TS転生した俺、サキュバスらしい   作:ほんきょー

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14.戻らないもの

 施設での生活は、思っていたよりも穏やかだった。

 

 食事は毎日用意されるし、必要なものがあれば職員が気にかけてくれる。分からないことを尋ねても、面倒そうな顔をされることはなかった。

 

 親戚の家にいた頃とは違う。

 

 ここでは誰かの機嫌を窺う必要もない。何かを失敗したからといって、責められることもなかった。

 

 少なくとも、今は安心して生活できている。

 

 ただ、周りにいる子供たちとどう接すればいいのかは、まだよく分からなかった。

 

 夕食の時間、俺は食堂の隅の席で食事をしていた。

 

 目の前には、温かいご飯とおかずが並んでいる。親戚の家にいた頃と違って、食事の時間を気にする必要もない。用意されたものを、落ち着いて食べればいい。

 

 俺は水を飲み、食器を片づけようとした。

 

「ねえ、紬ちゃんって何年生?」

 

 向かいに座っていた子が、箸を置いて尋ねてきた。

 

「六年生」

 

「同じだ。学校どこ?」

 

 学校の名前を答えると、その子は少し嬉しそうに声を上げた。

 

「あ、私も同じ学校だよ」

 

「そうなんだ」

 

「うん。クラスは違うけどね」

 

 それから、その子は給食の話を始めた。好きなおかずのことや、学校であったこと。俺は相槌を打ちながら、ときどき質問に答えた。

 

 食事が終わる頃、その子が言った。

 

「また一緒に食べようね」

 

「……うん」

 

 思っていたよりも、自然に返事ができた。

 

 また誘ってくれたことが、少し嬉しかった。

 

 また話せたらいいな、と思う。

 

 でも、自分から声をかけることを考えると、途端に気持ちが重くなった。何を話せばいいのか、どう思われるのか。そんなことばかり考えてしまう。

 

 その日は、部屋に戻るとすぐに横になった。

 

     

 

 

 ある日のことだった。

 

 食堂から部屋へ戻ろうとしていたとき、廊下で男性職員に声をかけられた。

 

「紬ちゃん、ちょっといいかな」

 

「はい?」

 

「髪に何かついてるよ」

 

 そう言って、職員が俺の頭に手を伸ばした。

 

 その瞬間、身体が勝手に動いた。

 

「いやっ!」

 

 大きく身を引き、両腕で頭を庇う。

 

 職員の手が、途中で止まった。

 

「……あ、ごめん。驚かせちゃったね」

 

 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。

 

 目の前には、手を引っ込めた職員がいる。

 

 いつもの職員だった。

 

 怒っているわけでもない。無理に近づいてくるわけでもない。

 

 ただ、髪についていたものを取ろうとしただけだ。

 

「自分で取れる?」

 

「……はい」

 

 俺は髪に触れた。指先に、小さな糸くずが引っかかった。

 

 それを指先でつまんで取った。

 

「ごめんね。急に触ろうとしちゃって」

 

「……いえ」

 

 職員はそれ以上何も言わず、少し距離を取ってくれた。

 

 俺は小さく頭を下げ、その場を離れた。

 

 廊下を歩きながら、さっきのことを何度も思い返していた。

 

 何もされていない。

 

 あの人は、ただ髪についていたものを取ろうとしただけだ。

 

 分かっている。

 

 そんなことは、ちゃんと分かっているのに。

 

 どうして、あんな声を出したんだろう。

 

 どうして、あんなに怖がったんだろう。

 

 足を止めて、自分の手を見る。

 

 さっき、頭を庇った手だった。

 

 あのとき、俺は何を考えていた?

 

 身体が勝手に動いて、声が出て、気づいたときには相手を拒絶していた。

 

 まるで、あの夜、養父に襲われたときみたいに。

 

「……っ」

 

 息が詰まった。

 

 もう、あの人はいない。

 

 ここにはいない。

 

 そんなことは分かっている。あの家を出たし、もう戻ることもない。ここにいる人たちは、俺に酷いことはしないはずだ。

 

 それなのに。

 

 ほんの少し手を伸ばされただけで、あんな反応をしてしまった。

 

 自分でも信じられなかった。

 

 もう終わったことだと思っていた。少なくとも、ここに来て少しずつ普通に戻っていると思っていた。

 

 でも、違った。

 

