TS転生した俺、サキュバスらしい   作:ほんきょー

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12.帰りたい

「紬ちゃん、こっちにおいで」

 

 誰かに呼ばれて、顔を上げた。

 

 大人が何人か、俺の前にいた。

 

 顔を見ても、名前が出てこなかった。

 

 知っている人だったはずなのに。

 

「紬ちゃん?」

 

「……うん」

 

 返事をしたつもりだったけれど、声がちゃんと出たかどうかも分からなかった。

 

「これからのことなんだけどね」

 

 大人たちは俺の前で話をしていた。

 

 葬儀のこと。家のこと。これからの生活のこと。

 

 話している声は聞こえていた。

 

 でも、何を言っているのか、頭に入ってこなかった。

 

「紬ちゃんは、どうしたい?」

 

 突然、そう聞かれた。

 

 どうしたい。

 

「……どうって?」

 

 聞き返した声が、自分でも驚くほど小さかった。

 

「これから、どこで暮らしたいかとか。そういうことだよ」

 

 そんなこと、分からなかった。

 

「……分かんない」

 

 そう答えると、大人は困ったような顔をした。

 

「そうよね。今は無理に決めなくてもいいからね」

 

 誰かが、俺の肩に手を置いた。

 

 何か言われた気がした。

 

 でも、覚えていない。

 

 父さんと母さんに会いたい。

 

 そのことばかりが、頭の中に残っていた。

 

     

 

 

 澪と千夏の顔が、何度も頭に浮かんだ。

 

 学校に行けば、二人がいる。

 

 澪は、俺が急に来なくなったら心配するだろうか。

 千夏は、また何か言ってくるだろうか。

 

 いつもの教室。いつもの休み時間。二人と話していた時間。

 そこに戻りたかった。

 

 澪と千夏に、何も言えていなかった。

 

 電話をすればいい。

 家の電話の前に立って、受話器に手を伸ばす。

 

 でも、番号を押そうとすると、指が止まった。

 

 二人に電話をしたら、きっと何か聞かれる。

 どうしたの? なんで学校に来ないの? 大丈夫?

 

 そのとき、俺は何と答えればいいんだろう。

 

 父さんと母さんが死んだ。

 

 そう言葉にしたら、二人がもう帰ってこないことを、自分で認めてしまう気がした。

 

 そんなことしたくなかった。

 

 澪にも、千夏にも会いたい。

 でも、二人の前で何も話せなくなったら。泣いて、困らせてしまったら。

 

 そう考えると、受話器を取ることさえできなかった。

 

     

 

 

「紬ちゃんのことは、私たちが引き取ります」

 

 そう申し出たのは、親戚の夫婦だった。

 

 俺は二人のことを、ほとんど知らなかった。

 

 顔を合わせた記憶も、片手で数えられるくらいしかない。

 

「それなら、ひとまず安心ですね」

 

「ええ。こちらで責任を持って面倒を見ますから」

 

 大人たちは、ほっとしたように話していた。

 

 俺は、その会話を聞いていた。

 

 引き取る。

 

 面倒を見る。

 

 これからは、この二人と一緒に住む。

 

 そういうことらしかった。

 

「紬ちゃん、よかったね」

 

 誰かが言った。

 

 俺は頷いた。

 

 よかったのかどうかは、分からなかった。

 

 ただ、そうすることが決まったなら、俺はそこへ行くしかないのだろう。

 

 澪にも、千夏にも、何も言えなかった。

 

 二人の顔を思い浮かべると、何か言わなければいけないと思う。心配しているかもしれない。突然いなくなったら、きっと不思議に思うだろう。

 

 それでも、澪と千夏に伝える勇気が出なかった。

 

     

 

 

 引っ越しの日、俺は自分の荷物をまとめていた。

 

 部屋には、父さんと母さんが使っていたものも、そのまま残っていた。

 

 母さんがよく座っていた椅子。

 父さんが読んでいた本。

 

 どれも、変わらず同じ場所にある。

 

 俺の荷物だけが、少しずつ鞄の中に収まっていった。

 

 机の引き出しを開けると、家族のアルバムが入っていた。

 

 俺はそれを取り出し、表紙を撫でた。

 

 ページを開けば、父さんと母さんが笑っている。

 その隣には、俺もいる。

 

 どこへ出かけたときの写真なのか、何をして笑っていたのか。

 見れば、いくつも思い出せる。

 

 俺はページを閉じた。

 

 置いていくことなんてできるわけない。

 

 アルバムを鞄にしまい、ファスナーを閉める。

 

「紬ちゃん、そろそろ行くわよ」

 

 廊下から声がした。

 

「……はい」

 

 俺は荷物を持って、部屋を出た。

 

 玄関で靴を履く。

 

 いつもなら、父さんが「忘れ物はないか」と聞いてくる。

 

