ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
赤い底
熱い。
最初に感じたのはそれだった。
頬にざらざらした何かが当たっている。
熱くて硬くて、ところどころが尖っている。
お風呂のお湯を最大まで熱くしたみたいな空気が、肺の奥まで入り込んでくる。
『――マスター。マスター、聞こえますか』
声がした。
いつもの平坦な声だけど、いつもより少しだけ早口だった。
「……アイ、ちゃん……?」
『はい。私はここにいます。意識の回復を確認しました』
ゆっくりと目を開ける。
赤かった。
空が赤い。
夕焼けの赤じゃなくて、もっと濁った、鉄が錆びたみたいな赤。
雲なのか煙なのかわからないものが、低いところをどろどろと流れている。
体を起こすと、手のひらの下で黒い岩がじりっと鳴った。
地面の割れ目からオレンジ色の光が漏れていて、覗き込むとそのずっと下で、溶けた岩がゆっくりと煮えたぎっていた。
「…………」
しばらく何も言えなかった。
「……ここ、どこ」
『現在地を特定中です。……少なくとも、空座町ではありません。現世でも、尸魂界でも、虚圏でもありません』
「じゃあ、どこなの」
『落ちる直前に見た門の装飾と、この空間の霊子の性質から推測します。ここは――』
アイちゃんは一瞬だけ言葉を区切った。
『地獄、と呼ばれる場所です』
「じごく」
口に出してみても、全然実感がわかなかった。
地獄って、悪いことをした人が落ちるところだ。
前世のおばあちゃんがよく言ってた。
嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ、って。
「……私、なんか悪いことしたっけ」
『マスターの行動に、地獄に落ちる理由は見当たりません』
「じゃあなんで!」
『理由は、おそらく私です』
アイちゃんの声が少しだけ低くなった。
『鎖に捕らわれた瞬間、私は「排除反応」と判断しました。この世界そのものが、異物を取り除こうとする反応です。……この世界にとっての異物は、マスターではありません。別の世界の神が作った、私です』
「アイちゃんが……異物?」
『はい。マスターが力を望んだ夜、私はこの世界に接続しました。その時に、気づかれたのだと推測します』
あの夜。
家族を守れる力が欲しいって、布団の中で拳を握った夜。
「……それって、私のせいじゃん」
『いいえ。接続を実行したのは私です。リスクの評価が不十分でした。……申し訳ありません、マスター』
アイちゃんが謝るのを、私は初めて聞いた気がした。
「謝らないでよ。アイちゃんが繋がってくれなかったら、私、何もできないままだったんだから」
『…………』
「それより、どうやって帰るの?」
立上がろうとして、ふらついた。
足に力が入らない……いや、違う。
体がなんだか軽すぎる。
見下ろすと、着ているのは家を出た時のままのパーカーとスカートだった。
でもどこか輪郭がぼんやりしている。
手を握ったり開いたりしてみると、感覚はあるのに重さがない。
胸の真ん中から細い鎖が一本垂れていて、途中ですうっと透けて見えなくなっている。
「……アイちゃん、これ」
『因果の鎖です。魂と肉体を繋ぐものです。……落ちてきたのは、マスターの魂と、私だけです。肉体は、現世に残っています』
「えっ」
頭が真っ白になった。
「じゃ、じゃあ、私の体、今、浦原さんちの近くで倒れてるってこと!? 夏梨とかお父さんが見つけたら大騒ぎじゃん!」
『その点は、対処済みです』
「対処済み?」
『鎖に引き込まれる直前、私の一部を切り離して、マスターの肉体に残しました。マスターの記憶と思考パターンを元にした、自律型の思考体です』
「……つまり?」
『現在、マスターの肉体は、マスターとほぼ同じ判断で生活しています。帰宅して、夕飯の支度をしているはずです』
「…………」
私は赤い空を見上げた。
今頃家では、私じゃない私が味噌汁を作っている。
「……え、それってお父さんたち、気づかないの?」
