TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
「だから、何度も言っているでしょう! 中で何があったんですか!」
「何もないと言っているだろう! 家の中のことに、いちいち口を出さないでくれ!」
佐伯さんは苛立たしげに声を荒らげた。私が駆けつけたとき、家の中から紬ちゃんの悲鳴が聞こえていた。何が起きたのかはわからない。ただ、あんな声を聞いたのは初めてだった。
「警察にも連絡しました。ちゃんと確認してもらいますから」
「勝手なことを!」
佐伯さんが何か言い返そうとした、そのときだった。
「警察です。通報があったのはこちらですか?」
外から声が聞こえ、振り返ると警察官が二人、こちらへ向かってきていた。
「はい、そうです! 女の子の悲鳴が聞こえて……!」
私は、聞こえた声や玄関で呼びかけても返事がなかったことを、必死に説明した。警察官たちは佐伯さんにも何か尋ねていたが、佐伯さんは「何もない」「大げさに騒いでいるだけだ」と繰り返すばかりだった。
やがて、警察官の一人が家の中へ入っていった。私もその後についていくと、廊下の奥にある部屋の前で警察官が足を止めた。
「紬さん、いますか?」
返事はなかった。
「警察です。中に入りますね」
扉が開いた。
警察官が息を呑んだ。その反応を見て、私も部屋の中へ目を向けた。
部屋の隅で、紬ちゃんが壁に背を押しつけるようにして座り込んでいた。服は乱れ、襟元を押さえるようにしている。顔は青ざめ、身体は小刻みに震えていた。
「紬ちゃん……?」
名前を呼んだものの、その先の言葉が出てこなかった。何か言わなければと思うのに、どんな言葉もひどく場違いなものに思えた。
警察官がゆっくりと近づき、自分の上着を紬ちゃんの肩に掛けた。
「もう、あの人を近づけさせないから。大丈夫。もう安心していいよ」
紬ちゃんは俯いたまま動かなかった。しばらくして、ようやく唇が開いた。
「……もう、いやだ」
かすれた声だった。同じ言葉をもう一度繰り返したあと、紬ちゃんは上着の端を握りしめた。何かを言おうとしているのか、唇が何度も動く。それでも、なかなか言葉にならなかった。
「……なんで……」
小さく息を吸う。
「なんで、こんなことに……」
答える人はいなかった。紬ちゃんは肩に掛けられた上着をぎゅっと握り、何度も首を振った。
「何も……してないのに……」
その言葉と一緒に、身体が強張った。腕を抱えるようにして身体を丸め、逃げる場所を探すように視線を揺らす。誰かが近づいてきたわけでもないのに、目の前にまだ何か恐ろしいものがあるかのように、壁際へと身を寄せていた。
「……やだ……」
声が震え、涙が頬を伝った。
「いや……やだ……」
紬ちゃんの指が上着に食い込む。何度も息を吸おうとしては、喉の奥で引っかかったように途切れる。
「こわ……かった……」
その言葉を口にした途端、また顔が歪んだ。
「気持ち悪い……っ」
自分の身体を抱きしめるように腕を回し、肩に掛けられた上着を引き寄せる。
「や……っ、やめ……」
そこまで言って、紬ちゃんは口元を押さえた。言葉にならない息が漏れる。首を振り、何かを振り払うように身体を縮めた。
「触らないで……」
誰かに向けた言葉なのか、それとも思い出した何かに反応しているのか、私にはわからなかった。ただ、その声を聞いているだけで胸が苦しくなった。
「……いやだ……もう、いや……」
紬ちゃんは俯いた。涙がぽたりと床に落ちる。しばらくそのまま動かなかったが、やがて小さく顔を上げた。
「……父さん」
その声を聞いて、胸が詰まった。
「父さん……助けて……」
紬ちゃんは、そこにいない誰かに手を伸ばすように、片手を少しだけ持ち上げた。けれど、すぐに力が抜けて膝の上へ落ちてしまう。
「母さん……母さん……」
名前を呼ぶ声が、少しずつ頼りなくなっていく。
「どこ……? 母さん……」
涙で濡れた顔を歪め、何度も二人の名前を呼ぶ。
「会いたい……父さん……母さんに、会いたい……」
もう返事が返ってこないことは、紬ちゃん自身もわかっているのだろう。それでも、声は止まらなかった。
「帰りたい……」
上着を握る手が震える。
「父さんと母さんのところに……帰りたいよ……」
「もういや……」
言葉の間に嗚咽が混じる。何かを伝えようとしているわけではない。ただ、行き場のない思いが、ばらばらの言葉になってこぼれているようだった。
「お願い……助けて……」
小さな声が漏れた。
「父さん……母さん……」
そこからは、もう止められなかった。
紬ちゃんは顔を覆い、声を上げて泣き始めた。何度も息を吸おうとしては嗚咽に遮られ、それでも途切れ途切れに両親を呼び続ける。
