ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
番外編として「extra 落椿」を後日投稿します。
一応構想として破面編→消失編→千年血戦編まで考えてプロットまでは出来ています。
暇つぶしに読んでいただけたら嬉しいです。
扉を抜けた瞬間、足の裏にやわらかいものが触れた。
草だった。
黒い岩でも白い石の床でもない、青くて少し湿っていて、踏むとふわりと沈む草。
顔を上げる。
空が青かった。
赤くない、黒くない、白くもない。
どこまでも高くて、どこまでも透き通った青い空。
その真ん中に太陽があった。
まぶしくてあったかくて、まともに見上げられないくらいの本物の太陽。
白い雲がゆっくりと流れていて、風が吹いていた。
草の匂いがした、土の匂いがした、どこか遠くで鳥が鳴いていた。
「…………」
膝から力が抜けていく。
草の上にぺたんと座り込んで、そのまま仰向けに倒れ込む。
背中に草の感触、顔に太陽の光。
目を閉じても、まぶたの裏が明るかった。
「……あったかい」
声が震えた。
涙が勝手に目の端から溢れて、耳の方へと流れていく。
泣くのは約束を果たしてからにしようって、扉の前で決めたばかりなのに。
・・・でも、これくらいは許してほしいと思う。
二百六十二日。
赤い空の下で、黒い迷路の中で、白い神殿の中で、一度も見られなかった綺麗な青空だった。
『マスター』
アイちゃんの声がした。
『……泣いていますか』
「泣いてない」
『泣いています』
「泣いてないってば」
袖でぐしぐしと顔を拭いた。
椿さんが繕ってくれた左の袖、赤い花びらが縫い込まれたところが少しだけ湿った。
『……私も、少しだけ同じ気持ちです』
「アイちゃんも?」
『太陽の光を観測するのは、二百六十二日ぶりです。……演算の一部が、その観測データに必要以上に占有されています』
「それ、泣いてるってことじゃない?」
『わかりません』
思わず笑ってしまった。
仰向けのまま、空に向かって声を出して笑う。
地獄でも何度か笑った、でもそれは泣かないために笑っていたのだと思う。
今のは違った。
本当に可笑しくて、嬉しくて笑っていた。
しばらくして体を起こした。
振り返ると、さっき通ってきた白い扉はもうどこにもなかった。
ただ草の生えたなだらかな丘が広がっているだけだった。
『扉は閉じました。……閻魔が目覚めない限り、こちら側から開くことはないと推測します』
「そっか」
もう戻れない。
戻りたいわけじゃない、でも少しだけ胸がきゅっとした。
あの扉の向こうに椿さんがいる、鬼厳城さんがいる。
二人とも、もう目を閉じて眠っている。
胸元の白い椿にそっと触れた。
花びらはひんやりとしていて、地獄を抜けても萎れていない。
椿さんが最後に咲かせた時と同じように、雪みたいに白かった。
「アイちゃん、ここって尸魂界のどのへんかわかる?」
『世界に接続した時に得た情報と、太陽の位置から推測します』
アイちゃんが少しだけ考えるような間を置いた。
『尸魂界の中心には、瀞霊廷と呼ばれる死神たちの住む区域があるとされています。その周囲を、流魂街と呼ばれる魂たちの町が、東西南北に広がっているとされています。……中心から離れるほど、町は荒れて治安が悪くなるそうです』
「椿さんが言ってた、いちばん南の端っこって……」
『南の流魂街の、最も外側です。現在地は瀞霊廷から見てやや南東。目的地までは、かなりの距離があります』
「瞬歩でどれくらい?」
『マスターの今の瞬歩なら、休みながらで半日程度です』
半日。
地獄の二百六十二日に比べたら、なんてことない。
立ち上がろうとした、その時だった。
ずん、と空気が揺れた。
