Fate × モンスターハンター:ワールド ――鏡面世界の向こう側―― 作:丹波りん
差し出された金属製のカップを、イリヤは何の疑いもなく受け取った。
立ち上る湯気から草木を思わせる香りが漂い、冷えた身体を温めてくれそうだった。
「あ、どうも……飲み物かな?」
中身を覗き込んだイリヤは、そのまま口を付けた。
「はふぅ~、あったかくて落ち着くねぇ」
『いやはや、見知らぬ相手から渡された飲み物をためらいなく飲むとは。
イリヤさん、なかなか大胆ですねえ』
ルビーの感心したような声に、凛は額を押さえた。
助けてもらった相手とはいえ、ここがどこなのかも、
目の前の男が何者なのかも分かっていないのだ。
もう少し警戒してほしいところだったが、当の本人は温かな飲み物ですっかり気が緩んでいる。
「でも、この人は私たちを助けてくれたんだよ?」
「だからって、何でもすぐに信用していいわけじゃないでしょう」
凛の小言を聞き流しながら、クロエもカップを受け取った。
香りを確かめてから一口飲み、ほっと息をつく。
どうやら、こちらも警戒より好奇心が勝っているらしい。
「普通のお茶みたいね」
「助けていただいたうえに、おもてなしまで受けるとは。感謝しなければいけませんわね」
ルヴィアも礼儀正しくカップを傾けた。凛は彼女たちの様子を見てから、
念のため香りを確かめ、慎重に口を付ける。
美遊もサファイアに確認を頼んでいた。
「サファイア、何か分かる?」
『成分の詳細までは特定できませんが、現時点で異常な反応は確認できません』
「そう。ありがとう」
ひとまず危険なものではなさそうだ。
美遊が飲み始めると、少女たちの間に漂っていた緊張も少しずつ和らいでいった。
凛はカップを手に、改めてキャンプの内部を見回した。
太い幹と複雑に絡み合った根が周囲を囲み、頭上には枝葉が幾重にも重なっている。
木々の隙間から差し込む光が地面に斑模様を落とし、
森の中にありながら、そこだけ別の空間のような落ち着きがあった。
入口も狭く、外から内部を見通すのは難しい。
自然の地形を巧みに利用した、野外で活動する者ならではの休息場所なのだろう。
イリヤも興味深そうに木の根や天井を見上げていた。
先ほどまで怪物から逃げることに必死だっただけに、
こうして周囲を観察する余裕ができたのが嬉しいらしい。
一方、凛は出入口の位置や見通しを確かめ、
追ってきた怪物がここまで入り込めるかを考えていた。
そんな中、クロエの視線がテントの傍に立て掛けられた大剣に吸い寄せられた。
「ねえ、イリヤ。あれ、見て」
呼びかけられたイリヤが振り返り、目を丸くする。
少女たちの背丈にも迫る大剣は幅広い刀身も柄も、ひと目で頑丈さが伝わる造りだった。
「うわっ、大きい……!」
思わず近寄りそうになるイリヤをよそに、クロエは剣の形状をじっくりと眺めていた。
これほどの武器を、あの男は普段から持ち歩いているのだろうか。
「これを振り回すところ、ちょっと見てみたいわね」
弾んだ声には、隠しきれない興味が滲んでいた。
凛も大剣へ目を向けた。先ほど男が怪物の動きを止めたのは、
腕に取り付けた器具から放った閃光だった。
あの武器を使うところは見ていないが、
単なる護身用とは思えない大きさだった。
持ち主の男は、少し離れた場所で腰のポーチを開き、中身を整理していた。
その姿を改めて観察すると、装備にも気になる点が多い。
鎧には金属板を組み合わせた部分がある一方、
肩や腕、腰回りには鱗や厚い皮革を思わせる素材が使われていた。
なかには、普通の動物から得られるものとは思えない色や形の部位もある。
怪物の姿を思い返したイリヤは、装備と男の顔を交互に見た。
「さっきの恐竜みたいな生き物から作ったのかな?」
「可能性はあるけど、まだ何とも言えないわね」
未知の生物が存在するこの森では、
装備の素材まで自分たちの常識で判断することはできない。
『金属と生物由来と思われる素材の組み合わせのようですが、
正体や加工方法までは特定できませんねえ』
「ルビーでも分からないんだ……」
『見ただけですべて分かるほど、ルビーちゃんも万能ではありませんので!』
いつもの調子で胸を張るルビーを、凛は軽く受け流した。
未知の装備に関する疑問は、むしろ増える一方だった。
そのとき、男がポーチから別の道具を取り出した。
小さな動きだったが、イリヤはすぐに気づき、身を乗り出す。
「あ、何か入ってる」
