「紬ちゃん、こっちにおいで」
誰かに呼ばれて、顔を上げた。
大人が何人か、俺の前にいた。
顔を見ても、名前が出てこなかった。
知っている人だったはずなのに。
「紬ちゃん?」
「……うん」
返事をしたつもりだったけれど、声がちゃんと出たかどうかも分からなかった。
「これからのことなんだけどね」
大人たちは俺の前で話をしていた。
葬儀のこと。家のこと。これからの生活のこと。
話している声は聞こえていた。
でも、何を言っているのか、頭に入ってこなかった。
「紬ちゃんは、どうしたい?」
突然、そう聞かれた。
どうしたい。
「……どうって?」
聞き返した声が、自分でも驚くほど小さかった。
「これから、どこで暮らしたいかとか。そういうことだよ」
そんなこと、分からなかった。
「……分かんない」
そう答えると、大人は困ったような顔をした。
「そうよね。今は無理に決めなくてもいいからね」
誰かが、俺の肩に手を置いた。
何か言われた気がした。
でも、覚えていない。
父さんと母さんに会いたい。
そのことばかりが、頭の中に残っていた。
澪と千夏の顔が、何度も頭に浮かんだ。
学校に行けば、二人がいる。
澪は、俺が急に来なくなったら心配するだろうか。
千夏は、また何か言ってくるだろうか。
いつもの教室。いつもの休み時間。二人と話していた時間。
そこに戻りたかった。
澪と千夏に、何も言えていなかった。
電話をすればいい。
家の電話の前に立って、受話器に手を伸ばす。
でも、番号を押そうとすると、指が止まった。
二人に電話をしたら、きっと何か聞かれる。
どうしたの? なんで学校に来ないの? 大丈夫?
そのとき、俺は何と答えればいいんだろう。
父さんと母さんが死んだ。
そう言葉にしたら、二人がもう帰ってこないことを、自分で認めてしまう気がした。
そんなことしたくなかった。
澪にも、千夏にも会いたい。
でも、二人の前で何も話せなくなったら。泣いて、困らせてしまったら。
そう考えると、受話器を取ることさえできなかった。
「紬ちゃんのことは、私たちが引き取ります」
そう申し出たのは、親戚の夫婦だった。
俺は二人のことを、ほとんど知らなかった。
顔を合わせた記憶も、片手で数えられるくらいしかない。
「それなら、ひとまず安心ですね」
「ええ。こちらで責任を持って面倒を見ますから」
大人たちは、ほっとしたように話していた。
俺は、その会話を聞いていた。
引き取る。
面倒を見る。
これからは、この二人と一緒に住む。
そういうことらしかった。
「紬ちゃん、よかったね」
誰かが言った。
俺は頷いた。
よかったのかどうかは、分からなかった。
ただ、そうすることが決まったなら、俺はそこへ行くしかないのだろう。
澪にも、千夏にも、何も言えなかった。
二人の顔を思い浮かべると、何か言わなければいけないと思う。心配しているかもしれない。突然いなくなったら、きっと不思議に思うだろう。
それでも、澪と千夏に伝える勇気が出なかった。
引っ越しの日、俺は自分の荷物をまとめていた。
部屋には、父さんと母さんが使っていたものも、そのまま残っていた。
母さんがよく座っていた椅子。
父さんが読んでいた本。
どれも、変わらず同じ場所にある。
俺の荷物だけが、少しずつ鞄の中に収まっていった。
机の引き出しを開けると、家族のアルバムが入っていた。
俺はそれを取り出し、表紙を撫でた。
ページを開けば、父さんと母さんが笑っている。
その隣には、俺もいる。
どこへ出かけたときの写真なのか、何をして笑っていたのか。
見れば、いくつも思い出せる。
俺はページを閉じた。
置いていくことなんてできるわけない。
アルバムを鞄にしまい、ファスナーを閉める。
「紬ちゃん、そろそろ行くわよ」
廊下から声がした。
「……はい」
俺は荷物を持って、部屋を出た。
玄関で靴を履く。
いつもなら、父さんが「忘れ物はないか」と聞いてくる。
母さんが「気をつけてね」と言ってくれる。
でも、今日は誰もいなかった。
振り返っても、何も変わらない。
俺は玄関を出た。
後ろで、扉が閉まった。
その音が、やけに大きく聞こえた。
澪と千夏に、何も言わなかった。
