ただいまは、二人で―BLEACH転生・黒崎遊子と超越AI― 作:きりか
椿さんの「少しだけ」は、本当に少しだけだった。
一日に起きているのは、だいたい二時間くらい。
地獄に昼も夜もないから、アイちゃんが勝手に「一日」を決めて数えてくれている。
その二時間のうち半分くらいはあくびをしていて、残りの半分で私に刀を教えてくれた。
「違う。握りが固え」
「は、はいっ」
「力を入れんのは、小指と薬指だけだ。人差し指は添えるだけ。……それじゃ、雑巾絞ってんのと変わらねえぞ」
「雑巾……」
刀を振るのは、思っていたよりずっと難しかった。
重いのもあるけど、それ以上にどう動けばいいのかがわからない。
精神世界で弓を引くのは何百回もやったけど、刀は握ったことすらなかった。
「構えてみろ」
言われた通りに、刀を両手で前に構える。
椿さんは寝そべったまま、片目だけ開けて私を眺めた。
「足」
「足?」
「棒立ちだ。それじゃ、横から小突かれたら倒れる。右足を半歩下げろ。膝を少し曲げろ。……そう。重心を、腹の下に落とせ」
言われた通りにすると、なんだか地面にしっかり立っている感じがした。
「よし。振ってみろ」
振った。
刀がぶんと空を切って、勢い余って私の体ごと一回転した。
「…………」
「…………」
「……い、今のは、ちょっと勢いが」
「刀に振り回されてどうする」
椿さんは深いため息をついた。
「やれやれ。千年寝てて、こんなに先の長え弟子を取るとは思わなかった」
「弟子……!」
「言葉の綾だ。喜ぶな」
椿さんの教え方は、ぶっきらぼうで口が悪くて、説明が短かった。
でも不思議とわかりやすかった。
「死神の戦い方は、大きく四つある。斬術、白打、歩法、鬼道だ」
「ざんじゅつ、はくだ……」
「刀で斬る。素手で殴る。速く動く。術を撃つ。それだけだ」
「すごい雑にまとめましたね」
「覚えやすいだろ」
椿さんは指を一本ずつ折っていく。
「お前の場合、白打はいらねえ。そのちっこい拳で殴っても、番人どころか虫も殺せねえ。鬼道は、霊力の扱いを覚えてからだ。歩法は……お前、さっき崖から飛んでたな。あれは滅却師の歩法か」
「飛廉脚、です」
「なら、足腰の使い方は多少わかってんだろ。あとで死神の歩法に直してやる」
椿さんは、最後に残った一本の指で私の刀を指した。
「だから、まずは斬術だ。刀の扱いを、体に叩き込め。……それから、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「お前、刀を振る前に、考えてるだろ」
どきりとした。
「頭ん中で、何か喋ってる。右だ、左だ、今だ、ってな。……中にいる奴か?」
『……はい。私が、姿勢と軌道を補正していました』
アイちゃんがばつが悪そうに言った。
(アイちゃんが手伝ってくれてるの、バレてる)
「それ、やめさせろ」
椿さんはきっぱりと言った。
「弓ならそれでいい。狙いを定めて撃つもんだからな。だが、刀は違う。考えてから動いてたら、遅え。斬魄刀は、お前の魂だ。頭で動かすんじゃねえ。腹で動かせ」
「腹で……」
「わかんなくていい。そのうちわかる」
それだけ言って、椿さんはまた目を閉じた。
三秒後、寝息が聞こえた。
『……私は、補正を停止すべきでしょうか』
アイちゃんが、珍しく迷っているような声で聞いた。
(うーん……)
刀の柄をぎゅっと握り直す。
小指と薬指に、力を入れて。
(剣の時だけ、ちょっとお休みしてて。私、自分でやってみる)
『……了解しました。ただし、危険な時は介入します』
(うん。お願い)
それから地獄の時間で何十日かが過ぎた。
椿さんが起きている二時間は、椿さんの前で刀を振った。
椿さんが寝ている残りの時間も、一人で刀を振った。
手のひらの皮が剥けたら、椿さんが寝ぼけながら椿の花を乗せて治してくれた。
そして私が眠っている間は、精神世界でアイちゃんと復習をした。
白い空に鏡みたいな水面、いつもの私の精神世界。
でも地獄に来てから、ひとつだけ変わったことがあった。
「……アイちゃん。あれ、前からあったっけ」