『マスターとの思考の一致率は、九十八パーセント以上です。気づかれる可能性は、極めて低いと推測します』
「九十八って、残りの二パーセントは?」
『主に、マスターより少しだけ料理が上手です』
「それはそれで複雑!」
思わず叫んでから、私は自分で笑ってしまった。
地獄にいるのに笑ってる。
たぶんそうでもしないと、泣いてしまいそうだったから。
とりあえず歩くことにした。
じっとしていると足元の岩の熱さがじわじわと染みてくるし、何もしないでいると余計なことばかり考えてしまいそうだった。
首には狐のお面がぶら下がっていた。
引きずり込まれる時に外れかけて、輪ゴムのところで引っかかっていたらしい。
ちょっと焦げて、耳の先が黒くなっている。
「……せっかくのかわいいお面が」
『それより、足元に注意してください。右前方の岩は、内部が空洞です』
「はーい」
言われた岩を避けて、黒い岩の上を飛び移っていく。
割れ目からは相変わらず、オレンジ色の光と焼けるような熱気が噴き出していた。
「ねえアイちゃん。地獄って、どういうところなの? この世界に繋がった時に、いろいろ調べたんでしょ?」
『それが……地獄に関する情報は、ほとんどありません』
「え、そうなの?」
『尸魂界や虚圏については、構造も歴史も、ある程度の情報を得られました。ですが地獄は、三つの世界のどれとも、記録の上で切り離されています。存在すること自体は確認できますが、内部の情報は、ほぼ空白です』
「アイちゃんでも、わかんないことあるんだ」
『はい。むしろ、わからないことの方が多いです』
なんだかちょっと意外だった。
アイちゃんは何でも知っていると思っていた。
でもそれは、アイちゃんが「知っていることだけ」を答えてくれていたから、そう見えていただけなのかもしれない。
「じゃあ、ここから先は、二人で調べるしかないってことだね」
『……はい。そうなります』
しばらく歩くと、遠くの方から何かが聞こえてきた。
声だ。
一人じゃない、何十人ももっとたくさんの人の声。
叫び声とも泣き声ともつかない低いうめき声が、地鳴りみたいに重なり合って響いてくる。
岩陰からそっと覗き込むと、溶岩の川のほとりに人がいた。
たくさんの人が鎖で岩に繋がれていた。
ぼろぼろの着物を着た人、顔が見えないくらいうなだれている人。
その胸からも私と同じような鎖が垂れているけど、その人たちの鎖は太くて重くて、地面の下へと深く食い込んでいた。
「……あの人たちは?」
『魂です。生前に何かを犯した者たちだと推測します。……鎖の形状から、ここから自力で離れることはできないようです』
「罪人ってこと?」
『おそらく』
胸がぎゅっと痛くなった。
あの人たちが何をしたのかは知らない。
でもあんなふうに繋がれて、この熱い場所でずっとうめき続けるのは、きっとすごく苦しい。
私の胸の鎖をそっと握ってみた。
細くて軽くて、あの人たちとは違う。
私の鎖は、ちゃんと現世の体に繋がっている。
「アイちゃん。私の鎖は、大丈夫なんだよね」
『はい。肉体との接続は維持されています。私の思考体を通じて、微弱な信号も届いています』
「信号?」
『現世の私と、ここにいる私の間で、定期的に情報をやり取りしています。……その信号の間隔から、気づいたことがあります』
アイちゃんが少しだけ声の調子を変えた。
『この場所の時間の流れは、現世とは異なります。地獄の方が、遥かに速く流れています』
「速いって、どのくらい?」
『現時点の推測ですが、ここでの数十日が、現世の一日程度です』
「数十日……」
指を折って数えようとして、やめた。
計算は苦手だ。
「それって、いいこと? 悪いこと?」
『両方です。ここでどれだけ時間がかかっても、現世ではあまり時間が経ちません。家族に心配をかける期間は短くて済みます。ですが――』
「ですが?」
『マスターは、ここで、とても長い時間を過ごすことになるかもしれません』
私は赤い空を見上げた。
太陽も月もない。