「イリヤ。あんまりジロジロ見るのは失礼よ」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
慌てて身を引いたイリヤを見て、クロエは苦笑した。
もっとも、彼女自身も男の手元が気になって仕方がない。
ルヴィアや美遊も、表立って近づきはしないものの、作業の様子を目で追っていた。
男が取り出したのは、小さな透明の瓶だった。中では緑色の液体が揺れている。
「薬……なのかな?」
美遊の呟きに、凛は瓶を見つめたまま首を傾げた。
用途を推測するには情報が足りない。
ルビーも、成分が分からない以上、薬品かどうかは断定できないと補足する。
男は瓶をしまうと、今度は短い柄の先に尖った部分が付いた金属製の道具を取り出した。
クロエの目が再び輝く。
「小型のピッケルかしら?」
岩を砕いたり、何かを採取したりするための道具にも見えるが、
それも彼女たちの知識から導いた推測にすぎない。
男は道具を確かめると、手慣れた様子で元の場所へ戻し、
さらに小さな包みや細長い筒などを整理していった。
必要なものを迷わず取り出し、用が済めばすぐにしまう。
その手際からは、森での活動に慣れていることがうかがえた。
しかし、装備も道具も、彼女たちが知るどの職業にも簡単には当てはまりそうにない。
「ずいぶん色々持っているのね……」
凛の呟きに、ルヴィアも興味深そうに男の荷物を見つめた。
見知らぬ土地で、見知らぬ生物と遭遇し、見たこともない道具を使う男。
知りたいことは多いが、言葉が通じない以上、問いかける手段すらなかった。
それでも、男は少女たちの視線を気にする様子もなく作業を続けていた。
見られていることには気づいているはずだが、咎めるでもなく、穏やかな表情を崩さない。
「……あの人、怒らないね」
イリヤが小声で漏らした。
「ほら、やっぱりいい人なんじゃない?」
「まだそうと決まったわけじゃないわよ」
凛は釘を刺したものの、先ほどよりも声の調子は柔らかくなっていた。
助けてもらったことへの感謝はある。男に悪意があるようにも見えない。
だが、相手の正体も目的も分からないまま、警戒を解くわけにはいかなかった。
カップの中身を飲み終えるころには、怪物に追われていたときの緊張も幾分薄れていた。
未知の土地への不安は消えていないが、目の前の男が自分たちに
危害を加えるつもりではなさそうだという感触は得られつつある。
***
荷物の整理を終えた男は、ポーチから一枚の地図を取り出した。
紙面を広げ、描かれた地形を確かめるように目を走らせる。
その様子に気づいた凛たちは、自然とそばへ集まった。
地図には森の地形が細かく描かれ、いくつもの区画に分けるような線と、
それぞれの数字らしき記号が記されていた。
凛は紙面とキャンプの周囲を見比べ、ここまで逃げてきた道筋を思い返す。
描かれた地形には周囲の地形と照らし合わせると、今いる場所らしき位置も見当がついた
「今いる森の地図、なのかな?」
イリヤの声に、男は地図の一点を指で示した。
そこから指先を南へ滑らせ、森の区画をいくつかたどっていく。
やがて下方で東へ向きを変え、ほかより大きな拠点を思わせる印のところで指を止めた。
凛はその動きを注意深く追った。
出発点と目的地を交互に見つめ、男が伝えようとしていることを考える。
どうやら、ここに留まるのではなく、別の場所へ移動するつもりらしい。
「ここから、森を迂回して東に向かうってことね」
凛が地図上の経路を指でなぞると、男は小さく頷いた。
その反応を見て、ルヴィアも地図を覗き込む。
「目的地には、こちらより大きな拠点があるようですわね」
詳しい地形までは読み取れない。
それでも、男が進む方向と目的地を示そうとしていることは理解できた。
美遊も地図と男の顔を見比べ、クロエは周囲の森を一度振り返ってから、再び紙面へ視線を戻した。
言葉は通じなくても、身振りと指先の動きで伝えようとしてくれている。
そのことは、少女たちにも十分に伝わっていた。
男は彼女たちが経路を理解したのを確かめると、地図を畳んで荷物をまとめ始めた。
少女たちも飲み終えたカップを返し、出発の準備を整える。
キャンプでの短い休息は終わりらしい。
やがて大剣を背負った男が入口へ向かう。
凛は仲間たちと目を合わせ、全員の準備が整ったことを確かめてから、その後を追った。
***
キャンプを出て再び森へ足を踏み入れると、
