剣鬼の翼さんが最終的に装者を曇らせながら可惜夜に希う話 作:スーパーゴッドハンド
A, お月さまみたいな翼さんは私の性癖に合ってるから……
日の本には、多くの無辜の民草がいる。
その多くは罪を犯さず安泰を享受し、互いを尊び、美しき平和を形作っている。
かような者たちが理不尽に殺されるのは──悪しきことだ。断じて、許されぬことだ。
故に、私は生きている。
幼き頃より剣を振り、シンフォギアの装者として血の滲むような鍛錬を重ねてきた。
私が強くなれば、ノイズによって奪われる命を無くすことができる。
それは善いことだ。至極、正しきことだ。
不満など、あろうはずもない。
これこそが私の果たすべき責務であり、歩むべき正道なのだから。
時は、二〇三五年。
追い詰められた獣ほど、凶暴な牙を剥く。
兵器を各国へ売りさばき、血銭で武力を肥やしてきた死の商人たち。その結社は、国際社会の包囲網と『パヴァリア光明結社』の台頭によって、破滅の縁に瀕していた。
生き残るために彼らが選んだのは、日本への大規模な襲撃だった。
日本は米国と並び、完全聖遺物を多数秘匿している。これを奪えば莫大な利益を得られるうえ、国際社会に自らの力を誇示できる。
そして、力の弱い日本は米国よりも幾分か与しやすいと彼らは踏んだ。
だが、その為に折り砕かねばならぬ「盾」があった。
───風鳴。
古よりこの国の防衛と防諜を陰から支えてきた、防人の裔。
風鳴機関の武は一騎当千。とりわけ、現代最強として名高い風鳴弦十郎は、結社にとって最大の障害だった。
しかし、その弦十郎は何人かの優秀な職員を連れて米国へ渡航中。前当主も表舞台を去っている。
そして何より、風鳴の本家には、まだ幼い少女が一人残されていた。
幼子を人質に取り、風鳴の牙を封じる。
追いつめられた結社が描いたのは、あまりにも単純で不条理な目論見であった。
──かくして。
幼き少女へ、凶刃が向けられる。
──思い返せば、あの夜がすべての始まりだったのかもしれない。
幼き頃。父に認められない焦りから家を飛び出し、ただひたすらに己を痛めつけるような鍛錬の日々を過ごしていた、ある日の夜。
その日、叔父様たちは故あって日の本を離れており、私は特異災害対策機動部二課の本部に居残る形となっていた。
衣食住の世話をしてくれる二課の方々には感謝している。
それでも私は焦燥感に急かされるまま、夜更けにもかかわらず、一人で木刀を振り続けていた。
そんな私を案じてか、夜勤に残っていた二課の大人たちが何人か様子を見に来てくれた。
当時の私は彼らの名前すら知らなかった。
装者として目覚めて本部へ引き取られて以来、自分から関わりを持とうとしたことなど一度もなかったからだ。
いつも叔父様の後ろから眺めるだけだった、彼ら彼女ら。
夜の静寂の中、私は初めて彼らと言葉を交わした。
年配の職員は、魔法瓶の温かい茶を黙って私の手に持たせてくれた。
若い女性の職員は財布から娘の写真を取り出し、愛する家族とどのように出会い、どんな風に愛を育んできたのかを照れくさそうに語った。
誰もが同じことを口にした。
私のような幼い子供をいずれ死地へ送り出さねばならないことへの、深い悔恨と謝罪。
すべてが初めて聞く言葉だった。
彼らの心の柔らかい部分に触れて、少しだけ大人たちという生き物が
「人は理解の出来ないものを恐れ、嫌う。相手が何を考え、次に何をするのか──先が読めないのを恐れるが故にな。
だからこそ、こうして言葉を交わすことが大切なのだよ」
茶をくれた職員がそう諭し、ぽん、と不器用に私の頭を撫でた。
優しく、そしてどこか無骨で硬い手だった。