昼も夜もない。
ずっと同じ色の空が、どこまでも続いている。
ここで、とても長い時間。
一兄は今頃、ルキアさんを助けに尸魂界へ向かっているはずだ。
夏梨は最後に私の名前を呼んでくれた。
家では、私じゃない私がみんなとご飯を食べている。
「……帰らなきゃ」
小さく呟いた。
「一兄に、まだ言ってないことがあるんだから。おまんじゅうのお土産だって、受け取らなきゃいけないし」
『はい。帰りましょう、マスター』
アイちゃんの声はいつも通り平坦だった。
でもその「帰りましょう」は、すごく頼もしく聞こえた。
「よし。まずは出口探し! 霊子が薄いって言っても、弓くらいなら――」
私は左手を前に突き出した。
いつもみたいに意識を手のひらに向けて、周りの空気から光の粒を集める。
……集まらない。
「あれ?」
もう一度、今度はもっと強く。
手のひらにほんのかすかな光が灯ったけど、それは弓の形になる前に、ろうそくの火みたいにふっと揺れて消えてしまった。
「……アイちゃん」
『はい。予想していました』
アイちゃんの声が静かに告げた。
『この場所の霊子の濃度は、現世の十分の一以下です。周囲の霊子を集めて戦う滅却師の力は、ここでは、ほとんど機能しません』
「……ほとんど機能しない、って」
手のひらを見つめたまま、私は呟いた。
「じゃあ私、今、何もできないってこと?」
『完全にではありません。私の制御で、周囲の霊子を極限まで圧縮すれば、矢を一本形成することは可能です。ただし、威力は現世の数パーセント程度。連射はできません』
「数パーセント……」
公園のカエルみたいな虚を一撃で倒した矢の、数パーセント。
『それと、完聖体は使用不能です。あれは大量の霊子を前提とした形態です』
「……そっか」
不思議とそこまでショックじゃなかった。
たぶんまだ実感がないんだと思う。
今まで当たり前に使えていたものが、急になくなるなんて。
「まあ、戦わなきゃいいんだよね。出口を探して、こっそり帰ればいいんだから」
『はい。戦闘は、可能な限り回避すべきです』
その時、地面が揺れた。
ずん、と腹の底に響く音。
一回、二回、三回と、規則正しくだんだん近づいてくる。
足音だと気づいたのは、溶岩の川の向こうの岩山がゆっくりと動き出したのを見た時だった。
いや、違う。岩山じゃない。
それは立ち上がった。
大きかった。
空座町で見た大虚と比べても遜色ないくらい。
黒い岩みたいな体にひょろりと長い腕、頭には骸骨みたいな目のない白い顔が乗っている。
それが、鎖に繋がれた人たちの前にゆっくりと屈み込んだ。
長い腕が伸びる。
「……え」
繋がれていた一人を、その手が掴み上げた。
そして――。
私は思わず目を逸らした。
ぐしゃり、という音がして、悲鳴が途中で途切れた。
おそるおそるもう一度見ると、それの手の中にはもう何もなかった。
でも岩に繋がれた鎖の先で、黒い霧みたいなものが集まって、ゆっくりと人の形に戻っていく。
さっき潰されたはずの人が、また鎖に繋がれたままうなだれていた。
そして、それの手がまた伸びる。
「……なに、あれ」
声が震えた。
『地獄の番人、だと推測します。罪を犯した魂を、繰り返し……』
アイちゃんはその先を言わなかった。
言わなくてもわかった。
潰されて戻って、また潰される。
終わりなく、ずっと。
胃の奥がひっくり返りそうになった。
「アイちゃん、ここ、離れよう。今すぐ」
『同意します。音を立てないよう、ゆっくりと後退して――』
その時、番人が動きを止めた。
目のない白い顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
目はないはずなのに、見られていると全身の肌が叫んでいた。
『……マスター。対象が、こちらを認識しました』
「な、なんで!? 音、立ててないよ!?」
『音ではありません。おそらく、私です。……この世界の理に属さないものを、感知しているのだと推測します』
番人がこちらへ向き直った。
