Fate × モンスターハンター:ワールド ――鏡面世界の向こう側―― 作:丹波りん
それまでの話がひと段落したあとも、イリヤたちと士郎の会話は続いていた。
その傍らで話を聞いていたリンが、やがて棚から一冊の本を取り出した。
使い込まれた表紙に、ずしりと重そうな厚み。ちょっとした辞書ほどの大きさだった。
「……リンさん、それは?」
「私たちがこっちに来てから覚えた、この世界の言語の辞書よ。
自分たちで書き溜めたものだけどね」
「自分たちでって……これ、全部ですか?」
イリヤが驚くのも無理はなかった。
ページには細かな文字や書き込みがびっしりと並んでいる。
これだけのものを作り上げるには、相当な時間がかかったはずだ。
「ええ。最初は何を言っているのかさっぱりだったから、地道に覚えるしかなかったの」
リンは何気なくページをめくり、テーブルの上のルビーに目を向けた。
「でも、そこの愉快型魔術礼装なら、もっと手っ取り早く済ませられるでしょう?」
『……はい?』
思いがけない指名に、ルビーの声が裏返る。
「性格は最悪だけど、性能だけは折り紙付きだもの。
言語を解析すれば仮契約している相手とも情報を共有できるでしょ?
そうすれば、イリヤたちもこっちの世界の人たちと会話できるようになるはずよ」
「なるほど……」
これからこの世界で活動するうえで、現地の人々と言葉を交わせるのは大きな助けになる。
イリヤも納得した様子だったが、肝心のルビーは分厚い辞書を前にすっかり怯んでいた。
『ま、待ってください! この量を全部ですか!?』
「ほかに方法があるなら聞くけど?」
リンの口調はあくまで涼やかだった。
『そ、そんな理不尽な……!』
『姉さん、言語情報の解析を始めましょう。私も協力します』
『サファイアちゃんまで!?』
『美遊様たちがこの世界の方々と円滑に意思疎通できるようになるのですから、必要な作業です』
サファイアの返答には、迷いひとつない。
ルビーは反論を諦めたのか、しぶしぶ解析に加わった。
二本の魔術礼装が辞書を挟んで作業を始める。
「それで、この世界についてだけど――」
リンが話を続けようとした、そのとき。
くぅ~~……。
静かな室内に、場違いなほど可愛らしい音が響いた。
「ち、違うからね!? 今の、私じゃないから!」
真っ赤になったイリヤが慌てて否定する。
けれど、その必死さこそが何より雄弁だった。
「ふふっ。そうね。時間もちょうどいいし、残りの話は食事をしながらにしましょうか」
リンの穏やかな提案に、イリヤは「うぅ……」と小さく唸って俯いた。
隣の美遊も何か言いたそうだったが、今はそっとしておくことにしたらしい。
その間も解析は続き、やがてルビーとサファイアがほぼ同時に光を放った。
『言語情報のインストール、完了です! いやあ、さすがは私! この程度、朝飯前ですね!』
『こちらも完了いたしました、美遊様。
これで、この世界の言語による意思疎通が可能になるはずです』
得意満面のルビーとは対照的に、サファイアの報告はいつもどおり落ち着いていた。
「本当に、機能だけは凄いわね……」
リンの視線が、苦労して書き溜めた分厚い辞書へと落ちる。
「……こんなに苦労して覚えたのに、あっという間なのね」
そのぼやきに、士郎は苦笑するしかなかった。
「まあ、これでイリヤたちも現地の人と話せるようになるんだから、いいじゃないか」
「それはそうだけど……」
リンはまだ少し納得がいかない様子だったが、
イリヤのお腹が鳴ったことを思い出したのか、小さく笑った。
「とにかく、まずは食事ね。お腹も空いているでしょうし」
「うぅ……それは、そうだけど」
イリヤが恥ずかしそうに答えると、美遊が隣でくすりと笑った。
「せっかくだし、この世界の食事がどんなものか楽しみね」
「ええ。食文化も、その土地を知る手がかりになりますから」
凛とルヴィアもそれぞれ興味を示し、食事へ向かう話は自然にまとまった。
「それじゃ、行きましょうか」
リンに促され、一行は部屋を出た。
***
部屋を出た一行は、リンと士郎に続いて住宅街を歩いていく。
道沿いには、この地で暮らす人々の家や生活に必要な施設が並び、
少し先からは市場の賑やかな声が聞こえてきた。
人々が行き交うその場所へ近づくにつれ、
荷を運ぶ者や店先で品物を並べる者の姿も増えていく。
やがて住宅街を抜け、市場へと差しかかったときだった。
「……あれ?」
イリヤはふと足を緩めた。
すれ違った人々が交わしている言葉が、耳に入ってくる。
先ほどまでは意味の分からなかったはずの音が、今は不思議なほど自然に理解できたのだ。
「もしかして、ここの人たちの言葉……分かるようになってる?」
『ふっふっふ! 当然ですとも!
このルビーちゃんにかかれば、異世界の言語だろうとちょちょいのちょい!』
ルビーは、テーブルの上で解析を終えたとき以上に得意げな声を響かせた。
「はいはい、すごいすごい」
『なんですか、その心のこもっていない返事は!?
