家に帰ってきたのは、昼前だった。
玄関で靴を脱ぎ、荷物を自分の部屋に置く。二人とも旅行に出ているせいか、いつもと変わらない家が少し広く感じた。
冷蔵庫を開けて、昼飯を探す。母さんが作っておいてくれたおかずがあったので、それを温めて食べた。
食器を洗い終え、時計を見る。
まだ昼過ぎだ。
二人は、旅行先で何をしたんだろう。
どんなところだったのか。何を食べたのか。楽しかったのか。
母さんは、きっと写真でも撮っているだろう。父さんは父さんで、何かしら話の種を持って帰ってくるに違いない。
二人がどんな土産話を聞かせてくれるのか今から楽しみだ。
そう思いながら、自分の部屋に戻った。
漫画を読んだり、ゲームをしたりしているうちに、窓の外の光が少しずつ傾いていった。
そろそろ帰ってくる頃だろうか。
時計を確認して、また漫画に目を落とす。
そんなことをしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
俺は立ち上がり、玄関へ向かった。
宅配便でも来たのだろうか。そう思って扉を開けると、警察官が二人、立っていた。
「……はい?」
思わず、間の抜けた声が出た。
警察官の一人が、俺の顔を確かめるように見た。
「高瀬紬さんですか?」
「……そうですけど」
「突然すみません。少し、お話をさせていただけますか」
警察官はそう言って、手に持っていた帽子を握り直した。
俺は二人の顔を見比べた。
何かあったのだろうか。
近所で事件でもあったのか。それとも、何か――。
「ご両親のことで、お伝えしたいことがあります」
その言葉に、背筋が伸びた。
「……父さんと母さんに、何かあったんですか?」
警察官はすぐには答えなかった。
ほんの短い沈黙だったはずなのに、やけに長く感じた。
「本日、ご両親が乗っていた車が交通事故に遭いまして」
「……事故?」
聞き返した声が、自分でも妙に遠く聞こえた。
事故。車。父さんと母さん。
言葉は分かるのに、それがどうつながるのか、うまく頭に入ってこない。
「……怪我、したんですか? どこの病院ですか」
早く教えてほしかった。
どこの病院なのか分かれば、そこへ行けばいい。怪我をしているなら、二人に会って、話をすればいい。
警察官の手が、帽子を握る力をわずかに強めた。
そして、二人そろって頭を下げた。
「……お二人とも、搬送先の病院で亡くなられました」
「……え?」
何を言われたのか、分からなかった。
亡くなった。
父さんと母さんが。
さっきまで、旅行の話を聞くつもりでいたのに。
「……え、だって」
続きが出てこなかった。
何か言わなければいけない。そう思うのに、何を言えばいいのか分からない。
警察官が何かを説明していた。事故が起きた場所や、病院のことだったのかもしれない。
けれど、ひとつも頭に残らなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。
*
案内された部屋には、二つの台が並んでいた。
その上に、白い布を胸元まで掛けられた人が横たわっている。
父さんと母さんだった。
顔を見れば分かる。間違えるはずがない。
父さんは目を閉じていた。母さんも、いつも眠るときと同じように目を閉じていた。
ただ、二人とも、俺が来たことに気づかない。
「ご両親で、間違いありませんか」
そばにいた人が、静かに尋ねた。
返事をしなければいけない。
そう分かっているのに、声が出なかった。
父さんの顔を見る。
母さんの顔を見る。
何度見ても、二人は目を開けない。
昨日の朝、二人は「行ってきます」と言って出かけていった。
帰ってきたら、旅行の話を聞くつもりだった。
どこに行ったのか。何を食べたのか。楽しかったのか。
聞きたいことが、いくらでもあった。
なのに。
「……っ」
喉の奥が詰まった。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
目の前が滲んだ。
手でいくら拭っても、涙はとめどなく溢れてくる。
父さん。
母さん。
呼びたかった。いつもみたいに、二人の名前を呼ぶように声をかけたかった。
でも、何を言っても、もう返事は返ってこない。
*
家に戻るころには、外は暗くなり始めていた。
警察の人と、これからのことを相談するために来てくれた人が一緒だった。俺が一人きりにならないよう、しばらくそばにいてくれるらしい。
何を話したのか、あまり覚えていない。
聞かれたことには答えたと思う。けれど、明日からどうするのか、これからどこで暮らすのか。そういう話をされても、考えることができなかった。
今は、何も考えたくなかった。
それでも、家に帰ってきたら、腹が減っていることに気づいた。
昼飯を食べてから、何も口にしていない。
夕飯を食べないと。
いつもなら、母さんに何か聞けばよかった。
今日の夕飯は何?
冷蔵庫に何かある?
これ食べていい?
そんなことを聞けば、母さんは台所から顔を出して、すぐに教えてくれた。
俺は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
中には、作り置きのおかずが並んでいた。タッパーには、それぞれ中身が分かるように名前が書いてある。
母さんの字だった。
何を食べよう。
そう思って、手を伸ばしかけたところで止まった。
これを食べ終えたら、もう母さんが作ってくれた料理はなくなる。
明日も、その次の日も、母さんが台所に立つことはない。
夕飯のときに今日あったことを話したり、冷蔵庫の中身を聞いたり。そんな何気ないやり取りも、もうできない。
タッパーに伸ばしかけた手を、ゆっくり下ろした。
俺は、冷蔵庫の前に立ったまま動けなかった。