溶岩の川に黒い足を踏み入れると、じゅう、と焼ける音がした。
でも番人は気にもしていない。
ずん、ずん、と川を渡ってくる。
「逃げ――」
『飛廉脚を』
言われる前に地面を蹴っていた。
足元に霊子の足場ができる。
でもそれはいつもみたいなしっかりした床じゃなくて、薄氷みたいに頼りなく、三歩目でぱきりと割れた。
「わっ!」
岩の上に転がり落ちて、手のひらを擦りむいた。
魂でも痛いものは痛いらしい。
『霊子が不足しています。飛廉脚は、二歩から三歩が限界です。それ以上は、足で走ってください』
「足で!?」
振り返ると、番人がもう川を渡り切っていた。
長い腕がこちらに伸びてくる。
「……っ、アイちゃん、矢!」
『了解。圧縮を開始します』
左手にかすかな光が集まる。
弓の形にはならないけど、指先に細い光の針みたいな矢が一本だけ生まれた。
握りしめて、投げるように放つ。
光の針はまっすぐ飛んで、番人の白い顔に当たった。
ぴしり、と小さな音がして、白い顔に髪の毛ほどの細いひびが入った。
それだけだった。
ひびは見ている間にすうっと消えて、番人の手は止まらない。
「――ぜんっぜん効かないじゃん!」
『はい。全く効いていません』
「冷静に言わないで!」
私は走った。
二歩だけ飛廉脚で跳んで、あとは自分の足で。
熱い岩の上を、転びそうになりながら全力で。
後ろで地面が砕ける音がした。
番人の手が、さっきまで私がいた岩を粉々に握り潰していた。
前世の私は、走ったことがほとんどなかった。
今世の私は精神世界でたくさん走ったし、夜の空を飛ぶみたいに駆けた。
でもこんなふうに、本当に必死で足だけで走ったのは、たぶん生まれて初めてだった。
息が切れて肺が焼ける。
地獄の熱い空気が、喉の奥をひりひりと焦がす。
『右へ。岩の隙間に入れば、対象の腕は届きません』
「どっち!?」
『マスターの右手側です。……左ではありません、右です』
「わかってる!」
岩と岩の間の細い隙間に体をねじ込む。
直後、番人の指が隙間の入り口を掻きむしった。
岩が削れて、破片がぱらぱらと降ってくる。
「……はぁっ、はぁっ……」
狭い隙間の奥で、私は膝を抱えて震えていた。
怖い。
虚と初めて戦った夜より、ずっと怖い。
あの時は弓があって、アイちゃんがいて、ちゃんと戦えた。
でも今は何もない。
光の針一本で、ひびひとつしか入れられない。
『マスター』
「……なに」
『対象は、隙間の入り口から離れません。このままでは、いずれ岩ごと破壊されます』
「じゃあ、どうすれば……」
『隙間は、奥へ続いています。風の流れがあります。どこかに、抜け道があるはずです』
私は暗い隙間の奥を見た。
赤い光も届かない真っ暗な道で、その先に何があるのかはアイちゃんにもわからない。
後ろでは、番人の指が岩を一枚ずつ剥がしていく音がした。
「……行くしか、ないよね」
『はい』
私は狐のお面をぎゅっと握りしめて、暗闇の奥へ這うように進み始めた。
暗闇の中をどれくらい進んだのかわからない。
膝を擦りむいて、手のひらを切って、頭を岩にぶつけて。
それでもアイちゃんが風の流れを読んでくれる方へ、ひたすら這い進んだ。
後ろの方で岩が砕ける音がずっと続いていたけど、だんだん遠くなって、やがて聞こえなくなった。
『対象の気配が、遠ざかりました』
「……諦めた?」
『わかりません。ですが、ひとまずは』
私は狭い通路の真ん中で、ぺたんと座り込んだ。
体中が痛くて、喉がからからだ。
魂でも喉は渇くのかと、ちょっとだけ笑いそうになる。
「アイちゃん。……私、どれくらい、ここにいるのかな」
『落下してから、地獄の時間で、およそ三日です』
「三日……」
そんなに経っていたなんて全然気づかなかった。
空の色がずっと同じだから、時間の感覚がおかしくなる。
『眠っていません。食事もしていません。魂だけの状態なので、肉体ほどの消耗はありませんが、霊力は確実に減っています』
「……休んでいい?」
『少しだけなら。私が見張ります』
