ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
俺が隊長をやっていた頃の護廷は、ろくでもない場所だった。
斬り合いが飯より好きな連中が、朝から晩まで刀を振り回していた。強え奴を見つけたら斬る。理由なんざいらねえ。総隊長の爺さんは止めやしねえし、十一番隊の女は笑いながら人を斬るし、二番隊の連中は斬る前に後ろから刺しに来る。
で、斬られた奴は、みんな四番隊に転がり込んでくる。
治してやれば、また斬り合いに戻る。斬られりゃ、また転がり込んでくる。
その繰り返しだった。
四番隊は、護廷の中で、いちばん馬鹿にされてた。戦わねえ隊。後ろで包帯巻いてるだけの隊。斬り合いの役に立たねえ連中。
俺は、その隊長だった。
別に腹は立たなかった。斬るより治す方が性に合っていた。それだけだ。
その日も、面倒な知らせが届いた。
流魂街の南の外れで、虚が出た。村がひとつ、半分くらいやられた。怪我人が大勢出てる。四番隊から、誰か寄越せ。
部下を行かせてもよかった。だがその日は、七番隊の馬鹿がまた酒瓶を抱えて詰所に転がり込んできていた。酔っ払いの治療より、遠出の方がまだマシだった。
だから、俺が行った。
南の外れは遠かった。瞬歩で半日。瀞霊廷を離れ、町を抜け、村を越える。家並みが途切れ、荒れ野ばかりになったその先に、目当ての村はあった。
着いた時には、日が傾いてた。
村の真ん中に、怪我人が、ずらりと寝かされてた。
三十人か、四十人か。虚に引っかかれた奴。家の下敷きになった奴。逃げる途中で転んで、足を折った奴。
ため息をついて袖をまくった。
そこで、妙なことに気づいた。
怪我人の半分ほどは、すでに傷の手当てを受けていた。
包帯の巻き方も、添え木の当て方も悪くない。傷口には薬草を練った膏薬まで塗ってある。見よう見まねにしちゃ、上等な仕事だった。
「……誰がやった」
思わず呟くと、背後から声がした。
「私です」
振り返ると、女が立ってた。
細い女だった。粗末な着物。袖をたすき掛けにして、両手が薬草の汁で緑色に染まってる。髪は、後ろで一つに束ねてるだけ。
霊力は、ほとんど感じなかった。ただの、流魂街の魂だ。
女は俺の白い羽織に目をやった。背中の「四」の字まで確かめてから、静かに言った。
「遅いです」
しばらく言葉が出なかった。
護廷十三隊の隊長をつかまえて、開口一番「遅いです」ときた。
「……何?」
「遅いです、と言いました」
女は眉ひとつ動かさなかった。
「虚が出たのは、昨日の朝です。怪我人は、昨日の朝から、ずっと苦しんでいます。私一人では、全員は診きれません。……死神さまが来るまで、ずっと、待っていました」
「…………」
「残りの半分を、お願いします。私は、薬草を摘み足しに行きますので」
女はそれだけ告げると、さっさと村の外れへ歩いていった。
引き止める間もなかった。
周りの怪我人たちが、くすくすと笑ってた。
「死神さま、怒られちまったなあ」
「小雪ちゃんは、相手が誰だろうと、ああなんだ」
「でも、腕は確かだよ。あの子がいなかったら、今頃、半分は死んでた」
小雪。
あの女は、そういう名らしかった。
俺はまだ手当ての行き届いていない怪我人を治した。
落椿を使えば、すぐだった。花を咲かせて、傷に乗せて、霊力を流す。それだけで、肉が塞がって、骨がくっつく。四十人のうち、二十人を治すのに、一刻もかからなかった。
治し終わった頃に、小雪が、籠いっぱいの薬草を抱えて戻ってきた。
さっきまで寝かされていた連中が、みんな自分の足で歩いている。小雪はそれを見て、少しだけ目を見開いた。
それから、俺の方を見た。
次に俺の腰の刀を見た。鞘のあたりから、椿の花が一輪こぼれ落ちた。
「……それで、治したんですか」
「ああ」
「花で」
「斬魄刀だ。そういう刀なんだよ」
小雪はしばらく地面に落ちた椿の花を、じっと見てた。
それから俺を見た。
目元が、ふっとやわらかくなった。声も立てず、口元さえほとんど動かさない。なのに、笑ったのがわかった。
「きれいな、刀ですね」
それだけ言って、小雪はまた、すたすたと、自分の小屋の方へ歩いていった。
またしても、その背中を見送ることしかできなかった。
どれだけ時が経っても、あの目だけは、忘れたくなかった。
それから俺は南の外れに、よく行くようになった。
口実はいくらでもあった。怪我人の経過を診るため。虚の再出現を警戒するため。流行り病がないか確かめるため。
部下には、隊長が自分で行く仕事じゃないでしょうと言われた。七番隊の馬鹿には、にやにや笑われた。総隊長の爺さんには、何も言われなかったが、たぶん、全部お見通しだった。
