TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
しばらく、俺はその場でうずくまっていた。
身体の奥にあった飢えは、いつの間にか静まっていた。
あれほど苦しかったのに、今は何も感じない。
それが、ひどく気持ち悪かった。
俺は人を襲った。
自分の意思でやったわけじゃない。あのときは、何も考えられなかった。
それでも、男にしがみついて、襲ったのは俺だ。
人間なら、そんなことはしない。
頭に手を伸ばすと、指先に硬いものが触れる。
背中には翼があり、腰のあたりでは尻尾が揺れている。
目を逸らしたくても、触れればそこにある。
夢じゃない。
これが現実だ。
俺は人間じゃなかったんだ。
化け物なんだ。
この姿のまま施設に戻るわけにはいかない。
どうすればいい。
頭に手を伸ばしても、背中を確かめても、角も翼も尻尾も消えてくれない。
こんな姿を誰かに見られたら、どうなるだろう。
施設に戻れなくなるかもしれない。今までの生活も、全部失ってしまうかもしれない。
嫌だ。
それだけは嫌だった。
せっかく、また誰かと一緒に過ごせるようになったのに。
何もかも失いたくない。
消えてほしい。
こんなもの、気持ち悪い。消えて。
何度もそう願い続けていると、すっと身体にあった違和感が薄れていった。
「……消えた」
呆然と呟いた。
なんなんだよ。
本当に消えたのか。
自分の身体は、もう元に戻ったのか。
何度も頭や背中に触れる。
何もない。
それでも信じられず、スマホの画面に映った自分の姿を確かめた。角も翼も尻尾も見えない。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
けれど、声は震えていた。
元に戻ったわけじゃない。
ただ、見えなくなっただけだ。
俺が人間じゃなくなったことも、男を襲ったことも、何一つ変わっていない。
立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。
消えたはずなのに、角や翼、尻尾のあった感覚が残っている気がした。
この身体で、また誰かと顔を合わせるのか。
何もなかったように笑って、普通に話せるのか。
そんなこと、できるわけがない。
それでも、戻りたい。
俺はふらふらと施設へ向かった。
施設に戻った頃には、空が白み始めていた。
廊下に出る前に、もう一度だけ頭と背中に触れる。
何もない。
それでも足音が聞こえるたびに、身体が強張った。
誰かに見つかったらどうしよう。
角が、翼が、尻尾が、また現れたら。
息を殺し、壁際に身を寄せる。足音が遠ざかるまで動けなかった。
ようやく部屋に戻ると、扉を閉めた瞬間、力が抜けた。
ベッドに腰を下ろしても、しばらく動けない。
眠らなければと思った。
けれど、目を閉じると、消えたはずの角や翼の感触が蘇る。
男にしがみついたときのことも、頭から離れなかった。
何度も身体を確かめているうちに、空が明るくなっていった。
朝食のあと、職員に声をかけられた。
「紬ちゃん。今日、お友達のところに行く日だよね?」
俺は返事をするまでに、少し時間がかかった。
澪に会う。
その予定を思い出しただけで、胸が詰まった。
「……行きません」
「え?」
職員は一瞬、聞き間違えたような顔をした。
「どうしたの? 体調が悪い?」
「大丈夫です」
「でも、ずっと会いたいって言っていたお友達でしょう?」
「……はい」
会いたかった。
そのために、何日も前から準備をしていた。
何を話そうか、どんな顔をして会えばいいのか、ずっと考えていた。
やっと会えるはずだった。
それなのに、もう会えない。会っちゃだめだ。
「何かあったの?」
職員が俺の顔を覗き込む。
心配してくれているのが分かった。
優しくしてくれていることも。
でも、何も言えなかった。
昨夜、施設を抜け出したこと。
公園で男を襲ったこと。
自分は人間じゃなかったということ。
どれも、話せるはずがなかった。
「……すみません」
「謝らなくていいよ。無理に行かなくても大丈夫だからね」
職員はそう言って、少し考えるように俺を見た。