 母さんが「気をつけてね」と言ってくれる。

 

 でも、今日は誰もいなかった。

 

 振り返っても、何も変わらない。

 

 俺は玄関を出た。

 

 後ろで、扉が閉まった。

 

 その音が、やけに大きく聞こえた。

 

 澪と千夏に、何も言わなかった。

 

 そのことが、ずっと引っかかっていた。

 

 けれど、今さら戻って電話をかけることもできなかった。

 

     

 

 

 親戚の家は、今まで暮らしていた家から遠かった。

 

 電車を乗り継いで、見慣れない駅で降りた。

 

 駅からしばらく歩いたところに、親戚の家があった。

 

 玄関で迎えてくれた養母は、俺の荷物を見て言った。

 

「これだけ?」

 

「……はい」

 

「まあ、必要なものは少しずつ揃えていけばいいわね」

 

 養母は俺の顔を見た。

 

「これからは、ここで暮らすことになるんだから。分からないことがあったら聞きなさい」

 

「……はい」

 

「ほら、いつまでも玄関に立っていないで。部屋に案内するわ」

 

 俺は靴を脱ぎ、後についていった。

 

 用意された部屋には、ベッドと机があった。

 

 荷物を置く場所もある。

 

 暮らすために必要なものは、一通り揃っているようだった。

 

「とりあえず、今日は荷物を片づけておきなさい。夕飯になったら呼ぶから」

 

「分かりました」

 

 そう答えてから、俺は荷物を床に置いた。

 

 静かな部屋だった。

 

 窓の外から、知らない家の生活音が聞こえる。

 

 ここで暮らしていくしかない。

 

 そう思った。

 

「それから」

 

 部屋を出かけていた養母が、振り返った。

 

「あなた、自分のことを『俺』って呼ぶのね」

 

「……え?」

 

 思わず、顔を上げた。

 

「いや、俺は……」

 

 口にしてから、しまったと思った。

 

 養母は、少し眉を寄せた。

 

「女の子なんだから、そういう言葉遣いはやめなさい」

 

「……でも」

 

「でも、じゃないでしょう。これからは『私』って言いなさい。分かった?」

 

 俺は、口を閉じた。

 

 どうして、そんなことまで言われなければいけないんだ。

 

 そう思った。

 

 でも、引っ越してきたばかりで、いきなり言い返すこともできなかった。

 

「……分かりました」

 

「よろしい」

 

 養母は頷き、今度こそ部屋を出ていった。

 

 俺は、閉じた扉を見つめた。

 

 自分のことを何と呼ぶかまで、変えなければいけないのか。

 

 納得できなかった。

 

 それでも、ここで暮らしていくためには、余計なことで揉めないほうがいい。

 

 そう自分に言い聞かせた。

 

 

     

 

 新しい学校にも通い始めた。

 

 知らない教室。知らない先生。知らないクラスメイト。

 

 話しかけてくれる子もいた。俺も、聞かれたことには普通に答えられた。

 

「紬ちゃんって、前はどこに住んでたの?」

 

「ちょっと遠いところ」

 

「そっか。じゃあ、こっちのことまだ分かんないよね」

 

「うん、まあ」

 

「分かんないことあったら聞いてね」

 

「ありがとう」

 

 相手が笑ったので、俺も笑い返した。

 

 それで会話は終わった。

 

 別に、話せないわけじゃない。

 

 ただ、前みたいに明るくはいられなかった。

 

 誰かと一緒に遊んでも、ふとした瞬間に、父さんと母さんのことを思い出す。

 

 澪や千夏のことも、考えない日はなかった。

 

 今ごろ、二人はどうしているだろう。

 

 俺が何も言わずにいなくなったことを、どう思っているだろう。

 

 連絡を取ればいい。

 

 そう思うことはあった。

 

 でも、何を話せばいいのか考えると、何もできなくなった。

 

 父さんと母さんが死んだこと。

 

 親戚の家に引っ越したこと。

 

 これから、今までとは違う場所で暮らすこと。

 

 どれも、簡単には口にできなかった。

 

 いつか話せるようになる。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、毎日は待ってくれなかった。

 

 授業が始まれば、ノートを取る。

 

 休み時間になれば、周りの会話を聞きながら、次の授業の準備をする。

 

 家に帰れば、養母に言われたことをする。

 

 そうやって一日を終えるだけで、精一杯だった。

 

     

 

 

 ある日の夕方、俺は学校から帰ってきて、台所を覗いた。

 

「ご飯、もうできてる?」

 

「まだよ。見れば分かるでしょう」

 

「……うん」

 

 俺は台所を出た。

 

 別の日、学校から持ち帰ったプリントを見せようとした。

 

「これ、明日までに出すんだって」

 

「それで?」

 

「……いや、別に」

 

 養母は手元の作業を続けていた。

 