そのことが、ずっと引っかかっていた。
けれど、今さら戻って電話をかけることもできなかった。
親戚の家は、今まで暮らしていた家から遠かった。
電車を乗り継いで、見慣れない駅で降りた。
駅からしばらく歩いたところに、親戚の家があった。
玄関で迎えてくれた養母は、俺の荷物を見て言った。
「これだけ?」
「……はい」
「まあ、必要なものは少しずつ揃えていけばいいわね」
養母は俺の顔を見た。
「これからは、ここで暮らすことになるんだから。分からないことがあったら聞きなさい」
「……はい」
「ほら、いつまでも玄関に立っていないで。部屋に案内するわ」
俺は靴を脱ぎ、後についていった。
用意された部屋には、ベッドと机があった。
荷物を置く場所もある。
暮らすために必要なものは、一通り揃っているようだった。
「とりあえず、今日は荷物を片づけておきなさい。夕飯になったら呼ぶから」
「分かりました」
そう答えてから、俺は荷物を床に置いた。
静かな部屋だった。
窓の外から、知らない家の生活音が聞こえる。
ここで暮らしていくしかない。
そう思った。
「それから」
部屋を出かけていた養母が、振り返った。
「あなた、自分のことを『俺』って呼ぶのね」
「……え?」
思わず、顔を上げた。
「いや、俺は……」
口にしてから、しまったと思った。
養母は、少し眉を寄せた。
「女の子なんだから、そういう言葉遣いはやめなさい」
「……でも」
「でも、じゃないでしょう。これからは『私』って言いなさい。分かった?」
俺は、口を閉じた。
どうして、そんなことまで言われなければいけないんだ。
そう思った。
でも、引っ越してきたばかりで、いきなり言い返すこともできなかった。
「……分かりました」
「よろしい」
養母は頷き、今度こそ部屋を出ていった。
俺は、閉じた扉を見つめた。
自分のことを何と呼ぶかまで、変えなければいけないのか。
納得できなかった。
それでも、ここで暮らしていくためには、余計なことで揉めないほうがいい。
そう自分に言い聞かせた。
新しい学校にも通い始めた。
知らない教室。知らない先生。知らないクラスメイト。
話しかけてくれる子もいた。俺も、聞かれたことには普通に答えられた。
「紬ちゃんって、前はどこに住んでたの?」
「ちょっと遠いところ」
「そっか。じゃあ、こっちのことまだ分かんないよね」
「うん、まあ」
「分かんないことあったら聞いてね」
「ありがとう」
相手が笑ったので、俺も笑い返した。
それで会話は終わった。
別に、話せないわけじゃない。
ただ、前みたいに明るくはいられなかった。
誰かと一緒に遊んでも、ふとした瞬間に、父さんと母さんのことを思い出す。
澪や千夏のことも、考えない日はなかった。
今ごろ、二人はどうしているだろう。
俺が何も言わずにいなくなったことを、どう思っているだろう。
連絡を取ればいい。
そう思うことはあった。
でも、何を話せばいいのか考えると、何もできなくなった。
父さんと母さんが死んだこと。
親戚の家に引っ越したこと。
これから、今までとは違う場所で暮らすこと。
どれも、簡単には口にできなかった。
いつか話せるようになる。
そう思っていた。
けれど、毎日は待ってくれなかった。
授業が始まれば、ノートを取る。
休み時間になれば、周りの会話を聞きながら、次の授業の準備をする。
家に帰れば、養母に言われたことをする。
そうやって一日を終えるだけで、精一杯だった。
ある日の夕方、俺は学校から帰ってきて、台所を覗いた。
「ご飯、もうできてる?」
「まだよ。見れば分かるでしょう」
「……うん」
俺は台所を出た。
別の日、学校から持ち帰ったプリントを見せようとした。
「これ、明日までに出すんだって」
「それで?」
「……いや、別に」
養母は手元の作業を続けていた。
「用がないなら、そこに置いておきなさい」
俺はプリントを机の上に置いた。
父さんと母さんなら、こういう話も聞いてくれた。
明日までに出すのか。忘れないようにしないとね。
そんな何でもない会話をしていた。
でも、ここでは違う。
話しかけても、面倒そうな顔をされる。
質問をすれば、そんなことも分からないのかと言われる。