頭上を覆う枝葉に日差しを遮られ、辺りは薄暗くなった。
湿った土を踏みしめながら、凛たちは先を行く男の背中を追う。
先ほどの恐竜のような怪物が、いつまた現れるとも限らない。
茂みが揺れるたびに足を止め、物音がすれば反射的にそちらへ目を向ける。
男は慣れた足取りで森の中を進んでいたが、
少女たちは一歩ごとに周囲の様子を確かめずにはいられなかった。
それでも、見慣れない森がもたらすのは不安ばかりではない。
「あ、見て。あそこに花が咲いてる!」
イリヤが指差した先には、木の根元を彩る小さな花々があった。
淡い色の花弁が木漏れ日を受け、深い緑の中に柔らかな彩りを添えている。
その隣では、クロエが別の花を見つけていた。
こちらは花弁の形が少し変わっている。
身を乗り出して眺めていた彼女は、さらに視線を巡らせ、
蔓の絡まる幹や枝先の果実にも興味を引かれたようだった。
「二人とも、あまり離れないでよ。何がいるか分からないんだから」
凛が釘を刺すも、彼女自身も幹に絡みつく蔓や見慣れない果実に目を奪われていた。
気になるものはいくらでもあるが、今は観察を楽しんでいる場合ではない。
男の姿を見失わないよう、意識して視線を前へ戻した。
「分かってるわよ。……あ、あれは何かしら?」
「クロ!」
すかさず名前を呼ばれ、クロエは悪びれもせず肩をすくめた。
ちゃんと歩いているのだから問題ないとでも言いたげな顔だったが、
その目はすでに次の発見を探している。
そこへ、小さな蝶がひらひらと舞い込んできた。
鮮やかな翅が木漏れ日を受けてきらめき、
草花の間を漂ったかと思うと、一輪の花にそっと止まる。
「わあ……きれい」
イリヤは思わず足を緩めた。
翅の模様は角度によって色合いが変わり、
青く見えた部分がわずかに位置を変えると緑色に輝く。
隣にいた美遊も、その不思議な色彩に目を留めていた。
冷静に観察しようとしているものの、
見たことのない生き物を前に好奇心を抑えるのは難しいらしい。
『おおっ、イリヤさん! これはぜひとも詳しく観察したいところですねぇ
未知の生態系、未知の植物 この森には興味深いものがいっぱいですねぇ』
ルビーまで嬉々として声を弾ませる。
イリヤは同意するように頷きかけたものの、
先を行く男が少し離れていることに気づき、慌てて足を速めた。
「……今は観察会をしている場合じゃないわよ」
呆れた声を漏らしながら凛も蝶の姿をもう一度だけ振り返った。
警戒を解くわけにはいかない。
それでも、知らない土地で見たことのない生き物に囲まれているという事実は、
不安と同じくらい彼女の好奇心を刺激していた。
ルヴィアも草花へ向けていた視線を前方へ戻し、男の進む方向を確かめる。
興味を引かれるものが多いからこそ、今は道を見失わないことが先決だった。
男はときおり振り返り少女たちがついてきていることを確かめながら進んでいた。
やがて木々の間隔が少しずつ広がり、頭上から差し込む光が増えていく。
湿った森の空気に、外から流れ込む風が混じり始めた。
「……明るくなってきたね」
美遊が前方を見つめる。男の背中を追って木々の間を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
「わあ……!」
イリヤの感嘆が漏れる。
そこは、森の南西に広がる明るい平地だった。
背の低い草が一面に生え、その間を浅い川がいく筋にも分かれて流れている。
陽光を映した水面がきらめき、岸辺の草を風がそよがせていた。
周囲には森が広がっているものの、ここには頭上を覆う枝葉がない。
青い空が大きく開け、先ほどまでの薄暗さが嘘のようだった。
さらに開けた方角へ目を向けると、遠くに海が見えた。
森の緑と青い水面の境目が、陽光の下ではっきりと浮かび上がっている。
「海……こんなに近くにあったんだ」
凛は目を細めた。森の中では木々に遮られて分からなかったが、
ここは海岸にも近い場所らしい。
そのとき、草地の向こうで大きな影が動いた。
凛たちは一斉にそちらへ目を向ける。
川辺では、数頭の生き物が草を食んでいた。
四本の太い脚で体を支え、ずんぐりとした胴体から長い首を伸ばしている。
小さな頭を草へ下ろしては、ゆっくりと口を動かし短い尾をのんびりと揺らしていた。
背中には低く盛り上がった稜が走り、その姿は恐竜を思わせる。
「……また、恐竜みたいなのがいる」
イリヤは驚きながらも、先ほどの怪物とは様子が違うことに気づいた。
