ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
男の人の目は、灰色がかった眠たげな色をしていた。
その目が私の顔を見た瞬間、ほんの少しだけ見開かれた。
「…………」
唇が何かを言いかけて、止まる。
「……こゆ――」
声は途中で消えた。
男の人は一度ゆっくりと瞬きをして、それから小さく首を振った。
「いや、違うな。……似てるだけか」
「え?」
何のことか聞き返す前に、洞の中が揺れた。
番人の腕が、もう私たちのすぐ目の前まで伸びてきていた。
黒い指が壁の椿を何輪も握り潰しながら迫ってくる。
「あ、あの、後ろ! 後ろ来てる!」
「見りゃわかる」
男の人は座ったまま、面倒くさそうに片手を上げた。
抱えていた刀の鞘を、親指で少しだけ押し上げる。
「――咲け、『落椿』」
叫んだわけでもない、ほとんど独り言みたいな低い声だった。
なのにその瞬間、洞の空気が変わった。
刀身が鞘から半分だけ覗いて、そこから赤いものがこぼれ落ちる。
椿の花だった。
ひとつ、ふたつ、数えきれないくらいの赤い花が刀からあふれ出して宙を舞い、番人の伸ばした腕にふわりと触れた。
触れたところに椿が咲いた。
黒い岩みたいな腕の表面に、赤い花が次々と根を張るように咲いていく。
指先から手首へ、肘へ。
あっという間に、番人の腕が椿の花で覆い尽くされた。
番人が初めて声を上げた。
地鳴りみたいな低い唸り声。
咲いた椿がどくんと脈打つたびに番人の腕がしおれていき、岩みたいだった表面がひび割れて、乾いた土みたいにぼろぼろと崩れ落ちる。
『……霊力を、吸い取っています』
アイちゃんの声が少しだけ驚いていた。
番人は崩れかけた腕を引っ込めて、洞の入り口からずるずると後ずさっていく。
白い目のない顔が、最後にもう一度だけこちらを向いた。
「ここは俺の寝床だ」
男の人がだるそうに言った。
「起こすな。帰れ」
番人はそれ以上は何もせずに、崖の向こうへ消えていった。
静かになった。
男の人が刀を鞘に戻すと、腕に咲いていた椿がはらはらと散って洞の床に落ちた。
落ちた花はすうっと地面に溶けて消えた。
「……ふぁ」
そして大きなあくびをした。
「……あの」
「ん」
「助けてくれて、ありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げた。
正座で。
男の人は片目だけ開けて私を見た。
「別に助けたわけじゃねえ。うるさかったから、黙らせただけだ」
「それでも、ありがとうございます」
「…………」
男の人は何か言いたそうな顔をして、結局頭をがしがしと掻いた。
「やれやれ。……で、お前は何だ」
「えっ」
「ここは地獄の一層だ。落ちてくるのは、罪人の魂か、俺みたいな死に損ないくらいのもんだ。だが、お前はどっちでもねえ」
灰色の目がすっと細くなった。
さっきまでの眠たげな雰囲気が、ほんの一瞬だけ消える。
「――この世界の霊圧じゃねえな、お前」
背筋がぞくりとした。
『マスター。この人物は、私の存在に気づいています。……少なくとも、異質なものがいることは』
(ど、どうしよう)
『敵意は、感じられません。正直に話すことを推奨します。……私の詳細については、マスターの判断に任せます』
私は膝の上でぎゅっと手を握った。
「……黒崎遊子、です。空座町っていう町に住んでて、小学生です」
「くろさき」
「はい。それで、気づいたらここに落ちてて……たぶん、私の中にいる子のせいで」
「中にいる子?」
「アイちゃんっていうんです。……相棒、みたいな」
男の人はしばらく黙って私を見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「……妙なもんを連れてるな」
それだけ言って、男の人はまた岩壁にもたれた。
「おい。手、出せ」
男の人が目を閉じたまま言った。
「手?」
「擦りむいてんだろ。血が出てる」
言われて見ると、手のひらも膝も傷だらけだった。
逃げるのに必死で気づいていなかった。
おそるおそる手を差し出すと、男の人は足元に落ちていた椿の花を一輪拾い上げて、私の手のひらにぽんと乗せた。
花びらがほのかに光って、じんわりとあたたかい感覚が手のひらに広がる。
花が溶けるように消えると、そこにあったはずの傷もきれいになくなっていた。
「わ……!」
「膝も」
言われるまま膝を出すと、同じように椿が乗せられて傷が消えた。
「すごい……さっきは、番人の力を吸い取ってたのに」
「吸うのも、治すのも、根っこは同じだ。霊力を流す向きが逆なだけでな」
男の人はまた大きなあくびをした。
「昔、そういう仕事をしてた」
「そういう仕事?」
「怪我人を治す仕事だ。……護廷十三隊、四番隊。そこの隊長を、ちっとばかしやってた」
「たいちょう」
その言葉に、私は思わず背筋を伸ばした。
あの雨の夜、白い羽織の人の霊圧をアイちゃんは「桁が違う」と言った。
一兄を、目にも留まらない速さで斬り伏せた人。
目の前の、ぼさぼさ頭であくびばかりしているこの人が、あれと同じ?