何度か同じことがあってから、俺は養母に何かを聞く前に、少し考えるようになった。
自分で分かることなら、自分でやればいい。
話さなくてもいいことなら、話さなくていい。
そうしているうちに、養母に声をかけること自体が減っていった。
もう、子供みたいに何でも聞いてはいられない。
ここでは、自分のことは自分で何とかするしかないのだと思った。
養父は、最初から少し変わった人だった。
俺が家の中を歩いていると、必要もないのについてくる。
「紬ちゃん、今日は学校どうだった?」
「……普通です」
「そうか。友達はできた?」
「少しだけ」
「へえ。どんな子?」
ただの世間話。
そう思おうとした。
けれど、養父は話をしながら、妙に近くまで寄ってくる。
俺が一歩離れると、何がおかしいのか、笑った。
「そんなに警戒しなくてもいいだろ。家族なんだから」
その言い方が、嫌だった。
家族。
そう言われても、納得できない。
父さんと母さんと俺の三人の家族に、この人たちを入れたくなかった。
でも、そんなことを口に出すこともできなかった。
「……はい」
俺はそう答えて、その場を離れた。
養父は追いかけてこなかった。
それだけで、ほっとした。
別の日、着替えを持って部屋に戻ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「紬ちゃん、ずいぶん大人っぽくなったね」
振り返ると、養父がこちらを見ていた。
「……そうですか?」
「うん。女の子は成長するのが早いからなあ」
養父の視線が、俺の顔からゆっくり下へ動いた。
ぞっとした。
「……着替えるので」
「そうか。じゃあ、またあとで」
養父は笑っていた。
俺は部屋に入り、扉を閉めた。
鍵をかけようとして、手を止める。
そもそも、この部屋の扉には鍵がなかった。
俺はしばらく、取っ手を握ったまま立っていた。
気のせいだと思いたかった。
考えすぎなのだと思いたかった。
けれど、養父と二人きりになるのは、嫌だった。
養母は、俺の身の回りの最低限は整えてくれた。
服が小さくなれば買い替えるし、学校で必要なものも用意してくれる。食事も作ってくれた。
ただ、俺がどう感じているかを気にしているようには思えなかった。
学校で変に思われてないか。近所の人に何か言われていないか。
養母が気にしているのは、そういうことだった。
そこに両親が俺に抱いてくれていたような愛情はなかった。
ある日の夜、廊下を歩いていたときだった。
居間から養母の声が聞こえて、俺は足を止めた。
「……それで、手続きはいつ頃になるの?」
もう一人の声は、養父のものだった。
「ええ、分かってるわ。こっちだって、ただで引き取ったわけじゃないんだから」
「まあ、あの子が大きくなるまで面倒を見ることになるんだ。こっちにもそれなりのものがないとな」
「そうよ。あの人たちが亡くなったんだから、きちんと整理してもらわないと困るわ」
あの人たち。
父さんと母さんのことだろうか。
俺は、息を潜めた。
「そもそも、あの二人は昔から勝手だったでしょう。親戚付き合いだってろくにしなかったんだから」
「今さらそんなことを言っても仕方ないさ」
「だからこそ、残されたものくらい、ちゃんとしてもらわないと」
養母の声には、苛立ちが混じっていた。
「紬ちゃんには、ちゃんとした生活をさせてあげるつもりよ。だから、遺産ぐらい私たちのために使っていいでしょう?」
俺は、そこから動けなかった。
言葉の意味を、考えたくなかった。
俺を引き取ったのは、俺のためじゃないのだろうか。
父さんと母さんがいなくなって、俺が一人になったから。
だから、ここに連れてきてくれたんじゃないのか。
扱いに納得できないことがあっても、俺のために引き取ってくれたのだと思って我慢してきたのに。
「……何をしているの?」
突然、声がした。
養母が目の前に立っていた。
「……っ」
「こんなところで何をしているの?」
「いや、俺は……何でもない」
とっさに答えてから、しまったと思った。
養母の眉が、ぴくりと動いた。
「……今、何て言ったの?」
「え……」
「いつまでそんな話し方をしているの? 前にも言ったでしょう。自分のことは『私』って言いなさい」