遠く多分北の方から。
地鳴りとも違う、もっと重くて、もっと大きな何かが空を伝って響いてくる。
『――霊圧です』
アイちゃんの声が張り詰めた。
『北の方角、瀞霊廷が有ると思われる方向です。……複数の巨大な霊圧が、ぶつかり合っています』
北の空を見上げる。
青い空のずっと向こう、地平線の近くに、白い壁みたいなものがうっすらと見えた。
その上の空が、ときどきちかちかと光っている。
その光が誰かと誰かが戦っている光だって、なぜかわかった。
『霊圧の一つに、照合があります』
アイちゃんが言った。
心臓がどきりと跳ねた。
『……黒崎一護です』
一兄。
一兄が、あそこにいる。
ルキアさんを助けに、あの白い羽織の人がいる場所に。
「アイちゃん、一兄大丈夫なの!?」
『距離が遠すぎて、詳細はわかりません。……ですが霊圧は強いです。現世にいた頃とは、比べものにならないほど』
「強い……」
『雨の夜の白い羽織の死神と、同じ桁に近づいています』
息を呑んだ。
一兄も強くなってるんだ。
私が地獄にいた間に、浦原さんの駄菓子屋の地下でぼろぼろになって帰ってきた、あの日々の間に。
北の空がまた、ちかりと光った。
行きたかった。
今すぐ瞬歩であそこまで飛んでいきたかった。
一兄の隣に立って、私も戦えるよって言いたかった。
今の私なら、きっと一兄の背中を守れる。
そう思った瞬間、足が勝手に北を向きかけた。
――胸元の白い椿が、風に小さく揺れた。
「……ねえ、アイちゃん」
『はい』
「今、一兄のとこに行ったら、どうなる?」
アイちゃんはすぐには答えなかった。
『……瀞霊廷には、護廷十三隊の死神が大勢います。マスターの霊圧は、地獄で大きく変化しました。死神と滅却師と虚の力を、全て持つ存在として観測されるでしょう』
「…………」
『その場合、尸魂界はマスターを突然出現した脅威として認識する可能性があります。……黒崎家にも、その目は向く可能性はゼロではありません。偽装は出来なくはないですが、それでもリスクは無視できません』
わかってた。
聞く前から、わかってた。
雨の夜にアイちゃんが嘘をついてまで私を止めた理由は、今も変わっていない。
・・・それに、本当の理由はそれだけじゃなかった。
「それにさ」
私は北の空から目を逸らして、南の方角を向いた。
「約束、まだ果たしてないし」
胸元の白い椿を、手のひらでそっと包む。
「一兄なら大丈夫。……一兄は、そういう人だから」
ぼろぼろにされても、それでも行く人。
目の前で誰かが困っていたら、終わるまで絶対に離れない人。
義理堅いのが一兄のいいところで、私の好きなところ。
「だから、私は私の約束を守る」
『……はい』
アイちゃんの声が、少しだけやわらかくなった。
『とても、マスターらしい判断だと思います』
「でしょ」
北の空がもう一度、ちかりと光った。
私はそれに背を向けて、南へ地面を蹴る。
――一兄、頑張ってね。
帰ったら、今度こそちゃんと言うから。
瞬歩で地面を蹴る。
草原を抜けて林を抜けて、小川を飛び越える。
三層の霊子に満たされていた時ほどじゃないけど、尸魂界の空気にも霊子がたっぷり含まれていて、足に溜まる霊力が軽かった。
しばらく走ると町が見えてくる。
木造の低い家々がぎっしりと並んでいた。
瓦屋根、土の道、軒先に干された洗濯物、井戸端で話し込む人たち、走り回る子どもたち。
昔の日本みたいだと思った。
前世で病院のベッドの上から見ていた、時代劇の町並みに似ている。
「ここが、流魂街……」
『はい。瀞霊廷に近い地区は、比較的治安が良いとされています』
死覇装のまま町の上を飛び越えると、下からぽかんと見上げてくる顔があった。
小さな女の子が私を指さして、隣のお母さんの袖を引いている。
