TS転生した俺、サキュバスらしい   作:ほんきょー

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17.飢えを満たすもの

 吐いたあとも、しばらく身体を起こせなかった。

 

 口の中に残る嫌な味を、水で何度も洗い流す。

 

 それでも、気持ち悪さは消えなかった。

 

 もう、あんなことはしたくない。

 

 あの夜のことを思い出すだけで、身体が拒絶する。

 

 けれど、飢えはまた戻ってくる。

 

 それだけは分かっていた。

 

 どうすればいい。

 

 男を襲う以外に、方法はないのだろうか。

 

 サキュバスは、男を誘惑して精気を糧にする悪魔。

 

 物語ではそう語られる。

 

 あの夜、俺は男の精液を飲み込んだ。

 

 その直後、あれほど苦しかった飢えが遠のいていた。

 

 なら、精液から何かを得たのだろう。

 

 サキュバスが精気を糧にするという話を考えれば、そう考えるのが自然だった。

 

 でも、精液でなければ駄目なのだろうか。

 

 男の身体から出るものなら、ほかにも何かあるんじゃないか。

 

 唾液や汗だって、そのひとつだ。

 

 もし、それらにも精気が含まれているのなら。

 

 精液を飲む必要はない。

 

 誰かを襲わなくても、身体から出たものを少し得るだけで、飢えを満たせるかもしれない。

 

 あの夜のようなことを繰り返さなくてもいい。

 

 普通の人間と同じように暮らせるかもしれない。

 

 そう考えると、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。

 

 もしかしたら、まだ別の方法があるのかもしれない。

 

 確かな根拠なんてない。

 

 それでも、何もしないまま飢えが戻るのを待つよりは、ずっとよかった。

 

 試してみよう。

 

 そう思った。

 

     * 

 

 食堂で、男性職員が使っていたコップが片付けられずに残っていた。

 

 中には、少しだけ飲み物が残っている。

 

 コップの縁に目を向けた。

 

 口をつけた跡。

 

 そこには、唾液も残っているはずだった。

 

 俺はしばらくそれを見つめていた。

 

 こんなもの試すのか。

 

 そう思う自分もいた。

 

 でも、あれ以外に他の方法があるなら、試しておきたかった。

 

 周囲に人がいないことを確かめてから、コップを手に取る。

 

 残っていた飲み物を少し口に含んだ。

 

 そのまま飲み込む。

 

 コップの縁に残った跡を見つめる。

 

 そこに口をつければ、唾液を得られるはずだった。

 

 俺は、そっとコップの縁に唇を触れさせた。

 

 身体の奥に意識を向ける。

 

 何か変化はないか。

 

 少しでも飢えが和らいでくれれば。

 

 けれど、何も起こらなかった。

 

 身体の奥にある違和感は、そのままだった。

 

 少しでも楽になるかもしれないと思ったのに、何も変わらない。

 

 小さく息を吐き、コップを元の場所に戻した。

 

 唾液では駄目だった。

 

 でも、まだ汗を試していない。

 

 それも同じように駄目だとは限らない。

 

 今度こそ、何か変化があるかもしれない。

 

 そう思いながら、俺はその場を離れた。

 

     *

 

 洗面所に入ると、洗面台の端にタオルが置かれていた。

 

 男性職員のものらしい。さっきまで外で作業をしていた人が、汗を拭くために使っていたのを覚えている。

 

 まだ、湿っていた。

 

 俺は周囲を見回した。

 

 誰もいない。

 

 タオルに手を伸ばす。湿った部分に指先を押し当てると、じわりと水分が染み出した。

 

 これで、何か変わるだろうか。

 

 指先を口に運ぶ。

 

 舌に触れた汗は、ひどく塩辛かった。

 

 飲み込んで、しばらく待つ。

 

 ……何も変わらない。

 

 身体の奥は、相変わらず空っぽのままだった。

 

 やっぱり駄目なのか。

 

 そう思いながらも、タオルから手を離せなかった。

 