「もし何か困っていることがあるなら、いつでも話してね。今日はゆっくり休んでもいいから」
「……はい」
それ以上、理由を聞かれることはなかった。
俺は部屋に戻った。
澪に会いたかった。
会って、話したかった。
今までのことを聞いてほしかった。
あの頃みたいに、また一緒に過ごしたかった。
でも、もう無理だ。
もし澪の前で身体が勝手に動いたら。
もし、澪を傷つけてしまったら。
考えるだけで怖かった。
会いたい。
それなのに、会いに行くことすらできない。
こんな化け物が澪に会って良いわけない。
男はどうなったんだろう。
倒れたあと、動かなかった。
あのまま死んでしまったのだろうか。
俺はスマホを手に取り、公園の近くで何か事件が起きていないか調べた。
ニュースをいくつか開いてみたけれど、それらしい報道は見つからなかった。
男は死んでいないのかもしれない。
そう思うと、胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。
よかった。
そう思ってしまった。
なにもよくない。いいわけがない。
男が死んでいなかったとしても、俺がしたことは変わらない。
あのとき、男は苦しんでいた。
俺はそれを止められなかった。
いや、止めようとしたのかどうかさえ、もう分からない。
ただ、飢えが満たされていく感覚だけは覚えている。
思い出したくない。
スマホを伏せた。
朝になれば起きて、学校へ行く。帰ってきたら食事をして、宿題を済ませる。時間になれば風呂に入り、寝る。
毎日は決まった順番で進んでいく。
周りの人たちは、以前と変わらず俺に優しくしてくれた。
食堂で顔を合わせれば職員が声をかけてくれるし、子供たちも時々、一緒に遊ぼうと誘ってくれた。
ただ、人が近くにいると、あの夜のことを思い出してしまう。
目の前の相手をまた襲ってしまうんじゃないか。
自分の意思とは関係なく、身体が勝手に動いてしまうんじゃないか。
そんな考えが頭から離れなかった。
子供たちが近づいてくると、俺は思わず一歩下がった。
「紬ちゃん、今日も一緒に遊ばない?」
俺が返事に迷っていると、その子は手に持っていたおもちゃを見せてくれた。
「紬ちゃんも一緒にやろうよ」
楽しそうに誘ってくれる。
本当は、俺も一緒に遊びたかった。
けれど、近くに来られると、また一歩下がってしまう。
「あ……ごめんね。無理しなくていいからね」
その子は少し寂しそうに笑って、俺のそばにおもちゃを置いていった。
その背中を見送ることしかできなかった。
職員も、変わらず気にかけてくれた。
「紬ちゃん、ご飯はちゃんと食べられてる?」
「夜は眠れてるかな?」
食堂で会えば声をかけてくれるし、体調が悪そうにしていれば心配してくれる。
何かを手伝おうと近づいてくることもあった。
けれど、俺が身を引くと、職員はすぐに足を止めた。
「ごめんね。ここから話すね」
そう言って、少し離れた場所から話しかけてくれる。
誰も俺を責めなかった。
次の日も、その次の日も、みんな変わらず接してくれた。
それなのに、俺はその優しさを素直に受け取れなかった。
近づかれると怖い。
離れていかれると寂しい。
自分でもどうしたいのか分からなかった。
以前なら、子供たちが遊んでいるところに自分から近づいていけた。
何気ない話をして、一緒に笑うこともできた。
今は、それができない。
誘われても断る。話しかけられても、うまく返事ができない。
そうしているうちに、少しずつ声をかけられることが減っていった。
以前なら隣に座っていた子が、別の子のところへ行く。
遊びに誘ってくれていた子も、いつからか俺に声をかけなくなった。
職員も、必要なこと以外は無理に話しかけなくなっていった。
嫌われたわけじゃない。
みんな、俺に気を遣ってくれている。
それは分かっていた。
だから、誰かを責めることもできなかった。
本当は、また話したかった。
一緒に遊びたかった。
誰かの隣に座って、何でもない話をしたかった。
でも、もう近づいてはいけない。
誰かを傷つけてしまうかもしれない。
そんな自分が、みんなのそばにいていいはずがなかった。
だから一人でいなきゃいけない。