行けば決まって、小雪は「遅いです」と言った。
前に来てから、十日も空いてます。遅いです。
怪我人が出たのは、今朝です。遅いです。
約束の刻限を、半刻過ぎてます。遅いです。
俺は、そのたびに、ため息をついた。
「ため息ばかりついていると、幸せが逃げますよ」
ある日、小雪が言った。
「やれやれ、って顔に書いてあります」
「……誰のせいだと思ってる」
「私のせいですか」
「他に誰がいる」
小雪は、ふっと目元をゆるめた。
「じゃあ、口に出して言ったらどうですか。やれやれ、って。……溜め込むより、いいと思いますよ」
それ以来、「やれやれ」が俺の口癖になった。
村の外れに、丘があった。
流魂街の、いちばん南の端っこ。その先には、もう何もねえ。荒れ野と、遠くの山並みだけ。
その丘には、椿の木が一本だけ立っていた。
白い椿だった。
「雪椿、っていうんです」
小雪が、教えてくれた。
「雪の中で咲く椿です。ここは、冬になると、雪がたくさん降るんですよ。真っ白な雪の中で、真っ白な椿が咲くんです。……とても、きれいなんです」
「白い雪に、白い花じゃ、見分けがつかねえだろ」
「つきますよ。花の方が、少しだけ、あったかい色をしてますから」
小雪は、椿の幹に、そっと手を当てた。
「私の名前、ここから取ったんです。自分で付けました。……流魂街に来た時、名前を覚えてなかったので」
「…………」
「この木を見て、ああ、これがいいなって。雪の中でも、ちゃんと咲いてる。……そういうふうに、なりたいなって」
そう言って、小雪は、目元をゆるめた。
返す言葉が見つからなかった。
腰の落椿が、ほんの少し温かくなった気がした。
夫婦になったのは、それから一年くらい後だ。
どっちが言い出したのかは、覚えてねえ。たぶん、小雪の方だ。俺が、いつまでも、ぐずぐずしてたから。
「遅いです」
たぶん、そう言われた気がする。
祝言なんて、上等なもんはしなかった。丘の上の、白い椿の下で、二人で並んで座って、それで終わりだ。村の連中が、ささやかな酒と、握り飯を持ってきてくれた。七番隊の馬鹿が、どこで聞きつけたのか、酒瓶を三本も抱えてやってきて、勝手に酔いつぶれた。
小雪は、ずっと、目元をゆるめてた。
あの頃が、俺にはいちばん幸せだった。
小雪が自分のために何かをねだったのは、一度きりだった。
「海が、見てみたいです」
丘の上の、白い椿の下で。冬の初めの、薄曇りの日だった。
「流魂街には、海がないでしょう。……生きてた頃のことは、何も覚えてないんですけど。海だけは、なんとなく、覚えてる気がするんです。冬の、灰色の海。雪が、波の上に降って、消えていくところ」
「現世の海か」
「無理なのは、わかってます。私は、死神じゃないですから」
小雪はそれきり、海の話をしなかった。
だから、その冬、崖の中腹に門を作った。
誰にも言わずに。部下にも、七番隊の馬鹿にも、総隊長の爺さんにも。四番隊の書庫には、穿界門の作り方を記した古い巻物が埃をかぶっていた。夜中にこっそり抜け出して、崖を削って、石を組んで、霊子の流れを繋いだ。
半月かかった。
できあがった門の前に、小雪を連れていった時、小雪はしばらく何も言わなかった。
それから、言った。
「遅いです」
「…………」
「冬が半分、終わっちゃいました」
目元がゆるんでた。
現世の海は、灰色だった。
小雪が言ってた通りだった。冬の、灰色の海。重たい雲。冷たい風。白い波が、岩に砕けて、しぶきを上げてた。
そして、雪が降ってた。
小さな、白い雪が、灰色の海の上に、はらはらと降って、波に触れて、消えていった。
小雪は、砂浜に立って、ずっと、それを見てた。
笑いもしなかった。ただ目の前の海から目を離さなかった。
俺は、その隣で、黙って、突っ立ってた。
どれくらい、そうしてたかわからねえ。
やがて、小雪が、ぽつりと言った。
「……来て、よかったです」
それだけだった。
帰り際、小雪が門の柱に二人の名を彫ろうと言い出した。照れくせえから断ったら、また「遅いです」ときた。何が遅いのか、さっぱりわからねえ。
結局、刀の切っ先で、急いで彫った。宗玄。小雪。間に、椿の花をひとつ。
歪んだ字だった。小雪はそれを見て、目元をゆるめた。
次の冬、村に病が流行った。
最初は、咳だった。次に、熱。それから体に赤い斑点が出て、息ができなくなって、死ぬ。
たちの悪い病だった。虚の瘴気が、どこかで水に混じったのかもしれねえ。流魂街の外れじゃ、たまにある話だった。
小雪は、一人で、村中を回った。
