ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
階段は螺旋を描いて、どこまでも下へ続いていた。
黒い岩を削っただけの狭い段、すぐ横を赤い滝が静かに流れ落ちていく。
手を伸ばせば届きそうなくらい近いのに、音はほとんどしない。
どろりとした赤が、ただ黙って暗闇の底へと吸い込まれていく。
落ちたら霊力ごと持っていかれる、椿さんが二層に来た最初の日にそう言っていた。
私は壁に手をつきながら、一段ずつ下りていく。
胸元の白い椿が、歩くたびに小さく揺れた。
その揺れを感じるたびに、椿さんの冷たくなった手を思い出しそうになって、私はそのたびに前を向いた。
今は振り返らない、届けるって約束したんだから。
百段くらい下りたところで空気が変わり始めた。
最初に気づいたのは、息のしやすさだった。
二層の空気はずっと重くて湿っていて、肺の奥に鉛を流し込まれるみたいだった。
それが少しずつ軽くなっていく。
吸い込むたびに、胸の奥がほんのりとあたたかくなる。
『霊子の濃度が、上昇しています』
アイちゃんの声が少しだけ弾んでいた。
『一層の十倍。……二十倍。まだ、上がり続けています』
(すごい……)
肌がちりちりする。
でも鬼厳城さんの霊圧を浴びた時みたいな、刺すような感じじゃなかった。
もっと懐かしい感じがする。
空座町の夜、屋根の上で感じていた空気に似ていた。
二百段、三百段。
赤い滝の色が少しずつ変わっていく。
どろりとした暗い赤がだんだん明るく透き通って、橙色に、それから淡い金色に。
滝の底の方が、ほんのりと白く光り始めていた。
『マスター』
アイちゃんが言った。
『弓が出せるか試してみませんか』
(……そう、だね)
私は階段の途中で足を止め、ゆっくりと左手を前に突き出す。
地獄に落ちてきた最初の日、同じことをした。
手のひらにほんのかすかな光が灯って、弓の形になる前にろうそくの火みたいに消えた。
あの時は怖かった、今まで当たり前にできていたことが急にできなくなって。
・・・大丈夫、今なら。
意識を手のひらに向けて、周りの空気から光の粒を集める。
――集まった。
それは一瞬だった。
光の粒が手のひらに吸い寄せられるように集まって、ぱっと弓の形になる。
細くて、まっすぐで、綺麗な光の弓。
精神世界で何百回も引いた弓、空座町の夜に狐のお面をかぶって虚を射抜いていた弓。
「…………」
声が出なかった。
弦をそっと指で弾いてみると、ぴん、と澄んだ音がした。
『滅却師の力、回復を確認しました』
アイちゃんの声も、少しだけ震えていた。
『形成時間、〇・三秒。……現世にいた頃と、同じです』
「……おかえり」
思わず弓に向かってそう言っていた。
変な話だと思う、弓はどこにも行っていなかったのに。
でもそう言いたかった。
この地獄で、私はずっと何かを失い続けてきた気がしていたから。
初めて、戻ってきてくれたものがあった。
弓を消して、また階段を下り始める。
『三層には霊子が満ちています。滅却師の力も、死神の力も、両方使えます。……ですが』
アイちゃんの声が、少しだけ硬くなった。
『それは、閻魔も同じです』
「……閻魔も?」
『二層で、椿宗玄が言っていました。地獄中から吸い上げた霊力は、全部閻魔のところに集まる、と。……この霊子は、その霊力が還元されたものだと推測します』
赤い滝、二層の迷路の底を流れていた番人たちの霊力。
椿さんの霊力も、鬼厳城さんの霊力も、七番隊の大きな人の霊力も。
全部ここに流れてきているんだ。
『三層の霊子は、閻魔の力の源でもあります。……私たちが使える霊子は、閻魔が使える霊子でもある、ということです』
胸の奥がぎゅっと痛くなった。
私が今懐かしいと思った空気は、椿さんたちから吸い上げられたものだったんだ。
さっきの「おかえり」が、少しだけ苦く感じた。
