俺は、何をした。
目の前の男が、公園の地面に倒れている。
ついさっきまで、俺はこの男にしがみついていた。どうしてこの男だったのか、どうやって近づいたのか、途中のことはよく覚えていない。
ただ、必死だった。
何かを求めて、目の前の男にしがみついていた。何を求めていたのかさえ、今となってはうまく思い出せない。
気づけば、男は動かなくなっていた。
俺は後ずさった。足がもつれて、その場に転んだ。それでも目を逸らせなかった。
助けを呼ばなければならない。
分かっている。分かっているのに、声が出なかった。
男は動かない。
このままじゃいけない。誰かを呼ばなければ。
それなのに、俺が最初にしたのは、逃げることだった。
*
手が、小さい。
最初に気づいたのは、それだった。
視界の端に映った手を見つめる。指が短い。手のひらも小さい。どう見ても、俺の知っている手じゃない。
試しに握ってみると、指が思うように動かなかった。
もう一度。
やっぱり動かない。
なんだこれ。
寝起きで身体が重いとか、そういう話じゃない。腕も短いし、身体を起こそうとすれば首がぐらつく。
状況を確かめようにも、身体がまともに動かない。とりあえず声を出してみることにした。
「あー、う……」
何だよ、これ。
もう一度やってみても、やっぱり変な声しか出ない。
口の動かし方がおかしいのかと思ったが、そもそもどう動かせばいいのか分からない。いや、分かるだろ。普通に喋ればいいだけだろ。
そう思って声を出したら、また変な音が出た。
ふざけんな。
腹が立って、さらに声を出そうとした。喉が詰まる。息がうまく吸えない。なんか目まで痛くなってきた。
……は?
気づいたら泣いていた。
止めようとしても止まらない。息を吸うたびに喉が変な音を立てる。余計に腹が立って、また声を出したが、当然まともな言葉にはならなかった。
何なんだよ、本当に。
「どうしたの? 大丈夫よ」
誰かが近づいてきた。
女の人だった。知らない顔が、心配そうに俺を覗き込んでいる。
やめろ。
そう言いたかったが、出てくるのは泣き声だけだった。
女の人は俺を抱き上げた。
反射的に身をよじる。逃げようとしたが、腕が空を掻いただけで終わった。そのまま胸元に抱き寄せられ、背中を撫でられる。
「よしよし。どうしたのかな」
だから、やめろって。
そもそも、あんたは誰なんだ。ここはどこなんだ。
聞きたいことはいくらでもあるのに、何一つ伝えられない。
女の人は、俺が泣き止むまで抱いていた。
最初は嫌だった。知らない人間に抱かれて、子供をあやすみたいに背中を撫でられている。いい年をした男が何をされているんだ、という気分になる。
……まあ、今の俺は本当に子供らしいのだが。
認めたくない。
けれど、暴れたところでどうにもならなかった。
しばらくすると、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。背中を撫でる手が動くたび、身体の力が抜けていく。
温かい。
それが、なんだか腹立たしかった。
自分は生まれ変わったらしい。そう考えるようになるまでに、時間はかからなかった。
鏡を見たわけでもないし、誰かに説明されたわけでもない。ただ、身体が小さすぎる。まともに喋れない。周りの人間は俺を赤ん坊として扱っている。
ほかに説明のしようがなかった。
俺は死んだのか。
どうして。
考えても分からない。そもそも、最後に何をしていたのかさえ、うまく思い出せなかった。
今は考えても仕方ない。そう思うことにした。
それより、身体が不便すぎる。
腹が減れば泣く。眠ければ泣く。おむつが気持ち悪くても泣く。
泣く以外の方法がないのだから仕方ない。仕方ないのだが、何もかも人任せというのは想像以上にきつかった。
自分で寝返りを打つことすら難しい。手を伸ばしたつもりでも、狙った場所には届かない。何度か試しているうちに疲れて、そのまま寝てしまうこともあった。
「起きた?」
母親が顔を覗き込んでくる。
もう一人、父親もいた。
二人とも、俺のことをひどく大事にしているようだった。
父親は俺の手をそっと握った。
握り返そうとしたが、うまくいかなかった。指に力を込めて何度か繰り返していると、父親が俺の手を見つめた。
「……握ったな」
それだけ言って、父親は小さく笑った。
普段あまり表情を変えない父親が、嬉しそうに笑った。それが少し面白くて、もう一度手を握ろうとした。
今度は少しだけ、指が動いた。
父親は何も言わなかった。ただ、さっきよりも嬉しそうな顔をしていた。
……まあ、悪い気はしなかった。
母親は、俺が泣くとすぐに様子を見に来た。父親は仕事から帰ってくると、身の回りをきれいにしてから俺の顔を覗き込んだ。
俺が何かできるようになるたび、二人は喜んだ。
目で物を追う。手を伸ばす。声を出す。
