ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
光が降ってきた。
一本じゃない、閻魔の額から放たれた光が空中で何十本にも分かれて、雨みたいに広間全体に降り注ぐ。
気が付いた時には瞬歩で避けていた。
体が驚くほど軽かった。
仮面をつけてから何かが変わっていた、足に溜まる霊力が今までと違う。
半分だけ溜めたつもりが体は倍の距離を跳んでいた。
光の雨の隙間をすり抜ける。
『虚の力が、マスターの身体能力を底上げしています』
アイちゃんの声は、いつもより少し低く、深く響いた。
『制御は私が行っています。暴走はさせません』
(ありがと、アイちゃん)
避けた後ろで、光が床を撃ち抜いていく。
――でも。
「……あれ?」
光が当たった床が砕けていた、さっき見たく消えていなかった。
白い石の床が普通に粉々に砕けて、破片が飛び散っている。
『……観測しました』
アイちゃんの声が、少しだけ驚いていた。
『閻魔の裁定はもう私たちをこの世界から外すことが出来なくなっているようです』
(どういうこと?)
『裁定は、この世界の理に属さないものを罪として消す力です。……ですが私は虚を取り込み、この世界の理を私の中に縫い込みました。私はもう、輪の外のものではありません』
(じゃあ……)
『裁定の光は、もう私たちを「なかったこと」にはできません。……あの光はすでにただの霊圧の塊です』
ただの霊圧の塊。
それでも床を粉々に砕く威力だった、当たれば痛いどころじゃ済まない。
でも当たっただけでこの世界から消されるわけではなくなった。
なかったことには、されない。
胸の奥で何かがほどけた気がした。
さっきまで、あの光が怖かったのは、痛いからじゃなかった。
私もアイちゃんも、最初からいなかったことにされるのが怖かったんだ。
「……当たっても、消えないなら」
仮面の下で、私は唇を噛んだ。
「恐れずに戦える」
閻魔も気づいていた。
光の雨が止んだ。
壇の上で立ち上がった閻魔の巨体がゆっくりとこちらへ向き直る。
無表情の仮面が、私を見下ろしていた。
「……裁定が、届かぬか」
広間全体が震えるように響く声。
「穢れを取り込み、理に紛れ込み、裁きの外へ逃れたか。……やはり、汝らは、侵略者だ」
閻魔が太い腕を持ち上げた。
広間中の霊子が、その腕に集まり始める。
金色の泉が渦を巻いて閻魔の手のひらへと昇り、白い柱の間を漂っていた霊子の流れが、一本残らず閻魔へと吸い寄せられていく。
地獄中から集められた霊力、罪人たちの、番人たちの、椿さんの。そのすべての力。
「ならば」
閻魔の手のひらに光が凝縮していく。
白くて眩しくて、見ていられないくらいの光。
「――力で、潰すまで」
そのただの暴力が、力の本流が放たれた。
さっきまでの光の雨とは全然違う、一本の巨大な光の奔流。
広間の天井から床まで、石柱の何本分もの太さの極光が、まっすぐ私に向かって落ちてくる。
『――回避を!』
アイちゃんの声が聞こえる前に瞬歩で光が届かない場所まで移動する。
光の奔流が、私のすぐ横を通り過ぎていった。
音が消え、次の瞬間、衝撃が来た。
体が吹き飛ばされて、磨かれた床を何十メートルも転がり、石柱の一本に背中から叩きつけられる。
「が……っ」
仮面の下で息が詰まった。
痛みをこらえて振り返る。
極光が落ちた場所に先ほどまでとは違うが、同じ現象が起こったかのように巨大な穴が開いていた。
床のずっと下まで、底が見えないくらい深い円い穴。
その縁が白く溶けて、ぐつぐつと煮えたぎっていた。
『……霊圧を計測しました』
アイちゃんの声が硬かった。
『今の一撃は、これまで観測した全ての霊圧の総量を大きく上回る量です』
――ああ、それはつまり
直撃していたら、存在は消えはしなくても体は跡形も残らなかっただろうという事。
あの閻魔はそんな力を簡単に使えてしまう。
閻魔の手のひらに、また光が集まり始めていた。
地獄中の霊子が、尽きることなく閻魔へと流れ込み続けている。
(アイちゃん)
柱にもたれたまま、それでも私は聞いた。
(今の私で、勝てる?)