叔父様に似た、大きくて温かい手。
私はその時、初めて。
名前も知らない彼らのことを、心から好きだと思えたのだ。
空を見上げれば、満ちる寸前の巨大な月が私達を見下ろしていた。
薄らと影のある月を見て、私は目を細める。
何処か近くにあるようで、決して手の届く所にない月。
それでもなんとなく、手を伸ばしてしまう月。
私はソレが■■であった。
風が一条、吹いた。
夜の涼しさを打ち消す、生暖かい嫌な風だった。
どうしようもなく嫌な予感がして、私は周囲を見渡した。
殆ど勘に近いものであったが、何かまずいことが起きるという確信があった。
───ガタリ、と物音が一つ立った。
「───もう職員は、私達以外居ない筈なのだが……」
「見てまいりましょうか?」
職員たちも異変に気づいたのか、怪訝な表情を見せる。
そのうちの一人が、確かめようと物音のした闇へ向かった。
───その刹那。
パン、と乾いた音が鳴った。
戦場に居る者からすれば、聞き慣れた銃声。
確かめに向かった職員は、頭から血を吹き出し、そのまま絶命した。
「─────え?」
「下がりなさい! 翼ちゃん!」
何が起こったのかも分からぬまま、気がつけば私は職員の誰かに庇われていた。
誰かは分からない。
顔を確かめようとした瞬間には、その顔に巨大な穴が開いていた。
戦わねば。
その時になって、未熟な私はようやく思い至る。
歌わねば。聖遺物を纏い、この者たちを討ち払わねば──!
だが、それは既に遅すぎた。
巨大な蛸の足のような触手が、私の首を掴んだ。
言の葉を──歌を出させぬよう、じわりと締め上げてくる。
「ガ──ハ───ッ」
声が出ない。
歌が歌えなければ、装者たる私はただの子供に過ぎない。
襲撃者は、そんな事実にまでたどり着いていたのだ。
意識が急速に遠のく。
尋常でない危機に気づいた時には──胸元から、天羽々斬は既に奪い取られていた。
気がつけば、私は男どもに囲まれていた。
非常灯と、持ち込まれた投光器の光が、血に濡れた床を照らしている。男たちは床に広げた二課の機密資料を物色している。
共に捕らえられた職員たちは、私の周囲に引きずり出されていた。
無事な者はいない。皆、酷い暴行を受け、半数以上がすでに物言わぬ骸となっている。
目の前で、生き残った職員の一人が尋問されていた。
彼は血反吐を吐きながら相手に怒鳴り返し──次の瞬間、乾いた銃声とともに頭を吹き飛ばされた。
ひっ、と短い悲鳴が私の口から漏れた。
その音で、男たちは私が目覚めたことに気づいた。私は引き立てられ、輪の中心へ放り出される。
そこには、七尺を優に超える大男がどっかと座っていた。
大男は私を見下ろし、歪な笑みを浮かべ、自身のグラスを突き出した。自分は子供好きだから暫し殺すのは止めにしてやる。だから酒を注げ、と。
震える手で、言われるがままに琥珀色の液体を注ぐ。
なみなみと注ぎ終えた、その刹那。背後で再び銃声が鳴り、また一人、職員が殺された。
「どうした? 手が止まっているぞ」
ああ──私は、このまま戯れに生かされ、戯れに殺されるのだな。
圧倒的な暴力の前に、私は自らの絶望的な運命を悟り目を閉じた。
だが、運命とは時に悪戯なもので。
死の淵に立つ私の目の前に、極めて不可思議な出会いをもたらすこととなる。
「おーっと、今回で
空気を読まない、間の抜けた声。
その場に似つかわしくない声に、誰もが一瞬動きを止めた。
私の目に映ったのは、見慣れぬ色彩の女剣士。
薄紅色の髪をひとつに結んだ、あどけなさの残る女剣士。
藍色の和装に二本の刀を携え、惨劇を前にしてなお、その表情には不敵な余裕すら漂っていた。
