TS転生した俺、サキュバスらしい   作:ほんきょー

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1.女になってるじゃん

 俺は、何をした。

 

 目の前の男が、公園の地面に倒れている。

 

 ついさっきまで、俺はこの男にしがみついていた。どうしてこの男だったのか、どうやって近づいたのか、途中のことはよく覚えていない。

 

 ただ、必死だった。

 

 何かを求めて、目の前の男にしがみついていた。何を求めていたのかさえ、今となってはうまく思い出せない。

 

 気づけば、男は動かなくなっていた。

 

 俺は後ずさった。足がもつれて、その場に転んだ。それでも目を逸らせなかった。

 

 助けを呼ばなければならない。

 

 分かっている。分かっているのに、声が出なかった。

 

 男は動かない。

 

 このままじゃいけない。誰かを呼ばなければ。

 

 それなのに、俺が最初にしたのは、逃げることだった。

 

 *

 

 手が、小さい。

 

 最初に気づいたのは、それだった。

 

 視界の端に映った手を見つめる。指が短い。手のひらも小さい。どう見ても、俺の知っている手じゃない。

 

 試しに握ってみると、指が思うように動かなかった。

 

 もう一度。

 

 やっぱり動かない。

 

 なんだこれ。

 

 寝起きで身体が重いとか、そういう話じゃない。腕も短いし、身体を起こそうとすれば首がぐらつく。

 

 状況を確かめようにも、身体がまともに動かない。とりあえず声を出してみることにした。

 

「あー、う……」

 

 何だよ、これ。

 

 もう一度やってみても、やっぱり変な声しか出ない。

 

 口の動かし方がおかしいのかと思ったが、そもそもどう動かせばいいのか分からない。いや、分かるだろ。普通に喋ればいいだけだろ。

 

 そう思って声を出したら、また変な音が出た。

 

 ふざけんな。

 

 腹が立って、さらに声を出そうとした。喉が詰まる。息がうまく吸えない。なんか目まで痛くなってきた。

 

 ……は?

 

 気づいたら泣いていた。

 

 止めようとしても止まらない。息を吸うたびに喉が変な音を立てる。余計に腹が立って、また声を出したが、当然まともな言葉にはならなかった。

 

 何なんだよ、本当に。

 

「どうしたの? 大丈夫よ」

 

 誰かが近づいてきた。

 

 女の人だった。知らない顔が、心配そうに俺を覗き込んでいる。

 

 やめろ。

 

 そう言いたかったが、出てくるのは泣き声だけだった。

 

 女の人は俺を抱き上げた。

 

 反射的に身をよじる。逃げようとしたが、腕が空を掻いただけで終わった。そのまま胸元に抱き寄せられ、背中を撫でられる。

 

「よしよし。どうしたのかな」

 

 だから、やめろって。

 

 そもそも、あんたは誰なんだ。ここはどこなんだ。

 

 聞きたいことはいくらでもあるのに、何一つ伝えられない。

 

 女の人は、俺が泣き止むまで抱いていた。

 

 最初は嫌だった。知らない人間に抱かれて、子供をあやすみたいに背中を撫でられている。いい年をした男が何をされているんだ、という気分になる。

 

 ……まあ、今の俺は本当に子供らしいのだが。

 

 認めたくない。

 

 けれど、暴れたところでどうにもならなかった。

 

 しばらくすると、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。背中を撫でる手が動くたび、身体の力が抜けていく。

 

 温かい。

 

 それが、なんだか腹立たしかった。

 

 自分は生まれ変わったらしい。そう考えるようになるまでに、時間はかからなかった。

 

 鏡を見たわけでもないし、誰かに説明されたわけでもない。ただ、身体が小さすぎる。まともに喋れない。周りの人間は俺を赤ん坊として扱っている。

 

 ほかに説明のしようがなかった。

 

 俺は死んだのか。

 

 どうして。

 

 考えても分からない。そもそも、最後に何をしていたのかさえ、うまく思い出せなかった。

 

 今は考えても仕方ない。そう思うことにした。

 

 それより、身体が不便すぎる。

 

 腹が減れば泣く。眠ければ泣く。おむつが気持ち悪くても泣く。

 

 泣く以外の方法がないのだから仕方ない。仕方ないのだが、何もかも人任せというのは想像以上にきつかった。

 

 自分で寝返りを打つことすら難しい。手を伸ばしたつもりでも、狙った場所には届かない。何度か試しているうちに疲れて、そのまま寝てしまうこともあった。

 

「起きた?」

 

 母親が顔を覗き込んでくる。

 

 もう一人、父親もいた。

 

 二人とも、俺のことをひどく大事にしているようだった。

 

 父親は俺の手をそっと握った。

 

 握り返そうとしたが、うまくいかなかった。指に力を込めて何度か繰り返していると、父親が俺の手を見つめた。

 

「……握ったな」

 

 それだけ言って、父親は小さく笑った。

 

 普段あまり表情を変えない父親が、嬉しそうに笑った。それが少し面白くて、もう一度手を握ろうとした。

 

 今度は少しだけ、指が動いた。

 

 父親は何も言わなかった。ただ、さっきよりも嬉しそうな顔をしていた。

 

 ……まあ、悪い気はしなかった。

 

 母親は、俺が泣くとすぐに様子を見に来た。父親は仕事から帰ってくると、身の回りをきれいにしてから俺の顔を覗き込んだ。

 

 俺が何かできるようになるたび、二人は喜んだ。

 

 目で物を追う。手を伸ばす。声を出す。

 

 そんなことで、と思わないでもなかった。

 