薬草を煎じて、配って、熱を下げて、体を拭いて。寝る間も惜しんで。
俺は瀞霊廷で、何も知らなかった。その冬は十一番隊の女が暴れ、四番隊の詰所は怪我人で溢れていた。南の外れまで行く暇がなかった。
……言い訳だ。
村の連中が、瀞霊廷まで、知らせに来た時には、もう、遅かった。
駆けつけた村では、半分ほどの住人が寝込んでいた。
小雪も、その中にいた。
薄い布団に横たわった小雪の肌には赤い斑点が浮かび、息は浅かった。
「……遅いです」
俺の顔を見て、小雪は、そう言った。
かすれた声だった。でも、いつもと同じ、静かな声だった。
「……悪い」
俺は、落椿を抜いた。
花を咲かせ、小雪の胸に乗せる。霊力を流す。あの日、村の怪我人たちを治した時と同じように。
――流れなかった。
花が、小雪の胸の上で、しおれていった。
霊力が、届かなかった。
病は、小雪の魂の深いところまで食い込んでいた。普通の怪我なら、肉を塞いで、骨を繋いで、それで終わりだ。だが、これは違った。魂そのものが、内側から、蝕まれてた。
治すには、もっと、深くまで、霊力を流さなきゃならねえ。
俺の霊力を、全部、流し込むくらいに。
――お前は、自分を削ってでも、そいつを治したいか。
落椿の声が、聞こえた。
卍解を覚えた時に、一度だけ、聞かれた問いだった。あの時は、答えられた。怪我人の誰か一人のために、自分を削れるか。ああ、削れる。それが、四番隊の隊長だ。
だが今度は、答えが出なかった。
小屋の外には、まだ何十人もの病人がいる。小雪が寝る間も惜しんで看病した、あの村の連中だ。
俺の霊力を、全部、小雪に流し込んだら。
あいつらを、誰が治す。
迷った。
ほんの一瞬だったと思う。でも、確かに、迷った。
「……宗玄さん」
小雪が、俺の手を、握った。
細くて、熱い手だった。
「外の、みんなを、お願いします」
「…………」
「私は、いいですから」
目元が、ゆるんでた。
「……あなたには、まだ、治す人が、いますから」
俺は、小屋を出た。
村中を回った。花を咲かせ、霊力を流し、一人、また一人と治していった。小雪がどうにか命をつないでいた連中を、一人残らず。
夜通しかかった。
朝になり、最後の一人を治して小屋に戻った。
小雪は、もう息をしていなかった。
布団の上で静かに目を閉じていた。眠っているようにしか見えなかった。
その手には、俺が最初に乗せた椿が、しおれたまま握られていた。
――遅いです。
声が聞こえた気がして、顔を覗き込んだ。
小雪は、もう笑わなかった。
丘の上の、白い椿の根元に、小雪を埋めた。
雪が、降ってた。
小雪の言ってた通りだった。真っ白な雪の中で、真っ白な椿が、咲いてた。
見分けはつかなかった。
花の方が少し温かい色をしていると、小雪は言っていた。俺には、どうしてもわからなかった。
それから、俺は、瀞霊廷に戻らなかった。
村には、まだ、病の残りが燻ってた。治したはずの連中から、また、咳が出始めた。隣の村にも、その隣の村にも、病は広がってた。
治した。
治して、治して、治し続けた。
部下が迎えに来た。
「隊長、もう戻ってください。霊力が持ちません」
総隊長の爺さんからも帰隊命令が届いた。七番隊の馬鹿は酒瓶も持たず、ただ黙って俺の隣に座っていた。
全部、無視した。
小雪が、最後まで治してた連中だ。小雪が、俺に頼んだ連中だ。
俺が治さなきゃ、誰が治す。
南の外れで、最後の病人を治し終えた頃には、冬が終わりかけていた。
俺は、丘の上まで、這うようにして、登った。
白い椿の根元に、背中をもたせかけた。小雪の、眠ってる場所の、すぐ上に。
霊力は、もう、ほとんど残ってなかった。
雪が、また、降ってきた。
白い雪と、白い椿。
やっぱり、見分けは、つかなかった。
「……遅くなった」
誰に聞かせるでもなく呟いて、目を閉じた。
目を開けたら、赤かった。
空が、赤い。地面が、黒い。割れ目から、溶けた岩の光が漏れてる。
地獄だった。
驚きはしなかった。隊長格の死神は、死ねば地獄へ落ちる。護廷の古株なら知っている話だ。霊圧がでかすぎて、尸魂界の輪に、還れねえ。
知ってた。
知ってて、それでも、どこかで期待してた。
目を開けたら、丘の上の、白い椿の下で。隣で、小雪が、遅いですって言ってくれるんじゃねえかって。
そんなこと、あるはずがなかった。
最初の何十年かは、ひどかった。
霊力を、吸われた。地面から、空気から、四方八方から、じわじわと。抵抗しようとすればするほど、余計に吸われた。
二層に引きずり込まれて、持ち場を与えられた。三層への道を、塞げ。通ろうとする者を、止めろ。