「用がないなら、そこに置いておきなさい」

 

 俺はプリントを机の上に置いた。

 

 父さんと母さんなら、こういう話も聞いてくれた。

 明日までに出すのか。忘れないようにしないとね。

 そんな何でもない会話をしていた。

 

 でも、ここでは違う。

 

 話しかけても、面倒そうな顔をされる。

 質問をすれば、そんなことも分からないのかと言われる。

 

 何度か同じことがあってから、俺は養母に何かを聞く前に、少し考えるようになった。

 

 自分で分かることなら、自分でやればいい。

 話さなくてもいいことなら、話さなくていい。

 

 そうしているうちに、養母に声をかけること自体が減っていった。

 

 もう、子供みたいに何でも聞いてはいられない。

 ここでは、自分のことは自分で何とかするしかないのだと思った。

 

     

 

 

 養父は、最初から少し変わった人だった。

 

 俺が家の中を歩いていると、必要もないのについてくる。

 

「紬ちゃん、今日は学校どうだった?」

 

「……普通です」

 

「そうか。友達はできた?」

 

「少しだけ」

 

「へえ。どんな子?」

 

 ただの世間話。

 

 そう思おうとした。

 

 けれど、養父は話をしながら、妙に近くまで寄ってくる。

 

 俺が一歩離れると、何がおかしいのか、笑った。

 

「そんなに警戒しなくてもいいだろ。家族なんだから」

 

 その言い方が、嫌だった。

 

 家族。

 

 そう言われても、納得できない。

 

 父さんと母さんと俺の三人の家族に、この人たちを入れたくなかった。

 

 でも、そんなことを口に出すこともできなかった。

 

「……はい」

 

 俺はそう答えて、その場を離れた。

 

 養父は追いかけてこなかった。

 

 それだけで、ほっとした。

 

 別の日、着替えを持って部屋に戻ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。

 

「紬ちゃん、ずいぶん大人っぽくなったね」

 

 振り返ると、養父がこちらを見ていた。

 

「……そうですか?」

 

「うん。女の子は成長するのが早いからなあ」

 

 養父の視線が、俺の顔からゆっくり下へ動いた。

 

 ぞっとした。

 

「……着替えるので」

 

「そうか。じゃあ、またあとで」

 

 養父は笑っていた。

 

 俺は部屋に入り、扉を閉めた。

 

 鍵をかけようとして、手を止める。

 

 そもそも、この部屋の扉には鍵がなかった。

 

 俺はしばらく、取っ手を握ったまま立っていた。

 

 気のせいだと思いたかった。

 

 考えすぎなのだと思いたかった。

 

 けれど、養父と二人きりになるのは、嫌だった。

 

     

 

 

 養母は、俺の身の回りの最低限は整えてくれた。

 

 服が小さくなれば買い替えるし、学校で必要なものも用意してくれる。食事も作ってくれた。

 

 ただ、俺がどう感じているかを気にしているようには思えなかった。

 

 学校で変に思われてないか。近所の人に何か言われていないか。

 

 養母が気にしているのは、そういうことだった。

 

 そこに両親が俺に抱いてくれていたような愛情はなかった。

 

 ある日の夜、廊下を歩いていたときだった。

 

 居間から養母の声が聞こえて、俺は足を止めた。

 

「……それで、手続きはいつ頃になるの?」

 

 もう一人の声は、養父のものだった。

 

「ええ、分かってるわ。こっちだって、ただで引き取ったわけじゃないんだから」

 

「まあ、あの子が大きくなるまで面倒を見ることになるんだ。こっちにもそれなりのものがないとな」

 

「そうよ。あの人たちが亡くなったんだから、きちんと整理してもらわないと困るわ」

 

 あの人たち。

 

 父さんと母さんのことだろうか。

 

 俺は、息を潜めた。

 

「そもそも、あの二人は昔から勝手だったでしょう。親戚付き合いだってろくにしなかったんだから」

 

「今さらそんなことを言っても仕方ないさ」

 

「だからこそ、残されたものくらい、ちゃんとしてもらわないと」

 

 養母の声には、苛立ちが混じっていた。

 

「紬ちゃんには、ちゃんとした生活をさせてあげるつもりよ。だから、遺産ぐらい私たちのために使っていいでしょう?」

 

 俺は、そこから動けなかった。

 

 言葉の意味を、考えたくなかった。

 

 俺を引き取ったのは、俺のためじゃないのだろうか。

 

 父さんと母さんがいなくなって、俺が一人になったから。

 

 だから、ここに連れてきてくれたんじゃないのか。

 

 扱いに納得できないことがあっても、俺のために引き取ってくれたのだと思って我慢してきたのに。

 

「……何をしているの?」

 

 突然、声がした。

 

 養母が目の前に立っていた。

 

「……っ」

 

「こんなところで何をしているの?」

 