決して大柄ではない。それでも、佇まいには一分の隙もなかった。
笑っているようで、その実どこまでも鋭い。剣に生きる者だけが纏う、独特の気配がそこにあった。
「貴様、何処から湧き出た?」
「───ん?」
女は私を見た。
次いで、私の背後に転がる無数の凄惨な死体を見た。
「えーっと、ごめんなさい。私、今さっきこの世界に来たばっかりなんだけど、もしかして取り込み中だった?」
無数の死体を前にして、女は顔色一つ変えずそう尋ねた。
その様が実に底知れず、恐ろしく見えた。
闖入者を敵と見なしたのだろう。男たちは忌々しげに舌打ちし、突然粗野な外国語でわめき散らしながら銃口を一斉に向けた。
「─────!!────ッ!!」
「わ!? さっきまで日本語話してたじゃない! ?急に知らない言葉で話されてもわかんないんだけど!」
先ほどの大男が立ち上がる。自身の体躯ほどもある巨大な槍を携え、女の前に迫り────
「………まあ、如何なる理由があろうとも、幼子を前にかような真似をする貴方たちこそ、私が断ち切るべき外道に違いなし」
女は腰の刀にスッと手を添えた。
たったそれだけで、場の空気が変わった。
肩の力が抜ける。重心がわずかに沈む。鯉口を切る親指の動きにすら、淀みがない。
あれほど軽薄に見えた気配が、嘘のように凪いでいた。
凪いでいるのに──触れれば切れる。そう確信させる静けさだった。
その姿を見ただけで、私の背筋はぴんと張る。
美しい。
その言葉が、他の何よりも先に胸に浮かんだ。
ありとあらゆる無駄を廃した、剣の構えとして最高の姿がそこにはあった。
はあ、と口から自然に感嘆の息が漏れる。
「───そういうわけだから、暫しの間我慢していてちょうだい。そこのかわい子ちゃん」
彼女が言い終えると同時、刃は槍を断ち切り、男の頭を両断していた。
鋼の槍と、頭蓋。二つの硬物を断つ間、刃は一度として止まらなかった。
切断面から血が噴き出すのが、一拍遅れた。
残った男たちが激昂する。
「─────!!────ッ!!」
「ん〜〜!? エゲレスあたりの言葉かしら? まあよくわかんないけど、外道ならば、斬って捨てるに何の問題も無し」
ただ鋭く。ただ速く。
襲い来る男たちは、次の瞬間には肉片となって宙を舞い、辺りはあっという間に屍山血河へと変わっていく。
近代兵器、聖遺物、槍、刀。
あらゆる武具を女は容易く両断し、鮮血を撒き散らしていく。
女は────笑っていた。
口元は確かに笑みを描いているのに、目だけが凪いだ水面のように冷えていた。
(なんという、自由。なんという───強さか)
命を救われたというのに私の胸を貫いたのは、安堵ではなかった。
名状しがたい、熱だった。
辺りにあるのは、正しく虐殺。
だが、その事実とは対照的に、太刀筋はひどく冷徹だった。
静かだ。
周囲から音が消えたわけではない。いつしか私は、その剣以外の情報を意識の中から廃していたのだ。
恐怖はとうに消え失せていた。
圧倒的な暴力。死を撒き散らす絶対的な刃。
私は逃げることすら忘れ、ただその剣舞に■■られていた。
一分も経たぬうちに、女はその場にいた敵の全てを悉く斬り捨てた。
「ふーーー。おわったぁ」
刃にこびり付いた血を無造作に振り払い、女はそのまま歩き出す。
背後で微かな呻き声がした。生き残った職員の誰かが、私の名を呼んだ──気がした。
振り返らなかった。
気がつけば、私はその後を追っていた。
転がっていた己の木刀と、血溜まりの中に落ちていた天羽々斬を握り締め、ただひたすらに、その血塗られた背中を追い縋っていたのだ。
───
叔父様が米国から駆け戻ったのは、それから数日後のことだった。