誰も、通らなかった。
地獄の底まで降りてこようなんて酔狂な奴は、一人もいなかった。俺はただすり減った岩に座って、赤い滝が落ちていくのを、眺めてた。
周りの番人たちが、一人、また一人と、抜け殻になっていった。
昨日まで話してた奴が、今日には、何も見てねえ目で、暗闇を見つめてる。名前を呼んでも、返事をしねえ。自分が誰だったかも、忘れちまってる。
やがて、七番隊の馬鹿まで落ちてきた。
酒瓶は、持ってなかった。俺の顔を見て、笑った。
「よう、椿」
それから少しずつ、少しずつ、口数が減っていって。
ある日、もう、俺の名前を、呼ばなくなった。
俺も、そうなるんだと思った。
それでも、別に、構わなかった。
小雪のいねえ世界で、自分が誰だったかを覚えてることに、何の意味がある。
そう思って、吸われるに任せてた。
でも、俺は、しぶとかった。
霊力が、馬鹿みてえにあった。吸われても吸われても、底が見えねえ。それに、回復は、本職だ。吸われた分は、勝手に戻ってきやがる。
死ねなかった。
抜け殻にも、なれなかった。
いつしか、眠ってやり過ごすことを覚えた。
意識を絶って、深く眠る。そうすれば、吸われる量が、少しだけ減る。減れば、それだけ、長く保つ。
保ちたかったわけじゃねえ。ただ起きてるのが、しんどかった。
一層と二層の境目に、ちょうどいい洞を見つけた。ひんやりとして、静かで、誰も来ねえ。そこで、寝た。
寝てる間に、落椿が、勝手に花を咲かせ始めた。
赤い椿だった。一輪、二輪。気づいたら、洞の壁一面が、赤い椿で埋まってた。
「……うるせえ花だ」
そう言って、また寝た。
だが、白い椿だけは咲かなかった。
どれくらい、寝てたのか。
数えるのは、とっくにやめてた。地獄には、昼も夜もねえ。百年なのか、千年なのか、もっとなのか。外の世界で、どれだけ時間が経ってるのかも、わからなかった。
寝て、起きて、また寝て。
夢を見た。
丘の上の、白い椿の夢。冬の、灰色の海の夢。遅いですって言う、静かな声の夢。
でも、夢に出てくる小雪の顔が、少しずつぼやけていった。
目元だけをゆるめて笑う、あの顔が。
思い出そうとすると、霧がかかったみたいに、輪郭が、溶けていく。声は覚えてる。言葉も覚えてる。でも、顔だけが、思い出せなくなっていく。
それが、怖かった。
吸われることより、抜け殻になることより、何より、それが怖かった。
小雪の顔を、忘れる。
そうなったら、俺は、本当に、何もなくなる。
だから、また眠った。少しでも長く、夢の中の小雪を見ていたかった。顔を思い出せなくなるのが、怖かった。
その日も、寝てた。
洞の外で、番人が暴れてる音がした。罪人でも追いかけてるんだろう。いつものことだ。
うるせえな、と思った。
だが、音が、だんだん近づいてきた。崖を伝って、洞の入り口まで。岩が砕ける音。何かが、洞の中に転がり込んでくる音。
誰かが、俺の肩に、ぶつかった。
「ご、ごめんなさ――」
子どもの声だった。
「――ったく」
目を、開けた。
そこに、小雪がいた。
いや、違う。
わかってた。すぐに、わかった。霊圧が、全然違う。ちっこい。小雪より、ずっと、ちっこい。着てるもんも、見たことのねえ、妙な服だ。
でも、顔が。
その顔を見た瞬間、霧が、晴れた。
ぼやけて、溶けかけてた小雪の輪郭が、くっきりと、戻ってきた。細い眉。少しだけ垂れた目尻。小さな唇。
ああ、そうだ。
小雪は、こんな顔をしていた。
「……こゆ――」
口から、名前が、こぼれかけた。
飲み込んだ。
「いや、違うな。……似てるだけか」
番人を追い払って、ガキの話を聞いた。
黒崎遊子。現世の、空座町とかいう町に住んでる、小学生。中に、妙なもんを住まわせてる。それが原因で、地獄に引きずり込まれた。
帰りてえって、言った。
無理だって言っても、聞かなかった。
兄貴に、まだ言ってないことがあるからって。お土産のおまんじゅうを、受け取らなきゃいけないからって。
頑固だった。
小雪と、同じだった。
「……やれやれ」
その時に思ってしまった。
こいつを、帰してやりてえ。
わかってた。最初から。
こいつが三層に行くなら、俺の持ち場を、通る。俺は地獄に引き戻されて、こいつを止めなきゃならねえ。
それに、こいつに教えるために起きてりゃ、それだけ、吸われる。
俺は、いずれ、抜け殻になる。
それでも、構わなかった。
何もせずに、小雪の顔を忘れていくのを待つより、ずっと、マシだった。
ガキは、手のかかる弟子だった。
刀を振れば、体ごと一回転する。瞬歩をやれば、壁に顔から突っ込む。詠唱は、三言目で詰まる。千年……いや、もっとか。それだけ長く死神をやってきたが、あそこまで詠唱を覚えられねえ奴は初めてだった。