俺は、唇を噛んだ。
そんなつもりじゃなかった。
ただ、突然声をかけられて、いつものように答えてしまっただけだ。
「……すみません」
「大人の話を勝手に聞くのも感心しないわね。あなたは何も心配しなくていいの。言われたとおりにしていればいいんだから」
「……はい」
「そう。最初からそう言えばいいのよ」
養母は居間へ戻っていった。
俺は自分の部屋に戻った。
扉を閉めて、ベッドに座る。
……俺は、何を期待していたんだろう。
父さんと母さんがいなくなってから、誰かが俺を助けてくれると思っていた。
今までと同じようには暮らせなくても、ここでなら、生きていけると思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
ここにいても、俺は幸せに生きられない。
それでも、ほかに行く場所はなかった。
俺は膝を抱えた。
明日も学校がある。
朝になったら起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、学校へ行く。
そうしていれば、一日は終わる。
つらいこと、悲しいことを考えずに済む。
そうやって、毎日を過ごした。
季節が変わっていった。
暑かった日が少しずつ涼しくなり、やがて寒い日が続くようになった。
そのころには養母に注意されることが減っていた。
自分のことを「私」と呼ぶのも、外では当たり前になっていた。
うっかり「俺」と言えば、養母に注意される。
誰かを通じて養母の耳に入れば、また面倒なことになるかもしれない。
だったら、外では「私」と言っておけばいい。
ただ、それだけのことだった。
心の中では、今までどおりだった。
俺は俺だ。
誰に何を言われても、それは変わらない。
そう思っていた。
けれど、身体のほうは、俺の気持ちなんてお構いなしに変わっていくらしい。
いつからだっただろう。
夕食を食べ終えたあとも、身体の奥が落ち着かなかった。
腹は満たされている。
それなのに、何かが足りない。
何が足りないのかは分からない。
ただ、身体の奥から何かを求める感覚が湧き上がってくる。
じっとしていると、落ち着かない。
何かを探さなければいけない。
何かを満たさなければいけない。
そんな衝動だけが、理由もなく膨らんでいった。
俺は冷蔵庫を開け、残っていたおかずを口に入れた。
味はする。腹も膨れていく。
でも、違う。
これじゃない。
何が違うのか、自分でも分からなかった。
翌日、駅前で同じくらいの年頃の男とすれ違った。
その瞬間、身体の奥が、かすかに反応した。
思わず足が止まり、振り返る。
ほしい。
そんな気持ちが、ほんの一瞬、頭をよぎった。
俺は慌てて前を向いた。
疲れて変になっただけ。
そう考えて、そのまま歩き出した。
養母に相談することはなかった。
こんなことを話したら、また何か言われるかもしれない。
だから、我慢した。
腹が減っても、水を飲んだり、早めに寝たりすれば、気にならなくなる。
きっと大したことじゃない。
そう思うことにした。
近所の人たちは、俺によく声をかけてくれた。
「紬ちゃん、学校帰り?」
「はい」
「おかえり。今日は寒いねえ」
「そうですね」
「風邪ひかないようにね。ちゃんとご飯食べてる?」
そう聞かれると、少しだけ戸惑った。
「……はい。食べてます」
「ならよかった。何か困ったことがあったら、いつでも言うんだよ」
その人は、俺の頭を撫でようとして、途中で手を止めた。
「もう、そんなことをする年でもないか」
そう言って笑った。
「いえ、ありがとうございます」
そう言って俺も、少しだけ笑った。
家の外で誰かと話しているときだけは、息がしやすい気がした。
ある日、買い物から帰ってくると、近所のおばさんが養母と話していた。
「あら、紬ちゃん。おかえり」
「ただいま帰りました」
「今日はおつかい? 偉いねえ」
「いえ、そんな……」
「本当によくできた子ね」
おばさんは、そう言って笑った。
養母も笑っていた。
「いつも気にかけてくださって、ありがとうございます。この子も、だいぶこちらの生活に慣れてきたんですよ」