血に染まった本部を前に、叔父様は長いこと言葉を失い、やがて私と私の背後に立つ彼女とを、順に見た。
事の顛末を聞き終えると、叔父様は彼女に深々と頭を下げた。
姪の命を救ってくれた礼に、行くあてがないのなら郊外の古い道場を使ってほしい、と。
──あの夜から、幾度となく夜を越えた。
詳しく日にちを数えていたわけではない。調べればどの程度の日数が過ぎたのかを知ることは出来るのだろうが、私にはそれをする理由が見つからなかった。
「─────ハッ!!」
風を切る音と共に、木刀を振るう。
カラン、と軽快な音が夜気の冷たい道場に響いた。彼女の木刀と私の木刀が、激しく交錯する。
「へえ……」
彼女は感心したように二本の木刀を閃かせる。
私はそれを同じく両手に持った二本の木刀で、必死に受け止めた。
横薙ぎの一撃を右で防ぐ。その瞬間には既にもう一方の打撃が迫っており、間一髪、左の木刀を滑り込ませる。
鍔迫り合いの形は、ほんの一瞬。すぐさま力負けした私は、背後へ大きく弾き飛ばされた。
やはり純粋な筋力では勝てぬ。
ならば、隙を窺うまで。
そう考え、彼女の周囲を時計回りに回ろうとした──その進路を塞ぐように、一本の木刀が真っ直ぐに投擲された。
私の浅知恵など、お見通しだとでも言うように。
「────なっ!?」
動揺は、一瞬。
だが勝負の世界において、その一瞬は敗北を決するに十分すぎた。
飛来した木刀に気を取られた私の隙を突き、彼女は間合いを完全に潰していた。
まずい。
苦し紛れに、木刀を振り下ろす。
彼女はそれを見て、ひらりと一歩、下がった。
牽制に成功したか? 否、真逆だ。
彼女は私の焦りからくる悪手を、完全に読んでいたのだ。
私の木刀は空を切り、体勢が崩れる。
彼女の突きが無防備な私の脳天へ、寸分違わず放たれ───額の寸前でぴたりと止まった。
「ぐえッ!!」
間の抜けた悲鳴と共に、切先の風圧に煽られた私は無様に尻餅をついた。
「惜しかったわねえ〜〜! 筋は悪くなかったと思うわよ、翼ちゃん」
「とんでもない。読まれていた一刀など、何の意味も成果もなし得ません……未だ及びません、師匠」
差し伸べられた手を、私は恐縮しつつ取った。
完敗だった。勝負は終始、彼女の掌の上にあり、私はその上で踊らされていたに過ぎない。
「そうかしら?
苦し紛れでもさ、何もできなかった頃とは雲泥の差があると思うわよ、私は」
彼女はそう言いながら、道場の縁側に腰を下ろすと、いつの間に用意したのか懐から握り飯を取り出して頬張り始めた。
あの夜、私は彼女に弟子入りを志願した。
何故と問われれば、彼女の振るう刃が──
これ以外の理由は知らない。だが、この本音をわざわざ周囲に口にするつもりもない。
一度だけこれを偽らざる理由として叔父様に伝えた時、叔父様は一瞬だけ胸を突かれたような、悲しい表情をした。それを、私は覚えている。
それ以来、私はこの本当の理由を語るのをやめた。
受け入れられないと悟ったから。普通では無いと知ったから。
理由すらまともに話せぬ己に、果たしてどれほどの価値があるのか。私自身、甚だ疑問であった。
「……私などに、成長などあるのでしょうか」
「ありますとも! 自信を持ちなさい。
世界に数多の剣客が存在すれど、自らの剣に誇りを持てぬ者に『剣聖』の道はなし。弦十郎のおじ様だって、自分に絶対の自信があるからこそ、最強の座に居られるのですから」
諭すように伝える彼女の言葉に、そういうものかと胸を撫で下ろす。
「師匠から見ても、叔父様は最強と呼ぶに相応しいのですか?」
「そりゃあね。何度か
そう言いながらも、彼女は清々しい笑みを浮かべた。
