夕食の席で、俺はふと思い出したことを口にした。
「そういえば、もうすぐ結婚記念日だよね」
「あら、覚えていてくれたの?」
「まあね。毎年その話してるし」
「そうだったか?」
「あなた、去年も同じこと言ってたじゃない」
母さんが呆れたように父さんを見る。
「そうだったか……」
「もう。自分たちの記念日でしょう?」
「すまない」
二人のやり取りに、俺は笑った。
「今年は何かするの?」
「特には決めていないな。母さんは何か考えていたのか?」
「うーん……せっかくだし、どこかに出かけるのもいいかなって思っていたけれど」
「じゃあ、二人で旅行してきたら?」
俺がそう言うと、二人はそろってこちらを見た。
「旅行?」
「うん。いつも俺のことを気にかけてくれてるし、たまには二人でゆっくりしてきたらいいんじゃないかって」
「でも、紬を置いていくわけにはいかないでしょう?」
「一泊くらいなら平気だよ。もう五年生だし」
「それでも心配なのよ」
母さんが少し考え込む。
「……そうね。澪ちゃんの家にお願いできたら、私たちも安心できるかしら」
「澪の家?」
「ええ。いつも仲良くしているでしょう?」
「それはそうだけど……」
泊めてもらえるかどうかは、澪だけじゃなくて、ご両親の都合もある。
「まずは澪ちゃんのお母さんに聞いてみないとな」
父さんがそう言うと、母さんも頷いた。
「そうね。予定を決めるのは、それからにしましょう」
食事を終えたあと、母さんが家の電話で澪の家に連絡をしてくれた。
しばらくして、澪のお母さんが電話に出たらしい。
「こんばんは。突然ごめんなさいね。実は、少し相談があって……」
母さんは結婚記念日に二人で一泊旅行に出かけたいことを説明した。
そして、俺がその間、澪の家に泊めてもらえないかと尋ねる。
電話の向こうから、澪のお母さんの明るい声が聞こえてきた。
「まあ、紬ちゃんが? もちろん、うちは大丈夫よ」
母さんの表情が和らいだ。
「本当? ありがとう。澪ちゃんにも都合があるだろうし、無理なら遠慮なく言ってね」
「大丈夫、大丈夫。あの子も喜ぶと思うわ」
「そう言ってもらえると助かるわ」
電話を切った母さんは、俺に向かって笑った。
「よかったわね。澪ちゃんのお母さん、快く引き受けてくれたわよ」
「そっか。よかった」
「じゃあ、どこに出かけるか決めないとな」
父さんが旅行先の候補をいくつか挙げ始め、母さんもそれに加わった。
温泉がいいだの、景色のきれいなところがいいだの、二人の話は思った以上に盛り上がっている。
「温泉もいいわね。せっかくなら、少し遠くまで行ってみようかしら」
「あら、あなた、前に海の見える宿がいいって言っていなかった?」
「そうだったかな」
「そうよ。去年、テレビを見ながら言っていたじゃない」
「……そんなことまで覚えているのか」
「当然でしょう?」
二人は俺の提案をきっかけに、すっかり旅行の相談に夢中になっていた。
「……なんか、二人とも楽しそうだな」
「あら、紬も一緒に行きたいの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ふふっ。冗談よ」
母さんは楽しそうに笑った。
結局、両親は一泊二日の旅行に出かけることになった。
行き先も決まり、母さんは出発の日に向けて少しずつ準備を進めていた。
俺も、澪の家に泊まるための着替えや歯ブラシを用意した。
そして、旅行当日の朝。
「じゃあ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃい。楽しんできてね」
「戸締まりは忘れないようにな」
「分かってるって」
「何かあったら、澪ちゃんのお母さんにも相談するのよ」
「はいはい」
「紬、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる」
母さんがまだ何か言いたそうにしているので、父さんがそっと肩を叩いた。
