ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
狐のお面は思っていたより視界が狭かった。
「アイちゃん、これ前がほとんど見えないんだけど」
『目の穴の位置がマスターの顔に合っていません。視覚情報は私が補完します』
「最初からそう言ってよ……」
夜の十時。
家族が寝静まったのを確認して、私はこっそり窓から屋根に出た。
パジャマの上からパーカーを羽織ってフードをかぶり、顔には夏祭りの屋台で買った白い狐のお面。
鏡で見たときは正直ちょっとかっこいいと思ったけど、今はちょっとだけ後悔している。
『霊圧の偽装完了。現在のマスターの霊圧は周囲の雑霊と区別がつきません』
「ほんとに? 一兄にもバレない?」
『黒崎一護の霊圧は制御が粗く、常に外へ漏れ続けています。感知も得意ではないと推測します。問題ありません』
さらっとひどいことを言った気がする。
屋根の上に立つと空座町の夜景が見下ろせた。
住宅街の灯りに遠くの駅、川沿いの道。
いつもの町なのに今夜は全然違って見える。
ところどころにぼんやりと光る点があって、それが幽霊だとわかる。
そのいくつかの近くには、どす黒くて嫌な感じの気配がわだかまっていた。
「……あれが全部虚?」
『最も近い反応は北東へ六百メートル、公園です。比較的小型の個体です』
「小型ってどれくらい?」
『前回の個体の半分程度です』
それでも軽トラックくらいはある。
心臓がばくばく鳴っていた。
精神世界では何百回も射ってきたし、仮想の虚ならもっと大きいのだって倒した。
でもあれは練習で、これは本番だ。
『マスター。怖いなら今夜はやめても構いません』
アイちゃんの声はいつも通り平坦だった。
でもその一言に、ちょっとだけ背中を押された気がした。
「……行く」
『了解しました。足元の霊子を固めます。踏み出してください』
言われるまま屋根の端から一歩踏み出すと、足の裏に見えない床があった。
「わ、わわっ」
『飛廉脚(ひれんきゃく)。滅却師の高速移動術です。精神世界で練習したはずですが』
「本番は足場が怖いの!」
そう叫びながらも二歩、三歩と踏み出すうちに、体が感覚を思い出していく。
霊子の足場を蹴って夜の空を滑り、屋根から屋根へ、電線を飛び越えて。
風が気持ちいい。
前世の私は走ったことすらほとんどなかった。
それが今、夜の町を飛んでいる。
怖さの隙間に、すごい、という気持ちが少しだけ混ざった。
公園の砂場のそばで、小さな男の子の幽霊が泣いていた。
胸の真ん中から短い鎖が垂れている。
その子の前に、のっそりと大きな影が覆いかぶさろうとしていた。
白い仮面にカエルみたいに膨れた体、長い舌がぬらりと揺れる。
「っ、アイちゃん!」
『左手を前に。霊子を集めてください』
意識を手のひらに向けると、周りの空気から光の粒が吸い寄せられてくる。
それが一瞬で形を作って、手の中に弓が現れた。
右手で弦を引くと、そこに光の矢がつがえられる。
『距離四十。風、影響なし。照準補正完了しています』
狙う。
息を止める。
指を放す。
光の矢が夜を裂いて、虚の仮面のど真ん中に突き刺さった。
一拍おいて虚の体がぼろぼろと崩れていき、悲鳴みたいな音を残して黒い霧になって消えた。
「……当たった」
『命中。対象の消滅を確認しました。お見事です、マスター』
膝から力が抜けて、私は霊子の足場の上にへたり込んだ。
手が震えている。
今さら心臓が痛いくらい鳴り出した。
倒した。
本物の虚を、私が。
下を見ると、男の子の幽霊がきょとんとこちらを見上げていた。
「あ、えっと……もう大丈夫、だよ」
お面越しに手を振ると、男の子は少しだけ笑って手を振り返してくれた。
「アイちゃん、あの子はどうなるの?」
『本来であれば死神が魂葬(こんそう)という儀式を行い、尸魂界へ送ります。滅却師の力ではそれはできません』
「じゃあ、あのままってこと?」
『放置すればいずれ虚になる可能性があります。ですが、この町には死神がいます。黒崎一護が近いうちに見つけるでしょう』
一兄、か。
なんだかちょっとだけ複雑な気持ちになった。
私は虚を倒せるけど、迷子の魂を送ってあげることはできない。
それは一兄にしかできないことなんだ。
「……そっか。じゃあ私は、一兄の手が回らないところをやればいいんだね」
『効率的な分担です』
「そういう言い方しないの」
その夜、私は合計三体の虚を倒して、日付が変わる前にこっそり部屋に戻った。
布団に潜り込んでお面を枕元に置く。
手のひらにはまだ弓の感触が残っていた。
『本日の戦果。虚三体消滅、マスターの負傷なし。……良い初陣でした』
「えへへ。でしょ」
目を閉じながら私は思った。
これなら守れるかもしれない。
一兄も夏梨も、お父さんも。
そう思って油断した次の夜に、まさかあんなことになるとは。
この時の私はまだ知らない。
次の夜、私は完全に調子に乗っていた。
「アイちゃん、次! 次の虚どこ!」
『南西八百メートル、河川敷です。……マスター、今夜は少々ペースが速すぎます』
