TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
眠れない。
目を閉じると、澪の顔が浮かんだ。最後に会ったときの笑顔や、俺の名前を呼ぶ声、何気ない会話が次々と思い出される。そのたびに、胸が苦しくなった。
澪は、今も同じように接してくれるだろうか。最後に会ってから、もう一年になる。たった一年なのに、あの頃が遠い昔のように感じられた。
今の俺を見たら、澪はどう思うだろう。何を話せばいい。そもそも、会ってくれるのか。
考えれば考えるほど、不安だけが膨らんでいった。眠ろうとしても頭は止まらない。会いたい。でも、怖い。
嫌われたら。
変わった俺を受け入れてもらえなかったら。
会えても、何も話せなかったら。
そんなことばかり考えているうちに、窓の外が明るくなった。
ほとんど眠れないまま、俺はベッドから起き上がった。身体は重かった。それでも、澪に会いたいという気持ちは消えなかった。
今の自分を受け止めてほしい。
そばにいてほしい。
そう思える相手は、もう澪しかいなかった。
俺はふらつく足で部屋を出ると、職員のところへ向かった。
「どうしたの? 眠そうだけど」
声をかけられ、俺は少し黙ってから口を開いた。
「……あの」
「うん?」
「友達のところへ、行きたいんです」
声がかすれていた。
「友達のところに?」
「はい。会いたい人がいて……」
職員は俺の顔を見た。
「大丈夫? ちゃんと眠れた?」
「……あまり」
「何かあったの?」
「いえ……ただ、いろいろ考えてしまって」
職員はそれ以上、無理に聞こうとはしなかった。相手の家の場所、外出する時間などを確認し、施設の決まりについても説明してくれた。特に反対されることはなかった。
「ちゃんと行き先と帰る時間を教えてくれれば大丈夫だよ」
「……ありがとうございます」
許可をもらえたことに、少しだけ肩の力が抜けた。
眠れなかったせいで頭はぼんやりしていたが、澪に会えると思うと、胸の奥にわずかな明るさが戻ってきた。
それから、当日に向けて少しずつ準備を進めることになった。
澪に会いに行く日が近づいてきた。
一方で、身体の奥には、言葉にできない違和感が残っていた。
最初は、授業中に集中が途切れる程度だった。
けれど、日が経つにつれて、それは少しずつ酷くなっていった。
先生の話が頭に入ってこない。ノートを取ろうとしても、何を書けばいいのか分からなくなる。
気づけば授業が終わっていて、周りの子供たちが立ち上がる音でようやく我に返ることもあった。
夜も、まともに眠れなくなっていた。不快感が気になって、何度も寝返りを打つ。ようやく眠れたと思っても、すぐに目が覚めてしまう。
それでも、日中は何とか普段通りに振る舞おうとしていた。
けれど、もう限界が近いのかもしれない。
身体の奥で何かが膨れ上がっていくような感覚が、日に日に強くなっていた。
「紬ちゃん、どうかした?」
食堂で声をかけられ、俺は顔を上げた。
「え?」
「さっきから、ずっとぼーっとしてるから」
「ああ……ごめん。何でもないよ」
俺は笑ってごまかした。
身体のことを話せば、心配されるかもしれない。それに、どう説明すればいいのか分からなかった。
変に思われたくない。
つながりを失いたくない。
だから、何も言えなかった。
明日になれば、澪に会える。
そのことだけを考えて、身体の違和感から目をそらした。
今までのことを、少しずつ伝えたい。
不安だった。
それでも、会いたかった。
明日は、澪に会いに行ける。
そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
だから、今は寝ないと。
そう思いながら、俺は眠りについた。
「……っ!」
突然、目が覚めた。
「はぁ……っ、はぁ……」
息が荒い。
身体が熱い。
何だ。
何が起きている。
身体の奥から、強烈な感覚が突き上げてくる。
足りない
欲しい
満たしたい
頭の中に、そんな言葉が浮かんだ。
何が欲しい?