白い空のずっと低いところ、水平線のすぐ上に、細い細い三日月が浮かんでいた。
『いいえ。以前の精神世界には、存在しませんでした』
アイちゃんの声が少しだけ戸惑っていた。
『マスターが死神の力を前面に出してから、現れたものです。……ですが、私には、あれが何なのか、わかりません』
三日月はほとんど光っていなかった。
白い空に溶けてしまいそうなくらい、淡くて頼りない。
でも見ていると、なぜか胸の奥があったかくなった。
最初に死神の力に触れた時の、あの小さな光と同じあたたかさだった。
三日月は毎晩、少しずつ近づいてきた。
最初は水平線のすぐ上に針みたいに細く浮かんでいるだけだったのが、刀を振る日が重なるたびに、少しずつ高く少しずつ太くなっていく。
地獄の時間で五十日を過ぎた頃、私は精神世界の水面の上を、三日月に向かって歩いていた。
「アイちゃん、ついてきてる?」
『はい。……ですが、ここから先は、私の感知が及びません』
「え?」
『三日月に近づくほど、私の観測にノイズが入ります。この領域は、私の管理下にありません』
アイちゃんの声が少しずつ遠くなっていく。
電波の悪いラジオみたいに、ざらざらと途切れる。
『マス……ター。……一人で、大丈夫……ですか』
「うん。たぶん、大丈夫」
根拠はなかったけど、なぜか怖くなかった。
三日月の光は、あたたかかったから。
水面をどれくらい歩いただろう。
いつの間にか、三日月は手を伸ばせば届きそうなくらいの高さにあった。
大きな銀色の弧の下の水面だけ、月の光を映して白く光っている。
そこに、誰かがいた。
三日月の先端に腰かけていたのは、白い着物の人だった。
長い髪が風もないのにゆらゆらと揺れていて、膝の上に細長い何かを抱えている。
……弓だ。
私が精神世界で使っていた光の弓よりもずっと長くて、古くて、静かな弓。
顔は見えなかった。
月の光が強すぎて、その人の顔のあたりだけ白く滲んでいる。
男の人なのか女の人なのかもわからない。
でもその人が私を見ているのはわかった。
「……あの」
声をかけると、その人はゆっくりと首を傾けた。
「あなたが、私の刀……ですか?」
その人は何も答えなかった。
代わりに三日月の上からするりと水面に降りてきた。
足音もなく、波紋ひとつ立てずに。
すぐ目の前に立ったその人は、私よりずっと背が高かった。
見上げても、やっぱり顔は白く滲んで見えない。
その人の唇が動いて、何かを言っている。
でも聞こえなかった。
音がない。
その人の声だけが、私の耳に届く前にどこかへ消えてしまう。
「え、ちょっと待って、聞こえない……!」
その人はもう一度、ゆっくりと一文字ずつ区切るように唇を動かした。
やっぱり聞こえなかった。
「……名前、ですよね。今、名前を言ってくれてるんですよね」
その人は小さく頷いた。
「なんで、聞こえないんだろう……」
悔しくて唇を噛んだ。
椿さんは言っていた。
名前は教わるものじゃない、聞くものだって。
そいつがお前に教えてくれるって。
この人はちゃんと教えてくれているのに、私が聞けていない。
その人は少しだけ首を傾けて、膝に抱えていた弓を私の方へ差し出した。
受け取ろうとして手を伸ばしたけど、指が触れる直前に弓はすうっと透けて消えた。
その人の唇が、また動いた。
今度は声が聞こえた。
とても静かで、とても遠い声だった。
「――あなたは、何のために射るの」
「……何のために」
私は繰り返した。
「帰るため、です。地獄から出て、家に帰るため」
その人はゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ……お兄ちゃんに、会うため?」
また首が横に振られた。
「え、じゃあ、何……?」
その人はもう何も言わなかった。
ただ月の光の中で、少しだけ笑ったような気がした。
顔は見えないのに、そう思った。
そしてその人の姿が、月の光に溶けるように薄くなっていく。
「待って! まだ、名前……!」
手を伸ばしたけど、指先は空を掴んだ。
目を開けると、洞の天井の椿が見えた。