「いや、俺は……何でもない」

 

 とっさに答えてから、しまったと思った。

 

 養母の眉が、ぴくりと動いた。

 

「……今、何て言ったの?」

 

「え……」

 

「いつまでそんな話し方をしているの? 前にも言ったでしょう。自分のことは『私』って言いなさい」

 

 俺は、唇を噛んだ。

 

 そんなつもりじゃなかった。

 

 ただ、突然声をかけられて、いつものように答えてしまっただけだ。

 

「……すみません」

 

「大人の話を勝手に聞くのも感心しないわね。あなたは何も心配しなくていいの。言われたとおりにしていればいいんだから」

 

「……はい」

 

「そう。最初からそう言えばいいのよ」

 

 養母は居間へ戻っていった。

 

 俺は自分の部屋に戻った。

 

 扉を閉めて、ベッドに座る。

 

 ……俺は、何を期待していたんだろう。

 

 父さんと母さんがいなくなってから、誰かが俺を助けてくれると思っていた。

 

 今までと同じようには暮らせなくても、ここでなら、生きていけると思っていた。

 

 でも、違ったのかもしれない。

 

 ここにいても、俺は幸せに生きられない。

 

 それでも、ほかに行く場所はなかった。

 

 俺は膝を抱えた。

 

 明日も学校がある。

 

 朝になったら起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、学校へ行く。

 

 そうしていれば、一日は終わる。

 

 つらいこと、悲しいことを考えずに済む。

 

 そうやって、毎日を過ごした。

 

     

 

 

 季節が変わっていった。

 

 暑かった日が少しずつ涼しくなり、やがて寒い日が続くようになった。

 

 そのころには養母に注意されることが減っていた。

 

 自分のことを「私」と呼ぶのも、外では当たり前になっていた。

 

 うっかり「俺」と言えば、養母に注意される。

 

 誰かを通じて養母の耳に入れば、また面倒なことになるかもしれない。

 

 だったら、外では「私」と言っておけばいい。

 

 ただ、それだけのことだった。

 

 心の中では、今までどおりだった。

 

 俺は俺だ。

 

 誰に何を言われても、それは変わらない。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、身体のほうは、俺の気持ちなんてお構いなしに変わっていくらしい。

 

 いつからだっただろう。

 

 夕食を食べ終えたあとも、身体の奥が落ち着かなかった。

 

 腹は満たされている。

 それなのに、何かが足りない。

 

 何が足りないのかは分からない。

 ただ、身体の奥から何かを求める感覚が湧き上がってくる。

 

 じっとしていると、落ち着かない。

 何かを探さなければいけない。

 何かを満たさなければいけない。

 

 そんな衝動だけが、理由もなく膨らんでいった。

 

 俺は冷蔵庫を開け、残っていたおかずを口に入れた。

 

 味はする。腹も膨れていく。

 でも、違う。

 

 これじゃない。

 

 何が違うのか、自分でも分からなかった。

 

 翌日、駅前で同じくらいの年頃の男とすれ違った。

 

 その瞬間、身体の奥が、かすかに反応した。

 

 思わず足が止まり、振り返る。

 ほしい。

 

 そんな気持ちが、ほんの一瞬、頭をよぎった。

 

 俺は慌てて前を向いた。

 

 疲れて変になっただけ。

 

 そう考えて、そのまま歩き出した。

 

 養母に相談することはなかった。

 

 こんなことを話したら、また何か言われるかもしれない。

 

 だから、我慢した。

 

 腹が減っても、水を飲んだり、早めに寝たりすれば、気にならなくなる。

 

 きっと大したことじゃない。

 

 そう思うことにした。

 

     

 

 

 近所の人たちは、俺によく声をかけてくれた。

 

「紬ちゃん、学校帰り?」

 

「はい」

 

「おかえり。今日は寒いねえ」

 

「そうですね」

 

「風邪ひかないようにね。ちゃんとご飯食べてる?」

 

 そう聞かれると、少しだけ戸惑った。

 

「……はい。食べてます」

 

「ならよかった。何か困ったことがあったら、いつでも言うんだよ」

 

 その人は、俺の頭を撫でようとして、途中で手を止めた。

 

「もう、そんなことをする年でもないか」

 

 そう言って笑った。

 

「いえ、ありがとうございます」

 

 そう言って俺も、少しだけ笑った。

 

 家の外で誰かと話しているときだけは、息がしやすい気がした。

 

 ある日、買い物から帰ってくると、近所のおばさんが養母と話していた。

 

「あら、紬ちゃん。おかえり」

 

「ただいま帰りました」

 

「今日はおつかい? 偉いねえ」

 

「いえ、そんな……」

 

「本当によくできた子ね」

 

 おばさんは、そう言って笑った。

 

 養母も笑っていた。

 

「いつも気にかけてくださって、ありがとうございます。この子も、だいぶこちらの生活に慣れてきたんですよ」

 