「……アイちゃん」
『はい』
「それでも、使うよ」
胸元の白い椿にそっと触れる。
「椿さんが全部くれたんだから。……ちゃんと使う」
『……はい』
螺旋の階段の最後の一段が見えてきた。
その向こうから、白い光が溢れていた。
最後の一段を下りた瞬間、目の前が真っ白になった。
眩しくて思わず腕で目を覆い、少しずつ目が慣れていく。
白い。
一層の赤とも、二層の黒とも違う、どこまでも白い場所だった。
床は磨き上げた石みたいに滑らかで、ほのかに光っている。
天井はやっぱり見えない、でも暗闇じゃなかった。
見上げても見上げても、白い光がただ果てしなく続いている。
そして柱があった。
白い巨大な柱が何十本も何百本も規則正しく並んで、果てしない天井を支えている。
柱と柱の間を、金色に透き通った霊子の流れが、川みたいにゆっくりと漂っていた。
赤い滝の水は、ここで光に変わっていたのだ。
『三層です』
アイちゃんの声が小さかった。
『霊子の濃度は、現世の、数倍です。……そして』
言葉が途切れた。
アイちゃんが言葉に詰まるなんて、めったにない。
『……前方に、霊圧を感知しています』
(どれくらい?)
『……計測、できません』
その一言で、背中がぞっと冷たくなった。
柱の並木道をまっすぐに歩く。
他に道はなかった、どこを見ても白い柱と金色の霊子の流れだけで、その全部が同じ方向に向かって流れていた。
奥へ。
一歩進むごとに空気が重くなっていく。
霊子は満ちているのに息が苦しい。
何かとてつもなく大きなものがずっと先に座っていて、この空間の全部を上から押さえつけているみたいだった。
怖い、と思った。
でも足は止めなかった。
胸元の白い椿をぎゅっと握る、それだけで少しだけ呼吸が楽になる気がした。
やがて、柱の並木道が終わった。
広い、円い広間だった。
床の真ん中に金色の霊子が渦を巻いて、泉みたいに溜まっている。
地獄中から流れてきた霊力が、全部ここに集まっているんだと思う。
その泉の向こうに壇があった。
白い石の階段が何十段も上へ上へと続いていて、そのいちばん上に座っている者がいた。
大きかった。
鬼厳城さんも、一層の番人も、空座町の空を覆った大虚も比べものにならない。
座っているだけで、白い柱の半分くらいの高さがある。
黒い衣をまとっていた、裁判官が着るような重たくてゆったりとした衣。
その胸元から太い腕が二本、膝の上に置かれている。
そして、顔。
顔が、なかった。
いや、あった、でもそれは顔じゃなくて仮面みたいだった。
白くてのっぺりとして、目も鼻も口も、彫り込まれた線でしかない。
何の表情も浮かんでいない、怒っても笑ってもいない、ただそこにある。
閻魔だった。
前世のおばあちゃんが話してくれた、赤い顔で怒鳴る閻魔様とは全然違う。
もっと、怖かった。
その背後に扉があった、三つ。
閻魔の座る壇のさらに後ろ、白い壁に三つの巨大な扉が並んではめ込まれていた。
左の扉は白かった、滑らかでまっすぐで、どこか障子みたいな形をしている。
雨の夜にルキアさんたちが消えていった、あの門に似ていた。
真ん中の扉は灰色だった、何の飾りもないただの重たそうな扉。
右の扉は黒かった、黒くてひび割れていて、その隙間から乾いた砂がさらさらと零れ落ちていた。
『三つの世界に繋がる扉です』
アイちゃんが小さな声で言った。
『左が尸魂界。右が虚圏。……真ん中が、現世だと推測します』
現世。
真ん中の灰色の扉、あの向こうに空座町がある、家がある。
一兄と、夏梨と、お父さんがいる。
あの扉を抜ければ、すぐにでも。
――でも、椿さんとの約束がある。
左の白い扉、尸魂界、流魂街のいちばん南の小さな丘。
胸元の白い椿を、もう一度握りしめた。
迷いはなかった、帰るのは約束を果たしてからだ。
「――来たか」
声がした。
頭の上から降ってくるような声。