 まだ、少し残っている。

 

 指先では足りなかっただけかもしれない。

 

 俺はタオルを持ち上げ、湿った部分に口をつけた。

 

 舌を這わせる。

 

 布の感触が舌に触れた。汗の味が広がる。

 

 飲み込む。

 

 変わらない。

 

 もう一度。

 

 舌先で湿った部分を探り、何度も布を舐める。

 

 それでも、身体の奥は何も応えてくれなかった。

 

 どうして。

 

 これも違うのか。

 

 もう一度、タオルに口をつけようとした。

 

 そのとき、視界の端に鏡が映った。

 

 そこに映っていたのは、タオルを顔の前に持ち上げた俺だった。

 

 頬が赤くなっている。

 

 口は半開きで、舌先が布に触れようと伸びていた。

 

 鏡の中の自分と目が合う。

 

 見慣れた顔だった。

 

 角も、翼も、尻尾もない。どこから見ても、いつもの俺だった。

 

 なのに、そこに映っている姿が、自分のものだとは思いたくなかった。

 

 気づけば、また舌先が布に触れようとしていた。

 

 やめろ。

 

 そう思っても、手はタオルを握ったままだった。

 

 もう意味がないことは分かっている。

 

 それなのに、まだ何かを期待している。

 

 あと少しだけ。

 

 もう一度だけ試せば。

 

 そんなことを考えている自分が、鏡の中にいた。

 

 ……気持ち悪い。

 

 俺はタオルを握る手を見下ろした。

 

 こんなものを舐めている。

 

 誰かが使ったタオルに口をつけて、少しでも残った汗を得ようとしている。

 

 それも、俺自身が望んで。

 

 あの夜のことが頭をよぎった。

 

 男にしがみついて、必死に何かを求めていた自分。

 

 相手が動かなくなっても、求めることをやめられなかった。

 

 今は違う。

 

 誰も傷つけていない。

 

 ただ、タオルを舐めようとしているだけだ。

 

 でも、鏡に映った自分の姿は、あの夜の自分と重なって見えた。

 

「……気持ち悪い」

 

 声が漏れた。

 

 俺はタオルを放り出した。

 

 床に落ちたそれから、慌てて目を逸らす。

 

 もう触りたくない。

 

 もう見たくない。

 

 なのに、身体の奥の飢えは何も変わっていなかった。

 

「……化け物」

 

 呟いた途端、胃の奥から何かが込み上げてきた。

 

 俺は慌てて洗面台に手をつく。

 

 吐き気をこらえながら、鏡に映る自分を見た。

 

 そこにいるのは、間違いなく俺だった。

 

 それなのに、もう自分のことが分からなかった。

 

 しばらく、その場から動けなかった。

 

 蛇口をひねり、口をすすぐ。

 

 タオルには触れないようにして、手も何度も洗った。

 

 それでも、舌に残る汗の味はなかなか消えなかった。

 

 その日はもう、何も試す気になれなかった。

 

     *

 

 それからも、飢えは少しずつ強くなっていった。

 

 食事をしても変わらない。

 

 眠ろうとしても、身体の奥が落ち着かない。

 

 汗も、唾液も、何の役にも立たなかった。

 

 他に何か方法がないか考えてみても、思いつかない。

 

 そもそも、精気というものが何なのかさえ分からない。

 

 精液に含まれているのか。

 

 それとも、精液を得る過程で何か別のものを得ているのか。

 

 俺には判断できなかった。

 

 ただ、少なくとも今まで試したものでは駄目だった。

 

 それでも、あの夜のような状態にはなっていなかった。

 

 まだ、考えることはできる。

 

 自分の意思で動ける。

 

 だからこそ、何とかしなければならないと思った。

 

 そんなある日のことだった。

 

 廊下を歩いていると、向こうから男性職員がやってきた。

 

「紬ちゃん、ちょっといいかな」

 

 呼び止められて、足を止める。

 