でも、諦めなかった。
何千回も、瞬歩を、本当にやりやがった。俺が寝てる間に、一人で、黙々と。
眠る俺を、番人から守ろうとして、始解に至った。誰かの普通を、守るためだと言った。小雪が、最後まで、村の連中を治してた時と、同じ顔をしてた。
鬼厳城の野郎に負けて、泣いて、それでも、もう一度、戦いに行った。
中の妙なもんが、詠唱を唱えて、ガキが術を撃った時は、さすがに、目を疑った。他人の言葉に、自分の霊力は乗らねえ。それが鬼道の決まりだ。
だが、あいつらは、他人じゃなかった。
一つの魂から、二つの声がする。
俺には、そうとしか思えなかった。
九百年……いや、外の時間でそれくらい、地獄の時間でその何十倍か。それだけ死んでて、あんなもんは、見たことがなかった。
鬼厳城は、最後に、ガキの名前を呼んで、目を閉じた。
あの野郎も、大したもんだった。自分を斬った奴の名前ひとつで、何百年も、自分を保ってやがった。
俺が、小雪の顔ひとつに、しがみついてたのと、同じように。
ガキが寝てる間に、時々、顔を見てた。
小雪に、似てる。
でも、寝顔は、全然似てなかった。口を開けて、涎を垂らして、寝言で「肉じゃが」とか言ってやがる。
小雪は、そんな寝方は、しなかった。
笑い方も、違った。こいつは、顔中で笑う。声を出して、うるせえくらいに。
似ているのは、顔だけだ。
――それでいい。そう思った。
頑固なところまで似てたら、こいつも、いつか、誰かのために、自分を削り切って、倒れちまう。
それだけは、嫌だった。
持ち場の岩に座って、赤い滝を見てた。
試験の前夜だった。
ガキは、隣で、膝を抱えてた。小雪のことを聞かれた。全部じゃねえが、話した。遅いですって言われたこと。白い椿のこと。流行り病のこと。
治せなかったこと。
話しながら、驚いてた。
小雪の顔が、ちゃんと思い出せた。目元だけをゆるめて笑う、あの顔が。霧のかかってない、くっきりとした顔が。
こいつが、落ちてきてから、ずっとそうだった。
「お前は、倒れるな」
頑固なままでいい。だが、倒れるな。
小雪に言えなかった言葉だった。
朝。
あいつがが穴の縁の階段の最初の一段に足をかけた。
足元から、赤い糸が、這い上がってきた。地獄の意思だ。持ち場を通る者を、止めろ。体が、勝手に、立ち上がる。落椿が、勝手に、手の中に収まる。
何千年ぶりかで、引き戻された。
だが、意識はまだ俺のもんだった。
「遊子」
名前を、呼んだ。
初めてだった。今まで、ずっと、お前としか呼ばなかった。名前を呼んだら、こいつを、小雪と重ねるのを、やめられなくなる気がした。
でも、今は、ちゃんと、呼べた。
小雪じゃねえ。黒崎遊子だ。
俺の、最初で最後の、弟子だ。
「来い」
本気は、出さなかった。
出せるわけがなかった。
俺が隊長だった頃の護廷は、斬り合いの達人だらけだった。四番隊の隊長だろうが、そいつらと同じ場所に立ってりゃ、嫌でも、それなりにはなる。
本気でやれば、あいつは最初の瞬歩で終わってた。背中に峰を当てた時。刃を返してりゃ、それで終わりだった。喉元に切っ先を突きつけた時も。あと指一本、押し込めば。
三回は、死んでた。
それでも、地獄の糸は、俺の腕を引っ張り続けた。斬れ、止めろ、通すな、と。
引っ張られるたびに、腕に力を込めて、刃の向きを、変えた。
骨が軋んだ。霊力が、ごっそりと削れていった。地獄の意思に逆らうってのは、そういうことだ。
構わなかった。
殺せとは、言われてねえ。通すなとしか、言われてねえ。
なら、こいつが、俺を越えていくまで、通さずにいればいい。
あいつは、全部、ぶつけてきた。
瞬歩。鬼道。始解。
中の妙なもんが唱えた赤火砲を、落椿で吸った。始解の三日月を、両手で受けて、真っ二つに裂いた。
いい矢だった。鬼厳城の野郎が、最後に、そう言ってたのも、わかる。
だが、まだ、足りなかった。
あいつの刀は、まだ本当の顔を見せちゃいねえ。
「お前の刀は、まだ、顔を見せねえのか」
俺も卍解を解放した。
――雪華落椿。
白い椿の林が広がり、地獄の赤い底に雪のような花びらが降った。林の中にいる限り、俺の傷も霊力も尽きることはない。
この卍解を見せるのは、何千年ぶりだったか。
白い椿。雪椿。
小雪の、好きだった花。
卍解を覚えたのは、小雪に出会う、少し前だった。
落椿は、最初、赤い花しか咲かせなかった。卍解の林も、本当は、赤い椿の林になるはずだった。
白くなったのは、小雪が死んでからだ。