私は、その場から動けなかった。
何かしてあげたい。抱きしめてあげたい。大丈夫だと伝えてあげたい。そう思うのに、今のこの子に触れていいのかさえ分からなかった。
ただ、泣き声を聞いていることしかできない。
こんなに小さな子が、どうしてこんなふうに泣かなければならないのだろう。何をされたのか、詳しいことはまだ分からない。それでも、あの声を聞けば、何があったのかを問いただす必要なんてなかった。
私はそっと紬ちゃんのそばに膝をついた。
「大丈夫。ここにいるからね」
届いているかどうかは分からない。それでも、何度もそう声をかけた。
しばらくして、紬ちゃんの泣き声は少しずつ小さくなっていった。泣き疲れたのだろうか。肩にかけられた上着を握る手からも力が抜け、壁に身体を預けたまま、うつむいている。
私は、紬ちゃんが両親を亡くしていることを知っていた。こちらに引っ越してきてから、日を追うごとに元気をなくしていく姿を見て、ずっと心配していた。それなのに、何もできなかった。いや、しなかった。
そんな自分を許せそうにない。
しばらく紬ちゃんの様子を見守っていると、廊下からヒステリックな女の声が聞こえてきた。
「ちょっとどういうことです!主人を離してください!」
佐伯さんの奥さんだった。
部屋の外へ出ると、奥さんは警察官の一人と向かい合い、説明を求めていた。
「こちらのお子さんについて、確認しているところです」
「確認って……主人が何かしたとでも言うんですか?」
奥さんは紬ちゃんのいる部屋へ視線を向けた。一瞬、顔が強張ったものの、すぐに警察官へ向き直る。
「主人がそんなことをするはずありません。何かの間違いです」
「まだ、こちらで確認している段階です。まずは状況を確認させてください」
「でも、主人は……」
「ご主人のお話も伺います。今は落ち着いてください」
警察官の声は穏やかだったが、引き下がる様子はなかった。奥さんは納得していないようだったが、警察官が紬ちゃんの状態を確認していることに気づくと、口を閉じた。
「……紬ちゃん」
奥さんが名前を呼んだ。
紬ちゃんの肩が、びくりと震えた。顔は上がらない。
「あなた、何があったの?」
返事はなかった。
「ねえ、聞いているの?」
紬ちゃんは、上着を握る指に力を込めただけだった。奥さんは困ったように眉を寄せ、警察官へ視線を戻した。
「この子、さっきからずっとこうなんですか?」
「今は、かなり動揺しています。無理に話をさせないでください」
「……そうですか」
奥さんは口元を引き結んだ。心配しているのだろうか。私には、よくわからなかった。ただ、紬ちゃんの様子を見ていると、奥さんが何を考えているのかを気にする余裕すら、この子には残っていないようだった。
「主人の話も聞いてください。あの人だけが悪いと決めつけられても困ります」
「もちろん、ご主人のお話も伺います。ただ、お子さんの安全を優先する必要があります」
「安全って……うちで暮らしているんですよ? 家族なんですから」
「ご家族であっても、確認が必要な状況です」
警察官は、はっきりと告げた。
「今の状態のお子さんを、そのままご自宅に戻すことはできません。児童相談所とも連携して、今後について判断します」
奥さんは言葉に詰まった。
「そんな……」
「ご協力をお願いします」
警察官はそれ以上、奥さんの主張に付き合わなかった。紬ちゃんの様子を確認しながら、必要な対応を進めていく。その間、紬ちゃんは一度も顔を上げなかった。
奥さんが何を言っているのか、聞こえていないわけではないのだろう。けれど、反応できない。泣く力さえ残っていないような子供が、奥さんの声を聞くたびに、わずかに身体を強張らせている。
私は、その様子を見ていた。
どうか、この子がもう一度、あの家に戻されることがありませんように。
そう願わずにはいられなかった。
その後、児童相談所の職員が来た。警察官から事情を聞き、紬ちゃんの様子を確かめたうえで、今夜は一時保護することになったらしい。
紬ちゃんは職員に促されて立ち上がった。足元は覚束なく、肩にはまだ警察官の上着が掛けられていた。玄関へ向かう途中、別の警察官が声を掛ける。
「立てそうか? 大丈夫?」
その瞬間、紬ちゃんの身体がびくりと跳ねた。肩が上がり、息が止まる。さっきまで自分の足で歩いていたのに、急にその場へ縫い止められたようになった。
男性警察官もそれに気づいたらしく、すぐに距離を取った。
「ごめんね。急に声を掛けてしまったね」
紬ちゃんは答えなかった。ただ、掛けられた上着の前を両手で押さえ、俯いている。
「私が一緒に行きますね」