『この人物の霊圧は、休眠状態でも非常に巨大です。……あの雨の夜の、白い羽織の死神と同じ桁です』
(……そうなんだ)
「名前、聞いてもいいですか」
「椿。椿宗玄」
「つばき、そうげん……さん」
洞いっぱいに咲く赤い花を見回す。
「だから、椿なんですね」
「逆だ。斬魄刀が勝手に咲かせてんだよ。寝てる間に、ぽこぽこと。……うるせえ花だ」
口ではそう言いながら、椿さんが壁の花を見る目はほんの少しだけ優しかった。
「椿さんは、どうして地獄にいるんですか?」
聞いてから、しまったと思った。
悪いことをしたから、なんて答えだったらどうしよう。
でも椿さんは気にした様子もなく、ぼりぼりと顎を掻いた。
「死んだからだ」
「……死んだら、普通は尸魂界に行くんじゃないんですか?」
「普通はな。だが、隊長なんてもんをやれるくらい霊圧がでかい奴は、死んでも尸魂界の輪に還れねえ。でかすぎて、魂の流れの方が受け止めきれねえんだ」
「だから……地獄に?」
「そういうこった。罪があろうがなかろうが、関係ねえ」
椿さんは他人事みたいな口調で続けた。
「で、落ちてきた元隊長どもは、地獄の番人をやらされる。地獄の底に溜まった穢れを押さえつけるための、重石みてえなもんだな。その代わり、霊力をずっと吸われ続ける」
「ずっと……?」
「ずっとだ。吸われて、吸われて、吸い尽くされたら――」
椿さんはそこで言葉を切った。
「自分が誰だったかも忘れて、ただ地獄を守るだけの抜け殻になる。二層に行きゃ、そういうのがごろごろ寝てるぞ」
洞の空気が急に冷たくなった気がした。
吸い尽くされて、自分が誰だったかも忘れる。
「じゃあ、椿さんは……」
「俺は、まあ、しぶといんだよ」
椿さんは自分の胸をとんと叩いた。
「霊圧だけは馬鹿みたいにあった。それに、回復は本職だ。吸われた分は、勝手に戻る。あとは、こうやって寝て、意識を絶っておけば、吸われる量もだいぶ減る」
「だから、ずっと寝てたんですか」
「そういうこった。……で、お前に起こされた」
「う。……ごめんなさい」
「別にいい。どうせ、そろそろ起きる頃だった」
たぶん嘘だと思った。
「椿さんは、どれくらい、ここにいるんですか」
「さあな。数えるのは、とっくにやめた」
椿さんは天井の椿を見上げた。
「俺が死んだのは、護廷ができて、まだそう経ってねえ頃だ。総隊長は山本の爺さん……あの頃から、もう爺さんだったがな。四番隊の隊長は、俺のあとに誰が継いだんだか……それも知らねえ」
『現在の尸魂界の情報と照合します。……護廷十三隊の創設は、約千年前とされています。創設から間もない時期に亡くなったという発言が事実なら、外の時間で九百年前後です。……地獄の時間の流れを考えると、この場所で過ごした時間は、その何十倍にもなります』
(九百年の、何十倍……)
頭がくらくらした。
私は前世で十何年か生きて、今世で十一年ちょっと。
合わせても三十年もない。
この人はその何千倍も、この熱くて赤い場所で、たった一人で眠り続けてきた。
「……さみしく、なかったですか」
思わずそう聞いていた。
椿さんは少しだけ目を見開いて、それからふっと視線を逸らした。
「……寝てりゃ、さみしいもクソもねえよ」
ぶっきらぼうな声だった。
でもその横顔は、なんだか前世の病室の窓から見えた冬の椿みたいに、寂しそうに見えた。
