施設での生活は、思っていたよりも穏やかだった。
食事は毎日用意されるし、必要なものがあれば職員が気にかけてくれる。分からないことを尋ねても、面倒そうな顔をされることはなかった。
親戚の家にいた頃とは違う。
ここでは誰かの機嫌を窺う必要もない。何かを失敗したからといって、責められることもなかった。
少なくとも、今は安心して生活できている。
ただ、周りにいる子供たちとどう接すればいいのかは、まだよく分からなかった。
夕食の時間、俺は食堂の隅の席で食事をしていた。
目の前には、温かいご飯とおかずが並んでいる。親戚の家にいた頃と違って、食事の時間を気にする必要もない。用意されたものを、落ち着いて食べればいい。
俺は水を飲み、食器を片づけようとした。
「ねえ、紬ちゃんって何年生?」
向かいに座っていた子が、箸を置いて尋ねてきた。
「六年生」
「同じだ。学校どこ?」
学校の名前を答えると、その子は少し嬉しそうに声を上げた。
「あ、私も同じ学校だよ」
「そうなんだ」
「うん。クラスは違うけどね」
それから、その子は給食の話を始めた。好きなおかずのことや、学校であったこと。俺は相槌を打ちながら、ときどき質問に答えた。
食事が終わる頃、その子が言った。
「また一緒に食べようね」
「……うん」
思っていたよりも、自然に返事ができた。
また誘ってくれたことが、少し嬉しかった。
また話せたらいいな、と思う。
でも、自分から声をかけることを考えると、途端に気持ちが重くなった。何を話せばいいのか、どう思われるのか。そんなことばかり考えてしまう。
その日は、部屋に戻るとすぐに横になった。
ある日のことだった。
食堂から部屋へ戻ろうとしていたとき、廊下で男性職員に声をかけられた。
「紬ちゃん、ちょっといいかな」
「はい?」
「髪に何かついてるよ」
そう言って、職員が俺の頭に手を伸ばした。
その瞬間、身体が勝手に動いた。
「いやっ!」
大きく身を引き、両腕で頭を庇う。
職員の手が、途中で止まった。
「……あ、ごめん。驚かせちゃったね」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
目の前には、手を引っ込めた職員がいる。
いつもの職員だった。
怒っているわけでもない。無理に近づいてくるわけでもない。
ただ、髪についていたものを取ろうとしただけだ。
「自分で取れる?」
「……はい」
俺は髪に触れた。指先に、小さな糸くずが引っかかった。
それを指先でつまんで取った。
「ごめんね。急に触ろうとしちゃって」
「……いえ」
職員はそれ以上何も言わず、少し距離を取ってくれた。
俺は小さく頭を下げ、その場を離れた。
廊下を歩きながら、さっきのことを何度も思い返していた。
何もされていない。
あの人は、ただ髪についていたものを取ろうとしただけだ。
分かっている。
そんなことは、ちゃんと分かっているのに。
どうして、あんな声を出したんだろう。
どうして、あんなに怖がったんだろう。
足を止めて、自分の手を見る。
さっき、頭を庇った手だった。
あのとき、俺は何を考えていた?
身体が勝手に動いて、声が出て、気づいたときには相手を拒絶していた。
まるで、あの夜、養父に襲われたときみたいに。
「……っ」
息が詰まった。
もう、あの人はいない。
ここにはいない。
そんなことは分かっている。あの家を出たし、もう戻ることもない。ここにいる人たちは、俺に酷いことはしないはずだ。
それなのに。
ほんの少し手を伸ばされただけで、あんな反応をしてしまった。
自分でも信じられなかった。
もう終わったことだと思っていた。少なくとも、ここに来て少しずつ普通に戻っていると思っていた。
でも、違った。
あの人がいなくなっても、あの夜のことは俺の中に残っている。
何もされていない相手にまで、あんなふうに反応してしまう。
それが、たまらなく嫌だった。
誰かに見られていなかっただろうか。
あの職員は、どう思っただろう。
周りの子たちに知られたら、何と言われるだろう。
考え始めると、頭の中がまとまらなくなった。
俺はその場を離れ、部屋に戻った。
翌日の夕食。
食堂へ行くと、昨日話していた子が手を振ってきた。
「紬ちゃん、こっち空いてるよ」
「あ……うん」
俺はその隣に座った。
「今日、学校どうだった?」
「普通だったよ」
「そっか。私ね、今日先生に怒られちゃった」
「何かしたの?」
「宿題忘れた」
その子は悪びれる様子もなく笑った。
俺も、つられて少し笑う。
昨日のことを知っている様子はなかった。
それからも、その子はいつも通り話しかけてきた。ほかの子たちも、特に変わった様子はなかった。
少しだけ、ほっとした。
けれど、自分から話題を出すことはできなかった。
話しかけてもらえれば答えられる。誘われれば、一緒に過ごすこともできる。
それでも、自分から近づくのは怖かった。
また何かあったらどうしよう。
何気ない言葉や動作に、変な反応をしてしまったら。
せっかく話しかけてくれる子たちに、嫌な思いをさせてしまうかもしれない。この繋がりすらも失ってしまうかもしれない。
「紬ちゃん?」
「あ、ごめん。何?」
「いや、ぼーっとしてたから」
「何でもないよ」
俺は笑って答えた。
その子は少し不思議そうにしていたけれど、すぐに別の話を始めた。
俺はそれを聞きながら、食事を続けた。
目の前の子が話している間は、なるべくそちらに意識を向けることにした。
施設での生活には、少しずつ決まったリズムができていた。
朝起きて、学校へ行く。帰ってきたら食堂で食事をして、部屋で過ごす。時には誰かと話し、時には一人で過ごす。
親戚の家にいた頃より、ずっと落ち着いて暮らせている。
それでも、身体の奥にある違和感はなくならなかった。
最初は、時折気になる程度だった。
それがいつの間にか、何をしていてもふと意識に上るようになっていた。食べる量を増やしてみても、変わらない。時間が経てば少し落ち着くこともあったが、以前より長く続くようになっていた。
職員に相談しようと思ったこともある。
けれど、何と説明すればいいのだろう。
お腹が空いているわけではないのに、何かが足りない。
そんなことを言っても、困らせるだけのような気がした。
そもそも、身体のことに限らず、自分のことを誰かに話すのは怖かった。
相手が優しくしてくれるほど、嫌われるのが、失うのが怖くなる。
せっかく話しかけてもらえるようになったのに、俺はまだ、自分から誰かに近づくことができなかった。
その夜、部屋で一人になっても、身体の奥の落ち着かなさは消えなかった。
ベッドに横になっても、眠れない。
何かが足りない。
何が足りないのかは分からない。ただ、身体の奥から何かを求める感覚が湧き上がってくる。
それに、悩んでいるのは身体のことだけじゃなかった。
男の人が怖い。何もされていないのに、身体が勝手に怯えてしまう。せっかく話しかけてくれる子たちとも、自分から距離を縮められない。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
俺は布団を握りしめた。
「……もう、嫌だよ」
声が震えた。
「もう嫌だ……こんなの、全部……」
目の奥が熱くなり、頬に涙が伝った。
何が一番嫌なのかも、もう分からなかった。
身体のことも、あの夜のことも、人と普通に接することができない自分のことも。
何もかも、もう嫌だった。
誰かに助けてほしい。
そう思ったとき、ふと澪の顔が浮かんだ。
最後に会ったのは、いつだっただろう。
今、どうしているんだろう。
「……みお、あいたいよ」