「それならよかった。最初は大変だったでしょう?」
「ええ、まあ。でも、家族ですから」
養母は、俺の肩に手を置いた。
「この子も、うちで暮らせて安心していると思いますよ」
おばさんは俺の顔を見て、優しく笑った。
「そう。よかったね、紬ちゃん」
「……はい」
おばさんは、少しだけ俺の顔を見つめてから、養母に視線を戻した。
「でも、紬ちゃん、ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べられてる?」
「……食べてます」
そう答えると、おばさんは頷いた。
「そう。それならいいんだけど。何かあったら、本当に遠慮しないで言うんだよ」
「ありがとうございます」
おばさんは笑ってくれた。
けれど、帰り際にもう一度だけ、俺のほうを振り返った。
何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局、何も言わなかった。
おばさんが帰っていく。
養母は、俺の肩から手を離した。
「余計な心配をかけないようにね」
「……はい?」
「近所の人たちに、変なことを言わないようにってことよ。私はちゃんとあなたの面倒を見ているんだから」
「……はい」
「それならいいの」
養母は台所へ戻っていった。
俺は、玄関に立ったまま、しばらくその場を動けなかった。
さっきのおばさんの笑顔を思い出した。
また話しかけてくれるだろうか。
そう思うと、温かい気持ちになった。
それから、さらに季節が巡った。
最近、朝起きるのがつらい日が増えていた。
身体が重い。
寝たはずなのに疲れが取れず、布団から出るまでに時間がかかる。
最初は、ずっと気を張っているせいだと思っていた。
その朝も、身体のだるさを感じながら目を覚ました。
寝返りを打って、布団から出ようとしたとき、下着に赤い染みがついていることに気づいた。
「……え?」
最初は、何が起きたのか分からなかった。
怪我をしたのだろうか。
でも、どこも痛くない。
布団をめくって確認しても、何かにぶつけた覚えはなかった。
どうすればいいのか分からず、俺はしばらく染みを見つめていた。
やがて、養母に聞くしかないと思った。
部屋を出ると、養母は台所にいた。
「あの……」
「何?」
「下着に、血がついていて……」
養母は一瞬だけ俺を見て、それから、ああ、と頷いた。
「初潮ね」
「……しょ、ちょう?」
「初めての生理のことよ。あなたもそういう年頃になったのね」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
初潮。
知識としては知っていた。
前世でも、そういうものがあることくらいは知っていた。女の子の身体に起きる変化。成長すれば、いつか来るもの。
だから、何が起きているのかは分かった。
分かってしまった。
「……そっか」
小さく呟いた。
自分の身体に、初潮が来た。
その事実を理解した途端、急に何もしたくなくなった。
俺はその場に立ち尽くした。
どうして。
どうして、俺の身体に。
分かっていたはずだった。
この身体が女の子のものだということも、いつかこういう日が来ることも。
でも、実際に自分の身に起きると冷静ではいられない。
「ああ、必要なものは用意するから。使い方は分かる?」
「……はい」
「なら、今日は無理しないで、体調が悪かったら休みなさい」
「……分かりました」
養母は必要なものを用意してくれた。
それ以上、何かを言われることはなかった。
俺は部屋に戻った。
扉を閉めて、ベッドに座る。
初潮が来た。
それだけのことだ。
身体が成長しているということ。そういう時期が来ただけ。
頭では分かっていた。
でも、気持ちはついてこなかった。
俺は顔を膝に埋めた。
泣きたかったのかもしれない。
ただ、涙は出なかった。
その日、俺はほとんど部屋から出なかった。
初潮が来た頃から、体の違和感が増した気がする。
食事をしても、すぐに何かが足りなくなる。
空腹とは違う。身体の奥から、何かが足りないと訴えかけてくる。そんな奇妙な感覚だった。
初潮が来たからだろうか。
身体が変わる時期だからかもしれない。