女性職員が、そっと間に入った。紬ちゃんの顔を覗き込むことも、無理に手を取ることもしない。
「急がなくて大丈夫。準備ができたら、一緒に行こうね」
紬ちゃんはしばらく動かなかった。やがて、ごく小さく頷く。女性職員はそれを見てから、紬ちゃんの歩幅に合わせて玄関へ向かった。
奥さんは、少し離れたところからその様子を見ていた。
「……そこまで大げさにする必要があるんでしょうか」
誰に聞かせるでもないような声だったが、女性職員には聞こえていたらしい。
「今は、本人が安心して過ごせる環境を確保することが必要です。詳しいことは、改めてお話を伺います」
穏やかな口調だったが、譲るつもりはないようだった。奥さんは不満そうに唇を結んだ。
紬ちゃんは、もう振り返らなかった。玄関を出るときも、車に乗るときも、ずっと俯いたままだった。
私は門のそばから、その背中を見送った。小さな背中に掛けられた上着が、ひどく大きく見えた。
あの子が、安心して眠れますように。
私はただ、そう祈った。
一時保護先での生活は静かだった。
職員から、ここでしばらく過ごすことになると説明された。困ったことがあれば相談していいこと、必要なものがあれば教えてほしいこと、これからのことは順番に決めていくこと。どれも、こちらを気遣っての言葉だった。
「分からないことがあったら、いつでも聞いてね」
「……はい」
職員が部屋を出ていき、扉が閉まる。しばらくその場に立っていたが、やがて用意された寝具の端に腰を下ろした。
事件の前から、父さんと母さんがいないことには慣れたつもりだった。普段は、二人のことを考えないようにして過ごしていた。思い出せば寂しくなるし、どうしたって戻ってこないことも分かっている。だから、なるべく考えないようにしていた。
けれど、今は違った。心も身体も疲れ切って、いつもなら押し込めていられることまで、勝手に頭の中へ浮かんでくる。思い出すのは楽しかったことよりも、失ったときのことや、今までにあった嫌なことばかりだった。
ここには、あの男はいない。養母もいない。もう、あの家に戻らなくていい。そう聞かされていた。
それなのに、安心できなかった。これからどうなるのか分からないし、いつまでここにいるのかも分からない。何より、父さんも母さんもいない。
両手を膝の上に置き、何も考えないようにしようと思った。でも、目を閉じると二人の顔が浮かんだ。父さんの笑った顔。母さんの声。帰ってきたときに、いつも迎えてくれた二人。
あの頃は、明日も同じように二人に会えると思っていた。何も疑わずに。それが当たり前だった。
「……父さん」
声に出してみたが、返事はない。
「……母さん」
やっぱり、返事はなかった。
俯くと、また涙がこぼれた。声を出さないように口元を押さえる。もう泣きたくなかった。今日はたくさん泣いたし、もう十分だと思った。それでも、涙は止まらなかった。
父さんに会いたい。母さんに会いたい。帰りたい。
二人がいて、帰れば「おかえり」と言ってくれた家に。
膝の上に落ちる涙を、ただ見つめていた。
その後、児童養護施設で暮らすことになった。施設へ移る前に荷物を取りに親戚の家へ戻る日が来て、職員が付き添ってくれることになった。
家の前に着くと、職員が先に玄関へ向かった。俺はその後ろを歩き、開いた扉の向こうに立つ養母を見た。
「……どうぞ」
声は平静だったが、表情は明らかに不機嫌だった。俺を見ると眉間に皺が寄る。歓迎されていないことは、すぐに分かった。
何も言わずに靴を脱ぐと、職員が養母に向かって説明した。
「荷物をまとめるだけですので、少しお邪魔します」
「……ええ。必要なものは、もうまとめてありますから」
そう言いながらも、養母は俺を見ようとしなかった。
自分の部屋だった場所へ向かうと、そこには服や学校で使っていたもの、細々とした日用品が残っていた。それらを鞄に詰めていく。手を動かしている間は、余計なことを考えずに済んだ。何を持っていくか、何を置いていくか。そんなことだけを考えていればよかった。
けれど、荷物をまとめ終えるころ、背後から声がした。
「……本当に、出ていくのね」
養母だった。
「……はい」
返事をするのに、少し間が空いた。
「そう」
短い返事のあと、沈黙が落ちた。職員は荷物の確認をするため、少し離れたところにいる。養母は俺を見ていたが、その視線には心配も寂しさもなかった。ただ、不機嫌さが滲んでいた。
「……あなたのせいで、ずいぶん面倒なことになったわ」
俺の手が止まった。
「主人も、こんなことになって……。あの人はあなたを引き取って、面倒まで見てあげていたのに」
ゆっくりと顔を上げると、養母の目は俺を責めていた。