敗北をこうも素直に認められる彼女もまた、存分に広い器を持っていると思うのだが、それをわざわざ口にして持ち上げるのは憚られた。負けず嫌いな人だから、きっと照れ隠しに拗ねる。
その姿を想像して、クスリと小さく笑う。
「……翼ちゃん、いまちょっと失礼なこと考えてなかった?」
「気のせいに過ぎません。……それより、師匠がこの世界に来てからもう一年になりますが、普段の『漂流』もこれほど長期にわたるものなのですか?」
「ん〜〜……私自身もこの力のことを詳しく知っているわけじゃないんだけど、ここまで長居できたのは初めてかなあ。
もしかしたら、この世界にはずっと滞在できるのかも」
彼女の軽やかな言葉はまるで鋭い針のように、私の心へ深く刺さった。
この一年で彼女の抱える事情は、ある程度聞いている。
自らの世界はすでに滅び、どこかの世界に留まることも許されず、ただ漂流者として当てのない世界の旅を強いられ続けていること。
いつ世界を渡るかというタイミングに、多少抗うことはできても「留まり続ける」という選択肢は彼女には存在しないはずなのだ。
どんな世界であれ、最終的には弾き出され、再び独りになってしまう。
それは辛いことだ。悲しきことだ。
「ねえ、翼ちゃん。────貴女は……」
突如、師匠が真面目なトーンで問いかけてきた。
普段はちゃらんぽらんを絵に描いたような彼女だが、常にふざけているわけではない。真に大切な局面では、必ずこのような凛とした顔をする。
だから私は、彼女の言の葉を待った。
「貴女は、何故それほどまでに強さを求めるの? 風鳴の娘だから? それとも、しんふぉぎあ、とやらの装者だから?」
彼女から剣を求める理由を問われたのは、これで二度目だ。
一度目は、彼女に救われて弟子入りを志願したあの夜。その時は「魅入られたからだ」と素直な本音を口にした。
だが、今もその理由を口にして良いかと問われれば──否と言わざるを得ない。
だから私は、この一年で身につけた「もう一つの理由」を口にすることとした。
「当世では、あまりにも多くの無辜なる民が、ノイズによって命を奪われています。
無論、病や事故、人の手による犯罪で命を落とす者がいることも否定はしません。ですが──それらには人の手で防ぐ道が残されています。法があり、警察があり、国家間の対話があります」
パチリ、と道場前に置かれた火鉢から小さな火花が跳ねた。
赤く揺らめく焔の光が、私の影を静かに揺らしている。
「ですが、ノイズという化生はそうはいかない。奴らに抗う術を持つのは、私の纏うシンフォギアのみ。……私が弱ければ、守れるはずの民草が死に絶えます。───悪しき事、許されぬ事です」
私は静かに拳を握り締め、真っ直ぐに師匠の瞳を見つめ返した。
「故に、私は剣を取るのです。この身を刃と変え、一人でも多くの民を救うために」
師匠は、すぐには何も言わなかった。
ただ「そっか」とだけ、いつもの軽やかな声で笑った。
その瞳に、ほんの一瞬だけ、憐れむような色が差したことに、当時の私は気づけなかった。
「貴女は生まれる時代を間違えたのね」
───
夜気に満ちた縁側を、足音もなく歩く。
暦はすでに秋へと移ろっており、草むらから届く鈴虫の音色が静寂を際立たせていた。
裸足で踏みしめる木の床は、ひやりと冷たい。
道場の扉を静かに開け、一礼して足を踏み入れる。
「アレ?翼ちゃん?」
暗がりの中に、師匠の姿があった。
普段であれば疾くに眠っているはずの時間。彼女は月明かりの差す道場の中、ただぽつねんと佇んでいた。
その輪郭が、ほんの少しだけ夜の闇に溶け込むように揺らぐのを、私の瞳は見逃さなかった。
「───時間ですか?」