 あの人がいなくなっても、あの夜のことは俺の中に残っている。

 

 何もされていない相手にまで、あんなふうに反応してしまう。

 

 それが、たまらなく嫌だった。

 

 誰かに見られていなかっただろうか。

 

 あの職員は、どう思っただろう。

 

 周りの子たちに知られたら、何と言われるだろう。

 

 考え始めると、頭の中がまとまらなくなった。

 

 俺はその場を離れ、部屋に戻った。

 

     

 

 

 翌日の夕食。

 

 食堂へ行くと、昨日話していた子が手を振ってきた。

 

「紬ちゃん、こっち空いてるよ」

 

「あ……うん」

 

 俺はその隣に座った。

 

「今日、学校どうだった?」

 

「普通だったよ」

 

「そっか。私ね、今日先生に怒られちゃった」

 

「何かしたの?」

 

「宿題忘れた」

 

 その子は悪びれる様子もなく笑った。

 

 俺も、つられて少し笑う。

 

 昨日のことを知っている様子はなかった。

 

 それからも、その子はいつも通り話しかけてきた。ほかの子たちも、特に変わった様子はなかった。

 

 少しだけ、ほっとした。

 

 けれど、自分から話題を出すことはできなかった。

 

 話しかけてもらえれば答えられる。誘われれば、一緒に過ごすこともできる。

 

 それでも、自分から近づくのは怖かった。

 

 また何かあったらどうしよう。

 

 何気ない言葉や動作に、変な反応をしてしまったら。

 

 せっかく話しかけてくれる子たちに、嫌な思いをさせてしまうかもしれない。この繋がりすらも失ってしまうかもしれない。

 

「紬ちゃん?」

 

「あ、ごめん。何?」

 

「いや、ぼーっとしてたから」

 

「何でもないよ」

 

 俺は笑って答えた。

 

 その子は少し不思議そうにしていたけれど、すぐに別の話を始めた。

 

 俺はそれを聞きながら、食事を続けた。

 

 目の前の子が話している間は、なるべくそちらに意識を向けることにした。

 

     

 

 

 施設での生活には、少しずつ決まったリズムができていた。

 

 朝起きて、学校へ行く。帰ってきたら食堂で食事をして、部屋で過ごす。時には誰かと話し、時には一人で過ごす。

 

 親戚の家にいた頃より、ずっと落ち着いて暮らせている。

 

 それでも、身体の奥にある違和感はなくならなかった。

 

 最初は、時折気になる程度だった。

 

 それがいつの間にか、何をしていてもふと意識に上るようになっていた。食べる量を増やしてみても、変わらない。時間が経てば少し落ち着くこともあったが、以前より長く続くようになっていた。

 

 職員に相談しようと思ったこともある。

 

 けれど、何と説明すればいいのだろう。

 

 お腹が空いているわけではないのに、何かが足りない。

 

 そんなことを言っても、困らせるだけのような気がした。

 

 そもそも、身体のことに限らず、自分のことを誰かに話すのは怖かった。

 

 相手が優しくしてくれるほど、嫌われるのが、失うのが怖くなる。

 

 せっかく話しかけてもらえるようになったのに、俺はまだ、自分から誰かに近づくことができなかった。

 

     

 

 

 

 その夜、部屋で一人になっても、身体の奥の落ち着かなさは消えなかった。

 

 ベッドに横になっても、眠れない。

 

 何かが足りない。

 

 何が足りないのかは分からない。ただ、身体の奥から何かを求める感覚が湧き上がってくる。

 

 それに、悩んでいるのは身体のことだけじゃなかった。

 

 男の人が怖い。何もされていないのに、身体が勝手に怯えてしまう。せっかく話しかけてくれる子たちとも、自分から距離を縮められない。

 

 どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 

 俺は布団を握りしめた。

 

「……もう、嫌だよ」

 

 声が震えた。

 

「もう嫌だ……こんなの、全部……」

 

 目の奥が熱くなり、頬に涙が伝った。

 

 何が一番嫌なのかも、もう分からなかった。

 

 身体のことも、あの夜のことも、人と普通に接することができない自分のことも。

 

 何もかも、もう嫌だった。

 

 誰かに助けてほしい。

 

 そう思ったとき、ふと澪の顔が浮かんだ。

 

 最後に会ったのは、いつだっただろう。

 

 今、どうしているんだろう。

 

「……みお、あいたいよ」

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