丘の上で、白い雪の中の、白い椿を見て。見分けがつかねえって、思った、あの日から。
落椿は、俺の魂から生まれた刀だ。俺の魂が何を手放せずにいるのか、刀は全部知ってやがった。
白い林の中で、あいつは膝をついた。霊力を削られ、刀を構えることさえできなくなっていた。
意識が、遠のいていくのが、わかった。
「……遊子」
届いてるかどうかは、わからなかった。
――顔を、見せてやれ。
あいつの刀に、そう思った。
お前の主は、頑固で、うるさくて、ちっこくて。自分のことなんか、いつも、後回しにしやがる。小雪と同じだ。
だから教えてやってくれ。
お前は弱くなんかねえって。お前自身の普通も、守っていいんだって。
俺が、小雪に教えてやれなかったことを。
あいつが目を開けた。
炎が噴き上がった、橙色の燃えるような炎。
あいつの胸の奥から背中から足元から地獄の天井までまっすぐに昇っていく炎。
総隊長の爺さんの、何もかも焼き尽くす火とは違う。
もっと小さくてあったけえ火だ。
あいつの後ろに炎の大弓が二つ、立ち上がった。
「――卍解。『焔天弦月』」
やっと、顔を見せやがった。
「……やれやれ。派手な卍解だな」
冗談交じりに言ったら、あいつは言い返してきた。
「……椿さんに、言われたくないです」
笑った。
声を出して。何千年ぶりかで。
白い林が燃えた。
炎の矢が雨のように降り注ぎ、椿の幹を次々に射抜いていく。花びらが橙色に照らされ、やがて灰になって散った。
胸が、痛まなかったと言えば、嘘になる。
でも、それ以上に、思った。
ああ、これで、いい。
白い椿に、しがみつくのは、もう、終わりだ。
やがて林が途切れ、炎の向こうにあいつの姿が見えた。
そこから、最後の三本が飛んできた。
一本目を、弾いた。
二本目を、弾いた。
三本目も、弾けた。
弾けたが、弾かなかった。
刀を、下ろした。
地獄の糸を、焼き切るには、あの炎を、まともに食らうしかねえ。そうでなけりゃ、俺はいつまでも、こいつを止め続ける。
それに。
こいつの矢を、ちゃんと、受け止めてやりたかった。
師匠ってのは、たぶん、そういうもんだ。
炎の矢が、胸に、突き刺さった。
熱かった。
それなのに、懐かしい温かさがあった。
冬の朝、小雪が、薬草を煎じるために熾した、竈の火みたいに。
地獄の糸が、ぶちぶちと、焼き切れていった。
膝をついた。落椿が、手から、滑り落ちた。
あいつが、泣きながら、走ってきた。
「なんで、最後、刀下ろしたんですか!」
怒鳴られた。
小雪も、たまに、怒鳴った。俺が、自分の怪我を後回しにした時。
「お前が、通れねえだろうが」
そう言った。
それからあいつが、ふらりと揺れたのが見えた。
霊力はほとんど空だった。俺の林で削られ、卍解を解放して残りまで使い切った。このまま三層に下りても、閻魔の前に立つどころじゃねえ。
「……手、出せ」
落椿の花を、あいつの手のひらに乗せた。
霊力を流す。
残らず、全部。
――お前は、自分を削ってでも、そいつを治したいか。
落椿が、聞いてきた。
小雪の時と、同じ問いだった。
あの時は迷った。小雪を救いたかった。だが、外で苦しんでいる村の連中も見捨てられなかった。
小雪が背中を押してくれて、俺は村へ向かった。あれが間違いだったとは、今も思えねえ。
それでも、小雪に最後までついていてやれなかった。
今は、迷わなかった。
――ああ。
答えた。
――削ってでも、治してえ。
霊力が、流れていく。
何千年分、溜め込んできた霊力が。地獄に吸われても吸われても、しぶとく戻ってきやがった霊力が。
全部、あいつの中へ。
あいつは泣いて、叫んで、手を引っ込めようとした。やめてください、それやったら椿さんが、って。
離さなかった。
吸うのも、治すのも、根っこは同じだ。流す向きが、逆なだけだ。
最初に洞で、そう教えた。
何千年も、地獄に奪われるままだった。
最後くらい、自分の霊力をどこへ流すか、自分で決めたかった。
全部、流し終わった時。
落椿が、最後の花を咲かせた。
白い椿だった。
赤い花しか咲かせなかった始解の刀身から、一輪だけ、白い椿が、ぽつりと。
「……お前」
落椿に、呟いた。
白い花は、何も言わなかった。
でも、わかった。
こいつは、ずっと、知ってたんだ。俺が、本当は、何をしたかったのか。
小雪の墓に、花を供えたかった。
九百年……いや、俺にとっては、何千年も。地獄の底で、ずっと。
でも、自分じゃ、行けなかった。
「頼みが、ある」
あいつに、白い椿を、渡した。
小雪の墓に、供えてくれねえか。
九百年も前だ。残ってるかも、わからん。
あいつは、泣きながら、叫んだ。