「おかあさん、しにがみさま! ちっちゃいしにがみさま!」
「……ちっちゃい言うな」
小さく呟いて、私は速度を上げた。
『マスター。死覇装は、ここでは目立ちます』
(わかってるけど、他に着るものないし……)
『では、なるべく人の多い場所は避けて進みましょう』
南へ、南へ。
進むほど景色が変わっていった。
瓦屋根が藁葺き屋根になり、きれいに整えられた土の道がでこぼこの獣道になって、家と家の間がだんだん広くなっていく。
井戸端で話し込む人たちはいなくなった。
代わりに、道端でぼんやりと座り込んでいる人が増えた。
痩せた人、ぼろぼろの着物の人、こちらを見上げる目がどこか警戒していた。
『南の外側の地区に入りました。……ここから先は、治安が悪くなります』
(……うん)
地獄で罪人たちを見た、抜け殻の人たちを見た。
でもここにいる人たちは、罪人でも番人でもない。
ただ死んでここに来て、ここで暮らしているだけの普通の魂だ。
それなのに、こんなに疲れた顔をしている。
閻魔は、輪が輪であり続けるためって言っていた。
・・・でも、輪の中にいても、こんなふうに暮らしている人たちがいる。
胸の奥が、少しだけざらついた。
椿さんの話を思い出す。
小雪さんは、流魂街の南の外れの小さな村に住んでいた。
霊力もろくにない普通の魂で、村の端っこで薬草を育てて、怪我をした人や病気の人に煎じて配っていた。
こういう場所で、こういう人たちのために。
日が傾き始めた頃、最後の村に着いた。
村と呼べるのかどうかもわからなかった。
崩れかけた小屋が五つか六つ、ぽつんぽつんと建っているだけ。
その向こうはもう何もない、荒れた野原がずっと先まで続いて、その果てに黒々とした森が壁みたいにそびえていた。
『ここが、南の流魂街の最も外側の集落だと推測します』
瞬歩を止めて、村の入り口に降り立つ。
誰もいないのかと思った、でもいちばん端っこの小屋の前に小さな人影がひとつ座っていた。
おばあさんだった。
しわしわの顔に真っ白な髪、腰を折り曲げて小屋の前の小さな畑の草をむしっている。
畑には、見たことのない草が何種類も植えられていた。
私が近づくと、おばあさんは手を止めて、ゆっくりと顔を上げた。
「……おや」
細い目が、私の死覇装を上から下まで眺めた。
「死神さまが、こんな果てまで何の用だい」
怖がっている様子はなかった、ただ不思議そうに首を傾げていた。
「あ、あの……すみません、死神っていうか、その……」
なんて説明すればいいんだろう。
「人を探してるわけじゃなくて……場所を、探してるんです」
「場所?」
「この辺りに丘はありませんか。白い椿の木が、一本だけ咲いてる丘」
おばあさんの細い目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「……椿の丘、かい」
おばあさんはゆっくりと畑の土を払って立ち上がった。
腰が曲がっていて、立ち上がっても私と同じくらいの背丈だった。
「知ってるんですか!」
「知ってるも何も。この辺りじゃ、古い古い言い伝えさ」
おばあさんは、村の向こうの黒々とした森を指さした。
「あの森のずうっと奥。崖の上に、でっかい椿の木が一本だけ立ってる。白い花の、ね。冬でも夏でも、年中咲いてるって話だよ」
「年中……」
「本当かどうかは知らないよ。あたしは見たことがないからね。あの森は深くて迷いやすい。虚も出る。誰も近寄りゃしない」
おばあさんは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「でも、あたしのばあさんの、そのまたばあさんの頃から、ずっと言い伝えられてる話があるのさ」
「どんな話ですか」