「大丈夫だ。もう出ないと、予定の時間に遅れるぞ」
「あっ、そうだったわね」
母さんは慌てて荷物を持ち直した。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってきます」
「うん。気をつけてね」
二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、俺は家の鍵を確認した。
今日から一泊、澪の家で過ごす。
そう思うと、自然と足取りが軽くなった。
荷物を持って家を出る。
澪の家までは歩いてすぐだ。何度も通った道を進んでいくと、見慣れた家が見えてきた。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに澪が出てきた。
「紬。おはよう」
「おはよう。朝から悪いな」
「別に構わないわ。……荷物、それだけ?」
「一泊だからな」
「そう。もっと大きな荷物を持ってくるのかと思っていたわ」
「何を持ってくると思ってたんだよ」
「ゲーム機とか、漫画とか」
「いや、持ってきてもいいけどさ。澪の家にもあるだろ?」
「あるけれど、紬が持ってくるものにも興味があったの」
「……なんか、持ち物をチェックされてる気分だな」
「気のせいよ」
澪は涼しい顔で言った。
絶対、気にしているだろ。澪はそういうところあるからな。
「まあ、いいや。お邪魔します」
「どうぞ」
澪に案内されて家に入る。
「お母さんは?」
「朝ご飯の片づけをしているわ。あとで顔を出すと思う」
「そっか」
部屋に荷物を置くと、澪が棚からゲーム機を取り出した。
「せっかくだし、何かして遊びましょうか」
「お、いいね。何やる?」
「これにしましょう」
澪が選んだのは、対戦型のゲームだった。
「それ、前にやったやつじゃん」
「ええ。前回は私が勝ったから」
「……まだ覚えてたのかよ」
「もちろん。紬が『次は絶対勝つ』と言っていたもの」
「言ったけど! 今日こそ勝つからな!」
「期待しているわ」
その笑顔が、妙に挑発的に見えた。
そして、ゲームが始まった。
数分後。
「なんでだよ! 今の絶対当たっただろ!」
「当たっていないわ」
「いや、どう見ても当たってたって!」
「実際ダメージを受けてないでしょう?」
「くそ!」
「これが勝負の世界よ」
澪は真剣な顔でコントローラーを操作している。
普段は落ち着いているくせに、こういうときだけ容赦がない。
「……澪って、ゲームになると性格変わらない?」
「そうかしら?」
「そうだよ。学校でそのくらい勝ちにこだわったら、千夏ともっと揉めそうだな」
「千夏とゲームをしたら、勝つまで終わらせてくれなさそうね」
「分かる。あいつなら絶対そうする」
「なら、紬と遊んでいて正解だったわ」
「おい、どういう意味だよ!」
澪が小さく笑う。
その隙を狙って操作したが、あっさり負けた。
「……うああああ!」
「勝ったわね」
「今、笑っただろ!」
「笑っていないわ」
「絶対笑ってた!」
「ふふっ。もう一回やる?」
「やる!」
結局、午前中はほとんどゲームをして過ごした。
途中で澪のお母さんがお茶とおやつを持ってきてくれた。
「二人とも、ずいぶん盛り上がっているわね」
「紬がなかなか諦めてくれなくて」
「澪だって、全然手加減してくれないじゃん!」
「あらあら。二人とも楽しそうね」
澪のお母さんは笑いながら、おやつを机に置いた。
「お昼はどうする? 何か食べたいものはある?」
「俺は何でも大丈夫です」
「じゃあ、澪は?」
「私も何でもいいわ」
「二人とも、それが一番困る答えなのよ」
澪のお母さんが困ったように笑う。
「じゃあ、今日は二人の好きそうなものを作ろうかしら」
「やった!」
「紬、まだ何が出てくるか分からないでしょう」
「いいんだよ。澪のお母さんの料理、おいしいし」
「そうね私も、楽しみだわ」
昼食を食べたあとも、俺たちは部屋で遊び続けた。