そんな生活を続けているうちに、身体の奥に違和感が戻ってきた。
最初は、ほんのわずかなものだった。
何となく落ち着かない。
身体の内側が、少しだけ疼く。
気のせいだと思いたかった。
けれど、日が経つにつれて、その感覚は強くなっていった。
食事をしても、満たされた感じがしない。
夜になっても身体が落ち着かず、なかなか眠れない。
何度も寝返りを打ち、布団の中で身体を丸める。
あの夜と同じだ。
違う。
公園で感じた、どうしようもない飢え。
嫌だ。そんなはずはない。
思い出したくなかった。
でも、忘れられるはずもなかった。
口の中に残った感触が、嫌でも蘇る。
「……っ」
思わず口元を押さえた。
気持ち悪い。
あんなものを飲み込んだ自分が。あんなもので飢えを満たした自分が
それなのに、あのときの充足感を身体が覚えている。
どうして。
どうして、そんなことを覚えているんだ。
また、求めるのか。
考えたくないのに、頭の中で答えが形になっていく。
男を探す。
人通りの少ない場所に行って、一人でいる相手を見つける。
そして、あのときと同じように近づいて、襲って、精液を飲む。
そうすれば、身体は満たされるのかもしれない。
前と同じように、飢えが収まるのかもしれない。
そこまで考えて、俺は息を止めた。
何を考えているんだ。
そんなことをするために、誰かを探すのか。
相手がどんな人なのかも分からない。
何も知らない人に近づいて、襲うつもりなのか。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
でも、何もしなかったらどうなる?
あの夜のように、飢えに耐えられなくなって、また身体が勝手に動き出したら。
今度こそ、相手が死んでしまうかもしれない。
だったら、飢えが限界になる前に、自分で相手を選んだ方がいいのだろうか。
そんな考えまで浮かんできた。
「……違う」
声に出して否定した。
誰かを傷つけないために、誰かを襲う。
そんなことを考えている時点で、もうおかしい。
でも、考えるのをやめられなかった。
職員に相談することも考えた。
けれど、何と説明すればいいのか分からない。
身体の奥が満たされないこと。
人を襲わなければならないかもしれないこと。
自分の意思とは関係なく、誰かを傷つけてしまうかもしれないこと。
そんなことを話したって、信じてもらえるはずがない。
気味悪がられるかもしれない。
今まで優しくしてくれた人たちに、拒絶されるかもしれない。
ここにいられなくなるかもしれない。
もう、居場所を失いたくなかった。
誰かを襲うくらいなら。
いっそ、自分なんていなくなってしまえばいいんじゃないか。
そんな考えが、頭をよぎった。
息が止まる。
嫌だ。
死にたくない。
まだ、生きていたい。
こんな身体になってしまっても、誰かを傷つけるようになってしまっても。
本当は、普通に生きていたかった。
幸せになりたい。ただそれだけなのに。
「……もう、嫌だ」
布団の中で呟いた。
身体が熱い。
喉の奥が詰まるような感覚がして、胃のあたりが気持ち悪くなった。
また、しなければならないのか。
男にしがみついた。
必死に身体を押さえつけて、精液を飲み込んだ。
あのときの感触が蘇る。
男の身体。
腕に残った感触。
口の中に広がったもの。
そして、動かなくなった男。
あれを、もう一度。
飢えを満たすために、また同じことをしなければならない。
そんなこと、したくない。
でも、身体はそれを求めている。
自分の意思とは関係なく、またあの感覚を欲しがっている。
気持ち悪い。
自分が。
この身体が。
何もかもが嫌だった。
「うっ……!」
胃の奥から何かが込み上げてきた。
慌てて起き上がり、口元を押さえる。
間に合わなかった。
俺はベッドから降り、床に膝をついた。
胃の中のものを吐き出す。
それでも、気持ち悪さは消えなかった。
これから何度も繰り返す。
それを考えただけで、身体が拒絶していた。
けれど、飢えはきっとまた戻ってくる。
そのとき、自分がどうなるのか分からない。
もう、逃げられないのかもしれない。
「……いやだ」
震える手で口元を拭う。
もう、何も考えたくなかった。