「昔々、あの森がまだ森じゃなかった頃。あそこには小さな村があったんだと」
心臓がどきりと跳ねた。
「その村の外れに、薬草を育てて病人を治す娘がいた。霊力もろくにない普通の娘だったけど、腕は確かで、頑固で、村の連中に慕われてた」
「…………」
「その娘のところに、ある日死神さまが来た。偉い偉い死神さまだったんだと。怪我人を治しに来たのに、娘が先に治しちまってて、娘に叱られたって話さ」
おばあさんは、くつくつと喉の奥で笑った。
「遅いです、ってね」
息が止まった。
目の奥が熱くなる。
残ってたんだ、九百年も前の話が。
椿さんと小雪さんの話が、名前は残っていなくても、こうして言い伝えになって。
「……それから、どうなったんですか」
声が震えた。
おばあさんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「二人は夫婦になったんだと。……けど、ある冬に村でたちの悪い病が流行ってね。娘は最後まで村の連中を治して、自分も病にかかって逝っちまった」
「…………」
「死神さまは、娘を丘の上の椿の根元に埋めた。それから娘の代わりに、村の残りの病人を一人残らず治して回った。……全部治し終わった頃には、死神さまもどこかへ消えてたんだとさ」
椿さんは言っていた。
――丘の上に、埋めた。白い椿の根元にな。……それから、そう経たねえうちに、俺も死んだ。
椿さんがどうやって死んだのかは、聞かなかった。
聞かなくてもいい気がしていた。
でも今、わかった。
椿さんは小雪さんの代わりに、村の人たちを治して、治して、治し続けたんだ。
自分を削って。
・・・椿さんは地獄でも、私に同じことをしてくれたんだ。
「その村も、やがてなくなった。人がいなくなって、畑が荒れて、木が生えて森になった。……今じゃ、椿の丘のことを覚えてるのは、この辺りの年寄りくらいのもんさ」
おばあさんは、自分の畑の見たことのない草を、ぽんぽんと叩いた。
「この畑の薬草もね、その娘が育ててたのを、ここの者が代々植え継いできたもんだって言われてる。……本当かどうかは知らないけどね」
「……ありがとうございます」
深く、深く頭を下げた。
涙がぽたぽたと乾いた土の上に落ちる。
おばあさんは、少し驚いたように私を見ていた。
「なんだい、泣くような話かい」
「……はい。すごく、泣くような話です」
顔を上げて、胸元の白い椿をそっと手で示した。
「私、これをその丘に届けに来たんです。……その死神さまに、頼まれて」
おばあさんの目が大きく見開かれた。
白い椿をじっと見つめて、それから私の顔をもう一度じっと見る。
「……そうかい」
おばあさんは、それ以上何も聞かなかった。
ただしわしわの手で、私の頭をそっと撫でてくれた。
「森は暗いよ。気をつけてお行き」
「はい」
「それと」
おばあさんは、少しだけいたずらっぽく笑った。
「遅くなったって、叱られないように、ね」
村を出て、森へ向かう。
振り返ると、おばあさんは小屋の前に立って、ずっとこちらを見送ってくれていた。
『……マスター』
アイちゃんの声が静かに言った。
『九百年の間に、記録はすべて失われていると思っていました。……でも残っていました。人の記憶の中に』
(うん)
『私は世界に接続して、たくさんの情報を得ました。……ですが、こういう情報はどこにもありませんでした』
(……そうだね)
胸元の白い椿が、夕暮れの風に小さく揺れた。
(アイちゃんにも、知らないことまだまだいっぱいあるね)
『はい。……知りたいと、思います』
黒々とした森が、目の前に迫っていた。
森の中は暗かった。
背の高い木々が空を覆い隠していて、夕暮れの光は枝の隙間からほんの少しだけ差し込んでくるだけ。