「それならよかった。最初は大変だったでしょう?」

 

「ええ、まあ。でも、家族ですから」

 

 養母は、俺の肩に手を置いた。

 

「この子も、うちで暮らせて安心していると思いますよ」

 

 おばさんは俺の顔を見て、優しく笑った。

 

「そう。よかったね、紬ちゃん」

 

「……はい」

 

 おばさんは、少しだけ俺の顔を見つめてから、養母に視線を戻した。

 

「でも、紬ちゃん、ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べられてる?」

 

「……食べてます」

 

 そう答えると、おばさんは頷いた。

 

「そう。それならいいんだけど。何かあったら、本当に遠慮しないで言うんだよ」

 

「ありがとうございます」

 

 おばさんは笑ってくれた。

 

 けれど、帰り際にもう一度だけ、俺のほうを振り返った。

 

 何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局、何も言わなかった。

 

 おばさんが帰っていく。

 

 養母は、俺の肩から手を離した。

 

「余計な心配をかけないようにね」

 

「……はい?」

 

「近所の人たちに、変なことを言わないようにってことよ。私はちゃんとあなたの面倒を見ているんだから」

 

「……はい」

 

「それならいいの」

 

 養母は台所へ戻っていった。

 

 俺は、玄関に立ったまま、しばらくその場を動けなかった。

 

 さっきのおばさんの笑顔を思い出した。

 

 また話しかけてくれるだろうか。

 

 そう思うと、温かい気持ちになった。

 

     

 

 

 それから、さらに季節が巡った。

 

 最近、朝起きるのがつらい日が増えていた。

 

 身体が重い。

 

 寝たはずなのに疲れが取れず、布団から出るまでに時間がかかる。

 

 最初は、ずっと気を張っているせいだと思っていた。

 

 その朝も、身体のだるさを感じながら目を覚ました。

 

 寝返りを打って、布団から出ようとしたとき、下着に赤い染みがついていることに気づいた。

 

「……え?」

 

 最初は、何が起きたのか分からなかった。

 

 怪我をしたのだろうか。

 

 でも、どこも痛くない。

 

 布団をめくって確認しても、何かにぶつけた覚えはなかった。

 

 どうすればいいのか分からず、俺はしばらく染みを見つめていた。

 

 やがて、養母に聞くしかないと思った。

 

 部屋を出ると、養母は台所にいた。

 

「あの……」

 

「何?」

 

「下着に、血がついていて……」

 

 養母は一瞬だけ俺を見て、それから、ああ、と頷いた。

 

「初潮ね」

 

「……しょ、ちょう?」

 

「初めての生理のことよ。あなたもそういう年頃になったのね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

 初潮。

 

 知識としては知っていた。

 

 前世でも、そういうものがあることくらいは知っていた。女の子の身体に起きる変化。成長すれば、いつか来るもの。

 

 だから、何が起きているのかは分かった。

 

 分かってしまった。

 

「……そっか」

 

 小さく呟いた。

 

 自分の身体に、初潮が来た。

 

 その事実を理解した途端、急に何もしたくなくなった。

 

 俺はその場に立ち尽くした。

 

 どうして。

 

 どうして、俺の身体に。

 

 分かっていたはずだった。

 

 この身体が女の子のものだということも、いつかこういう日が来ることも。

 

 でも、実際に自分の身に起きると冷静ではいられない。

 

「ああ、必要なものは用意するから。使い方は分かる?」

 

「……はい」

 

「なら、今日は無理しないで、体調が悪かったら休みなさい」

 

「……分かりました」

 

 養母は必要なものを用意してくれた。

 

 それ以上、何かを言われることはなかった。

 

 俺は部屋に戻った。

 

 扉を閉めて、ベッドに座る。

 

 初潮が来た。

 

 それだけのことだ。

 

 身体が成長しているということ。そういう時期が来ただけ。

 

 頭では分かっていた。

 

 でも、気持ちはついてこなかった。

 

 俺は顔を膝に埋めた。

 

 泣きたかったのかもしれない。

 

 ただ、涙は出なかった。

 

 その日、俺はほとんど部屋から出なかった。

 

     

 

 

 初潮が来た頃から、体の違和感が増した気がする。

 

 食事をしても、すぐに何かが足りなくなる。

 

 空腹とは違う。身体の奥から、何かが足りないと訴えかけてくる。そんな奇妙な感覚だった。

 

 初潮が来たからだろうか。

 

 身体が変わる時期だからかもしれない。

 

 そう考えれば、納得できる気がした。

 

 養母に相談することはなかった。

 

 こんなことまで話したら、また何か言われるかもしれない。

 

 だから、我慢した。

 

 それに、我慢することにはこの一年で慣れた。

 

 嫌なことを言われても、黙っていれば終わる。

 