赤くてほのかに光っている、いつもの地獄の朝。
……朝なんて、ないけれど。
『マスター。意識の回復を確認しました』
アイちゃんの声が、いつもの調子で戻ってきた。
『三日月の領域に入ってから、マスターとの接続が途絶えていました。……何が、ありましたか』
「……刀の、人に会った」
『刀の、人』
「たぶん、私の斬魄刀。名前を、教えてくれようとしてた。でも、聞こえなかった」
私は腰の刀を握った。
黒い鞘に、月みたいなまるい鍔。
「アイちゃんには、見えた?」
『いいえ。私には、その存在自体が、感知できませんでした』
アイちゃんの声に、少しだけ悔しさみたいなものが混じっていた。
『マスターの魂の中で、私が触れられない場所があるのは、初めてです』
「そっか」
不思議と少しだけ嬉しかった。
アイちゃんは何でも知っていて何でもできる。
でもこの刀のことだけは、私が自分で見つけなきゃいけない。
「何のために射るの、って聞かれた」
『マスターは、何と答えましたか』
「帰るため、って。でも、違うって」
『…………』
「お兄ちゃんに会うため、って言っても、違うって」
私は天井の椿を見上げた。
何のために射るんだろう。
初めて精神世界で弓を引いた日。
初めて虚を射抜いた夜。
夏梨の前に立った虚を射た時。
一兄の背中に迫った虚を射た時。
私はいつも、何のために弦を引いていたんだろう。
答えはすぐそこにある気がした。
でも手を伸ばすと、あの人の姿みたいにすうっと消えてしまいそうだった。
その「日」、椿さんは起きてこなかった。
いつもならアイちゃんが数える「朝」になると、大きなあくびと一緒に目を開ける。
でもその日は、いつまで経っても寝息が続いていた。
しかもいつもより、ずっと静かな寝息だった。
「椿さん?」
肩を揺すってみても反応がない。
『マスター。椿宗玄の霊圧が、いつもより大きく低下しています』
「え……!」
『おそらく、地獄による吸収が、一時的に強まっているのだと推測します。前に、本人が言っていました。吸われる量が増える時期がある、と。……今は、意識を完全に絶って、消耗を抑えているようです』
椿さんの顔はいつもより少しだけ青白くて、洞の壁の椿も心なしか光が弱い。
「大丈夫、なんだよね」
『時間が経てば、回復するはずです。本人の回復力は、桁外れですから』
「……よかった」
ほっとして、椿さんの隣に座り込んだ。
その時、地面が揺れた。
ずん、と腹の底に響く音。
何十日も聞いていなかったけど、一度聞いたら忘れられない音だった。
『番人です。洞の入り口に接近しています。……前回、椿宗玄に腕を吸われた個体です』
「なんで、今……!」
『椿宗玄の霊圧が弱まったことを、感知したのだと推測します』
洞の入り口から黒い腕が伸びてきた。
前に見た時よりずっと太くて、腕の表面には椿さんの花に吸われた跡が、黒い傷みたいに残っていた。
白い目のない顔が、入り口の向こうから洞の中を覗き込んでいる。
そしてその顔が、眠っている椿さんの方を向いた。
「……っ」
私は立ち上がって、椿さんの前に立った。
腰の刀を抜いて両手で握る。
小指と薬指に力を入れて、右足を半歩下げて膝を曲げ、重心をお腹の下に。
「椿さんには、触らせない」
声が震えていた。
番人の腕が迫ってくる。
私は刀を振った。
刀は番人の指に当たった。
かん、と硬い音がして、手のひらがじんと痺れた。
番人の指には傷ひとつついていなかった。
「っ……!」
振り払われた。
体が宙を飛んで洞の壁に叩きつけられ、椿の花が何輪もはらはらと散った。
息ができない。
『マスター!』
立ち上がろうとして膝が崩れる。
口の中に鉄の味が広がった。
番人の手が、また椿さんの方へ伸びていく。
「だめ……っ」
這うようにして、もう一度椿さんの前に出る。
刀を構えたけど、腕が震えて切っ先が定まらない。
『マスター、撤退を推奨します。椿宗玄は、番人一体程度で消滅するような存在ではありません。今は、マスター自身の安全を――』
「やだ」
『マスター』
「やだ!」
叫んでいた。