足元には、湿った落ち葉がふかふかと積もっていた。
鳥の声も風の音もしない、空気がしんとしている。
地獄の二層の迷路を思い出した。
でもここは、あそこほど重くなかった、ただ静かなだけだった。
「……ここに、村があったんだね」
『はい。……痕跡は、何も観測できませんが』
家の柱も、井戸の石も、畑の畝も、何もなかった。
木と、落ち葉と、苔むした岩だけ。
外の時間で九百年。
村がなくなって森になるには、十分すぎる時間だった。
左手を前に出す。
霊子を集めると、光の弓が一瞬で手の中に現れた。
弦を引かずに、ただ掲げる。
弓の淡い光が、暗い森の中をぼんやりと照らした。
『……弓を、明かりに使うのですか』
「便利でしょ」
『滅却師の歴史の中で、そういう使い方をした者はいないと推測します』
「じゃあ、私が最初だね」
弓の明かりを頼りに、森の奥へ進んでいく。
しばらく進んだところで、アイちゃんの声が少しだけ硬くなった。
『前方、右。虚の反応です。小型、一体』
立ち止まる。
木々の間から、白い仮面がのぞいていた。
空座町で最初に倒した、カエルみたいな虚に似た小さな虚。
こちらを見つめて、低く唸っている。
弓を構えかけて、手を止めた。
――今の私には、もう一つできることがある。
左手の弓を消して、腰の弦月に手をかけた。
「アイちゃん。死神の刀で斬ったら、虚ってどうなるんだっけ」
『斬魄刀で斬られた虚は、生前の罪を洗い流され、浄化されるとされています。……尸魂界の輪に、正しく還ることができます』
空座町で初めて虚を倒した夜、公園で泣いていた幽霊の男の子。
アイちゃんは言った、死神なら魂葬で送ってあげられるけど、滅却師の力ではそれはできないって。
あの頃の私は、虚を倒すことはできても、魂を送ってあげることはできなかった。
アイちゃんがこっそり霊子を還元してくれていたけど、それは輪に戻るためのほんの手助けでしかなかった。
でも、今は違う。
地獄で閻魔が言っていた、虚は輪から零れた魂だって。
この虚も、昔は誰かだったんだと思う。
弦月を抜いた。
始解はしない、ただの刀のまま。
小指と薬指に力を入れて、右足を半歩下げて重心をお腹の下に、椿さんに教わった構え。
瞬歩で虚の目の前に踏み込んで、白い仮面をまっすぐに斬り下ろした。
仮面が、ぱきりと割れた。
その割れ目からやわらかな光があふれ出して、虚の体を内側から包み込んでいく。
黒い体がほどけていく、光の粒になってふわりと浮かんで。
その光の中に、一瞬だけ誰かの穏やかな顔が見えた気がした。
光は森の木々の間をすり抜けて、空の方へと静かに昇っていった。
「……今度は、ちゃんと送ってあげられたね」
『はい。浄化を確認しました』
刀を鞘に戻す。
あの夜、お面越しに手を振り返してくれた男の子のことを、少しだけ思い出した。
あの子も、一兄にちゃんと送ってもらえたかな。
森が、急に途切れた。
木々がぱっと開けて、目の前に空が広がる。
いつの間にか日は沈んでいた。
藍色の空に星がひとつ、ふたつと瞬き始めていて、東の空から大きな月がゆっくりと昇ってきていた。
まんまるの満月だった。
足元は崖だった。
森の端から地面が急に盛り上がって、切り立った崖になっている。
崖の下には、さっき抜けてきた森が黒い海みたいに広がっていて、そのずっと向こうにぽつんと小さな明かりが見えた。
さっきの、おばあさんの村だ。
そして、崖の上に。
「…………」
言葉が出なかった。
椿の木が立っていた。
大きかった。
枝が空に向かって大きく、大きく広がっていて、幹は私が両手を回しても半分も届かないくらい太い。
ごつごつとした樹皮に、苔がびっしりと生えていた。
何百年も、何百年も、ここに立ち続けてきた木だった。