 赤ん坊ができることなんて、たかが知れている。二人が喜ぶほどのことじゃないだろう。

 

 でも、父親が帰ってきたとき、顔を見せると嬉しそうに笑うのは、別に嫌じゃなかった。

 

 母親も、俺が機嫌よくしていると安心したような顔をする。

 

 なんでそこまで気にするんだろうな。

 

 最初は不思議だった。

 

 俺なら、赤ん坊の世話なんて面倒くさそうだと思う。実際にやったことがあるわけじゃないから、勝手な想像だけど。

 

 夜中に泣いても来てくれたし、眠くて機嫌が悪いときも抱き上げてくれた。

 

 そういうものなのかもしれない。

 

 俺には、まだよく分からなかった。

 

 ある日の夕方、父親が帰ってきた。

 

 身の回りをきれいにしてから部屋に入ってくると、母親が俺を抱いているのを見て、そばまでやってきた。

 

「おかえりなさい」

 

「ああ」

 

「今日も紬の顔を見に来たの?」

 

「……別に」

 

 母親は楽しそうに笑った。

 

「帰ってきたばかりなのに、もうこっちに来てるじゃない」

 

「……そうか」

 

「紬が起きてると嬉しいんでしょう?」

 

「……」

 

 父親は答えず、俺の顔に目を向けた。

 

 母親はそんな父親の様子を気にすることもなく、俺を少しだけ父親の方へ向ける。

 

「ほら、紬もお父さんのこと見てるわよ」

 

 父親と目が合った。

 

 父親は少しだけ表情を緩めると、俺の頭をそっと撫でた。

 

「……かわいいな」

 

 小さな声だった。

 

「あら、素直ね」

 

「……うるさい」

 

 父親は顔を背けた。耳のあたりが少し赤くなっている。

 

 母親はくすくすと笑っていた。

 

「照れなくてもいいのに」

 

「照れてない」

 

「そう?」

 

 父親はそれ以上何も言わなかった。

 

 俺は二人を見比べた。

 

 母親はいつも通りにこにこしている。父親は黙ったまま、少しだけ困った顔をしていた。

 

 なんだこれ。

 

 ちょっと面白い。

 

 知らない人間に囲まれていることには、まだ慣れない。ここがどこなのかも、自分がどうなったのかも、分からないことだらけだ。

 

 それでも、この二人が一緒にいるところを見ていると、最初に感じていたほど身構えなくてもいいのかもしれない、と思った。

 

 ……まあ、今だけかもしれないけど。

 

 ある日、母親が俺を抱き上げた。

 

 その日はいつもより身体の調子が悪く、なんとなく落ち着かなかった。

 

「どうしたの? 今日はご機嫌ななめね」

 

 分かるなら、どうにかしてくれ。

 

 そう思いながら、母親の服に手を伸ばした。

 

 指が布に引っかかる。

 

 思ったより強く掴んでしまったらしい。

 

 母親は少し驚いたあと、俺を抱き直した。

 

「甘えたいのかな」

 

 違う。たぶん。

 

 何となく手近なものを掴んだだけだ。赤ん坊なんてそんなものだろう。

 

 母親はそのまま俺の背中を撫でた。

 

 しばらくすると、さっきまでの苛立ちが薄れていた。

 

 そのあと、母親が部屋を出ていこうとしたので、目で追った。姿が見えなくなると、なんとなく落ち着かなくなった。

 

 戻ってこないかな。

 

 そう思ったところで、母親が戻ってきた。

 

 俺は思わず手を伸ばした。母親が近づいてくると、さっきまでの落ち着かなさが消えていく。

 

 ……いや、今の俺は一人じゃ何もできないんだから、誰かがいないと困るに決まっている。

 

 誰かがそばにいれば、それでいい。

 

 そういうことにちがいない。

 

 母親が俺を抱き上げる。

 

 俺はその服を掴んだまま、しばらく離さなかった。

 

 いつからだったのかは、よく分からない。

 

 母親の声が聞こえると、そちらを向くようになった。父親が帰ってくると、顔を見るまで落ち着かないことがあったし、二人が笑っていると、なんとなくこちらも機嫌がよくなった。

 

 最初の頃は、抱き上げられるたびに身構えていた気がする。今は、そんなこともなくなった。

 

 身体が慣れたんだろう。

 

 たぶん。

 

 前の家族のことを考えることがある。

 

 どんな顔をしていたか。どんな声だったか。何を話したか。

 

 考えると、胸のあたりが妙な感じになった。

 

 今の二人が嫌なわけじゃない。よくしてくれているし、一緒にいると落ち着く。

 

 だからといって、前の家族のことを忘れたいわけでもなかった。

 

 どちらかを選ばなければならない、なんて話じゃない。

 

 頭では分かる。

 

 それでも、前の家族を思い出したあと、今の母親に抱かれていると、少しだけ気まずい気分になることがあった。

 

 母親は、そんなことなど知らずに俺を抱いていた。

 

 俺も、何も言わなかった。

 

 言えなかった、という方が正しいのかもしれない。

 

 そんな日々を過ごしているうちに、おむつを替えられるのにも慣れてしまった。

 

 最初の頃は抵抗があった。今だって、できれば勘弁してほしい。けれど、嫌がったところでどうにもならないし、そもそも嫌だと伝える手段がない。

 

 その日も、母親に世話をされていた。

 

 ぼんやりと下を見て、ふと動きが止まった。

 

 ……ん?

 

 見慣れないものが見えた。

 

 いや、見慣れないどころじゃない。

 

 少し考えて、ようやく理解した。

 

 俺、女になってるじゃん。

 

 まじか……。

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