気遣いや前置きなど、この人との間には不要だ。私は単刀直入に問いかけた。
彼女は私の言葉に一瞬だけ迷うような素振りをみせたのち、いたずらに成功した子供のような笑みを浮かべた。
「分かっちゃう?」
ただ一言、そう答えた。
分かるとも。そうでなければ、わざわざこの時刻に木刀を手にここへ足を踏み入れるはずもない。
彼女はまた、別の世界へと叩き出されるのだ。
私はそれを確信していたし、彼女もまた隠すつもりなど最初からなかったのだろう。
「私もね、こんなに長い時間を一つの世界で過ごせるなんて思わなかったんだけどさ。まあ、運命っていうのかね? 結局そういう日が来ちゃったわけだ。……まあ、そういうことだから───おっと!」
軽妙な語尾のまま、彼女は私が打ち込んだ木刀の一太刀を笑いながら受け止めた。
礼も名乗りもない、完全なる不意打ち。だが、文句を言われる筋合いなどない。
かつて日の本一の剣客として修羅場を潜り抜けてきたこの人が、どれほどの策と手を用いて勝機を掴んできたかなど、少しでも学びがあれば知っていることだ。
「最後に一試合、お願い致します」
「いいわよ。せっかくだし、名乗りでも上げる?」
「未だ未熟者ゆえ、無用にございます。……それに、時間がありませんので」
「最後のが本音でしょ!?」
会話の合間を縫い、刃を滑らせる。
斜上から左下へと一気に振り下ろす袈裟斬り。
だが、その一閃はあっさりと彼女の木刀の柄頭で受け止められ、軌道を逸らされた。
──型を変える。
両手の二刀を捨て、右手に握った一刀のみへ。
変幻自在の器用さでは、この怪物には届かない。ならば、すべてを打倒するための一太刀に特化させる。
生半可な攻勢など、この人には通じない。
せめて一太刀。あの日私を魅了したその絶技に、私の一刀を届かせて見せる――!
「やるじゃない。今までで一番かも」
くるりと独楽のように回転して私の一撃をいなした彼女は、そのまま怒濤のうねりとなって一転、圧倒的な攻勢へと転じた。
私はそれを一本の木刀で受け止める。
左の木刀は、背に隠したままだ。
揺るがぬ地の如く。
両足を踏み締め、両腕の骨が鳴るほどの力を込める。彼女の放つ一撃一撃を、踏みしめた床板ごとただ一振りの木刀をもってひたすらに受け止め続ける。
無論、そのような猶予が長く続くわけではない。
あと二撃。それを受け止めれば、重い斬撃に押し負けて私は弾き飛ばされる。
そうなれば敗北は必定。ならば───退くなど論外、踏み込むのみ。
回転の合間に生じる、瞬きほどの猶予。
それこそが、この怒濤の猛攻を断ち切る正真正銘、唯一の隙。
怒濤の攻勢は圧倒的な脅威であると同時に、防御を捨てたことで相手に致命的な隙を晒す「諸刃の剣」でもある。もっとも、そのような極小の隙を突くことなど容易ではなく、大抵は一瞬でかき消されてしまう。
なればこそ、紙一重の距離で死を避け、虚を突く。我が師より叩き込まれた理合い――名を応刀。
「───見えているぞッ!」
「おーっと!」
彼女は鮮やかな後方転回を以て、衝撃を死角へ逃がし、間合いを外した。
だが、それでいい。その身のこなしを引き出させた時点で、彼女の圧倒的な攻勢は崩れた。
この瞬間こそ、求めていた好機。
上段に構え、渾身の力と共に兜割りの一撃を振り下ろす。
───避けられる。
放った瞬間に悟った。兜割りは威力が高い分、隙が大きい。このままでは身を防ぐ間もなく、次の反撃に沈む。
ならば。
振り下ろした木刀の勢いを寸分も殺さず、私はそのまま地へと手をついた。全身の遠心力を繋げ、変則的な横回転を以て、彼女の下段を薙ぎ払う。
「ちょっと、師匠との戦闘で他の流派の技使わないでよ!」