その枝という枝に、白い花が咲いていた。
雪みたいに白い椿。
満月の光を受けて、一輪一輪がほのかに銀色に光っていた。
夜風がそっと吹いて、白い花びらが何枚か、はらはらと舞い落ちる。
二層で見た、椿さんの卍解の林みたいだった。
でもあの林の花びらは、触れるたびに霊力を吸っていった。
この花びらは違った。
頬に触れた花びらは、ひんやりとしてやわらかくて、少しだけあたたかかった。
椿の木の根元に歩み寄る。
お墓はなかった。
墓石も目印になるような石も何もない、ただ太い根っこが地面を這うように広がっていて、その上に白い花びらが薄く積もっているだけだった。
でも、わかった。
ここだ。
椿さんが小雪さんを埋めた場所、小雪さんが好きだった白い椿の根元。
九百年経って、村がなくなって、森になって、誰も来なくなっても。
この木だけは、ここでずっと咲き続けていたんだ。
冬でも夏でも、年中。
誰かが来るのを、待っているみたいに。
胸元から、白い椿をそっと外した。
椿さんが最後に咲かせた花。
卍解の林が全部燃えてしまった後で、落椿の刀身から一輪だけぽつりと咲いた花。
地獄の熱にも、閻魔の光にも、二百六十二日分の涙にも萎れなかった花。
それを両手で包んで、木の根元に膝をつく。
根っこと根っこの間の少しだけ窪んだところに、そっと置いた。
白い椿の木の下に、白い椿が一輪。
上から舞い落ちてくる花びらと置いた花が、月の光の中で見分けがつかなくなった。
手を合わせて、目を閉じる。
何を言えばいいのか、わからなかった。
小雪さんには会ったことがない、椿さんの話の中でしか知らない。
頑固で、静かで、目だけで笑う人。
椿さんを、遅いですって叱った人。
私と、顔が似ている人。
「……はじめまして」
声に出して言った。
「黒崎遊子です。……椿さんの、弟子です。言葉の綾だから喜ぶなって、言われましたけど」
夜風がそっと吹いた。
「椿さんに頼まれて、来ました。これを、小雪さんのお墓に供えてくれって」
根元の白い椿を、指でそっと撫でる。
「……遅くなって、ごめんなさい」
声が震えた。
「九百年も、待たせちゃって。……椿さんの代わりに、謝ります」
目の奥が熱くなった。
「椿さん、ずっと小雪さんのこと覚えてました。地獄でずっと一人で、眠り続けてて。寝言で小雪さんの名前、呼んでました。……すごく、優しい声で」
涙が、合わせた手の上にぽたりと落ちた。
「椿さん、口は悪いし、すぐ寝るし、説明は短いし、ちっこいって言うし。……でも、優しかったです。すごく、すごく優しかったです」
「最後に、笑ってました」
目を閉じたまま言った。
「目だけじゃなくて、顔中で。……頑固なところは、ほんとにそっくりだって」
頑張れよ、遊子。
最後の声を思い出す。
「椿さんは、小雪さんを治せなかったって言ってました。……ずっとそれを、悔やんでました」
涙が止まらなかった。
「でも、私のことは治してくれました。自分の霊力、全部使って。……それで、ここまで来られました」
合わせた手に、ぎゅっと力を込めた。
「だから……椿さんのこと、もう許してあげてください。待たせたことも、治せなかったことも。……椿さん、ちゃんと答えを出しましたから」
――お前は、自分を削ってでも、そいつを治したいか。
――今は、答えられる。
「……それだけ、伝えたくて来ました」
目を開けた。
風が吹いた。
さっきまでのそっと撫でるような風じゃなかった、崖の下からふわりと吹き上げるような大きな風。
椿の木がざわりと揺れて、白い花びらが一斉に舞い上がった。
何百枚、何千枚もの白い花びらが、満月の光を受けて銀色にきらめきながら、夜空へと舞い上がっていく。
雪みたいだった。