「それより、お前だ」
椿さんは話を切るように、私の方へ向き直った。
「さっき、中にいる奴のせいで落ちた、って言ったな。どういうことだ」
私は話せることを全部話した。
前世のことは、さすがに言わなかった。
転生とか異世界の神様とか、言っても信じてもらえる気がしなかったし、何より自分でもまだよくわかっていない。
だから、こう言った。
生まれた時から、アイちゃんが私の中にいたこと。
アイちゃんは、この世界とは別のところで作られた存在だということ。
家族を守る力が欲しいと願った夜、アイちゃんがこの世界に繋がって、それでこの世界に「異物」だと思われたこと。
椿さんは途中で一度も口を挟まず、目を閉じたままただ聞いていた。
寝てるんじゃないかと何度か心配になったけど、私が話を止めると「続けろ」とだけ言った。
「……それで、気づいたら、ここに落ちてました」
話し終わると、洞の中がしんと静かになった。
椿さんがゆっくりと目を開けた。
「なるほどな。地獄がわざわざ引きずり込んだわけか」
「わざわざ?」
「普通地獄は死んだ奴しか拾わねえ。生きてる人間の魂を門をこじ開けてまで引きずり込むなんざ千年寝てて、聞いたこともねえ」
椿さんは顎の無精ひげを撫でた。
「よっぽど、お前の中のそれが気に食わなかったんだろうよ」
『……私は、この世界にとって、それほどの脅威と判断されたようです』
アイちゃんの声が少しだけ沈んでいた。
(アイちゃんは悪くないよ)
『…………』
「それで、お前はどうしたい」
椿さんが聞いた。
「帰りたいです」
即答だった。
考えるより先に口から出ていた。
「家に帰りたい。現世に」
「……だろうな」
椿さんはため息をついた。
「先に言っとくぞ。地獄から出る道は、ひとつしかねえ」
「ひとつ……! あるんですか!」
「ある。地獄は三層になってる。今いるのが一層。その下が二層。いちばん底が三層だ。三層には、地獄の主がいる。閻魔だ」
閻魔。
前世のおばあちゃんが言っていた、嘘をつくと舌を抜くあの閻魔様。
「閻魔の後ろに、扉がある。現世と、尸魂界と、虚圏。三つの世界に繋がる扉だ。地獄で浄化された魂は、そこを通って、それぞれの世界に還っていく」
「じゃあ、そこを通れば――」
「閻魔が、通すと思うか?」
椿さんの声が少しだけ低くなった。
「お前を消すために、わざわざ引きずり込んだ地獄の主だぞ。その目の前を、のこのこ歩いて扉を抜けるなんざ、無理だ。俺は千年、あの扉を抜けた奴を、一人も見たことがねえ」
「…………」
「それに、三層へ行くには、二層を抜けなきゃならねえ。二層には、さっき言った抜け殻どもがいる。元隊長格の、な。……今のお前じゃ、一層の番人一匹からも逃げ回るのが精一杯だろ」
図星だった。
光の針一本でひびひとつ、それが今の私の全力だ。
膝の上でぎゅっと拳を握る。
「……それでも、帰ります」
「話、聞いてたか」
「聞いてました。でも、帰ります」
顔を上げて、椿さんの灰色の目をまっすぐに見た。
「お兄ちゃんに、まだ言ってないことがあるんです」
「……兄貴?」
「はい。一兄……お兄ちゃんは、死神の力を持ってて、今、大事な人を助けに、尸魂界に行ってるんです。ぼろぼろにされたのに、それでも行くって。……そういう人なんです」