「大丈夫大丈夫、昨日三体いけたし!」
霊子の足場を蹴って夜空を滑る。
もう足場は怖くない。
屋根を三つまとめて飛び越えたって平気だ。
河川敷に降り立つと、土手の下に二階建ての家くらいある虚がいた。
昨日のよりずっと大きい。
猿みたいな長い腕で、何かを探すように草むらを掻き回している。
「よーし……」
弓を構えて弦を引く。
照準はアイちゃんが補正してくれる。
放った矢は狙い通り虚の仮面に吸い込まれて、大きな体がぐらりと傾いて崩れ落ちていった。
「よしっ!」
『マスター、後方!』
アイちゃんの声が、これまで聞いたことがないくらい鋭かった。
振り返るより早く背中に風圧が来た。
土手の上、さっきまで何もいなかったはずの場所にもう一体。
細長い蜘蛛みたいな虚が、私に向かって脚を振り下ろしていた。
避けられない。
そう思った瞬間、体が勝手に横へ跳んでいた。
アイちゃんが私の足元の霊子を無理やり弾いたんだと、あとで知った。
虚の脚がさっきまで私がいた地面を深々とえぐる。
「っ、ご、ごめ……」
『謝罪はあとで。弓を』
慌てて弓を作り直そうとするも手が震えて霊子がうまく集まらない。
虚がもう一度脚を振り上げた。
その時だった。
黒い影が横から飛び込んできた。
振り下ろされた虚の脚が根元から斬り飛ばされ、続けざまに大きな刃が月明かりの下で弧を描いて、虚の仮面を真っ二つに割った。
黒い着物に、身の丈ほどもある包丁みたいな大きな刀。
オレンジ色のつんつんした髪。
一兄だった。
崩れていく虚の向こうで、一兄がこっちを振り返った。
目が合った。
お面越しだけど、たぶんばっちり合った。
(ど、どどどどうしよう)
頭の中が真っ白になる。
いや、待って。
これってもしかしてチャンスなんじゃない?
夜の河川敷、月明かり、一兄に助けられた謎の狐面。
ここでお面を外して「実は私でした」って――
(……いや、違う!)
全然違う!
私の考えた最高の登場シーンは、一兄が大ピンチのところに私が颯爽と現れて助ける、だ。
今のは逆だ。
私が助けられてるし、しかも油断して。
こんなかっこ悪いタイミングで正体を明かすなんて絶対いや!
「おい、お前……」
一兄がこちらに一歩踏み出した。
「今の矢、お前が撃ったのか? 何もんだ。人間……だよな?」
私は答えなかった。
というか答えられなかった。
『マスター、声を出すと正体が露見します。黒崎一護はマスターの声を毎日聞いています』
(わかってる!)
『推奨行動、撤退』
(わかってるってば!)
私はくるりと背を向けて、全力で地面を蹴った。
「あっ、おい!」
霊子の足場を三段飛ばしで駆け上がって夜空へ。
後ろで一兄が何か叫んでいる。
「待てコラ! そこの変な仮面のちっこいの!」
ちっこい言うな!
思わず振り返って言い返しそうになったのを、ぎりぎりで飲み込む。
『マスター、減速しています』
(だって一兄がちっこいって!)
『事実です』
(アイちゃんまで!)
一兄も追いかけてこようとしたみたいだけど、霊子の足場で空を走る私にはさすがについてこられないらしい。
オレンジ色の頭があっという間に小さくなっていく。
土手のほうでは、小柄な女の子が一兄に駆け寄っていくのが見えた。
あの夜一兄に力を渡した、黒い着物の子だ。
今日は普通の服を着ている。
二人がこちらを見上げて何か話していた。
『あの夜の死神です。霊圧があの夜よりずっと弱まっています。……こちらを探していますが、マスターの位置は掴めていないようです。偽装は機能しています』
「……あの子、なんだか元気なさそう」
あの夜は、もっと強い感じがしたのに。
『力の大半を黒崎一護に渡したのだと推測します。今は霊圧を抑える仮の器のようなものに入っているようです』
「仮の器?」
『人形に近い作り物の体です。霊圧の外側が不自然なほど均一です』
「人形……」
よくわからないけど、あの子が一兄の近くにいる理由はとりあえずなんとなくわかった。
家の屋根に戻ってきて、私はようやく大きく息を吐いた。
膝が笑っている。
今になって、さっきの虚の脚が目の前に迫ってきた光景が何度も頭の中で再生される。
アイちゃんが無理やり跳ばしてくれなかったら。
一兄が来てくれなかったら。
「……アイちゃん、ごめん。調子に乗ってた」
『はい。調子に乗っていました』
「否定してよ!」
『事実ですので』
アイちゃんは少しだけ間を置いた。
『ですが、無事でよかったです。マスター』
声はいつもと同じで平坦だった。
なのに、なんだかちょっとだけ怒られている気がした。
「……うん。明日からはもっとちゃんとやる」
『はい。それと、黒崎一護への正体の開示についてですが』
「今のはノーカン! あんなかっこ悪いのは登場シーンじゃないから!」
『……了解しました』
アイちゃんの「了解しました」が、なぜかいつもより長く聞こえた。
翌朝、洗面所に向かう途中で一兄の部屋の前を通りかかった私は足を止めた。
ドアの向こうからひそひそ声が聞こえる。
一兄ともう一人、女の子の声。
(……え? 一兄の部屋に女の子?)
