TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
吐いたあとも、しばらく身体を起こせなかった。
口の中に残る嫌な味を、水で何度も洗い流す。
それでも、気持ち悪さは消えなかった。
もう、あんなことはしたくない。
あの夜のことを思い出すだけで、身体が拒絶する。
けれど、飢えはまた戻ってくる。
それだけは分かっていた。
どうすればいい。
男を襲う以外に、方法はないのだろうか。
サキュバスは、男を誘惑して精気を糧にする悪魔。
物語ではそう語られる。
あの夜、俺は男の精液を飲み込んだ。
その直後、あれほど苦しかった飢えが遠のいていた。
なら、精液から何かを得たのだろう。
サキュバスが精気を糧にするという話を考えれば、そう考えるのが自然だった。
でも、精液でなければ駄目なのだろうか。
男の身体から出るものなら、ほかにも何かあるんじゃないか。
唾液や汗だって、そのひとつだ。
もし、それらにも精気が含まれているのなら。
精液を飲む必要はない。
誰かを襲わなくても、身体から出たものを少し得るだけで、飢えを満たせるかもしれない。
あの夜のようなことを繰り返さなくてもいい。
普通の人間と同じように暮らせるかもしれない。
そう考えると、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。
もしかしたら、まだ別の方法があるのかもしれない。
確かな根拠なんてない。
それでも、何もしないまま飢えが戻るのを待つよりは、ずっとよかった。
試してみよう。
そう思った。
*
食堂で、男性職員が使っていたコップが片付けられずに残っていた。
中には、少しだけ飲み物が残っている。
コップの縁に目を向けた。
口をつけた跡。
そこには、唾液も残っているはずだった。
俺はしばらくそれを見つめていた。
こんなもの試すのか。
そう思う自分もいた。
でも、あれ以外に他の方法があるなら、試しておきたかった。
周囲に人がいないことを確かめてから、コップを手に取る。
残っていた飲み物を少し口に含んだ。
そのまま飲み込む。
コップの縁に残った跡を見つめる。
そこに口をつければ、唾液を得られるはずだった。
俺は、そっとコップの縁に唇を触れさせた。
身体の奥に意識を向ける。
何か変化はないか。
少しでも飢えが和らいでくれれば。
けれど、何も起こらなかった。
身体の奥にある違和感は、そのままだった。
少しでも楽になるかもしれないと思ったのに、何も変わらない。
小さく息を吐き、コップを元の場所に戻した。
唾液では駄目だった。
でも、まだ汗を試していない。
それも同じように駄目だとは限らない。
今度こそ、何か変化があるかもしれない。
そう思いながら、俺はその場を離れた。
*
洗面所に入ると、洗面台の端にタオルが置かれていた。
男性職員のものらしい。さっきまで外で作業をしていた人が、汗を拭くために使っていたのを覚えている。
まだ、湿っていた。
俺は周囲を見回した。
誰もいない。
タオルに手を伸ばす。湿った部分に指先を押し当てると、じわりと水分が染み出した。
これで、何か変わるだろうか。
指先を口に運ぶ。
舌に触れた汗は、ひどく塩辛かった。
飲み込んで、しばらく待つ。
……何も変わらない。
身体の奥は、相変わらず空っぽのままだった。
やっぱり駄目なのか。
そう思いながらも、タオルから手を離せなかった。
まだ、少し残っている。
指先では足りなかっただけかもしれない。
俺はタオルを持ち上げ、湿った部分に口をつけた。
舌を這わせる。
布の感触が舌に触れた。汗の味が広がる。
飲み込む。
変わらない。
もう一度。
舌先で湿った部分を探り、何度も布を舐める。
それでも、身体の奥は何も応えてくれなかった。
どうして。
これも違うのか。
もう一度、タオルに口をつけようとした。
そのとき、視界の端に鏡が映った。
そこに映っていたのは、タオルを顔の前に持ち上げた俺だった。
頬が赤くなっている。
口は半開きで、舌先が布に触れようと伸びていた。
鏡の中の自分と目が合う。
見慣れた顔だった。
角も、翼も、尻尾もない。どこから見ても、いつもの俺だった。
なのに、そこに映っている姿が、自分のものだとは思いたくなかった。
気づけば、また舌先が布に触れようとしていた。
やめろ。
そう思っても、手はタオルを握ったままだった。
もう意味がないことは分かっている。
それなのに、まだ何かを期待している。
あと少しだけ。
もう一度だけ試せば。
そんなことを考えている自分が、鏡の中にいた。
……気持ち悪い。
俺はタオルを握る手を見下ろした。
こんなものを舐めている。
誰かが使ったタオルに口をつけて、少しでも残った汗を得ようとしている。
それも、俺自身が望んで。
あの夜のことが頭をよぎった。
男にしがみついて、必死に何かを求めていた自分。
相手が動かなくなっても、求めることをやめられなかった。
今は違う。
誰も傷つけていない。
ただ、タオルを舐めようとしているだけだ。
でも、鏡に映った自分の姿は、あの夜の自分と重なって見えた。