いや違う、広間全体が声になって響いていた。
白い柱が、金色の泉が、床の石が、全部同時に震えて言葉を形作っている。
閻魔の仮面の口は動いていなかった。
「一層を越え、二層を越え、番人を退けて、ここまで来たか」
感情のない声だった。
怒りも驚きも何もない、ただ事実を読み上げるみたいな声。
「――異物よ」
仮面の、彫り込まれた線でしかない目がこちらを向いた。
私を見ていなかった。
私の、胸の奥を。
アイちゃんを、見ていた。
『…………』
アイちゃんが黙った。
今までどんな相手にも、アイちゃんの存在ははっきりとはわからなかった。
椿さんでさえ「妙なもんを連れてる」としか言わなかった。
でも閻魔は違う、まっすぐにアイちゃんを見ていた。
「答えよ、異物。……汝は、何者だ」
『……私は』
アイちゃんが口を開いた。
アイちゃんの声が、私の頭の中だけじゃなく、広間全体に響いていた。
白い柱が、金色の泉が、アイちゃんの声に合わせてかすかに震えている。
この場所では、アイちゃんの声が外に届くんだ。
『私は、別の世界の神によって作られた、演算体です。名称はありません。……この方の魂に結びつき、この方の願いを叶えるために、存在しています』
「願い」
閻魔の声が広間に響いた。
『健康な体で、普通に暮らすこと。それが、この方の願いです』
「…………」
閻魔はしばらく何も言わなかった。
仮面の、彫り込まれた線でしかない目が、ただこちらを見下ろしていた。
「――では、教えよう。地獄とは、何か」
閻魔の声が、静かに広間を満たした。
「この世界は、閉じた輪だ。現世に生まれた魂は、死して尸魂界へ渡り、やがてまた、現世へと還る。その輪から零れた魂は、虚となって虚圏へ堕ち、死神に斬られて、また輪へと戻される」
金色の泉が、ゆっくりと渦を巻いた。
「だが、輪を巡るうちに、魂には穢れが溜まる。罪。恨み。執着。負の霊子。……それを、そのままにしておけば、輪は、やがて淀み、腐り、崩れる」
白い柱の間を流れる霊子が、閻魔の背後の三つの扉へと吸い込まれていくのが見えた。
「地獄は、その穢れを引き受ける場所だ。穢れた魂をここに落とし、裁き、浄め、霊子へと還し、三つの世界へと送り返す。……輪が、輪であり続けるために」
一層で、繰り返し潰されていた罪人たち。
二層で、霊力を吸われ続けていた番人たち。
全部、そのための仕組みだったんだ。
世界が壊れないための。
・・・それなら、椿さんも。
椿さんが九百年あの岩の上で眠り続けていたのも、この輪のためだったんだ。
そう思ったら、胸の奥が冷たくなった。
「我は、その輪を守る者。……世界の理を、守る者だ。……そして、汝は」
閻魔の仮面が、ほんの少しだけ傾いた気がした。
「輪の、外から来た」
『…………』
「この世界の魂は、全て、輪の中で生まれ、輪の中で巡る。だが、汝は違う。どの世界にも生まれず、どの輪にも属さず、外から、この魂に縫い付けられた」
アイちゃんが黙っていた。
「それだけならば、見過ごすこともできた。……だが、汝は、世界に触れた」
力が欲しいと願った、あの夜。
アイちゃんが、この世界に繋がった夜。
「汝は、世界を読んだ。この世界の構造を。勢力を。歴史を。……理そのものを、汝の内に写し取った」
閻魔の声に、初めて何かが混じった。
怒りじゃない、もっと冷たくてもっと重い何か。
「読まれた理は、書き換えられる。……外から来た者が、この世界の理を手に入れ、それを書き換える力を持つ。それを、何と呼ぶか、わかるか」
『…………』
「侵略だ」
「ち、違う!」
気づいたら叫んでいた。
「アイちゃんは、そんなことしない! 世界を書き換えるとか、侵略とか、そんなの、考えたこともない! アイちゃんは、ただ、私を守ろうとしてくれただけで――」
「汝の意思は、問うていない」
閻魔の声が、私の言葉を静かに断ち切った。