「この前の書類のことなんだけど――」

 

 職員が話し始めた。

 

 俺は頷きながら、その話を聞いていた。

 

 そのとき、職員の言葉が途切れた。

 

「……?」

 

 顔を上げる。

 

 職員は、こちらを見たまま動かなくなっていた。

 

 何かを考えているようにも見えない。

 

 ただ、ぼんやりと俺の方を見ている。

 

「……あの?」

 

 声をかけても、返事はなかった。

 

 どうしたんだろう。

 

 俺が一歩下がると、職員の視線もわずかに動いた。

 

 その様子に、胸の奥がざわつく。

 

 まさか。

 

 そのとき、別の職員が廊下の向こうから声をかけた。

 

「先生?」

 

「……あ」

 

 男性職員が、はっとしたように瞬きをした。

 

「どうしたんですか?」

 

「いや……ごめん。ちょっとぼうっとしてた」

 

 そう言って、職員は頭を掻いた。

 

「紬ちゃん、ごめんね。話の途中だったね」

 

「……いえ」

 

 職員は何事もなかったように話を続けた。

 

 けれど、俺はもう話の内容が頭に入ってこなかった。

 

 さっきまで、確かに俺を見ていた。

 

 声をかけても反応せず、俺が離れようとすると、その動きを目で追ってきた。

 

 あれは、ただぼんやりしていただけなのだろうか。

 

 あのとき、公園で男が引き返してきた。

 

 俺から離れようとしていたのに、また近づいてきた。

 

 あれと同じなのだろうか。

 

 俺は、何かをしてしまったのか。

 

 職員は、何も覚えていないようだった。

 

 ただ少しぼうっとしていただけだと思っている。

 

 でも、俺にはそう思えなかった。

 

 あのときの男も、こんなふうに俺を見ていたのだろうか。

 

 飢えが限界に達していたわけでもない。

 

 男を襲ったときほど、身体が苦しかったわけでもない。

 

 それなのに、俺のせいでおかしくなっていたのかもしれない。

 

 もしかしたら、もっと前からそうだったのかもしれない。

 

 気づいていなかっただけで。

 

 そう考えると、身体が冷たくなった。

 

 俺は、自分の力が誰かに影響を与えているなんて思っていなかった。

 

 でも、俺の意思とは関係なく、相手に影響を与えているのだとしたら。

 

 人の近くにいるだけでも危ないんじゃないか。

 

 また、あの夜のようなことが起きたら。

 

 今度は、誰かが死んでしまうかもしれない。

 

     *

 

 その日から、俺は以前よりも人と距離を取るようになった。

 

 誰かと話すときは、必要以上に近づかない。

 

 男性職員と二人きりになることも避けた。

 

 相手が普段通りに見えても、何も影響がないとは限らない。

 

 俺の身体は、俺が思っている以上に危険なのかもしれない。

 

 でも、ただ離れているだけでは何も解決しない。

 

 飢えは、これからも強くなっていく。

 

 汗でも、唾液でも駄目だった。

 

 他に何か方法があるのかも分からない。

 

 結局、あの夜と同じことをしなくてはいけないのだろうか。

 

 考えるだけで、吐き気がした。

 

 もう二度と、あんなことはしたくない。

 

 それでも、何もしないまま限界を迎えるわけにはいかなかった。

 

 あの夜のように、何も考えられなくなってからでは遅い。

 

 誰かを襲ってしまう前に、自分で決めなければならない。

 

 男の精液を得る。

 

 それが誰かを傷つけない方法だとは限らない。相手に何かを強いることになるかもしれない。

 

 それでも、身体に任せて誰かを襲うのではなく、自分の意思でそうする。

 

 こんなことをする自分は、もう人間とは呼べないのかもしれない。

 

 それでも、生きたい。

 

 だから俺は、決めた。

 

 男の精液を得る。

 

 それがどんなに嫌なことでも。

 

 自分を化け物だと思うことになっても。

 

 俺は、生きていたい。

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