そんなことで、と思わないでもなかった。
赤ん坊ができることなんて、たかが知れている。二人が喜ぶほどのことじゃないだろう。
でも、父親が帰ってきたとき、顔を見せると嬉しそうに笑うのは、別に嫌じゃなかった。
母親も、俺が機嫌よくしていると安心したような顔をする。
なんでそこまで気にするんだろうな。
最初は不思議だった。
俺なら、赤ん坊の世話なんて面倒くさそうだと思う。実際にやったことがあるわけじゃないから、勝手な想像だけど。
夜中に泣いても来てくれたし、眠くて機嫌が悪いときも抱き上げてくれた。
そういうものなのかもしれない。
俺には、まだよく分からなかった。
ある日の夕方、父親が帰ってきた。
身の回りをきれいにしてから部屋に入ってくると、母親が俺を抱いているのを見て、そばまでやってきた。
「おかえりなさい」
「ああ」
「今日も紬の顔を見に来たの?」
「……別に」
母親は楽しそうに笑った。
「帰ってきたばかりなのに、もうこっちに来てるじゃない」
「……そうか」
「紬が起きてると嬉しいんでしょう?」
「……」
父親は答えず、俺の顔に目を向けた。
母親はそんな父親の様子を気にすることもなく、俺を少しだけ父親の方へ向ける。
「ほら、紬もお父さんのこと見てるわよ」
父親と目が合った。
父親は少しだけ表情を緩めると、俺の頭をそっと撫でた。
「……かわいいな」
小さな声だった。
「あら、素直ね」
「……うるさい」
父親は顔を背けた。耳のあたりが少し赤くなっている。
母親はくすくすと笑っていた。
「照れなくてもいいのに」
「照れてない」
「そう?」
父親はそれ以上何も言わなかった。
俺は二人を見比べた。
母親はいつも通りにこにこしている。父親は黙ったまま、少しだけ困った顔をしていた。
なんだこれ。
ちょっと面白い。
知らない人間に囲まれていることには、まだ慣れない。ここがどこなのかも、自分がどうなったのかも、分からないことだらけだ。
それでも、この二人が一緒にいるところを見ていると、最初に感じていたほど身構えなくてもいいのかもしれない、と思った。
……まあ、今だけかもしれないけど。
ある日、母親が俺を抱き上げた。
その日はいつもより身体の調子が悪く、なんとなく落ち着かなかった。
「どうしたの? 今日はご機嫌ななめね」
分かるなら、どうにかしてくれ。
そう思いながら、母親の服に手を伸ばした。
指が布に引っかかる。
思ったより強く掴んでしまったらしい。
母親は少し驚いたあと、俺を抱き直した。
「甘えたいのかな」
違う。たぶん。
何となく手近なものを掴んだだけだ。赤ん坊なんてそんなものだろう。
母親はそのまま俺の背中を撫でた。
しばらくすると、さっきまでの苛立ちが薄れていた。
そのあと、母親が部屋を出ていこうとしたので、目で追った。姿が見えなくなると、なんとなく落ち着かなくなった。
戻ってこないかな。
そう思ったところで、母親が戻ってきた。
俺は思わず手を伸ばした。母親が近づいてくると、さっきまでの落ち着かなさが消えていく。
……いや、今の俺は一人じゃ何もできないんだから、誰かがいないと困るに決まっている。
誰かがそばにいれば、それでいい。
そういうことにちがいない。
母親が俺を抱き上げる。
俺はその服を掴んだまま、しばらく離さなかった。
いつからだったのかは、よく分からない。
母親の声が聞こえると、そちらを向くようになった。父親が帰ってくると、顔を見るまで落ち着かないことがあったし、二人が笑っていると、なんとなくこちらも機嫌がよくなった。
最初の頃は、抱き上げられるたびに身構えていた気がする。今は、そんなこともなくなった。
身体が慣れたんだろう。
たぶん。
前の家族のことを考えることがある。
どんな顔をしていたか。どんな声だったか。何を話したか。
考えると、胸のあたりが妙な感じになった。
今の二人が嫌なわけじゃない。よくしてくれているし、一緒にいると落ち着く。
だからといって、前の家族のことを忘れたいわけでもなかった。
どちらかを選ばなければならない、なんて話じゃない。
頭では分かる。
それでも、前の家族を思い出したあと、今の母親に抱かれていると、少しだけ気まずい気分になることがあった。
母親は、そんなことなど知らずに俺を抱いていた。
俺も、何も言わなかった。
言えなかった、という方が正しいのかもしれない。
そんな日々を過ごしているうちに、おむつを替えられるのにも慣れてしまった。
最初の頃は抵抗があった。今だって、できれば勘弁してほしい。けれど、嫌がったところでどうにもならないし、そもそも嫌だと伝える手段がない。
その日も、母親に世話をされていた。
ぼんやりと下を見て、ふと動きが止まった。
……ん?
見慣れないものが見えた。
いや、見慣れないどころじゃない。
少し考えて、ようやく理解した。
俺、女になってるじゃん。
まじか……。