漫画を読んだり、学校の話をしたり、ゲームの続きをしたり。
話題は次々に変わっていった。
「そういえば、この前、千夏が授業中に先生に当てられたときさ」
「何かあったの?」
「自信満々に答えたんだけど、問題を一行読み飛ばしてたんだよ。先生に指摘されて、本人も『あっ、そっちか!』って」
「ふふっ。千夏らしいわね」
「しかも、間違えたあとも全然へこまないんだよ。『今のは問題文が意地悪だった』とか言い出してさ」
「それは……千夏なら言いそうね」
「だろ? あいつ、そういうところはすごいよな」
「紬は千夏に甘いのね」
「そうかな?」
「ええ。千夏が困っていると、放っておけないでしょう?」
「……まあ、そうかも」
自分ではあまり意識していなかったけれど、言われてみればそうかもしれない。
「澪だって、千夏と普通に話すようになったよな」
「そうね。前よりは、ずっと」
「この前なんか、二人でずっと言い合ってたじゃん」
「あれは千夏が、私のノートを見て『教科書をそのまま写したみたい』って言ったからよ」
「それ、褒めてるんじゃないのか?」
「『見やすいけど、真面目すぎて面白くない』とも言われたわ」
「いや、余計な一言が多いな、あいつ」
「私もそう思ったわ」
澪は真顔で頷いた。
思い出したのか、少しして口元が緩む。
「二人と一緒にいる時間は好きよ」
「……そっか。俺も好きだよ」
そう答えると、澪は嬉しそうに微笑んだ。
「なら、よかったわ」
夕方になると、澪のお母さんが夕食の準備を始めた。
俺たちも部屋から出て、食卓の準備を手伝う。
「紬ちゃん、お皿を並べてもらえる?」
「はい」
「澪はお箸をお願いね」
「分かったわ」
俺が皿を並べていると、澪が隣に箸を置いた。
「紬、そこは一人分ずれているわ」
「えっ、嘘?」
「本当よ。こっちに一つ寄せて」
「……よし、これでどう?」
「完璧ね」
「なんか、さっきのゲームの時みたいだな」
「何のことかしら?」
「細かいところまで見てくるところ!」
澪のお母さんが、台所から顔を出した。
「ふふっ。澪は小さいころから、そういうところがあるのよ」
「お母さん」
「だって本当でしょう? 昔、一緒にお菓子を作ったときも、クッキーの形が少し違うって何度も作り直していたもの」
「……それは、形をそろえたかっただけよ」
「へえ。まあ澪っぽいな」
「紬だって、ゲームで負けると何度もやり直すでしょう?」
「うっ……」
「お互いさまね」
澪は少し得意げに笑った。
……くそ。言い返せない。
夕食の席では、澪のお母さんも交えて、いろいろな話をした。
学校のこと、好きな食べ物のこと、最近見たテレビのこと。
食卓はずっと賑やかだった。
「紬ちゃん、うちで過ごすのは楽しい?」
澪のお母さんに聞かれて、俺はすぐに頷いた。
「はい。澪と遊ぶのも楽しいですし、ご飯もおいしいです」
「そう。ならよかったわ」
澪のお母さんは安心したように笑った。
「またいつでも泊まりに来てね」
「本当ですか? じゃあ、また来ます!」
「ふふっ。もちろんよ」
「……紬、ずいぶん即答するのね」
「だって、いいって言ってくれたんだから」
「そうね」
澪は小さく笑った。
夕食のあと、俺たちはお風呂に入り、再び部屋に戻った。
「さて、夜はどうする?」
「ゲームの続きね」
「即答かよ!」
「まだ勝負は終わっていないでしょう?」
「今日の勝ち越しを狙ってんな?」
「もちろん」
「俺だって負けたままじゃ終われないからな!」
結局、俺たちは寝る時間が近づくまでゲームを続けた。
最後の勝負は、俺の勝ちだった。
「よっしゃあ!」
「……今のは、少し運がよかったわね」
「いやいや、実力だろ!」
「では、もう一回」
「待て待て! もう寝る時間だって!」
「……そうね」
澪は名残惜しそうにコントローラーを置いた。
「次は負けないわ」
「次も勝つからな」
「ふふっ。楽しみにしているわ」
布団を敷き、歯を磨いて、寝る準備を済ませる。