「――ううん! 行くよ! 絶対、行く!」
笑った、
……ああほんとに頑固なところは、ほんとにそっくりだ。
古い門のことを、教えた。
小雪と二人で、冬の海を見に行った、あの門。名前を彫った、あの門。
もう、動くかどうかも、わからねえ。でも、こいつなら、なんとかするだろう。中に、妙なもんも住んでることだし。
眠かった。
今まで感じたことがないくらい、眠かった。
「……少し、眠い」
「心配すんな。……いつもの、昼寝だ」
嘘だった。
あいつにも、バレてた。
最後に、あいつの顔を見た。
小雪に、似てる顔。
でも、もう、小雪には見えなかった。
黒崎遊子だった。
頑固で、うるさくて、ちっこくて、顔中で笑う、俺の弟子だった。
「頑張れよ、遊子」
そうして意識は闇の中に消えていく。
暗かった。
赤くも、黒くも、白くもない。ただ静かな暗闇だった。
吸われる感覚は、なかった。地獄のじわじわと霊力を剥ぎ取られていく、あの感覚が、どこにもない。
体が、軽かった。
軽すぎて、自分がどこにいるのかも、わからなかった。
――ああ。これが、抜け殻になるってことか。
ぼんやりと、思った。
七番隊の馬鹿も、鬼厳城の野郎も、二層の壁のくぼみに座ってた連中も、みんな、こうなったのか。
何も、見えない。何も、聞こえない。自分が誰だったかも、そのうち、溶けていく。
怖くは、なかった。
やることは、全部、やった。
あいつは今頃、三層への階段を下りてる。俺の霊力を、全部持って。閻魔の前に、ちゃんと立てるくらいに。
小雪の墓に、花を届けてくれる。
それで、いい。
――冷たい。
頬に、何かが、触れた。
ひんやりとして、やわらかくて。触れたところから、すうっと、溶けていく。
雪だった。
目を、開けた。
白かった。
空が、白い。灰色がかった、冬の空。そこから、小さな雪が、はらはらと、絶え間なく降ってくる。
足元も、白かった。雪が、うっすらと、積もってる。踏むと、きゅっと、小さく鳴った。
丘の上だった。
見覚えのある、丘。流魂街の、いちばん南の端っこ。その先には、荒れ野と、遠くの山並み。
村が、見えた。
丘の下に、小さな村があった。藁葺きの屋根が、いくつも並んでる。煙突から、白い煙が、ゆっくりと立ち昇ってる。どこかの小屋から、薬草を煎じる、苦い匂いが、風に乗って漂ってくる。
九百年前の、村だった。
いや、何千年前か。もう、どっちでもいい。
振り返った。
椿の木が、あった。
白い椿。
今みてえな、でかい木じゃなかった。俺が知ってる、あの頃の、まだ若い木。枝も細くて、背丈も、俺より少し高いくらい。
その枝に、白い花が、咲いてた。
白い雪の中で。
見分けは――ついた。
花の方が、少しだけ、あったかい色をしてた。
本当だった。小雪が言ってた通りだった。白い雪と、白い椿。並べて見たら、ちゃんと、違う。花の方が、ほんのりと、陽だまりみてえな色をしてる。
なんで、今まで、わからなかったんだ。
椿の木の根元に、誰かが、座ってた。
細い背中。粗末な着物。袖をたすき掛けにして、両手が、薬草の汁で、緑色に染まってる。髪は、後ろで一つに束ねてるだけ。
膝の上に、何か、持ってた。
白い椿だった。
一輪だけ。落椿の刀身から、最後に咲いた、あの花と、同じ形の。
「…………」
声が、出なかった。
足が、動かなかった。
雪が、降り続けてた。
その背中が、ゆっくりと、こちらを振り返った。
顔が、見えた。
細い眉。少しだけ垂れた目尻。小さな唇。
霧は、かかってなかった。
地獄の底で何千年もぼやけさせてきた顔が。ちっこい弟子の顔を見て、やっと思い出した顔が。
そこに、あった。
小雪は、俺を見て、少しだけ、目を見開いた。
それから、静かに言った。
「遅いです」
膝から、力が、抜けた。
雪の上に、膝をついた。
「……悪い」
声が震えた。
何千年ぶりかで、震えた。
「待たせたな」
小雪は、何も言わなかった。
膝の上の白い椿を、そっと、持ち上げた。
「さっき、届きました」
「…………」
「小さな女の子が持ってきてくれたんです。泣きながら手を合わせて私に届けてくれたんです」
小雪の目が、ふっと、やわらかくなった。
「はじめまして、って。椿さんの弟子です、って。言葉の綾だから喜ぶなって言われましたけど、って」
「……あいつ」
「九百年も待たせてごめんなさい、椿さんの代わりに謝ります、って」
「…………」
「椿さんは、口は悪いし、すぐ寝るし、説明は短いし、ちっこいって言うし。……でも、優しかった、って」
顔が、熱くなった。
「……余計なことを」
「それから」
小雪は、白い椿を胸に抱いた。