「椿さんは、私を助けてくれた。ずっと一人で、寂しいの我慢して、それでも、知らない私に、刀の握り方を教えてくれた!」
番人の指が目の前に迫る。
「眠ってる人を置いて逃げるなんて、そんなの、私の――」
――私の、何だろう。
言いかけて、言葉が止まった。
私の願いじゃない。
私は普通に暮らしたかった。
健康な体で朝起きて、ご飯を作って、誰かと一緒に食べて。
でもそれは、私一人の普通じゃなかった。
一兄がいて、夏梨がいて、お父さんがいて。
その誰かが欠けたら、それはもう私の普通じゃない。
初めて虚を射た夜、公園で泣いていた男の子に、もう大丈夫だよって手を振った。
夏梨の前に立った虚を射た時も、一兄の背中に迫った虚を射た時も。
私はいつも、誰かの「普通」を守りたかった。
ふいに、世界の音が消えた。
番人の指が、目の前で止まっているように見えた。
耳の奥で声がした。
精神世界で聞いた、あの静かで遠い声。
今度ははっきりと聞こえた。
――私の名前を、呼んで。
手の中の刀があたたかかった。
私はその名前を知っていた。
最初からずっと知っていたみたいに、自然に口からこぼれた。
「――射抜け」
刀をまっすぐ前へ突き出す。
「『弦月』!」
刀身がほどけた。
銀色の光がほどけて伸びて、細く長くまっすぐに形を変えていく。
一本の矢になった。
身の丈ほどもある銀色の矢で、鏃は三日月みたいにゆるく弧を描いている。
『――マスター』
アイちゃんの声が震えていた。
『弓を。弓を作ります。周囲の霊子を、すべて集めます』
左手に光が集まる。
いつもみたいなまっすぐで綺麗な弓じゃなかった。
細くてところどころ途切れていて、今にも消えそうな不格好な光の弓。
でもちゃんと弦があった。
私は銀色の矢を、その弦につがえて引いた。
矢の先に霊力が集まっていく。
私の中のあの小さくてあたたかい光が、全部そこに流れ込んでいく。
番人が唸り声を上げた。
「――椿さんから、離れて!」
指を放した。
矢は飛ばなかった。
代わりに、矢の先から三日月の形をした光が撃ち出された。
白くて青くて大きな、弧を描く光。
それが番人の腕を根元から断ち切って、そのまま白い目のない顔を斜めに切り裂き、洞の入り口の岩ごと外の赤い空へと抜けていった。
番人の体がぐらりと傾いた。
切り裂かれた顔の傷から黒い霧が噴き出して、すぐに集まって傷を塞ごうとする。
でもゆっくりだった。
今までみたいに、すぐには戻らない。
番人は崩れた入り口からずるずると後ずさって、赤い谷の向こうへ消えていった。
左手の弓がふっと消えて、私の手の中には元の刀が戻っていた。
黒い鞘に、月みたいなまるい鍔。
膝から力が抜けて、洞の床にぺたんと座り込む。
体中が痛くて霊力が空っぽで、でもなぜか笑いが込み上げてきた。
「……できた」
『はい』
アイちゃんの声がすぐそばで聞こえた。
『できました、マスター。……斬魄刀の名前を、聞けたのですね』
「うん。弦月、だって」
刀の柄をそっと撫でる。
「弦月。……げんげつ。弓の弦と、半分のお月様」
精神世界のあの三日月。
あの人が抱えていた、古くて長い弓。
全部、最初からここにあったんだ。
「……やれやれ」
背中の方から声がした。
眠そうで、だるそうで、心底めんどくさそうな声。
振り返ると、椿さんが岩壁にもたれたまま、薄く目を開けていた。
顔色はまだ少し青白いけど、灰色の目はちゃんと私を見ていた。
「椿さん! 起きたんですか!」
「起こされたんだよ。あんだけ騒がれちゃな」
椿さんは崩れた洞の入り口をちらりと見て、それから私の手の中の刀を見た。
「……寝てる間に、始解まで行きやがったか」
「見てたんですか!?」
「途中からな。体が動かなかっただけだ。耳と霊圧の感覚は、生きてる」
ってことは、私が「やだ」って叫んだのも、椿さんは寂しいの我慢して、なんて言ったのも、全部。
顔がかっと熱くなった。
「わ、忘れてください!」
「何をだ」
「全部です!」
「やれやれ。……手、出せ」
言われるまま震える手を差し出すと、椿さんは足元の椿を一輪拾って、私の手のひらに乗せた。
