋台で買った白い狐のお面。

一層の熱で、耳の先が焦げて黒くなっていた。

そのお面が、ひとりでに浮き上がった。

黒い霊圧がお面を包み込み、プラスチックのお面が溶けていく。

溶けて、形を変えて、白く硬く、骨みたいな質感に変わっていく。

そしてそれは、私の顔に張り付いた。

冷たかった。

でも、苦しくはなかった。

顔を覆う白い仮面に手で触れると、狐の形をしていた。

尖った耳、細長い鼻先、目の穴の周りに赤い線がすうっと引かれている。

椿の花と、同じ色の赤だった。

 

『――再構成、完了』

 

アイちゃんの声がした。

ノイズは消えていた。

いつもの平坦な声、でもほんの少しだけ何かが違った。

深くなったような、重くなったような。

 

『私は、この世界の理を、取り込みました。……私は、もう、輪の外のものではありません』

「アイちゃん……アイちゃん、だよね?」

『はい、マスター』

 

少しの間。

 

『……私は、私です』

その答えに、仮面の下で涙が溢れた。

よかった、本当によかった。

アイちゃんは、アイちゃんのままでいてくれた。

 

「――――」

 

広間が震えた。

閻魔の額の光が消えていた。

無表情の仮面が、まっすぐに私を見下ろしていた。

 

「……穢れを、取り込んだか」

 

声が変わっていた。

感情のない声じゃなかった、初めてそこにはっきりとした何かが宿っていた。

 

「輪から零れた穢れを、自ら取り込み、理に縫い込み、この世界のものに成りすますか」

 

広間の霊子が、ざわざわと波打ち始めた。

 

「――それは、外から来た侵略よりも、なお悪質な侵略だ」

 

閻魔が、壇の上で立ち上がった。

座っていた時でさえ、白い柱の半分の高さがあった。

立ち上がったその姿は、果てしない天井に頭が届きそうだった。

黒い衣が、ばさりと翻った。

 

「異物よ。そして、異物を庇う魂よ」

 

額に、再び光が灯った。

さっきまでとは比べものにならない光だった。

 

「――この地獄の全てをもって、汝らを、裁く」

 

膝が震えそうになった。

でも、もう逃げる理由はなかった。

アイちゃんは、この世界のものになった。

私たちは、ここにいていいんだ。

なら、あとは二人で帰るだけだ。

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