そう考えれば、納得できる気がした。
養母に相談することはなかった。
こんなことまで話したら、また何か言われるかもしれない。
だから、我慢した。
それに、我慢することにはこの一年で慣れた。
嫌なことを言われても、黙っていれば終わる。
嫌なことをされても、なるべく顔に出さなければいい。
そうしていれば、一日は終わる。
明日になれば、また学校に行ける。
家の外では、近所の人が声をかけてくれる。
だから、俺は大丈夫。
俺はそう自分に言い聞かせた。
養父の様子は、月日が経つにつれひどくなっていった。
俺が部屋で過ごしていると、勝手に扉を開けて入ってくる。
「紬ちゃん、何してるの?」
「……宿題です」
「そう。偉いね」
養父はそう言って、俺の隣に座ろうとした。
「……あの、狭いので」
「いいじゃないか。家族なんだから」
俺は椅子を少し引いた。
養父は笑ったまま、こちらを見ていた。
「最近、ずいぶんよそよそしいね」
「……そんなことは」
「そう? もっと頼ってくれていいんだよ」
伸びてきた手を、俺は反射的に避けた。
養父の表情が、ほんの少し変わった。
「……何だよ。そんなに嫌がらなくてもいいだろ」
「すみません」
俺はすぐに謝った。
謝る必要があったのかは分からない。
でも、そうしなければ、もっと面倒なことになる気がした。
「……もう、宿題をやらないといけないので」
「そうか。じゃあ、またあとでね」
養父は立ち上がり、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
俺は、しばらく動けなかった。
手のひらが冷たくなっていた。
怖かった。
何が怖いのか、考えたくなかった。
ただ、この人と二人きりになりたくない。
それだけは、はっきりしていた。
ある日、養父が俺の髪に触れようとした。
「……やめてください」
思わず、身体が逃げていた。
養父は手を止め、俺の顔を見た。
「どうして? 可愛い姪っ子なんだから、これくらいいいだろう」
「……嫌です」
言ってしまってから、息が詰まった。
養父の顔から笑みが消えた。
「……嫌?」
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
養父は、ゆっくりと笑い直した。
「ただ、そんなに怖がられると傷つくなあ」
その声が、気持ち悪かった。
俺は何も答えず、部屋を出た。
その日から、養父のいる場所を避けるようになった。
廊下で顔を合わせないようにする。
居間に二人きりになりそうなら、用事を思い出したふりをして部屋に戻る。
夜は、なるべく早く扉を閉める。
それでも、扉には鍵がなかった。
養母に相談しようと思ったこともある。
でも、何と言えばいいのか分からなかった。
養父が気持ち悪い。
近くに来られると怖い。
触られたくない。
そんなことを言ったら、養母は何と答えるだろう。
家族なんだから、仲良くしなさい。
そんなふうに言われる気がした。
結局、何も言えなかった。
近所の人たちは、相変わらず俺に声をかけてくれた。
学校帰りに会えば、何気ない会話をしてくれる。
たまに、お菓子をくれることもあった。
「紬ちゃん、これ、よかったら持っていきな」
「……いいんですか?」
「紬ちゃん、少しやせてるから。いっぱい食べてね」
そう言って、笑ってくれる。
俺は、お礼を言って受け取った。
誰かに優しくされると、少しだけほっとした。
家に帰ると、養母に注意された。
「よその家から、何でももらってくるものじゃないわよ」
「……すみません」
「悪いとは言っていないの。ただ、あまり人に迷惑をかけないで」
「……はい」
養母はそう言って、俺の手からお菓子を受け取った。
「これは、あとで食べましょう」
その言葉に、俺は頷いた。
近所の人たちは、俺を気にかけてくれていた。
それが分かるだけで、少し救われた気がした。
でも、不満を話すことはできなかった。
話したら、どうなるのだろう。
養母に知られたら、また怒られるかもしれない。
養父に知られたら、もっとひどいことになるかもしれない。
だから、何も言わなかった。
いつか、どうにかなる。
そう思っていた。
雨の降る夜だった。