「椿さんのこと、もう、許してあげてください、って。椿さんは、ちゃんと、答えを出しましたから、って」
雪、降り続けてた。
白い椿が、ほんのりと、陽だまりみてえな色をしてた。
「……許してくれるのか」
やっと、それだけ、言えた。
「治せなかった。お前を。……迷った。ほんの一瞬だが、確かに迷った。外の連中のことを考えて。お前が外のみんなをお願いしますって言ったのに、甘えた」
「…………」
「それで遅くなった。全部遅くなった。……お前が逝くのにも、間に合わなかった」
小雪は、黙って、聞いてた。
「何千年も、それを引きずってた。地獄の底で。お前の顔を忘れそうになりながら」
うつむいた。
雪の上に、ぽたりと雫が落ちた。
泣いていることに、そこでようやく気づいた。
「……遅いです」
小雪が、言った。
顔を上げると、小雪は立ち上がってた。白い椿を胸に抱いたまま、俺の前に、しゃがみ込んでた。
「本当に、遅いです。……そんなこと、私は、最初から、怒ってません」
「…………」
「外のみんなをお願いしますって言ったのは、私です。あなたは、私の頼みを、聞いてくれただけです。……村のみんなを、一人残らず、治してくれた。私の代わりに。自分を、全部、削って」
小雪の、緑色に染まった手が、俺の頬に、そっと触れた。
冷たくて、少しだけ、あったかかった。
「怒ってたのは、ひとつだけです」
「……何だ」
「あなたが、いつまでも自分を許してあげなかったこと」
何も、言えなかった。
小雪は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、俺の顔を、じっと見てた。
それから、笑った。
目元だけじゃなかった。口元がふわりとほどけて、頬がやわらかく持ち上がって。小さく声まで出して。
「……お前、そんな笑い方、したか」
「さっきの子に、教わりました」
小雪は、少しだけ、照れくさそうに言った。
「手を合わせて、泣いて、それから、素敵な柔らかい表情で笑ってたんです。……いいなって思いました。私もそうやって、笑ってみたかったなって」
「…………」
「似合いませんか」
「……いや」
首を、横に振った。
「似合ってる」
小雪は、もう一度穏やかに笑顔で笑った。
雪が、静かに降り続けてた。
二人で、祝言の日みてえに白い椿の根元に並んで座った。
丘の下の村から、煙が、ゆっくりと立ち昇ってた。薬草を煎じる、苦い匂い。誰かの笑い声。子どもが、雪の中を、走り回る声。
「……あいつは」
ぽつりと、言った。
「無事に帰れたか」
「ええ。……崖の下の、あの門を、くぐっていきました」
「そうか、帰れたんだな」
「蔦だらけでしたけど。一本ずつ、指でほどいてました。刀で切ればいいのに」
「……馬鹿だな」
「名前、見つけてましたよ。あなたが彫った」
「…………」
「やれやれって言ってそう、って。笑ってました」
「――頑固な奴でな」
しばらくして、言った。
「帰るって決めたら、絶対に引かねえ。無理だって言っても、聞きやしねえ。……お前に、そっくりだった」
「顔もでしょう」
「……知ってたのか」
「さっき、見ましたから。……私に似てました」
小雪は、少しだけ、遠くを見た。
「でも、あの子は、私とは違います。……ちゃんと自分のことも大事にできる子です。自分の普通も守るって決めた子です」
「…………」
「あなたが、そう教えたんでしょう」
「……教えたのは、あいつの刀だ」
でも、そうだな。
あいつの力に少しでもなれたなら、それは本当に良かった。
眠かった。
地獄の底で何千年も眠ってきたのに、まだ眠かった。
だが今度の眠気は、あの底で感じていたものとは違う。
吸われるのが嫌で、起きてるのがしんどくて、意識を絶つための眠りじゃない。
ただ温かくて、安心して、少し休みたい。それだけだった。
「……少し、眠い」
「どうぞ」
小雪が、膝を、ぽんと叩いた。
「今度はちゃんと起こしてあげますから」
「……遅れずにか」
「それは、あなた次第です」
やれやれ、と思った。
口に出しては、言わなかった。
小雪の膝に、頭を乗せた。
白い椿の花が一輪ひらひらと降りてきた。
そうして静かに目を閉じた。
――地獄の二層。赤い滝の手前。すり減った岩の上で一人の男が目を閉じて眠っている。
その傍らで、赤い椿の花が、ひとつ、またひとつと静かに色を変えていった。
赤から、白へ。
雪みたいに、白く。
それは、男の霊力が、もうほとんど残っていない地獄の底で、斬魄刀が咲かせた、最後の花だった。
男の寝顔は穏やかだった。
まるで、誰かの膝の上で眠っているようだった。