 嫌なことをされても、なるべく顔に出さなければいい。

 

 そうしていれば、一日は終わる。

 

 明日になれば、また学校に行ける。

 

 家の外では、近所の人が声をかけてくれる。

 

 だから、俺は大丈夫。

 

 俺はそう自分に言い聞かせた。

 

     

 

 

 養父の様子は、月日が経つにつれひどくなっていった。

 

 俺が部屋で過ごしていると、勝手に扉を開けて入ってくる。

 

「紬ちゃん、何してるの?」

 

「……宿題です」

 

「そう。偉いね」

 

 養父はそう言って、俺の隣に座ろうとした。

 

「……あの、狭いので」

 

「いいじゃないか。家族なんだから」

 

 俺は椅子を少し引いた。

 

 養父は笑ったまま、こちらを見ていた。

 

「最近、ずいぶんよそよそしいね」

 

「……そんなことは」

 

「そう? もっと頼ってくれていいんだよ」

 

 伸びてきた手を、俺は反射的に避けた。

 

 養父の表情が、ほんの少し変わった。

 

「……何だよ。そんなに嫌がらなくてもいいだろ」

 

「すみません」

 

 俺はすぐに謝った。

 

 謝る必要があったのかは分からない。

 

 でも、そうしなければ、もっと面倒なことになる気がした。

 

「……もう、宿題をやらないといけないので」

 

「そうか。じゃあ、またあとでね」

 

 養父は立ち上がり、部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 俺は、しばらく動けなかった。

 

 手のひらが冷たくなっていた。

 

 怖かった。

 

 何が怖いのか、考えたくなかった。

 

 ただ、この人と二人きりになりたくない。

 

 それだけは、はっきりしていた。

 

 ある日、養父が俺の髪に触れようとした。

 

「……やめてください」

 

 思わず、身体が逃げていた。

 

 養父は手を止め、俺の顔を見た。

 

「どうして? 可愛い姪っ子なんだから、これくらいいいだろう」

 

「……嫌です」

 

 言ってしまってから、息が詰まった。

 

 養父の顔から笑みが消えた。

 

「……嫌?」

 

「……すみません」

 

「謝らなくていいよ」

 

 養父は、ゆっくりと笑い直した。

 

「ただ、そんなに怖がられると傷つくなあ」

 

 その声が、気持ち悪かった。

 

 俺は何も答えず、部屋を出た。

 

 その日から、養父のいる場所を避けるようになった。

 

 廊下で顔を合わせないようにする。

 

 居間に二人きりになりそうなら、用事を思い出したふりをして部屋に戻る。

 

 夜は、なるべく早く扉を閉める。

 

 それでも、扉には鍵がなかった。

 

 養母に相談しようと思ったこともある。

 

 でも、何と言えばいいのか分からなかった。

 

 養父が気持ち悪い。

 

 近くに来られると怖い。

 

 触られたくない。

 

 そんなことを言ったら、養母は何と答えるだろう。

 

 家族なんだから、仲良くしなさい。

 

 そんなふうに言われる気がした。

 

 結局、何も言えなかった。

 

     

 

 

 近所の人たちは、相変わらず俺に声をかけてくれた。

 

 学校帰りに会えば、何気ない会話をしてくれる。

 

 たまに、お菓子をくれることもあった。

 

「紬ちゃん、これ、よかったら持っていきな」

 

「……いいんですか?」

 

「紬ちゃん、少しやせてるから。いっぱい食べてね」

 

 そう言って、笑ってくれる。

 

 俺は、お礼を言って受け取った。

 

 誰かに優しくされると、少しだけほっとした。

 

 家に帰ると、養母に注意された。

 

「よその家から、何でももらってくるものじゃないわよ」

 

「……すみません」

 

「悪いとは言っていないの。ただ、あまり人に迷惑をかけないで」

 

「……はい」

 

 養母はそう言って、俺の手からお菓子を受け取った。

 

「これは、あとで食べましょう」

 

 その言葉に、俺は頷いた。

 

 近所の人たちは、俺を気にかけてくれていた。

 

 それが分かるだけで、少し救われた気がした。

 

 でも、不満を話すことはできなかった。

 

 話したら、どうなるのだろう。

 

 養母に知られたら、また怒られるかもしれない。

 

 養父に知られたら、もっとひどいことになるかもしれない。

 

 だから、何も言わなかった。

 

 いつか、どうにかなる。

 

 そう思っていた。

 

 

     

 

 雨の降る夜だった。

 

 養母は出かけていて、家には俺と養父だけだった。

 

 俺は自分の部屋で、明日の授業の準備をしていた。

 

 そろそろ寝ようと思っていたところで、扉が開いた。

 

「紬ちゃん」

 

「……何ですか?」

 

「ちょっと話をしようと思ってね」

 

「もう遅いので、明日でもいいですか」

 