地獄に降った椿さんの卍解の雪とは違う、もっとやわらかくて、もっとあたたかい雪。
舞い上がった花びらの一枚がひらひらと降りてきて、私の合わせたままの手のひらの上に、そっと止まった。
ひんやりとして、やわらかくて。
それから、ほんのりとあたたかかった。
「…………」
その花びらを、しばらく見つめていた。
誰かが、ありがとうって言ってくれた気がした。
目だけで、笑いながら。
『……マスター』
アイちゃんの声が、とても静かだった。
『今の風は、自然現象として説明できます。崖の地形による、上昇気流です』
(……うん)
『ですが』
アイちゃんは、少しだけ言葉を区切った。
『私は、そうではないと思いたいです』
私は手のひらの花びらを、そっと死覇装の胸元にしまった。
椿さんの白い椿があった、その場所に。
「……うん。私も」
しばらく、椿の木の下に座っていた。
満月が少しずつ空の高いところへ昇っていく。
白い花びらが、ときどき思い出したように舞い落ちてくる。
崖の下の森は黒い海みたいに静かで、そのずっと向こうに、おばあさんの村の小さな明かりがまだぽつんと灯っていた。
地獄では、空はいつも同じ色だった。
ここでは、空がゆっくりと変わっていく。
それだけのことが、なんだかすごく嬉しかった。
『マスター』
アイちゃんが静かに声をかけてきた。
『椿宗玄が言っていた、古い門のことですが』
「……うん」
『この崖の周辺に、わずかな霊子の歪みを観測しています。……自然のものではありません。何かが意図的に作った歪みです』
「どこ?」
『椿の木の裏側です。崖の少し下』
立ち上がって、木の幹の後ろへ回り込む。
崖の縁から覗き込むと、岩肌に沿って細い道が斜めに下へと続いていた。
道と呼べるのかどうかも怪しい、岩の出っ張りがぽつぽつと並んでいるだけの道。
その先に、何かが見えた。
瞬歩で、岩の出っ張りを一つ、二つと飛び降りる。
崖の中腹に、人が一人やっと立てるくらいの小さな岩の窪みがあった。
その奥に、門があった。
小さな門だった。
私の背丈より少しだけ高いくらいで、石でできた二本の柱と、その上に渡された一本の横木、障子みたいな形の白い扉。
雨の夜に見た、ルキアさんたちが消えていった門をそのまま小さくしたような形だった。
でもその門は、蔦にびっしりと覆われていた。
緑の葉と細い茎が、柱にも横木にも扉にも絡みついている。
九百年分の蔦だった。
『穿界門と呼ばれるものの一種だと推測します。尸魂界と現世を繋ぐ門とされています』
アイちゃんが言った。
『ただし、正式なものとは形状が異なります。……私的に作られたもののようです』
「椿さんが、作ったのかな」
『可能性は高いです』
俺と小雪が、内緒で使ってた。
椿さんは、そう言っていた。
小雪さんは、霊力もろくにない普通の魂だった。
そんな小雪さんを連れて、椿さんはこの門をくぐって、どこへ行っていたんだろう。
現世の、どこかへ。
二人で、何を見に行っていたんだろう。
蔦を、一本ずつそっと剥がしていく。
刀で切ればすぐなのに、なぜかそうしたくなかった。
九百年分の蔦を、指で丁寧にほどいていく。
柱の表面が、少しずつ見えてきた。
白い石、ところどころ苔で緑色に染まっている。
その右の柱の、私の目の高さくらいのところに、何か彫ってあった。
「……アイちゃん、これ」
『はい。文字です』
苔を、指でそっと払う。
浅くて細くて、少し歪んだ文字だった。
刀の切っ先で、急いで彫ったみたいな。
二つの名前が並んでいた。
――宗玄。
――小雪。
その間に、小さな椿の花の形が彫り込まれていた。
「…………」
指先で、その文字をなぞる。
ざらりとした石の感触、九百年前に誰かがこの石に刻んだ跡。