少しの間。
『……現在の状態では、勝率は、限りなくゼロに近いです』
アイちゃんは約束した通りに嘘をつかなかった。
(そっか)
不思議と怖くなかった。
だってアイちゃんは、「現在の状態では」って言った。
(じゃあ、今の状態じゃなかったら?)
アイちゃんが黙った。
でもそれは、迷っている沈黙じゃなかった。
計算している沈黙だった。
長く一緒にいるから、それくらいはわかる。
『……マスター』
やがて、アイちゃんが言った。
『提案が、あります』
静かにけれど力を込めて彼女はその言葉を紡ぐ。
『三つの力を、同時に解放します。マスターの中にある、滅却師完聖体、卍解【焔天弦月】そして交わり力を開放させた虚。このマスターの中にある三つの力の全て』
(三つ、全部……)
『本来、三つの力は互いに反発します。滅却師の霊子と、死神の霊力と、虚の霊力は性質が違いすぎます。特にマスターの力の基盤となっている滅却師と虚の力の反発力はあまりにも大きい。同時に解放すれば、魂が内側から引き裂かれる可能性があります』
(……だから、今まで分けてたんだね)
『はい。マスターが生まれた時から、私は三つの力が混ざらないように、分割して管理してきました』
生まれ直して黒崎遊子になったその瞬間から、いや神様と出会ってこの世界に魂だけの状態で来た時からアイちゃんはずっと私の中で、私に害が及ばないように三つの力を管理してくれていたんだ。
小さく感謝しても仕切れないなと声を零す。
『ですが今なら、今の私ならば、今のこの環境ならばそれができます』
アイちゃんの声に、少しだけ力がこもった。
『三層には霊子が満ちています。椿宗玄から受け取った霊力もまだ残っています。そして私は、この世界の理を取り込みました。三つの力の全ての理を、今の私は理解しています』
(アイちゃん……)
『制御は、私が全て引き受けます。三つの力が反発しないように、一つ一つ繋ぎ合わせます。マスターの魂には、負担をかけません』
そこでアイちゃんは、少しだけ言葉を区切った。
『――ですので、マスターは、射ることだけを、考えてください』
閻魔の手のひらに、二発目の光が満ちていた。
さっきより大きい、地獄中の霊子がまだ尽きることなく流れ込み続けている。
「やろう、アイちゃん」
私は柱から背中を離して立ち上がる、仮面の下で閻魔をまっすぐに見上げた。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、もう一人じゃない。違うそうではない、最初から、一人じゃなかったんだ。
「私たちの全部で戦おう」
『――了解しました』
アイちゃんの声が変わった。
詠唱の時と同じだった、低くて静かで、一つ一つの音に重みのある声。
でも紡がれているのは、古い言葉じゃなかった。
私の名前だった。
私の中にある三つの力。
最初に光が来た。
背中から白い霊子の光が噴き出した。
霊子でできた光の翼、精神世界で初めて完全解放した時と同じ。
でもあの時よりずっと大きくて、ずっと眩しい。
三層に満ちた霊子が翼に吸い寄せられて、一枚一枚の羽根を形作っていく。
「滅却師完聖体」
アイちゃんが名前を呼んだ瞬間、頭の上に光の輪が浮かんだ。
次に炎が来た。
胸の奥の橙色の火が燃え上がる。
腰の弦月の刀身がほどけて、炎になって伸び一本の矢になる。
鏃の先に小さな三日月が燃えている。
背後に二つの大弓が現れた。
白い光の翼と、橙色の炎の大弓が重なり合う。
反発はしなかった。
光の翼の先端に炎が灯り、炎の大弓の弦に光の粒がきらきらと絡みついた。
アイちゃんが繋いでいるんだ。
「卍解【焔天弦月】」
最後に、仮面が熱くなった。
狐の仮面、目の周りに引かれた椿と同じ色の赤い線。
その赤い線が、すうっと伸びていった。
目の端からこめかみへ、頬へ、仮面の縁を越えて首筋へ。