「……気持ち悪い」
声が漏れた。
俺はタオルを放り出した。
床に落ちたそれから、慌てて目を逸らす。
もう触りたくない。
もう見たくない。
なのに、身体の奥の飢えは何も変わっていなかった。
「……化け物」
呟いた途端、胃の奥から何かが込み上げてきた。
俺は慌てて洗面台に手をつく。
吐き気をこらえながら、鏡に映る自分を見た。
そこにいるのは、間違いなく俺だった。
それなのに、もう自分のことが分からなかった。
しばらく、その場から動けなかった。
蛇口をひねり、口をすすぐ。
タオルには触れないようにして、手も何度も洗った。
それでも、舌に残る汗の味はなかなか消えなかった。
その日はもう、何も試す気になれなかった。
*
それからも、飢えは少しずつ強くなっていった。
食事をしても変わらない。
眠ろうとしても、身体の奥が落ち着かない。
汗も、唾液も、何の役にも立たなかった。
他に何か方法がないか考えてみても、思いつかない。
そもそも、精気というものが何なのかさえ分からない。
精液に含まれているのか。
それとも、精液を得る過程で何か別のものを得ているのか。
俺には判断できなかった。
ただ、少なくとも今まで試したものでは駄目だった。
それでも、あの夜のような状態にはなっていなかった。
まだ、考えることはできる。
自分の意思で動ける。
だからこそ、何とかしなければならないと思った。
そんなある日のことだった。
廊下を歩いていると、向こうから男性職員がやってきた。
「紬ちゃん、ちょっといいかな」
呼び止められて、足を止める。
「この前の書類のことなんだけど――」
職員が話し始めた。
俺は頷きながら、その話を聞いていた。
そのとき、職員の言葉が途切れた。
「……?」
顔を上げる。
職員は、こちらを見たまま動かなくなっていた。
何かを考えているようにも見えない。
ただ、ぼんやりと俺の方を見ている。
「……あの?」
声をかけても、返事はなかった。
どうしたんだろう。
俺が一歩下がると、職員の視線もわずかに動いた。
その様子に、胸の奥がざわつく。
まさか。
そのとき、別の職員が廊下の向こうから声をかけた。
「先生?」
「……あ」
男性職員が、はっとしたように瞬きをした。
「どうしたんですか?」
「いや……ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
そう言って、職員は頭を掻いた。
「紬ちゃん、ごめんね。話の途中だったね」
「……いえ」
職員は何事もなかったように話を続けた。
けれど、俺はもう話の内容が頭に入ってこなかった。
さっきまで、確かに俺を見ていた。
声をかけても反応せず、俺が離れようとすると、その動きを目で追ってきた。
あれは、ただぼんやりしていただけなのだろうか。
あのとき、公園で男が引き返してきた。
俺から離れようとしていたのに、また近づいてきた。
あれと同じなのだろうか。
俺は、何かをしてしまったのか。
職員は、何も覚えていないようだった。
ただ少しぼうっとしていただけだと思っている。
でも、俺にはそう思えなかった。
あのときの男も、こんなふうに俺を見ていたのだろうか。
飢えが限界に達していたわけでもない。
男を襲ったときほど、身体が苦しかったわけでもない。
それなのに、俺のせいでおかしくなっていたのかもしれない。
もしかしたら、もっと前からそうだったのかもしれない。
気づいていなかっただけで。
そう考えると、身体が冷たくなった。
俺は、自分の力が誰かに影響を与えているなんて思っていなかった。
でも、俺の意思とは関係なく、相手に影響を与えているのだとしたら。
人の近くにいるだけでも危ないんじゃないか。
また、あの夜のようなことが起きたら。
今度は、誰かが死んでしまうかもしれない。
*
その日から、俺は以前よりも人と距離を取るようになった。
誰かと話すときは、必要以上に近づかない。
男性職員と二人きりになることも避けた。
相手が普段通りに見えても、何も影響がないとは限らない。
俺の身体は、俺が思っている以上に危険なのかもしれない。
でも、ただ離れているだけでは何も解決しない。
飢えは、これからも強くなっていく。
汗でも、唾液でも駄目だった。
他に何か方法があるのかも分からない。
結局、あの夜と同じことをしなくてはいけないのだろうか。
考えるだけで、吐き気がした。
もう二度と、あんなことはしたくない。
それでも、何もしないまま限界を迎えるわけにはいかなかった。
あの夜のように、何も考えられなくなってからでは遅い。
誰かを襲ってしまう前に、自分で決めなければならない。
男の精液を得る。
それが誰かを傷つけない方法だとは限らない。相手に何かを強いることになるかもしれない。
それでも、身体に任せて誰かを襲うのではなく、自分の意思でそうする。
こんなことをする自分は、もう人間とは呼べないのかもしれない。
それでも、生きたい。
だから俺は、決めた。
男の精液を得る。
それがどんなに嫌なことでも。
自分を化け物だと思うことになっても。
俺は、生きていたい。