照れくさそうにぶつぶつ文句を言いながら、刀の切っ先で、自分と自分の大切な人の名前を彫っている椿さん。
それを隣で見ながら、目だけで笑っている小雪さん。
見たこともないのに、その光景がはっきりと目に浮かんだ。
「……やれやれ、って言ってそう」
『同意します』
思わずくすりと笑ってしまった。
目の端から、また涙がこぼれた。
今日は、泣いてばっかりだ。
蔦を全部ほどき終わると、白い扉が月の光を受けて、ぼんやりと光っていた。
『門の霊子の流れを、解析しました』
アイちゃんが言った。
『九百年の間使われていなかったため、流れはかなり弱まっています。……ですが、途切れてはいません。霊力を流し込めば開くと推測します』
「行き先は?」
『現世です。座標の詳細までは、わかりません。……ですが、マスターの肉体の位置へと出口を調整します。私の思考体と、まだ信号で繋がっていますので』
「すごい、そんなこともできるんだ」
『この世界の理を、取り込みましたので』
アイちゃんの声が、ほんの少しだけ得意げに聞こえた。
『それと、注意事項があります。穿界門をくぐると、断界と呼ばれる空間を通るとされています。正式な門であれば、案内役の蝶が必要とされていますが……』
「蝶なんて、いないよ?」
『はい。ですので、道筋は私が計算します。マスターは私の指示に従って、まっすぐ走ってください。決して、立ち止まらないように』
「……地獄の一層で、番人から逃げた時みたいに?」
『はい。あの時より、ずっと簡単です』
「そっか」
思わず笑った。
あの時は、怖くて怖くて仕方がなかった。
光の針一本でひびひとつ、逃げることしかできなかった。
今は、違う。
門の前に立って、振り返る。
崖の上に、白い椿の木が満月の光を浴びて立っていた。
風が吹くたびに、白い花びらがはらはらと舞い落ちている。
その根元に、私が置いた白い椿が一輪。
ここからは見えない、でもちゃんとそこにある。
「……小雪さん」
小さく呟いた。
「椿さんのこと、よろしくお願いします。……たぶん、すぐ寝ちゃうと思うけど」
胸元の白い花びらに、そっと触れる。
ひんやりとして、少しだけあたたかい。
『マスター。経過時間を報告します』
アイちゃんが言った。
『地獄に落ちてから、地獄の時間で約二百六十二日。尸魂界に出てから、約一日。……現世の時間に換算すると、約八日です』
「八日」
家では、私じゃない私が八日分暮らしている。
一兄は、まだ尸魂界にいる、さっき北の空で戦っていた。
夏梨はどうしているだろう、最後に私の名前を呼んでくれた夏梨。
お父さんは、相変わらずうるさいんだろうな。
・・・会いたいな、と思った。
二百六十二日、ずっと思っていたことなのに、今いちばん強くそう思った。
「アイちゃん」
『はい、マスター』
「お腹、すいた」
少しの間。
『……魂の状態でも、空腹を感じることはあります』
「帰ったら、肉じゃが作る。夏梨におかわりさせる」
『私の思考体より、上手にですか』
「当たり前じゃん」
門の白い扉に、手のひらを当てた。
霊力を流し込む。
椿さんがくれた霊力、地獄で二百六十二日かけて鍛えてきた霊力。
扉がふわりと光った。
九百年分の眠りから、目を覚ますみたいに。
ゆっくりと、ゆっくりと、白い扉が内側へと開いていった。
その向こうから、風が吹いてくる。
知らない風だった、でもどこか懐かしい匂いがした。
雨上がりのアスファルト、誰かの家の晩ごはんの匂い、遠くを走る電車の音。
空座町の匂いだった。
「――さぁ」
私は腰の弦月をぎゅっと握って、胸元の白い花びらにもう一度そっと触れた。
「帰ろうか、アイちゃん」
『はい。帰りましょう、マスター』
二人で。
私は、白い扉の向こうへと駆け出した。