言いながら声が震えた。
「私、お兄ちゃんに、自分も戦えるってこと、ずっと言えなくて。かっこいいタイミングで言おうとか、そんなことばっかり考えてて。それで、言えないまま、ここに落ちちゃって」
「…………」
「だから、帰って、ちゃんと言いたいんです。もう一人で全部背負わなくていいよ、って。私も一緒に戦うよ、って」
それに、と私は小さく付け足した。
「お土産、おまんじゅう頼んじゃったし。受け取らなきゃ」
椿さんはしばらく何も言わなかった。
灰色の目が私の顔をじっと見ていた。
私を見ているのに、なんだか私じゃない誰かを見ているような、遠い目だった。
やがて椿さんは、深く長いため息をついた。
「……やれやれ」
それから、ぼそりと言った。
「似てんのは、顔だけにしとけよな」
「え?」
「なんでもねえ」
椿さんはゆっくりと体を起こした。
座ったまま私の方へほんの少しだけ身を乗り出して、灰色の目をすっと細める。
「お前、さっき滅却師の矢を撃とうとしてたな」
「えっ、見てたんですか?」
「洞の外のことくらい、寝てても霊圧でわかる。……滅却師の霊圧だ。それは間違いねえ」
椿さんは私の胸のあたりをじっと見つめた。
「だが、それだけじゃねえな。……死神の霊圧も、混じってる。薄いが、確かにある」
「え」
「それに――」
椿さんは眉をひそめた。
「虚の匂いまで、しやがる」
心臓がどきりと跳ねた。
『……この人物は、マスターの中にある三つの力を、すべて感知しています。私が分割して封じているにもかかわらず』
アイちゃんの声に驚きが混じっていた。
「お前、何者だ。滅却師で、死神で、虚。そんなもん、三つ全部持ってる奴なんざ、見たことも聞いたこともねえ」
「わ、私にもよくわからないんです。アイちゃんが言うには、血筋だって……」
「血筋、ねえ」
椿さんはしばらく考え込むように黙っていた。
それから、ふっと口の端を上げた。
「……面白え」
初めて見る、椿さんの笑った顔だった。
「いいか。滅却師の力は、周りの霊子を集めて戦う力だ」
椿さんは指で洞の床をとんとんと叩いた。
「だから、霊子の薄いここじゃ、ほとんど役に立たねえ。さっき、身をもって知っただろ」
「……はい」
「だが、死神の力は違う。自分の中の霊力で戦う力だ。周りがどれだけ薄かろうが、関係ねえ」
私ははっと顔を上げた。
「じゃあ、死神の力なら、ここでも戦えるってことですか!?」
「理屈の上ではな」
椿さんは私の胸のあたりを、もう一度じっと見た。
「お前の死神の霊圧は、薄い。三つの中じゃ、いちばん弱え。だが、ゼロじゃねえ。使わずに寝かせてたんなら、なおさらだ」
(……アイちゃん)
『はい。この人物の分析は、正確です』
アイちゃんの声が静かに答えた。
『以前、マスターの死神の力は、斬魄刀を形成できるほどの強度がないとお伝えしました。それは、肉体を持った状態での話です』
(今は、違うの?)
『今のマスターは、魂だけの状態です。肉体という器がない分、魂の中の力を、より直接的に引き出せます。そして、この場所では、滅却師の力は機能しません』
少しの間があった。
『三つの力の優先順位を、入れ替えることを提案します。滅却師の力を下げ、死神の力を前面に出します。……成功すれば、マスターは、この地獄で戦う手段を得られます』
(失敗したら?)