彼女が文句を言うが、黙殺する。
彼女の言う通り、これは私がシンフォギアを纏って行う技『逆羅刹』を生身で再現した狂逸の一手。
文句を言われようとも、止まる気など毛頭ない。
私は未熟。故に、勝つためならば使う手札は選びはしない。
防人としての戦技も、彼女から叩き込まれた二天一流の理合いも、私の中にあるすべてを駆使させてもらう。
逆羅刹の横回転から跳ね起き、今度は縦の回転を加えながら、彼女以上に隙のない連撃を放つ。
─── 無想三刃。
目まぐるしい連撃の最中、火鉢の炎が彼女の影を道場の床へ長く引き伸ばしている。
今だ。
背に隠していた左の木刀を、その影へ投げ打つ。
───影縫い。
かつて緒川さんから授かった、忍の技。その動きを物理・呪術の両面から一瞬だけ縫い止める。
「ちょ!? それ反則───」
聞かぬ。
動きの止まった彼女の懐へ踏み込み、木刀を腰だめに構える。
居合い抜きの要領で、全身の血肉を逆巻く気魄ごと凝縮させ、私の持てる最大の一撃を解き放つ。
シンフォギアを纏えば、巨大な蒼い刃となる一閃。
それを今、生身のただの木刀に込めて──
─── 蒼ノ一閃
それはシンフォギアを纏い、絶唱の力をもってしてようやく放つはずだった最強の一撃。
その一撃を前に、彼女はただ不敵な笑みを浮かべているだけ。
彼女と共に一年を過ごした私の勘が告げている。
何かを企んでいる。
それは分かった。けれど、この段に至って足を止める道理など私にはない。
ならば、その策ごと食い破るのみ。
腹を括った私はさらに深く踏み込み、刃の速度を極限まで跳ね上げた。
空を断ち、肉薄する一閃。
しかし、振り下ろした刃が捕らえた手応えには、紛れもない違和感があった。
人の身体を打つ感触ではない。まるで、強固な鉄塊を真っ向から叩きつけたかのような――
「お見事。でも、まだまだね」
耳元で静かに囁かれた余裕の声。
見れば、彼女の腰にある鞘が私の木刀と彼女の身体の隙間へ滑り込むように挟み込まれていた。私の放った渾身の衝撃は、その一筋の鞘によって完璧にいなされ、死死と殺されていたのだ。
戦慄が背筋を駆け上がる。反撃が来る。
彼女は二本の木刀を低く腰だめに構え、獰猛な肉食獣の如き笑みを深めた。
「────ふ。」
静寂を破ったのは、鋭く吐き出された一筋の呼吸。
それを合図に彼女の姿が私の視界から消失し、次の瞬間、網膜を覆い尽くしたのは幾重にも交差する紫紺の軌跡だった。
瞬きの隙すら与えぬ十二連撃。
時間すら圧縮されたかのように、全方位から同時に刃の嵐が押し寄せる。
あぁ――これが、剣の頂きか。
一瞬にして私の手から木刀が弾き飛ばされる。
逃れることの叶わぬ乱撃の奔流が全身を襲う。腕を打ち砕く二撃。腰を砕く三撃。胸骨を揺らす痛烈な一撃──それらがほぼ同時に叩き込まれたかのような絶望的な衝撃。
そのまま身体は宙へと弾き飛ばされ、眩暈のする視界の中で、ただ静かな道場の天井だけが遠ざかっていった。
*
「───ん……」
ひんやりとした冷気と頭を包む心地よい温もりに導かれ、私はまぶたを開けた。
ぼやける意識が次第に輪郭を取り戻していくと、視界に飛び込んできたのは師匠の顔だった。彼女は静かに私を膝枕し、目が覚めたことに気づくと愛おしむように柔らかく私の髪を指で手繰った。
「……成長したわね。翼ちゃん、きっちり一撃貰っちゃったわ」
彼女はそう言って自身の腕を軽く掲げて見せた。
そこにはほんの僅かだが赤く腫れ上がった痕がある。
私が最後に振るった、泥臭い悪足掻きの一撃が届いていたのだ。絶望的な敗北のなかで、その傷痕が、胸の奥で小さな灯火のように誇らしかった。