膝を抱えて目を閉じた。
真っ暗な中で、家のことを考えた。
台所の窓を曇らせる味噌汁の湯気。
一兄の寝ぐせ。
夏梨のぶっきらぼうな声。
お父さんのうるさい朝の挨拶。
私じゃない私が、今もそこにいる。
それでみんなが普通に暮らせているなら、それでいい。
それでいいはずなのに。
「……帰りたいなぁ」
声に出したら、目の奥が熱くなった。
『はい。帰りましょう』
アイちゃんは同じことしか言わなかった。
でもそれで少しだけ楽になった。
どれくらい眠っていたのか。
『マスター、起きてください』
アイちゃんの声で跳ね起きると、地面が揺れていた。
通路の奥から、ずん、ずん、と腹の底に響くあの足音がする。
でも今度は後ろからじゃない、前からだ。
『別の個体です。前方の出口付近にいます』
「前にも!?」
振り返ると、後ろの通路はずっと狭くなっていてもう戻れそうにない。
前に進むしかなかった。
通路の出口は崖の中腹に開いていた。
外に出た瞬間、赤い光に目が眩む。
眼下には深い谷が口を開けていて、底の方で溶岩の川がうねっている。
そして出口のすぐ横に、番人がいた。
白い目のない顔が、ゆっくりとこちらを向く。
「……っ」
前は崖、横には番人、後ろは行き止まり。
逃げ場がない。
長い腕が伸びてくる。
『マスター。崖の下、谷の中腹に、横穴があります。距離およそ三十メートル』
「三十メートル……落ちろってこと!?」
『飛廉脚で落下速度を殺せば、到達可能です。……成功率は、四割程度です』
「四割!」
番人の指が目の前に迫る。
迷っている時間なんてなかった。
「――もうっ!」
私は崖から飛び降りた。
風が耳元で唸り、赤い谷底がぐんぐん迫ってくる。
『今です!』
足元に霊子の足場を作る。
一枚目が割れて、二枚目も割れる。
三枚目でほんの一瞬だけ体が止まって、その勢いで横へ跳んだ。
崖の横穴の縁に、指が引っかかった。
「っ、ぐ……!」
腕一本でぶら下がる。
指が熱い岩に食い込む。
上の方で、番人が崖の縁から身を乗り出してこちらを見下ろしていた。
『もう少しです。足を』
必死に足を振り上げて、横穴の中へ転がり込んだ。
冷たかった。
地獄に来てから初めて感じる、ひんやりとした空気だった。
「……え?」
顔を上げると、横穴は思っていたよりずっと奥まで続いていた。
そしてその奥が、ほのかに赤く光っている。
溶岩の赤じゃない、もっと柔らかくて深い、くれないの色。
花だった。
洞の壁にも地面にも天井にも、一面に赤い花が咲いていた。
丸くて厚みのある花びらに、真ん中は黄色い花芯。
「……椿?」
前世の病院の中庭に、一本だけ植えてあった花。
冬になると窓から見えた。
こんな、地獄の底に。
『マスター。洞の奥に、霊圧があります』
アイちゃんの声が張り詰めた。
『非常に大きな霊圧です。ですが……眠っているように、静かです』
椿の花に囲まれた洞のいちばん奥で、岩壁にもたれて一人の男の人が座っていた。
ぼさぼさの長い髪に無精ひげ。
ぼろぼろの黒い着物の上に、色あせた白い羽織。
その羽織の背中に何か字が書いてあったみたいだけど、擦り切れて読めない。
腕には一本の刀を抱えていて、目を閉じてぴくりとも動かない。
「……死んで、る?」
『いいえ。魂は活動しています。……ただ、極端に静かです。意図的に、意識を絶っているように見えます』
その時、背後で轟音がした。
振り返ると横穴の入り口が崩れていて、番人の長い腕が岩を砕いて洞の中へ伸びてくる。
「うそ、ここまで……!」
もう逃げ場はなかった。
私はとっさに後ずさった。
椿の花を踏まないように、なんて考える余裕もなく。
背中が何かにぶつかる。
眠っている男の人の肩だった。
「ご、ごめんなさ――」
番人の腕が目の前まで迫って、私はぎゅっと目をつぶった。
「――ったく」
頭の上から低い声が降ってきた。
眠そうで、だるそうで、心底めんどくさそうな声。
「やれやれ。……うるさいと思ったら」
目を開けると、男の人が薄く目を開けて私を見下ろしていた。