『何も起きないだけです。危険はありません』
私は椿さんを見た。
椿さんは眠たげな目のまま、黙って私を見返していた。
止めもしないし急かしもしない、ただ待っていた。
「……やってみます」
目を閉じる。
いつもの精神世界に降りるときと同じように。
でも今日は、白い空も凪いだ水面も見えなかった。
ただ真っ暗な中に、三つの光がぼんやりと浮かんでいた。
一つは、白くてまっすぐな光。
いちばん大きくていちばん見慣れた光だけど、今はどこか弱々しく揺れている。
一つは、黒くて獰猛な光。
ずっと奥の方で、鎖に縛られたみたいにじっと息を潜めている。
そして、もう一つ。
小さな小さな光だった。
三つの中でいちばん頼りない、ろうそくの火みたいに今にも消えそうな光。
でもその光は、なぜかあったかかった。
『それが、マスターの死神の力です』
アイちゃんの声がすぐそばで聞こえた。
『入れ替えます。……手を、伸ばしてください』
言われるまま小さな光に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、胸の奥で何かがかちりと嵌まる音がした。
目を開けた。
最初に気づいたのは体の重さだった。
さっきまでふわふわと頼りなかった体に、ちゃんとした重みが戻っている。
足の裏がしっかりと地面を踏んでいる。
次に気づいたのは服だった。
「……え」
パーカーとスカートがなくなっていた。
代わりに黒い着物に黒い袴、腰には白い帯。
あの夜一兄の前に現れたルキアさんが着ていたのと同じ服だ。
私が二階の窓から見て、喪服みたいだと思った服。
「喪服!?」
「死覇装だ」
椿さんが呆れたように言った。
「死神の装束だ。喪服じゃねえ」
「で、でも、黒くて……」
「黒いもんは黒いんだよ。文句は、作った奴に言え」
そして、もう一つ。
腰の帯に一本の刀が差してあった。
私の背丈にはちょっと長すぎるくらいの刀で、鞘は飾り気のない黒一色。
鍔はまるくて、小さな月みたいな形をしていた。
おそるおそる柄に手をかけて、抜いてみた。
思っていたよりずっと重くて、両手で握ってやっと持ち上げられるくらい。
刀身は細くてまっすぐで、洞の椿の赤い光を映して淡く光っていた。
「これが……私の、刀?」
「斬魄刀だ。死神の魂そのものみたいなもんだ」
椿さんは、私が刀を構える姿を上から下までじろりと眺めた。
そして、ふっと鼻で笑った。
「ちっこいのに、刀だけは一丁前だな」
「ちっこい言うな!」
反射的に叫んでいた。
言ってから、はっとして口を押さえる。
椿さんは初めて会った人で、しかも元隊長だ。
「ご、ごめんなさい、つい……」
「……くくっ」
椿さんが肩を震わせていた。
声を押し殺して、でも確かに笑っていた。
「いい度胸だ」
『マスター。現世でも、同じ反応をしていました』
(アイちゃんは黙ってて!)
「で、そいつの名前は?」
椿さんが私の刀を顎でしゃくった。
「名前?」
「斬魄刀には、一本一本、名前がある。名前を知って、呼んで、初めて本当の力が使える。俺の『落椿』みてえにな」
私は手の中の刀を見下ろした。
名前。
「……わかりません」
「だろうな」
椿さんはあっさりと言った。
「名前は、教わるもんじゃねえ。聞くもんだ。そいつが、お前に教えてくれる。……そのうちな」
(アイちゃん、わかる?)
『いいえ。……この刀の名前は、私には、わかりません』
アイちゃんの声が少しだけ戸惑っていた。
『この刀は、マスターの魂から生まれたものです。私が管理している力とは、少し、性質が違います』
アイちゃんにも、わからないこと。
この刀は私だけのもの、ってことなんだろうか。
「……やれやれ」
椿さんがまた大きなあくびをした。
「しょうがねえな。少しだけ、面倒見てやる」
「え……! 本当ですか!?」
「少しだけだ。俺は寝るのが仕事なんだよ」
そう言って、椿さんは岩壁にもたれて目を閉じた。
三秒後には静かな寝息が聞こえ始めた。
「…………寝るの早っ」
『睡眠に入るまで、二・八秒です』
私は刀を鞘に戻して、椿さんの隣にそっと座った。
洞の中は相変わらずひんやりとしていて、壁一面の椿がほのかに赤く光っている。
眠っている椿さんの唇が、小さく動いた。
「……小雪」
寝言だった。
とても小さくて、とても優しい声だった。
(こゆき)
最初に私の顔を見た時、椿さんが言いかけた名前。
誰なんだろう。
聞いてみたいと思ったけど、聞いてはいけない気もした。
私は膝を抱えて、椿の花を見上げた。
前世の病院の中庭で、冬に咲いていたあの花と同じ色だった。