「……あなたにも、何か原因があったんじゃないの?」
答えられなかった。
何か言わなければと思った。けれど、言葉が出てこない。そもそも、何を言えばいいのかも分からなかった。
養母は、そんな俺の様子を見て、さらに不機嫌そうに口を開いた。
「あなたがあの人をその気にさせたんじゃないの?」
指先が、かすかに震えた。
「月城の家の人間は、昔から人を誑かすのが得意だったものね」
養母は吐き捨てるように言った。
「そういう血を引いているんだもの。あんたが誘惑したに違いないわ」
瞬きをした。
母さんの旧姓を、どうして今ここで持ち出すんだろう。
何を言いたいのか、よく分からない。
それでも、母さんまで侮辱されていることだけは分かった。
唇を噛んだ。
母さんは、そんな人じゃない。父さんも、母さんも。俺を大切にしてくれた、優しい人たちだった。
それなのに。
「……母さんを、侮辱するな」
声はひどく小さかった。自分でも、ちゃんと聞こえたのか分からないほどだった。
養母が目を見開いた。
「何ですって?」
握った手が震えていた。顔を上げようとしても、うまくいかなかった。それでも、母さんのことだけは否定されたくなかった。
「俺の母さんは……そんな人じゃない」
掠れた声だった。目にはまだ涙が残っていた。養母を見ているつもりだったが、視線は何度も揺れてしまう。
養母はすぐには何も言わなかった。口を開きかけて、閉じる。何か言い返そうとしたのかもしれない。けれど、言葉は出てこなかった。
「……どうしました?」
離れたところにいた職員が、二人の様子に気づいて近づいてきた。
はっとして目を伏せた。もう、何も言えなかった。
「大丈夫ですか?」
職員が俺のそばに立つと、養母は気まずそうに視線を逸らした。
「……何でもありません」
そう答えた声は、先ほどよりも硬かった。職員は俺と養母を見比べたあと、荷物へ目を向けた。
「荷物はまとまりましたか?」
「……はい」
小さく頷いた。
「では、行きましょう」
職員が鞄を持とうとしたが、俺は首を横に振った。
「……自分で持てます」
そう言って、鞄の持ち手を握った。重かった。荷物のせいなのか、身体が弱っているせいなのか、自分でも分からなかった。
ゆっくりと歩き出す。玄関までの短い廊下が、ひどく長く感じられた。養母は何も言わず、俺ももう振り返らなかった。
靴を履き、玄関を出る。扉が閉まった。
その音を聞いても、何も感じなかった。解放された、とは思えなかった。ただ、もうあの家に戻らなくていい。それだけだった。
児童養護施設に着いたときには、疲れ切っていた。職員に案内されてこれから暮らす部屋へ向かう途中、廊下ですれ違った子供が俺をちらりと見た。俺は目を合わせないまま、職員の後ろを歩いた。
「ここが、あなたの部屋になるところだよ」
案内された部屋には寝具と棚が用意されていた。俺が鞄を床に置くと、職員は穏やかな声で言った。
「荷物を片づけるのは、ゆっくりでいいからね。分からないことがあったら、いつでも聞いて」
「……はい」
「今日は疲れたでしょう。無理をしないで、休んでね」
職員はそう言って、部屋を出ていった。
一人になると、鞄を開ける気にもなれなかった。何もする気が起きず、ただ床に座り込んだ。
ここで暮らすことになる。そう説明されたけれど、まだ何も実感が湧かなかった。
ゆっくりと横になり、天井を見つめた。知らない天井だった。父さんと母さんの家の天井ではないし、あの親戚の家の天井でもない。
ここには、二人はいない。
どこにも、いない。
目を閉じた。もう、何も考えたくなかった。
「紬、早く起きないと遅刻しちゃうよ」
「んー……あと五分」
「昨日も同じこと言ってたでしょう?」
父さんが笑った。母さんも、呆れたように笑っている。俺は布団を頭までかぶったが、母さんはそんなことなどお構いなしに声を掛けてくる。
「ほら、起きなさい。朝ご飯できてるよ」
「……はーい」
いつもの朝だった。いつもの家だった。父さんがいて、母さんがいて、俺が起きてくるのを二人が待っていた。
食卓には温かい朝ご飯が並んでいた。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
母さんが話し始めると、父さんが静かに相槌を打つ。俺はそれを聞きながらご飯を食べた。
何でもない話。何でもない朝。
学校に行けば、帰ってきたときには二人がいる。明日も、明後日も。ずっと、ずっと。そんな毎日が続いていく。
俺は笑った。
二人も笑っていた。
そこには、悲しいことなんて何もなかった。
夢だということは、分かっていた。
それでも、今はまだ。
ここにいたかった。