こちらの存在を警戒する素振りもなく、それはのんびりと草を食べ続けている。
「草食性の生き物のようね。少なくとも、今のところは襲ってくる様子もないわ」
凛は群れの動きを見極めるように目を細めた。
先ほどの怪物のような敵意は感じられないが、
見た目だけで安全だと決めつけるわけにもいかない。
『体格や背中の形状からすると、大型の草食恐竜パラサウロロフスに似ていますねぇ
もちろん、外見だけで同じ種だとは断定できませんが』
ルビーの分析を聞きながら、イリヤは改めて群れを見つめた。
「名前はともかく、あれだけ大きいと、近くで見たら迫力がありそうね」
クロエは興味を隠そうともせず、群れの一頭を目で追っていた。
好奇心に任せて近づきたいのだろうが、凛の視線に気づくと、ひとまずその場にとどまる。
「近づくのはやめておきなさい。大人しそうに見えても、生態は分からないんだから」
念を押され、クロエは不満げに口を尖らせた。
それでも、名残惜しそうにもう一度だけ群れを振り返る。
美遊も静かに観察を続けていた。先ほどの怪物とは違い、
こちらは群れで草を食べ、ときおり顔を上げて周囲を確かめるだけだ。
恐竜そのものの姿をしていながら、そこには不思議なほど穏やかな空気が漂っていた。
「……よかった。ここには、あんな怪物ばかりがいるわけじゃないんだね」
イリヤの言葉に凛もわずかに肩の力を抜いた。
明るい日差しと川のせせらぎ、草を食む生き物たち。
森の中で張り詰めていた気持ちが、ようやく少しずつ和らいでいく。
――だが、その安堵は長く続かなかった。
ふと、ルヴィアが草地の向こうへ目を向けたまま動きを止めた。
「……皆さん。あちらを」
その声に促され、凛たちも視線を上げる。
森のさらに北東。幾重にも連なる樹冠の向こうに、途方もなく巨大な樹木がそびえていた。
雲へ届きそうなほど高く、幹は周囲の木々とは比較にならないほど太い。
広大な枝葉が森の上空を覆い、その異様な姿は、遠く離れた草地からでもはっきりと見て取れた。
「……なに、あれ」
クロエの声から先ほどまでの弾んだ調子が消えた。
イリヤも言葉を失い、ただ巨大な樹木を見つめている。
木が大きい。それだけなら、まだ理解できたかもしれない。
だが、あれほどの樹木が森の奥に当たり前のようにそびえ立っている光景は、
凛たちの知る自然とはあまりにもかけ離れていた。
「……あんな樹、地球にあった?」
凛の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
遠近感のせいで実際以上に大きく見えているのかもしれない。
世界には想像を超える大きさの樹木も存在する。
そう考えようとしても目の前の光景は、そんな説明で納得できる規模を明らかに超えていた。
凛は唇を引き結んだ。
自分たちは見知らぬ森へ転移し、怪物に追われたところを、
言葉の通じない男に助けられ、知らない植物や生き物を目にしてきた。
それでも、どこかでは未知の土地に迷い込んだだけなのだと考えたかった。
だが、あの樹を見てしまうと、その考えにすがることさえ難しく思えた。
「まさか……本当に、私たちの知っている世界じゃないの?」
イリヤの声が小さく震えた。
美遊は答えず遠くの樹木を見つめている。
いつもなら状況を整理し可能性を考えようとする彼女も、
今はすぐに言葉を見つけられない。
ルヴィアも険しい表情で巨大な樹木を見上げていた。
「少なくとも、私たちが知る地理の中に、このような場所はありませんわ……」
ようやく絞り出した言葉には、いつもの自信に満ちた響きがなかった。
穏やかな草地も、川辺で草を食む生き物たちも、
彼女たちの不安を完全には拭い去ってくれない。
むしろ、これほど豊かな自然が当たり前のように存在していることが、
ここが未知の土地であるという事実を突きつけていた。
帰る方法はあるのか。そもそも、どうして自分たちはここへ来たのか。
答えの出ない疑問が頭をよぎる。
凛は拳を握りしめ静かに息を整える。…焦っても答えは出ない。
まずは、この世界が何なのかを知り、無事に行動できる場所を確保しなければならない。
目の前では、草食竜たちが何事もないように草を食み続けていた。
そののどかな光景と、森の向こうにそびえる巨大な樹木。
相反する二つの景色を前に、凛たちは自分たちが想像していた以上に
未知の場所へ迷い込んでしまったのだと、認めざるを得なかった。