養母は出かけていて、家には俺と養父だけだった。
俺は自分の部屋で、明日の授業の準備をしていた。
そろそろ寝ようと思っていたところで、扉が開いた。
「紬ちゃん」
「……何ですか?」
「ちょっと話をしようと思ってね」
「もう遅いので、明日でもいいですか」
「すぐに終わるよ」
養父は部屋に入ってきて、扉を閉めた。
俺は、嫌な予感がした。
「……あの」
「最近、避けているだろう?」
「そんなことは……」
「嘘をつかなくていいんだよ」
養父は笑っていた。
いつものように、冗談を言っているみたいな顔だった。
でも、目は笑っていなかった。
「俺は、君のことを大事に思っているんだ」
その言葉を聞いた瞬間、背中が冷たくなった。
「……やめてください」
声が震えた。
養父は、聞こえなかったかのように近づいてきた。
「そんなに怖がらなくてもいいだろう」
「来ないでください」
俺は立ち上がった。
逃げようとしたけれど、養父が先に扉の前へ移動した。
「……どいてください」
「どうして? 家族なのに」
また、その言葉。
何度も聞かされた言葉。
そのたびに、俺は黙ってきた。
でも、限界だった。
「家族じゃない!」
声が出た。
自分でも驚くくらい、大きな声だった。
養父の顔から笑みが消えた。
「……何だと?」
怖かった。
足が震えていた。
それでも、ここから出なければいけない。
そう思った。
「助けて……」
声がかすれた。
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
父さん。
母さん。
澪。
頭の中に、顔が浮かんだ。
でも、誰もここにはいない。
養父が腕を伸ばしてきた。
俺は身を引いた。
背中が壁にぶつかった。
逃げ場がなかった。
「やめて!」
叫んだ。
養父の手が、俺の腕をつかんだ。
痛かった。
振りほどこうとしても、力が入らない。
「おとなしくしなさい」
養父の声が、すぐ近くでした。
もう片方の手が、俺の服をつかんだ。
布が引っ張られ、襟元がずれた。
床に押し倒される。
「いやだ、離して!」
俺は必死に抵抗する。
養父の顔が近づく。
息がかかる。
もう片方の手が、俺の口元へ伸びてきた。
口を塞ごうとしているのか。
考えるより先に、俺は顔を背けた。
「紬ちゃんは、ほんとうにかわいいな」
逃げたい。
ここから出たい。
頭の中が真っ白になった。
「だいじょうぶ。仲良くなるためだから」
そう言って、服の中に手を入れてきた。
服の中で動く手が、ひどく気持ち悪かった。
「いやだ、やめて!」
すぐ目の前にある顔を見て、俺は息を呑んだ。
養父の目は、欲望に濡れていた。
俺が怯えていることも、嫌がっていることも、もう目に入っていないようだった。
その目を見た瞬間、ようやく分かった。
この人は、最初から。
俺を、家族として見ていなかった。
「助けて!」
今度は、声が出た。
喉が痛くなるほど叫んだ。
けれど、養父は怯むどころか、俺の腕をつかむ力を強めた。
「うるさい!」
「いやっ、離して!」
振りほどこうとしても、腕が動かない。
「やめて! 誰か、助けて!」
「おとなしくしろ」
養父の手に口をふさがれた。
「よし、おとなしくしてれば終わるからね」
そう言って、俺の服のボタンに手をかけ、外していく。
「大丈夫。安心して」
怖い。
嫌だ。
もう、こんなところにいたくない。
頭の中では何度もそう叫んでいるのに、身体は思うように動かなかった。
そのとき、家の外から声が聞こえた。
「紬ちゃん?」
聞き覚えのある声だった。
近所のおばさんだ。
俺は、助けを求めるように暴れた。
「くそ!」
「余計なことをするな!」
耳元で怒鳴られ、身体が強張った。
「紬ちゃん? どうしたの? 大丈夫?」
おばさんの声が、もう一度聞こえた。
俺は必死に身体をよじった。
声を出したい。
ここにいると伝えたい。
助けてほしい。
けれど、口を押さえられて、まともに声が出せなかった。
それでも、漏れた息が小さな悲鳴になった。
外で、何かが動く音がした。
おばさんは、しばらく家の中の様子をうかがっていた。
それから、慌ただしく離れていく足音が聞こえた。