黒い霊力が体の奥から溢れ出す。
獰猛で荒々しくて、目の前のもの全部を壊したくなるような霊力。
でもそれは暴れなかった。
白い光と橙色の炎の間をするすると縫うように流れて、二つを繋ぎ止めていた。
三つの力が、一つになっていく。
「――虚化」
アイちゃんが、最後の名前を呼んだ。
『理を読み、束ね、全てを一つに。その名は】
【ゼル・アストラ】
最後の言葉だけ、聞いたことのない響きだった。
日本語でもない、どこの国の言葉でもない気がした。
でもその響きが胸の奥に落ちた瞬間、三つの力がかちりと噛み合った。
私は自分の姿を見下ろした。
黒い死覇装、その背中に白い光の翼、翼の先端に橙色の炎。
頭の上に光の輪、背後に炎の大弓が二つ、顔には赤い線の走る狐の仮面。
手の中には一本の矢。
炎でできた矢、その表面を白い光の粒が流れて、黒い霊圧が縁取っていた。
滅却師の光、死神の炎、虚の闇。
「……変な格好」
思わず呟いていた。
『同意します』
(アイちゃんまで)
『ですが』
アイちゃんの声が、少しだけ笑っているように聞こえた。
『とても、マスターらしいと思います』
椿さんもそう言っていた。
死神の刀を滅却師の弓で撃つなんて変だ、でもお前らしい。
三つ全部持ってる奴が、ひとつの型に収まるわけがねえ、それでいいって。
胸の奥が熱かった。
苦しくなかった、重くなかった。
アイちゃんが全部支えてくれていた。
光も、炎も、闇も。そのすべてが私を示すものだった。
閻魔の手のひらから二発目の極光が放たれた。
私は避けなかった。
手の中の矢を構えると、背後の二つの大弓が私の動きに合わせて弦を引き絞り、光の翼が大きく広がる。
狙うのは、その奔流の真ん中。
「――――っ!」
放った。
三本の矢が空を裂いた。
手元の一本と背後の二本、それが空中でぱっと分かれた。
十本に、百本に。
光の翼から舞い散った羽根の一枚一枚が矢に変わって、後に続く。
数えきれない矢が、極光の奔流に突き刺さった。
一本目が奔流の表面を削り、二本目がその傷を広げた。
三本目、四本目、五本目、次々に同じ場所へ、寸分違わず同じ一点へ。
『波状射撃。全弾、同一点に収束させています』
アイちゃんの声。
極光にひびが入った。
ひびが広がって、砕けた。
白い奔流が真ん中から粉々に砕け散って、光の破片が雪みたいに広間に降り注いだ。
届いた。
椿さんの時は、一本も届かなかったのに。
でも浮かれる気持ちはなかった、これで終わるはずがないとわかっていたから。
「――――」
閻魔が動きを止める。
無表情の仮面が、砕けた光の破片の向こうから私を見下ろしていた。
何も言わなかった。
でも広間の霊子が、ざわざわと激しく波打ち始めた。
閻魔が両腕を持ち上げた。
今までとは違う、片手じゃなく両手。
広間の霊子が全部閻魔へと流れ込んでいく。
金色の泉が干上がっていく。
白い柱の間を漂っていた霊子が、一粒残らず吸い上げられていく。
それだけじゃなかった。
閻魔の背後の三つの扉、その隙間から霊子が逆流してきていた。
現世へ、尸魂界へ、虚圏へ、送り出されるはずだった浄められた霊子が、全部閻魔の両手へと引き戻されていく。
『……閻魔が、三つの世界へ送るはずの霊子まで、全て、集めています』
アイちゃんの声が震えていた。
『霊圧、計測不能。私の計測ですら図れないほどの、いえ、別に次元に到達している霊力の本流』
閻魔の両手の間に、光が生まれた。
白くなかった、黒かった。
白い光があまりにも凝縮されすぎて、黒く見えているんだと思う。
黒い光の球、その縁がぎざぎざと空間そのものを歪ませていた。
広間の空気がその球に向かって吸い込まれて、石柱が軋んでひび割れていく。
閻魔の声が響いた。
今度は広間全体からじゃなかった、閻魔の仮面の彫り込まれた線でしかない口が、初めて動いていた。