『あの夜の死神の霊圧です。……位置は黒崎一護の部屋の押し入れの中です』
(押し入れに!?)
いろいろ言いたいことはあったけど、ひとまず耳をそばだてる。
「だから、昨日の狐の面のやつだよ、ルキア。ちっこいのにとんでもねえ威力の矢撃ってたぞ」
「うむ。私も見た。……弓、か」
「なんか心当たりあんのか?」
「霊子を集めて弓とする者たちがいる。滅却師という。だが、奴らはとうの昔に死神によって……いや、確証はない。それに、あの者からは霊圧がほとんど感じられなかった。妙だ」
「霊圧がない? あんなにバカスカ撃ってたのにか?」
「だから妙だと言っている」
ルキア。あの子、そういう名前なんだ。
それだけ頭の隅に書き留めて、私は洗面所に逃げ込んだ。
鏡の中の自分と目が合うと、目の下にうっすらとクマができていた。
(めちゃくちゃ話題になってる……)
「今の会話から判断する限り、正体の推測には至っていません』
(それはよかったけど……ちっこいって二回も言われた……)
『事実ですので』
(三回目!)
それにしても、「とうの昔に死神によって」ってどういう意味だろう。
(アイちゃん、滅却師と死神って仲悪いの?)
『過去に大規模な衝突がありました。詳細は長くなりますが、聞きますか?』
(……あとでにする。朝ごはん作らなきゃ)
わからないことは聞けばいい。
でも聞くと長くなることは、時間のあるときに聞く。
それがここ数日で覚えたアイちゃんとの付き合い方だ。
もうひとつ、気になることがあった。
一兄の部屋にライオンのぬいぐるみが増えていたのだ。
掃除機をかけるついでに部屋を覗いたら、ベッドの上にちょこんと座っていた。
黄色くてたてがみがふさふさで、ちょっとくたびれている。
「かわいい……」
思わず抱き上げた瞬間、ぬいぐるみがびくっと震えた。
「…………」
「…………」
もう一度ぎゅっと抱きしめてみる。
ぬいぐるみの中で、何かが明らかにじたばたしている。
(アイちゃん)
『はい。そのぬいぐるみの中に魂が入っています。……構造が不自然です。自然に生まれた魂ではなく、人工的に作られたもののようです』
(人工的に作られた魂……)
『敵意は感じられません。黒崎一護の霊圧がわずかに移っています』
なんだろう。
人工的に作られて、誰かのそばにいる存在。
それってちょっとだけ、アイちゃんみたいだ。
「……よしよし」
なんとなく頭を撫でてみたら、じたばたがぴたりと止まった。
そのままリボンでもつけてあげようかと思ったけど、一兄に見つかったら面倒なので、そっとベッドの上に戻しておいた。
部屋を出る直前にぬいぐるみが小さく「た、助かった……」と呟いた気がしたけど、聞かなかったことにした。
朝ごはんの席で、一兄はいつも以上に眠そうだった。
味噌汁をすすりながら、ぼそっと呟く。
「……ったく、なんなんだよ、あのちっこいの」
「げほっ、げほっ」
「おい遊子、大丈夫か」
「だ、大丈夫……。それより一兄、ちっこいのって?」
「あ? ああ、いや、なんでもねえ。昨日変なガキがいてよ。狐の面かぶったちっこいやつ。声かけたら逃げやがった」
「へ、へえー……」
「なんだ一護、夜遊びか! お父さんは許さんぞ!」
「うるせえ、親父には関係ねえ!」
いつも通りお父さんが一兄に飛びかかって、いつも通り返り討ちにされる。
その騒ぎの中で、私は小さくなってご飯を口に運んだ。
「遊子」
隣から、夏梨が私の顔を覗き込んできた。
「目の下、クマできてる。夜更かし?」
「え、えっと、漫画読んでて……」
「ふーん」
夏梨はそれ以上何も聞かなかった。
代わりに、自分の皿の卵焼きを一切れ私の皿に乗せた。
「ほどほどにしなよ。夜は危ないから」
「……え?」
「夜更かしは肌に悪いってこと」
そう言って、夏梨はさっさと食器を片付け始めた。
卵焼きを口に入れると、甘くて少しだけしょっぱかった。
『…………』
「アイちゃん、今なんか言った?」
『いいえ。何も』
アイちゃんが何も言わないときは、何かを考えているときだ。
それくらいはもうわかるようになっていた。