分からない。
でも、欲しい。
何かを。
何かを満たさなければ。
「……っ、くそ」
頭を抱える。
うるさい。
考えたくない。
考えたくないのに。
欲しい
満たしたい
別のことを考えようとしても、意識はすぐにそちらへ引き戻される。
明日は澪に会いに行く。
そうだ。
明日は澪に会うんだ。
だから、今は寝ないと。
早く寝ないといけないのに。
「……っ、はぁ……」
身体を起こす。
そのとき、頭に違和感を覚えた。
恐る恐る手を伸ばす。
指先に触れたのは、髪ではなかった。
硬く、滑らかなもの。
「……え?」
指で確かめると、頭の上の方から左右に何かが生えているようだった。
何だよ、これ。
慌てて部屋の明かりをつけ、鏡の前に立つ。
そこに映っていた自分を見て、息が止まった。
「……うそ」
頭には、髪の間から黒い角が二本覗いていた。小さいが、先端は鋭く尖っている。
視線を背中に移す。
そこには、コウモリのような薄い膜を持つ翼が広がっていた。
「なに、これ……」
振り返る。腰のあたりから、細長い尻尾が伸びていた。
角。
翼。
尻尾。
どれも、自分の身体にあるはずのないものだった。
どうして。
いつから。
何なんだよ、これ。
頭が追いつかない。
鏡の中の自分を見つめる。
何度見ても、そこに映っているのは俺だった。
なのに、角も、翼も、尻尾もある。
どうしてこんな姿になっているのか。
考えようとしても、答えは出てこない。
そのとき、身体の奥がまた疼いた。
欲しい
満たしたい
誰か
誰かのものを
「……っ!」
ぞっとした。
何を考えているんだ。
違う。
こんなこと、おかしい。
でも、頭の中から消えてくれない。
「なんで……」
声が漏れた。
「……どうして」
欲しい
満たしたい
このままここにいたら、誰かを傷つけてしまうかもしれない。
そう思った瞬間、怖くなった。
ここにいちゃ駄目だ。
こんな姿見られたくない。
誰にも近づきたくない。
俺は部屋を飛び出した。
廊下は静かだった。
職員も、ほかの子供たちも眠っている。
足音なんて気にしていられなかった。
早く。
ここから出ないと。
誰かに見つかる前に。
この姿を知られる前に。
俺は施設を飛び出した。
「はぁ……はぁ……」
どこへ行けばいいのかも分からない。
ただ、施設から離れなければと思った。
歩いているのか、走っているのかも曖昧だった。視界がぼやけ、足元がふらつく。何度も立ち止まりそうになったが、止まると余計に苦しくなる気がした。
欲しい
足りない
満たしたい
その考えが、頭の中にまとわりついて離れない。
もう、何を考えているのかも分からなくなっていた。
しばらくして、小さな公園にたどり着いた。
遊具のある、よくある公園だった。
俺はベンチに腰を下ろした。
「……はぁ」
少し休めば落ち着くかもしれない。
そう思って、膝の上に手を置いた。
けれど、息はなかなか整わなかった。
身体の奥から湧き上がる感覚は、少しも弱まらない。
欲しい
欲しい
足りない
どうすればいい。
どうすれば満たされる。
考えないようにしても、その言葉が頭の中に浮かんでくる。
目を閉じる。
落ち着こう。
大丈夫。
きっと、少し休めば。
そう自分に言い聞かせていたときだった。
公園の外から、足音が聞こえた。
「……っ」
反射的に顔を上げる。
人だ。
こんな姿を見られたくない。
俺は慌てて身を縮め、ベンチの陰に隠れるように身体を寄せた。
足音が近づいてくる。
怖い。
見られてしまう。
息をひそめ、ただ通り過ぎるのを待った。
足音は少しずつ近づき、やがて俺のすぐそばを通り過ぎていった。
……行った?
そう思って、少しだけ息を吐く。
けれど。
足音が止まった。
遠ざかっていくはずの足音が、聞こえなくなっていた。
そして、再びこちらへ近づいてくる。
どうして。
俺は顔を上げられなかった。
見ないでほしい。
こっちに来ないでほしい。
それなのに、足音は止まらない。
やがて、目の前に人影が差した。
男だった。
男は俺を見つめていた。
まばたきひとつせず、ただ俺を見続けている。
怖い。
逃げなければ。
そう思ったのに、身体の奥が強く反応した。
欲しい
目の前にいる男が欲しい。
そんな考えが、頭の中に浮かんだ。
「……だめ」
自分に言い聞かせる。
近づいてはいけない。
そう思っているのに、身体は動かなかった。
男が、さらに近づいてくる。
欲しい
欲しい
満たしたい
その言葉が、頭の中を埋め尽くしていった。
違う。
来ないで。
逃げなければ。
そう思ったのに、身体が動かない。
男の顔が、すぐ目の前に迫っていた。
「……っ」
俺は身を引こうとした。
けれど、その瞬間、身体が勝手に動いた。
腕が伸び、俺は目の前の男にしがみついていた。
「……あ」
何をしているのか、分からなかった。
離れなければ。
そう思っているのに、腕に力が入っていた。
男が身をよじる。
その動きに、身体が反応した。
相手を、無意識に引き留めてしまう。
違う。
やめろ。
頭ではそう思っているのに、身体は言うことを聞かなかった。
欲しい
もっと
足りない
その言葉だけが、頭の中を埋め尽くしていく。
男が動く。
それでも、離せない。
違う。
こんなの、違う。
分かっているのに、身体は止まらなかった。
あ……ぁ。
声にならない音が漏れる。
何かを言おうとしているのに、言葉が出てこない。
身体の奥にあった空白が、少しずつ埋まっていく。
その感覚だけが、確かにあった。
そして、俺は何かを飲み込む。
飢えが遠のいていく。
それでも、身体はまだ足りないと、次を求めていた。
俺は、何をした。
目の前の男が、公園の地面に倒れている。
ついさっきまで、俺はこの男にしがみついていた。どうしてこの男だったのか、どうやって近づいたのか、途中のことはよく覚えていない。
ただ、必死だった。
何かを求めて、目の前の男にしがみついていた。何を求めていたのかさえ、今となってはうまく思い出せない。
気づけば、男は動かなくなっていた。
俺は後ずさった。足がもつれて、その場に転んだ。それでも目を逸らせなかった。
助けを呼ばなければならない。
分かっている。分かっているのに、声が出なかった。
男は動かない。
このままじゃいけない。誰かを呼ばなければ。
それなのに、俺が最初にしたのは、逃げることだった。
どれくらい走ったのか分からない。
気づけば、公園からずいぶん離れた場所まで来ていた。
「はぁ……っ、はぁ……」
息が切れて、足がもつれる。
それでも、止まることができなかった。
あの男性はどうなったんだろう。
生きているだろうか。
俺は、何をしてしまったんだろう。
そのとき、口の中に妙な違和感が残っていることに気づいた。
「……っ」
舌に残る、気持ちの悪い感覚。
何かを飲み込んだ。
そう思った瞬間、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われた。
何を飲み込んだ?