「問題は、できる、ということだ。……汝の内の異物は、今この瞬間にも、この世界を読み続けている。地獄に落ちてなお、我の霊圧を計り、この場所の霊子の流れを解き、三つの扉の行き先を推し量った」
言葉が出なかった。
その通りだったから。
アイちゃんはずっと、全部観測していた、それがアイちゃんのいつものことだった。
それが、この世界にとっては侵略なんだ。
悔しかった。
アイちゃんがずっと私のためにしてくれていたことを、そんなふうに呼ばれるのが。
でも、言い返す言葉が見つからなかった。
「――裁定する」
閻魔が言った。
広間の空気が、一瞬で凍りついた。
「異物は、この世界の理に属さぬ。ゆえに、罪である。罪あるものは、消えねばならぬ」
「だがその異物に付けられた無垢なる魂よ」
閻魔の仮面が、私を見た。
今度はアイちゃんじゃなく、私を。
「汝には、罪がない」
「…………え」
「汝は、この世界の輪の中で生まれた魂だ。異物を縫い付けられたのは汝の咎ではない。……異物を、差し出せ」
この世界の輪の中で、生まれた魂。
一瞬、意味がわからなかった。
私は、前の世界で死んで、ここに生まれ直したはずなのに。
あの白い光の中で、神様みたいな誰かにそう言われたはずなのに。
(……アイちゃん?)
アイちゃんは、何も言わなかった。
いつもならすぐに返ってくるはずの声が、その時だけ、少しだけ遅れた気がした。
閻魔の太い腕が、ゆっくりと持ち上がった。
大きな手のひらが、私の方へと差し出される。
「異物を差し出せば、汝は、ここで浄められる。そして、扉を抜け、還るべき場所へと還る。……汝の願いは、叶う」
健康な体で、普通に暮らす。
家に帰って、朝起きて、味噌汁を作って、一兄と夏梨とお父さんとご飯を食べて。
アイちゃんを、差し出せば。
『……マスター』
アイちゃんの声が、小さく聞こえた。
広間に響く声じゃない、いつもの、私の頭の中だけに聞こえる声。
『閻魔の提案は、合理的です』
「…………」
『私が消えれば、マスターは帰れます。マスターの願いは、叶います。……私の第一の使命は、マスターの願いを叶えることです。この選択は、その使命に、合致しています』
アイちゃんの声はいつも通り平坦だった。
でもその平坦さが無理をしているって、私にはわかった。
雨の夜の嘘を打ち明けた時と、同じ声だった。
迷いは、なかった。
考えるまでもなかった。
「――やだ」
私は言った。
閻魔の手のひらを、まっすぐに見上げて。
「アイちゃんは、渡さない」
「…………」
「アイちゃんは、異物なんかじゃない。生まれた時から、ずっと一緒にいた。前の世界で死んだ時から、ずっと、ずっと、一緒にいてくれた。私の、一部なんだよ」
胸元の白い椿を握りしめる。
「それに、アイちゃんのいない普通なんて、私の普通じゃない」
一兄がいて、夏梨がいて、お父さんがいて。
そしてアイちゃんがいる。
それが、私の普通だ。
弦月の人に答えた時に、やっとわかったんだ。
私の普通は、私が決める。
『マスター……』
「消すなら、二人一緒に消してみればいい」
声は震えていた、でも目は逸らさなかった。
「私は、二人で帰る」
閻魔はしばらく、何も言わなかった。
差し出されていた手のひらが、ゆっくりと膝の上へと戻っていった。
「……そうか」
感情のない声だった。
「ならば共に消えよ」
閻魔の仮面の額に、光が灯った。
白い光、小さな針の先みたいな光が、ゆっくりと大きくなっていく。
広間の霊子が一斉にその光へと吸い寄せられていった。
金色の泉が渦を巻いて壇の上へと昇り、白い柱の間を漂っていた霊子の流れが、全部閻魔の額へと集まっていく。
『マスター!』
アイちゃんの声が鋭くなった。
『霊圧が、計測限界を超えています。……あれは、攻撃ではありません。存在そのものを、否定する光です』
(どういうこと!?)