いつもなら自分の部屋で寝る時間なのに、今日は澪の家にいる。
それがなんだか不思議で、俺は布団に入ってからも、しばらく天井を眺めていた。
「……紬」
「ん?」
「今日は、来てくれてありがとう」
「え? いや、こっちこそ泊めてくれてありがとう」
「そういう意味ではなくて……」
澪は少し言いよどんだ。
「今日は、いつもよりたくさん一緒にいられたでしょう?」
「……まあ、そうだな」
「それが、嬉しかったの」
思いがけない言葉に、俺は少しだけ黙った。
それから、照れくささをごまかすように笑う。
「……なんだよ。いつでも会えるだろ?」
「ええ。そうね」
「じゃあ、また遊ぼうぜ」
「……約束よ」
「ああ、約束」
澪は満足そうに頷いた。
「おやすみ、澪」
「おやすみなさい、紬」
部屋が静かになる。
明日からは、またいつもどおりの日々に戻る。
そう思いながら、俺は眠りに落ちた。
翌朝。
目を覚ますと、澪はもう起きていた。
「おはよう、紬」
「……おはよう。早いな」
「いつもどおりよ」
「俺、そんなに寝坊した?」
「いいえ。まだ朝ご飯まで時間があるわ」
澪は本を閉じて、こちらを見た。
「起きるまで待っていようと思ったのだけれど、思ったより早かったわね」
「……起こしてくれてもよかったのに」
「寝顔を見ていたかったから」
「……え?」
澪の指が、開いた本のページの上でぴたりと止まった。
「……違うわ。寝ているときに起こすのは悪いと思ったの」
「今、絶対違うこと言っただろ」
「気のせいよ」
澪は俺から目をそらし、読んでいたページに視線を落とした。
……絶対、気のせいじゃない。
俺はそれ以上追及するのをやめて、布団から起き上がった。
朝食を済ませ、荷物をまとめる。
澪のお母さんが玄関まで見送りに来てくれた。
「紬ちゃん、またいつでも来てね」
「はい。昨日はありがとうございました」
「こちらこそ、澪と遊んでくれてありがとう。ずいぶん楽しそうだったわ」
「……お母さん」
澪が少し恥ずかしそうに母親を見た。
「あら、何かおかしなことを言ったかしら?」
「……何でもない」
その様子がおかしくて、俺は笑ってしまった。
「じゃあ、澪。また明日な」
「ええ。また明日」
「昨日は楽しかったよ」
「……私もよ」
澪はいつものように穏やかに笑った。
俺は手を振り、澪の家をあとにした。
家に帰ると、両親はまだ戻っていなかった。
時計を見る。まだ昼前だ。
帰ってくるのは夕方ごろだと言っていたから、当然だろう。
俺は荷物を置き、昼食を済ませてから自分の部屋で過ごした。
昨日は澪とたくさん遊べたし、両親も旅行を楽しんでいるはずだ。
帰ってきたら、どんなところに行ったのか聞いてみよう。
そんなことを考えながら、俺は漫画を手に取った。
*
澪は一冊の本を手に、紬の家へ向かっていた。
借りていた本を返すためだった。
いつもなら、紬の家を訪ねれば誰かが出てくる。
紬本人が出てくることもあれば、紬のお母さんが笑顔で迎えてくれることもあった。
だから、今日もいつもどおり、当たり前に私を迎える声が聞こえるはずだった。
家の前に着き、呼び鈴を鳴らす。
――返事はなかった。
「……あれ?」
澪は少し首を傾げた。
出かけているのだろうか。
そう思いながら、もう一度呼び鈴を鳴らす。
しばらく待ってみても、やはり誰も出てこなかった。
「……紬?」
小さく呼びかけてみる。
けれど、家の中から声は聞こえない。
物音もしなかった。
いつもなら、誰かがいる気配くらいは感じられるはずなのに。
澪は玄関の前に立ったまま、しばらく家を見つめていた。
出かけているだけ。
そう考えるのが自然だった。
それでも、なぜかすぐには立ち去れなかった。
ふと、玄関の横に目を向ける。
そこにあるはずのものが、見当たらなかった。
澪は一歩近づいた。
何度も見たことのある場所だった。
けれど、そこには何もなかった。
長年そこにあったはずの名札は取り外され、四角く色褪せた痕跡だけがぽっかりと残されていた。