「すぐに終わるよ」

 

 養父は部屋に入ってきて、扉を閉めた。

 

 俺は、嫌な予感がした。

 

「……あの」

 

「最近、避けているだろう?」

 

「そんなことは……」

 

「嘘をつかなくていいんだよ」

 

 養父は笑っていた。

 

 いつものように、冗談を言っているみたいな顔だった。

 

 でも、目は笑っていなかった。

 

「俺は、君のことを大事に思っているんだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、背中が冷たくなった。

 

「……やめてください」

 

 声が震えた。

 

 養父は、聞こえなかったかのように近づいてきた。

 

「そんなに怖がらなくてもいいだろう」

 

「来ないでください」

 

 俺は立ち上がった。

 

 逃げようとしたけれど、養父が先に扉の前へ移動した。

 

「……どいてください」

 

「どうして? 家族なのに」

 

 また、その言葉。

 

 何度も聞かされた言葉。

 

 そのたびに、俺は黙ってきた。

 

 でも、限界だった。

 

「家族じゃない!」

 

 声が出た。

 

 自分でも驚くくらい、大きな声だった。

 

 養父の顔から笑みが消えた。

 

「……何だと?」

 

 怖かった。

 

 足が震えていた。

 

 それでも、ここから出なければいけない。

 

 そう思った。

 

「助けて……」

 

 声がかすれた。

 

 誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 父さん。

 

 母さん。

 

 澪。

 

 頭の中に、顔が浮かんだ。

 

 でも、誰もここにはいない。

 

 養父が腕を伸ばしてきた。

 

 俺は身を引いた。

 

 背中が壁にぶつかった。

 

 逃げ場がなかった。

 

「やめて!」

 

 叫んだ。

 

 養父の手が、俺の腕をつかんだ。

 

 痛かった。

 

 振りほどこうとしても、力が入らない。

 

「おとなしくしなさい」

 

 養父の声が、すぐ近くでした。

 

 もう片方の手が、俺の服をつかんだ。

 

 布が引っ張られ、襟元がずれた。

 

 床に押し倒される。

 

「いやだ、離して!」

 

 俺は必死に抵抗する。

 

 養父の顔が近づく。

 

 息がかかる。

 

 もう片方の手が、俺の口元へ伸びてきた。

 

 口を塞ごうとしているのか。

 考えるより先に、俺は顔を背けた。

 

「紬ちゃんは、ほんとうにかわいいな」

 

 逃げたい。

 

 ここから出たい。

 

 頭の中が真っ白になった。

 

「だいじょうぶ。仲良くなるためだから」

 

 そう言って、服の中に手を入れてきた。

 

 服の中で動く手が、ひどく気持ち悪かった。

 

「いやだ、やめて!」

 

 すぐ目の前にある顔を見て、俺は息を呑んだ。

 

 養父の目は、欲望に濡れていた。

 

 俺が怯えていることも、嫌がっていることも、もう目に入っていないようだった。

 

 その目を見た瞬間、ようやく分かった。

 

 この人は、最初から。

 

 俺を、家族として見ていなかった。

 

「助けて!」

 

 今度は、声が出た。

 

 喉が痛くなるほど叫んだ。

 

 けれど、養父は怯むどころか、俺の腕をつかむ力を強めた。

 

「うるさい!」

 

「いやっ、離して!」

 

 振りほどこうとしても、腕が動かない。

 

「やめて! 誰か、助けて!」

 

「おとなしくしろ」

 

 養父の手に口をふさがれた。

 

「よし、おとなしくしてれば終わるからね」

 そう言って、俺の服のボタンに手をかけ、外していく。

 

「大丈夫。安心して」

 

 怖い。

 

 嫌だ。

 

 もう、こんなところにいたくない。

 

 頭の中では何度もそう叫んでいるのに、身体は思うように動かなかった。

 

 そのとき、家の外から声が聞こえた。

 

「紬ちゃん?」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 近所のおばさんだ。

 

 俺は、助けを求めるように暴れた。

 

「くそ!」

 

「余計なことをするな!」

 

 耳元で怒鳴られ、身体が強張った。

 

「紬ちゃん? どうしたの? 大丈夫?」

 

 おばさんの声が、もう一度聞こえた。

 

 俺は必死に身体をよじった。

 

 声を出したい。

 

 ここにいると伝えたい。

 

 助けてほしい。

 

 けれど、口を押さえられて、まともに声が出せなかった。

 

 それでも、漏れた息が小さな悲鳴になった。

 

 外で、何かが動く音がした。

 

 おばさんは、しばらく家の中の様子をうかがっていた。

 

 それから、慌ただしく離れていく足音が聞こえた。

 

 助けを呼びに行ったのだろうか。

 

 そう思った瞬間、養父が俺の腕を強く引いた。

 