思い出そうとする。
けれど、あのときのことは断片的にしか覚えていない。
ふと、俺は自分の手を見た。
指先から手のひらにかけて、白く濁った液体がべっとりと溜まっていた。指の間に粘りつくようにまとわりつき、ところどころで細い糸を引いている。
「……なに、これ」
思わず手を振る。
落ちない。
何が付いているのか、考えたくなかった。
けれど、口の中に残る感覚と、手に付いたもの。
それらが、さっきの出来事を少しずつ思い出させてくる。
俺は、何をした?
何を口にした?
「……うそ」
吐き気が込み上げる。
気持ち悪い。
嫌だ。
何これ。
何で。
自分の身体が、そんなことをした。
いや、違う。
俺がやったのか?
自分の意志で?
あのとき、俺は何を考えていた?
何をしていた?
思い出したくない。
でも、頭から離れない。
腕に残る感触。
目の前にいた男。
そして――
倒れていた。
動かなかった。
「……え?」
あの男、動かなかった。
ずっと、動かなかった。
もしかして。
死んじゃった?
そんなの。
だって、なんで。
でも、俺がやったんだ。
俺が、殺したのか?
そんな考えが頭をよぎった。
「……っ、う」
吐き気をこらえながら、俺はその場に立ち尽くした。
けれど、あのときのことが頭から離れなかった。
俺は、あの男を吐精させ、それを飲み込んだ。
あれほど苦しかった飢えが、あのときだけは遠のいていた。
そこまで考えて、頭の中にひとつの言葉が浮かんだ。
サキュバス。
物語の中に出てくる、男を誘惑し、精気を糧にするという悪魔。
まったく現実感のない言葉だった。
そんなものが、本当にいるわけがない。
まして、それが自分だなんて。
受け入れられない。
受け入れたくない。
けれど、角も翼も尻尾も、男性が引き返してきたことも、身体の奥から込み上げていた欲求も。
これまでのすべてが、その言葉に当てはまっていた。
違うと言いたかった。
でも、もう否定できなかった。
そう考えたとき、ある疑問が浮かんだ。
あの夜、養父が俺に近づいてきたのは、もしかして――。
養父のことを思い出す。
何度も嫌だと言った。
やめてと叫んだ。
それでも、養父は止まらなかった。
あのときの、養父の目。
俺が怯えていることも、嫌がっていることも、分かっていたはずなのに。
それなのに。
さっきの男性も、俺に引き寄せられていた。
だとしたら、養父も。
俺が、何かをしてしまったのだろうか。
「違う……」
そう思いたかった。
でも、頭の中では考えが止まらなかった。
あの人があんなことをしたのは、俺のせいだったのだろうか。
俺が、あの人をおかしくしてしまったから。
「……そんな」
膝から力が抜けた。
俺は、いったい何なんだろう。
こんな姿になって。
知らない人を襲って。
あんなことをされたことまで、自分のせいだったのかもしれないなんて。
「……もう、いやだ」
澪に会いに行くつもりだった。
久しぶりに会って、話をして。
今までのことを、少しずつ伝えようと思っていた。
でも。
こんな自分が、澪に会っていいのだろうか。
もし、澪にも何かしてしまったら。
もし、澪まで傷つけてしまったら。
そんなことはしたくない。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
でも、もう近づいてはいけない。
「……澪」
名前を呼んだ。
会いたい。
明日、会えるのを楽しみにしていた。
それなのに、もう会いに行けない。
窓に映る自分を見る。
そこには、角と翼と尻尾の生えた自分が映っていた。
知らない誰かみたいだった。
「……こんな化け物が、会えるわけないよ」
そう呟いて、俺はその場にうずくまった。