「――輪を、乱す者よ」
黒い光の球が膨れ上がる。
「理を、侵す者よ」
広間の天井がひび割れて、崩れ始める。
「この世界の、全ての穢れと共に――」
最後に私に視線を向け、罪人に向けその審判を下す。
「――消えよ」
黒い光が放たれた。
一筋の奔流じゃなかった、波だった。
広間の端から端までを全部呑み込むような、黒い光の波。
石柱を次々と根元から消し飛ばしながら、押し寄せてくる。
逃げ場はなかった。
瞬歩でも飛廉脚でも、どこにも逃げられない。
『マスター』
アイちゃんの声が静かだった。
『正面から、撃ち抜くしか、ありません』
(……うん)
不思議と怖くなかった。
手の中に矢がある、背中に翼がある、後ろに大弓がある、顔に仮面がある。
そして、胸の中にアイちゃんがいる。
これ以上、何が要るんだろう。
(アイちゃん。全部、ちょうだい)
『はい。……全部、渡します』
もう、どれが光で、どれが炎で、どれが闇なのかもわからなかった。
それでも、不思議と恐ろしくはなかった。
三つとも、私の中にあったものだから。
矢を構える。
もう何か月もやってきた動作だ。
背後の大弓が、弦を限界まで引き絞る。
光の翼がばさりと羽ばたいて閉じていき、翼の羽根が一枚残らず光の粒になって、私の手の中の矢へと吸い込まれていく。
頭の上の光の輪がほどけて、矢の鏃に巻きついた。
仮面の赤い線が首筋から腕へ、指先へと伸びて、矢の羽根に黒い炎を灯した。
胸の奥の橙色の火が全部矢の中に流れ込んでいく。
椿さんがくれた霊力が私に力をくれた。
全部、全部、一本の矢に。
光の矢でも、炎の矢でも、闇の矢でもなかった。
三つの色が溶け合って、一つになった矢。
さぁ顔をあげましょう黒崎遊子、ここまでのすべての道を作ってくれた2人に報いる為に。
私が私らしくある為に、願いをかなえるために。
「――――射抜け」
私は力強くその言葉を口にする。
もう黒い光の波が、目の前まで迫っていた。
それでもそんな力なんてもう怖くはなかった。
「『焔天弦月』!!」
指を放した。
音が消えた。
色が消えた。
世界が真っ白になった。
――どれくらい経ったのか。
気がつくと、私は白い床の上に膝をついていた。
光の翼は消えていた、頭の上の輪も、背後の大弓も。
手の中には、元の刀に戻った弦月が握られていた。
狐の仮面だけが、まだ顔に張り付いていた。
顔を上げる。
黒い光の波は、なかった。
広間の半分が消えていた。
石柱が根元から何十本も跡形もなくなっていて、天井が大きくひび割れて、その隙間から白い光が細く差し込んでいる。
そして壇の上に、閻魔が立っていた。
胸に穴が開いていた。
黒い衣の真ん中に、ぽっかりと、向こう側の白い壁が見えるくらいの大きな穴。
無表情の仮面にひびが入っていた、額から顎まで、まっすぐ縦に一本。
「…………」
閻魔は何も言わなかった。
その巨体が、ゆっくりと後ろへ傾いた。
干上がりかけていた金色の泉の、その残りの中へと。
閻魔の体が泉に沈んでいく。
黒い衣が金色の霊子に溶けてほどけていき、巨大な腕が、ひびの入った仮面が、少しずつ少しずつ霊子の中へと還っていく。
消えるんじゃない。
眠るように、沈んでいくんだと思う。
仮面が最後に、泉の表面に残った。
ひびの入った、彫り込まれた線でしかない口が、もう一度だけ動いた。
「……異物よ」
掠れた声だった。
「地獄は、汝を、忘れぬ」
仮面の彫り込まれた目が、まっすぐに私を見ていた。
「いずれ……必ず……裁く」
そして仮面も、金色の泉の底へと沈んでいった。
広間が静かになった。
「……勝った、の?」
声が掠れていた。
『閻魔の霊圧、観測できません。……泉の底に沈んでいます』
アイちゃんの声も、少しだけ疲れているように聞こえた。
『消滅はおそらくしていません。閻魔はこの地獄そのものです。地獄がある限りいずれ現れます』