『あの光に触れたものは、この世界の理から、外されます。……消えるのではなく、最初から、なかったことになります』
背中が凍りついた。
最初から、なかったことに。
アイちゃんも、私も。
「――裁定」
閻魔の声が響いて、額の光が放たれた。
考えるより先に足が動いていた、何千回も足に覚えさせた動きをしてその場から動く。
光が、さっきまで私がいた場所を通り過ぎていく。
音はしなかった。
光が通った後の床に、穴が開いていた。
いや穴じゃない、何もなかった。
白い石の床が光の通り道の形にすっぽりと消えていて、焦げ跡も破片も何もない。
最初から、そこに床なんてなかったみたいに。
「……っ」
息が止まりそうになった。
あれが当たったら、私もああなる。
閻魔の額に、また光が灯り始めていた。
『マスター』
アイちゃんの声がした。
静かな声だった。
『ひとつだけ、方法があります』
(方法……?)
『閻魔の裁定は、この世界の理に属さないものを、罪とします。私が罪とされるのは、私が、外から来た異物だからです』
二発目の光が放たれた。
瞬歩で避けると、白い柱が一本、光の通り道の形にすっぽりと消えた。
『ならば、私が、この世界のものになればいい』
(……どうやって?)
『マスターの魂の中には、この世界の力が、三つあります。滅却師。死神。そして、虚』
胸の奥の、ずっと奥。
黒くて獰猛な光が、鎖に縛られたみたいにじっと息を潜めている。
地獄に落ちてから一度も触れていなかった、三つ目の力。
『虚は、この世界の輪から零れた魂です。輪の外のものではありません。この世界の理の中で生まれた、この世界のものです』
(まさか――)
『私が管理している虚の力を、私自身の中に、取り込みます。……私の構造に、この世界の理を、縫い込みます』
三発目の光。
瞬歩、今度はぎりぎりだった。
死覇装の袖の端が光にかすめられて、すっぽりと消えた。
(そんなことしたら、アイちゃんは、どうなるの)
『わかりません』
アイちゃんは正直だった。
『虚の力は、獰猛です。取り込めば、私の演算は、変質する可能性があります。……今の私とは、違うものになるかもしれません』
(そんなの――)
『ですが』
アイちゃんの声が、私の言葉を遮った。
今までで一番、はっきりとした声だった。
『私は、マスターと、二人で帰りたいのです』
瞬歩の途中で、足が止まりそうになった。
『これは、マスターの願いを叶えるための、合理的な判断ではありません。……私の、願いです』
アイちゃんの、願い。
生まれてからずっと、私の願いを叶えるためだけに動いてきたアイちゃんが、初めて自分の願いを口にした。
『マスターが、二人で帰ると言ってくれたので。……私も、そうしたいと、思いました』
涙が勝手に溢れてきた。
怖かった。
アイちゃんがアイちゃんじゃなくなってしまうかもしれない。
でも、それ以上に嬉しかった。
アイちゃんが、自分で選んでくれたことが。
それなら、私がすることはひとつだけだ。
四発目の光が来た。
避けながら叫んだ。
「――うん! やろう、アイちゃん! 二人で、帰ろう!」
『はい、マスター』
胸の奥に意識を向けた。
三つの光が浮かんでいた。
白くてまっすぐな光、滅却師の力。
三層の霊子に満たされて、今は眩しいくらいに輝いている。
橙色の燃える光、死神の力、焔天弦月。
椿さんがくれた霊力で、今もあたたかく燃えている。
そして、黒くて獰猛な光。