助けを呼びに行ったのだろうか。
そう思った瞬間、養父が俺の腕を強く引いた。
「お前のせいで、面倒なことになっただろうが」
俺は答えられなかった。
養父は俺の口元から手を離したものの、腕をつかんだままだった。
「いいか。誰かに何か聞かれても、何もなかったと言え。分かったな?」
俺は首を振った。
「……嫌だ」
声は震えていた。
「何だと?」
「もう、やめて……」
養父の顔が歪んだ。
次の瞬間、また腕を引かれた。
俺は抵抗した。
逃げようとした。
けれど、壁に追い詰められ、足がもつれてうまく動けなかった。
服をつかまれ、身体が引き寄せられる。
もう一度、助けを呼ぼうと息を吸った。
そのときだった。
ドンドン、と玄関の扉を叩く音がした。
「開けてください!」
おばさんの声だった。
養父の動きが止まった。
「紬ちゃん! いるんでしょう? 返事をして!」
扉を叩く音が、もう一度響いた。
「何なんだよ……!」
養父が苛立った声を上げた。
俺は、その隙に腕を引いた。
けれど、養父はすぐに俺を振り返り、低い声で言った。
「余計なことを言うんじゃないぞ」
俺は答えられなかった。
玄関の向こうから、おばさんの声が聞こえる。
「警察には連絡しました! 中で何が起きているんですか!」
警察。
その言葉を聞いた瞬間、身体から力が抜けそうになった。
助けが来る。
そう思った。
でも、すぐに来るとは限らない。
おばさんも、それが分かっているのだろう。
「紬ちゃん! 大丈夫? 返事をして!」
扉を叩く音が続いた。
養父は舌打ちし、俺の腕を乱暴に離した。
「くそっ……!」
俺は壁に手をつき、崩れそうになる身体を支えた。
乱れた服を押さえようとしたけれど、指が震えて、うまく直せなかった。
玄関の向こうでは、おばさんが何度も声をかけていた。
「紬ちゃん、そこにいるの? もう少しだからね!」
養父は俺を睨みつけた。
「おとなしくしてろ。分かったな?」
そう言い残し、部屋を出ていった。
俺は壁に背中をつけたまま、動けなかった。
玄関のほうから、養父の声が聞こえた。
「何なんですか、こんな時間に!」
「中から叫び声が聞こえたんです。紬ちゃんはどこですか?」
「ただの言い合いですよ。大げさに騒がないでください」
「でも、紬ちゃんの声が……」
「家族の問題です。あなたには関係ないでしょう!」
養父の声が荒くなった。
おばさんは、引き下がらなかった。
「警察にも連絡しました。ちゃんと確認してもらいますから」
「はあ? 勝手なことを!」
玄関の向こうで、二人の声がぶつかり合っていた。
助かるのだろうか。
もう、何もされないのだろうか。
まだ分からなかった。
ただ、今はもう、養父と二人きりではなかった。
それだけが、かすかな支えだった。
二人の言い合いの声が聞こえてしばらくすると、外から別の声が聞こえた。
「警察です。通報があったので、確認させてください」
養父が何かを言い返している。
おばさんも、必死に説明しているようだった。
足音が近づいてくる。
「お子さんはどこにいますか?」
「部屋にいる! 何もないって言ってるだろ!」
「こちらで確認します」
足音が、廊下へ向かってきた。
俺は、何とか声を出そうとした。
けれど、喉が詰まって、声が出なかった。
「紬さん、いますか?」
扉の向こうから、警察の人が声をかけた。
返事はできなかった。
「紬さん。警察です。中に入りますね」
やがて、扉が開いた。
警察の人は、乱れた俺の服と、壁際で震えている姿を見た。
「……大丈夫ですか」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れそうになった。
俺のそばにしゃがみ込み、上着をかけてくれた。
「もう、あの人を近づけさせないから。大丈夫。もう安心していいよ」
俺は、何とか頷こうとした。
でも、うまく動けなかった。
ここから出たい。
もう、この家にはいたくない。
そう思った。
父さんと母さんがいた家に帰りたい。
二人がいて、俺が帰れば「おかえり」と言ってくれた家に。
何も考えずに、学校であったことを話せた頃に。
帰りたい。
帰りたいのに。
どこにも帰れない。
「もう、いやだ」