「お前のせいで、面倒なことになっただろうが」

 

 俺は答えられなかった。

 

 養父は俺の口元から手を離したものの、腕をつかんだままだった。

 

「いいか。誰かに何か聞かれても、何もなかったと言え。分かったな?」

 

 俺は首を振った。

 

「……嫌だ」

 

 声は震えていた。

 

「何だと?」

 

「もう、やめて……」

 

 養父の顔が歪んだ。

 

 次の瞬間、また腕を引かれた。

 

 俺は抵抗した。

 

 逃げようとした。

 

 けれど、壁に追い詰められ、足がもつれてうまく動けなかった。

 

 服をつかまれ、身体が引き寄せられる。

 

 もう一度、助けを呼ぼうと息を吸った。

 

 そのときだった。

 

 ドンドン、と玄関の扉を叩く音がした。

 

「開けてください!」

 

 おばさんの声だった。

 

 養父の動きが止まった。

 

「紬ちゃん! いるんでしょう? 返事をして!」

 

 扉を叩く音が、もう一度響いた。

 

「何なんだよ……!」

 

 養父が苛立った声を上げた。

 

 俺は、その隙に腕を引いた。

 

 けれど、養父はすぐに俺を振り返り、低い声で言った。

 

「余計なことを言うんじゃないぞ」

 

 俺は答えられなかった。

 

 玄関の向こうから、おばさんの声が聞こえる。

 

「警察には連絡しました! 中で何が起きているんですか!」

 

 警察。

 

 その言葉を聞いた瞬間、身体から力が抜けそうになった。

 

 助けが来る。

 

 そう思った。

 

 でも、すぐに来るとは限らない。

 

 おばさんも、それが分かっているのだろう。

 

「紬ちゃん! 大丈夫? 返事をして!」

 

 扉を叩く音が続いた。

 

 養父は舌打ちし、俺の腕を乱暴に離した。

 

「くそっ……!」

 

 俺は壁に手をつき、崩れそうになる身体を支えた。

 

 乱れた服を押さえようとしたけれど、指が震えて、うまく直せなかった。

 

 玄関の向こうでは、おばさんが何度も声をかけていた。

 

「紬ちゃん、そこにいるの? もう少しだからね!」

 

 養父は俺を睨みつけた。

 

「おとなしくしてろ。分かったな?」

 

 そう言い残し、部屋を出ていった。

 

 俺は壁に背中をつけたまま、動けなかった。

 

 玄関のほうから、養父の声が聞こえた。

 

「何なんですか、こんな時間に!」

 

「中から叫び声が聞こえたんです。紬ちゃんはどこですか?」

 

「ただの言い合いですよ。大げさに騒がないでください」

 

「でも、紬ちゃんの声が……」

 

「家族の問題です。あなたには関係ないでしょう!」

 

 養父の声が荒くなった。

 

 おばさんは、引き下がらなかった。

 

「警察にも連絡しました。ちゃんと確認してもらいますから」

 

「はあ? 勝手なことを!」

 

 玄関の向こうで、二人の声がぶつかり合っていた。

 

 助かるのだろうか。

 

 もう、何もされないのだろうか。

 

 まだ分からなかった。

 

 ただ、今はもう、養父と二人きりではなかった。

 

 それだけが、かすかな支えだった。

 

 二人の言い合いの声が聞こえてしばらくすると、外から別の声が聞こえた。

 

「警察です。通報があったので、確認させてください」

 

 養父が何かを言い返している。

 

 おばさんも、必死に説明しているようだった。

 

 足音が近づいてくる。

 

「お子さんはどこにいますか?」

 

「部屋にいる! 何もないって言ってるだろ!」

 

「こちらで確認します」

 

 足音が、廊下へ向かってきた。

 

 俺は、何とか声を出そうとした。

 

 けれど、喉が詰まって、声が出なかった。

 

「紬さん、いますか?」

 

 扉の向こうから、警察の人が声をかけた。

 

 返事はできなかった。

 

「紬さん。警察です。中に入りますね」

 

 やがて、扉が開いた。

 

 警察の人は、乱れた俺の服と、壁際で震えている姿を見た。

 

「……大丈夫ですか」

 

 その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れそうになった。

 

 俺のそばにしゃがみ込み、上着をかけてくれた。

 

「もう、あの人を近づけさせないから。大丈夫。もう安心していいよ」

 

 俺は、何とか頷こうとした。

 

 でも、うまく動けなかった。

 

 ここから出たい。

 

 もう、この家にはいたくない。

 

 そう思った。

 

 父さんと母さんがいた家に帰りたい。

 

 二人がいて、俺が帰れば「おかえり」と言ってくれた家に。

 

 何も考えずに、学校であったことを話せた頃に。

 

 帰りたい。

 

 帰りたいのに。

 

 どこにも帰れない。

 

「もう、いやだ」

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