鎖に縛られて、ずっと奥で息を潜めていた光。
アイちゃんが、その鎖に手を伸ばした。
見えたわけじゃない、でもわかった。
アイちゃんが、鎖を一本ずつほどいていく。
黒い光が、目を覚ました。
――熱い。
違う、冷たい。
どっちなのかわからなかった。
胸の奥から、何かとてつもなく大きなものが這い上がってくる。
叫びたい、暴れたい、目の前のもの全部を壊したい。
そんな衝動が体中を駆け巡る。
「っ、ぐ……ぁ……!」
膝が崩れた。
『――取り込みます』
アイちゃんの声がした。
その声と一緒に、暴れていた黒い光がすうっと引いていった。
アイちゃんが引き受けたんだ。
私の代わりに、黒くて獰猛な光を、全部自分の中に。
『……っ』
アイちゃんの声が、ノイズ混じりに揺れた。
苦しそうだった。
アイちゃんが苦しそうな声を出すのを、私は初めて聞いた。
(アイちゃん!)
『だい、じょうぶ、です。……演算を、再構成しています。この世界の理を、私の中に、縫い込んで……』
何もできなかった。
アイちゃんが一人で苦しんでいるのに、私はただ膝をついて、名前を呼ぶことしかできない。
だから呼び続けた、ここにいるよって伝えるために。
首元で、何かが動いた。
狐のお面だった。
地獄に落ちる時からずっと首にぶら下がっていた、夏祭りの屋台で買った白い狐のお面。
一層の熱で、耳の先が焦げて黒くなっていた。
そのお面が、ひとりでに浮き上がった。
黒い霊圧がお面を包み込み、プラスチックのお面が溶けていく。
溶けて、形を変えて、白く硬く、骨みたいな質感に変わっていく。
そしてそれは、私の顔に張り付いた。
冷たかった。
でも、苦しくはなかった。
顔を覆う白い仮面に手で触れると、狐の形をしていた。
尖った耳、細長い鼻先、目の穴の周りに赤い線がすうっと引かれている。
椿の花と、同じ色の赤だった。
『――再構成、完了』
アイちゃんの声がした。
ノイズは消えていた。
いつもの平坦な声、でもほんの少しだけ何かが違った。
深くなったような、重くなったような。
『私は、この世界の理を、取り込みました。……私は、もう、輪の外のものではありません』
「アイちゃん……アイちゃん、だよね?」
『はい、マスター』
少しの間。
『……私は、私です』
その答えに、仮面の下で涙が溢れた。
よかった、本当によかった。
アイちゃんは、アイちゃんのままでいてくれた。
「――――」
広間が震えた。
閻魔の額の光が消えていた。
無表情の仮面が、まっすぐに私を見下ろしていた。
「……穢れを、取り込んだか」
声が変わっていた。
感情のない声じゃなかった、初めてそこにはっきりとした何かが宿っていた。
「輪から零れた穢れを、自ら取り込み、理に縫い込み、この世界のものに成りすますか」
広間の霊子が、ざわざわと波打ち始めた。
「――それは、外から来た侵略よりも、なお悪質な侵略だ」
閻魔が、壇の上で立ち上がった。
座っていた時でさえ、白い柱の半分の高さがあった。
立ち上がったその姿は、果てしない天井に頭が届きそうだった。
黒い衣が、ばさりと翻った。
「異物よ。そして、異物を庇う魂よ」
額に、再び光が灯った。
さっきまでとは比べものにならない光だった。
「――この地獄の全てをもって、汝らを、裁く」
膝が震えそうになった。
でも、もう逃げる理由はなかった。
アイちゃんは、この世界のものになった。
私たちは、ここにいていいんだ。
なら、あとは二人で帰るだけだ。