(そっか)
『ですが、今は、眠っています。……扉を、守る者はいません』
勝った、という実感はなかった。
いずれ必ず裁く、その言葉が耳の奥に残っていた。
でも今は、それでいいと思った。
今は帰れる。
膝ががくがくと震えていた。
立ち上がろうとしてよろけ、弦月を杖にしてなんとか体を支える。
顔に手を触れると、狐の仮面がまだ張り付いていた。
「アイちゃん、これ、取れる?」
『はい。解除します』
仮面が、ふっと軽くなった。
顔から離れた仮面は、私の手のひらの上で白い霧みたいにほどけて、すうっと胸の奥へと溶けていった。
『虚の力は私の中に、取り込まれています。力が必要な時にいつでも出せます』
(……そっか)
壇の後ろの、三つの扉の前に立つ。
左の白い扉、尸魂界。
真ん中の灰色の扉、現世。
右の黒い扉、虚圏。
真ん中の扉を見上げた。
灰色の、何の飾りもない重たそうな扉。
その向こうに空座町がある、家がある、台所がある。
私じゃない私が、今もきっと味噌汁を作っている。
手を伸ばせば届く、この扉を開ければ帰れる。
「…………」
本当は、今すぐ開けたかった。
ずっと帰りたかった場所がそこにある。
胸元の白い椿に、そっと触れた。
雪みたいに白い小さな椿、椿さんが最後に咲かせた花。
――それを、小雪の墓に、供えてくれねえか。
――行くよ! 絶対、行く!
約束、したんだ。
「……ごめんね」
真ん中の扉に、小さく頭を下げた。
「ただいまは、もうちょっとだけ、待っててね」
『マスター。経過時間を、報告します』
アイちゃんが言った。
『地獄に落ちてから、約二百六十二日。現世の時間に換算すると、約七日です』
「七日……」
二百六十二日。
一層の赤い荒野で目を覚ました日から。
番人から逃げ回って、椿さんの洞に転がり込んで、刀の握り方を教わって、弦月の名前を聞いて。
二層の黒い迷路で、数えきれないくらい瞬歩をやって、詠唱が全然覚えられなくて、鬼厳城さんに負けて、勝って。
椿さんと、戦って。
全部で、二百六十二日。
「……長かったね」
『はい。長かったです』
「アイちゃん」
『はい』
「一緒にいてくれて、ありがとう」
少しの間。
『……マスターと一緒にいることは、私の、願いですので』
アイちゃんの声は平坦だった。
でもその平坦さの奥に、ちゃんとあたたかいものがあった。
虚を取り込んで、少しだけ深くなった声。
それでも、アイちゃんはアイちゃんだった。
左の白い扉の前に立つ。
障子みたいな形をした、白くて滑らかな扉。
雨の夜に、ルキアさんたちが消えていった門によく似ている。
手をかけて、振り返った。
広間のずっと向こう、白い柱の並木道のさらに向こう。
螺旋の階段が、上へ上へと続いている。
その上に二層がある。
黒い迷路の北の通路、目を閉じて眠っている鬼厳城さん。
赤い滝の手前のすり減った岩、自分で目を閉じて眠っている椿さん。
その上に一層がある。
赤い荒野、椿の咲くひんやりとした洞。
「――行ってきます」
声に出して言った。
誰にも届かないかもしれない、でも言いたかった。
「椿さん。……行ってきます」
白い扉を押した。
思っていたより、軽かった。
扉の向こうから風が吹き込んでくる。
やわらかい風だった。
地獄の焼けるような熱気でも、重たく湿った空気でもない。
草の匂いがした、土の匂いがした、どこか遠くで水の流れる音がした。
光が溢れてくる。
白い光じゃない、やわらかい昼間の光。
太陽の光だった。
二百六十二日ぶりの。
泣きそうになって、でも泣かなかった。
泣くのは、ちゃんと約束を果たしてからにしよう。
「……アイちゃん」
『はい、マスター』
「行こう」
『はい』
胸元の白い椿をそっと手で包んで、腰の弦月をぎゅっと握って。
私は、扉の向こうへと足を踏み出した。