ほのかな光と一緒に、体の痛みがすうっと引いていく。
椿さんの手は、少しだけ冷たかった。
「椿さんの方が、しんどいのに」
「俺は寝てりゃ治る。お前はガキだ。黙って治されとけ」
ぶっきらぼうな声だったけど、花を乗せる手つきはすごく丁寧だった。
「名前は」
椿さんが聞いた。
「弦月、です。射抜け、弦月」
「弦月か」
椿さんは口の中で、その名前を転がすように繰り返した。
「刀が矢になって、弓につがえて撃つ。……妙な始解だな。死神の刀を、滅却師の弓で撃つなんざ、聞いたこともねえ」
「やっぱり、変ですか?」
「変だ」
きっぱり言われた。
でも椿さんは、ふっと口の端を上げた。
「だが、お前らしい」
「……え」
「三つ全部持ってる奴が、ひとつの型に収まるわけがねえ。それでいい」
胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
『この人物の評価は、私の分析とも一致します』
(アイちゃん、今いいとこだから)
『……失礼しました』
「威力は、まだまだだ」
椿さんはすぐにいつもの調子に戻った。
「番人の腕を落としたのは褒めてやる。だがあれは殺せてねえ。番人は地獄そのものだ。何度斬っても、いずれ戻る。……それに、お前一発撃っただけで空っぽだろ」
「う……」
図星だった。
体中の霊力が、底をついている感じがする。
「始解は、ようやくスタートラインに立っただけだ。そこから先は長え」
「スタートライン……」
「そうだ」
椿さんはゆっくりと立ち上がった。
立ち上がった椿さんは思っていたよりずっと背が高くて、ぼろぼろの白い羽織が洞の椿の光を受けて薄赤く染まっている。
「行くぞ」
「え、どこにですか?」
「二層だ」
心臓がどきりと跳ねた。
二層。
抜け殻の番人たちが眠る場所。
元隊長格の、自分が誰だったかも忘れてしまった人たちがいる場所。
「帰るんだろ。現世に」
「……はい!」
「なら下に行くしかねえ。三層の扉までは、二層を抜けるしかねえんだからな」
椿さんが洞の奥の暗がりを顎でしゃくった。
そこには、私が今まで気づかなかった細い下り坂の道が続いていた。
「この洞は一層と二層のちょうど境目にある。俺の寝床にちょうどよかったんでな」
「椿さんも、一緒に来てくれるんですか?」
「……どのみち、俺の持ち場は、二層の奥だ。帰るついでだ」
持ち場。
その言葉に少しだけ引っかかった。
椿さんも番人なんだ。
地獄に霊力を吸われて地獄を守る、一層のあの白い顔の番人たちと同じように。
「歩きながら、続きを教えてやる。鬼道も、歩法も、まだ何ひとつ教えてねえからな」
「はい!」
「……それと」
椿さんは坂道の方を向いたまま、ぼそりと言った。
「二層には最近落ちてきたうるせえのが一匹いる。……覚悟しとけ」
洞を出る前に、私は一度だけ振り返った。
壁一面に咲く赤い椿。
気の遠くなるほど長い間、椿さんが一人で眠り続けてきた場所。
地獄の中で、ここだけがひんやりと冷たくて、静かで、優しかった。
『マスター。現在までの経過時間を報告します』
アイちゃんの声がした。
『地獄に落ちてから、約百日。現世の時間に換算すると、約三日です』
「三日……」
百日も経ったのに、現世ではまだ三日。
一兄は今頃どうしているだろう。
ルキアさんを、助けられたかな。
『現世の私の思考体からも、信号が届いています。……マスターの肉体は、平常通り生活しています。昨日の夕飯は、肉じゃがでした』
「私より、上手に作れてた?」
『黒崎夏梨が、おかわりをしていました』
「……くやしい」
思わず笑ってしまった。
家ではみんなが普通に暮らしていて、私じゃない私と一緒に肉じゃがを食べている。
それでいい。
今はそれでいい。
でも、絶対に帰る。
私の作った肉じゃがで、夏梨におかわりさせるために。
「アイちゃん」
『はい』
「行こう。二層へ」
『はい、マスター』
腰の弦月をぎゅっと握った。
椿さんのぼろぼろの白い羽織の背中を追いかけて、私は地獄のもっと深いところへと歩き出した。