だが、同時に察してしまう。
膝から伝わる温もりが、急速に薄れていることに。
彼女の身体が膝元から順に淡い紫色の光粒子へと変換され、夜の空気に溶け出す灰のように静かに崩れ去ろうとしているのを。
もう、この世界での刻限なのだ。
「ちょっと未練たらたらで、カッコ悪いと思うんだけどさ。……自分の世界を失った私としてはね、翼ちゃんには私のこと、ちゃんと覚えていてほしいの」
寂しげに目を細めた彼女はその場に置かれていた大小二本の日本刀を、私の横へゆっくりと滑らせて寄せた。
「はいこれ、私の刀。まあ予備の拵えなんだけど……翼ちゃんへの置き土産ってことで、いいでしょ? ちょっとくらい、思い出を残して去ったってさ」
──私の、刀。
私は未だ未熟だ。師匠の領域には程遠く、この刃を扱うに相応しい人間かと問われると到底首を縦には振れない。
けれど、他ならぬ師匠の手から差し出された頼み。これを無下にしりぞけることは、剣に生きる者として理に反すると思った。
「ありがたく、頂戴いたします……」
「ちゃんと手入れしてよ?」
「勿論です」
「ふふ、別に壊したっていいからね? 無くしたって怒らないから」
「私を何だと思っているのですか。……そういえば、師匠」
「ん? なあに」
彼女の指先が、すでに透き通るような光の粒子へと変わり始めていた。
永遠の別れがすぐそこに迫っている。だからこそ、私は胸の底にずっと沈めていた、一番確かめたかった問いを口にした。一番、確かめたかったことを。
「二天一流の奥義……やはり、今の私にはまだ早すぎたのでしょうか」
「………そんなに、生き急がなくてもいいんじゃない? 貴女はまだ十にも満たない子供なのよ」
優しく、けど諭すような言葉。
そう言って頭を撫でられてしまえば、私は言葉を返すことはできない。
私は決して悪逆を成したいわけではない。無為に人を傷つけたいわけでもない。ただ、己の弱さを払い去るための強さが欲しいだけなのだ。
道義に照らせば、師から制止を受けながらも己の渇望を押し通すのは、容認し得ぬ不義。……それだけは、出来なかった。
「───そんな顔しないの。貴女は間違いなく強くなってるわ。私に、
ゆっくりと、確実に彼女の存在が世界から解けていく。
指先から手首へ、首元から顔へ。彼女の形を成していたすべてが柔らかな光の粒子となり、秋の夜空へと静かに解き放たれていった。
「ん〜、結構楽しかったかも」
そう言って彼女は笑った。
少なくとも、最後を笑顔で看取れたことは客観的に見ても至当な幕引きと言えるだろう。
───それにしても。
そうか……油断、していたのか。
それはつまり、私の一撃は彼女の本気を引き出すに至っていなかったということだ。
あの一撃の先にも、まだ届かぬ強さの深淵が存在しているということ。
私は、
──ふと、胸の奥で何かが熱く疼いた。
師を失った寂しさや喪失感を塗りつぶすように、己の中に眠る伸び代への歓喜が、静かに、けれど確実に湧き上がってくる。
……いけない。
私が弱ければ、無辜の民草がノイズに喰い殺される。
私が際限なく強さを求めるのはそのためだ。民を守る防人として、弱くあり続けることこそが許されざる罪であり、恥ずべき失態なのだから。
「……剣を、振ろう」
ぽつりと一語を溢し、私は賜った刀を鞘から滑り出させた。
冷ややかな刃の感触。指先に伝わる重み。柄の太さ、
空を見上げる。
雲の切れ間から、月が覗いていた。
あの日、惨劇の夜に見上げたのと同じ――冷たく研ぎ澄まされた、欠けた月だった。
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