もう少し褒めてくれてもいいじゃないですか!』
いつもの調子で騒ぐルビーを、イリヤは軽く受け流す。
けれど、言葉が通じるようになったことの意味は大きい。
これなら、この世界の人々から直接話を聞き、
元の世界へ帰る手がかりを探すこともできるはずだった。
「サファイアもありがとう。これで、みんなが何を話しているのか分かるね」
「お役に立てたのであれば何よりです、美遊様」
美遊の礼に、サファイアはいつもどおり落ち着いた声で応じた。
そのとき、市場の一角から、切迫した様子の会話が聞こえてきた。
「次の物資船、まだ来ないんだって?」
「ああ。予定がずれ込んでるらしい。海域で何かあったんじゃないかって話だ」
「勘弁してくれよ。ただでさえ素材が足りないっていうのに……砂漠のほうも大変なんだろ?」
「角竜が暴れ回って、輸送の邪魔をしてるらしい。討伐隊も出てるそうだが、どうなることやら」
「まったく、どんどん忙しくなるな。メラルーの手も借りたいくらいだ」
物資船の遅れに、素材の不足。さらに砂漠では怪物が輸送を妨げているらしい。
人々のぼやきからは、この土地の暮らしが
自然環境や怪物の動向に大きく左右されていることが窺えた。
「物資船が遅れてるって……海で何かあったのかな?」
イリヤが気にかけると、リンがすぐに答えた。
「この大陸へ向かう海路は気候が不安定でね。予定通りにならないなんて、しょっちゅうよ」
「角竜……? まさか、この世界には幻想種に分類される竜までもが生息しているのですの?」
ルヴィアの関心は、もう一つの話題に向いていた。
時計塔で学んできた竜種と、この世界で角竜と呼ばれる生物は、果たして同じものなのか。
魔術師としての知識があるからこそ、聞き慣れない生物の存在は気にかかるのだろう。
「時計塔で教わる竜種とは分類が違うけど、大型の危険なモンスターよ。
今は繁殖期だから、気が立っているのかもね」
「そのような生物が、ほかにもいるのですわね……」
驚きを隠せないルヴィアとは対照的に、イリヤの胸には不安が広がっていた。
森で遭遇した、あの恐竜のような怪物。
自分たちを襲ってきたあの生き物だけでも十分に恐ろしかった。
それなのに、この世界には似たような存在がほかにもいるという。
「そんな怪物が、まだいるんだ……」
思わず漏れた声には、隠しきれない怯えが混じっていた。
「だから、それらを狩り、人々を護る職としてハンターたちがいるのよ」
リンの説明を聞きながら、クロエは市場を行き交う人々に目を向けた。
大きな武器を背負い、思い思いの装備を身につけた者たちがいる。
統一された制服も見当たらず、装備の形も素材もさまざまだ。
初めて目にしたとき、戦士の集団かと思ったのも無理はなかった。
「あの大きな武器を担いでいる人たちが、狩人さんなのね」
「そうだな。ただ、彼らの仕事はモンスターを倒すだけじゃないぞ。
狩猟で得られる素材は、建築や人々の生活にも欠かせないものなんだ」
士郎が示した先では、荷を運ぶ人々が市場を行き交っていた。
並べられた品々の中にも、モンスターから得られた素材があるのだろう。
人々の暮らしが、狩猟によって得られるものと深く結びついていることが伝わってくる。
「モンスターも、この世界に生きている命の一つだもの。
狩ったからには、その命を無駄にせず、最後まで使う。
それもまた、命を奪ったことへの向き合い方なのよ」
リンの言葉には、単に素材を利用するというだけではない考えが込められていた。
命を奪う以上、その恵みを無駄にしない。
人間が生きていくためにほかの命を必要とするからこそ、
そこにある繋がりを忘れてはならないのだ。
「彼らは、それを自然との調和と呼んでいるんだ」
士郎の言葉に、凛は少し眉を寄せた。
「調和? 怪物を駆逐して、人間の生態圏を広げることが目的じゃないの?」
凛にとって、危険な生き物を排除することは、
人間の安全を守るための手段として当然の考え方だったのだろう。
しかし、士郎たちの説明からは、それだけではない価値観が感じられた。
「人々の暮らしを守るのは、ハンターの大切な役目だ。
でも、彼らが目指しているのは、それだけじゃない」
士郎は市場の向こうへと視線を巡らせた。
この大陸で暮らす人々にとって、モンスターは確かに脅威だ。
けれど同時に、彼らもまた、この世界の中で長い時間をかけて
独自の生態を築いてきた存在だった。
人間も、その生き物たちと同じ世界に生きている。
知恵を身につけ、文化を築き、ほかの生き物を狩りながら暮らしてきた一方で、
モンスターたちもまた、それぞれの環境に適応し、命を繋いできたのだ。
人間にとって都合が悪いからといって、すべてを一方的に排除すればいいわけではない。
そうした考え方が、この世界の人々の根底にはあるらしい。
「生態を知り、その生き物がどんな環境で暮らし、何を食べ、
どうやって命を繋いでいるのかを理解する。
そうすることで、人間との共存の道も見えてくるのよ」
リンの説明を、美遊は静かに聞いていた。
森で遭遇した恐ろしいモンスターの姿は、まだ記憶に新しい。
けれど、あの怪物にも生きてきた環境があり、
この世界の中で営んできた暮らしがある。
そう考えると、目の前に広がる世界は、
ただ危険に満ちた場所というだけではないのかもしれなかった。
「新大陸の調査団が行っているのも、そうした調査なんだ」
士郎は続けた。
新大陸は、調査団にとっても未知の場所だった。
どのような生き物が生息し、どんな環境が広がっているのか。
人々が生活を営み、狩猟を続けている一方で、
まだ明らかになっていないことは数多く残されている。
彼らは調査を重ね、生き物の生態や環境への理解を深めながら、
この大陸で人間がどう生きていくべきかを探っているのだ。
危険なモンスターが人々の暮らしを脅かせば、ハンターたちが狩猟に赴くこともある。
けれど、それはあくまで役割の一つに過ぎない。
未知の生き物を知り、その営みを理解し、自然との調和を保つ道を探ること。
それもまた、新大陸へ渡った調査団が目指しているものだった。