もう、慣れたものだった。
何をすればいいのかも、どうすればいいのかも分かっている。
相手の反応を確かめながら、必要なことを淡々とこなす。
初めての頃のように戸惑うことも、躊躇うこともなくなった。
そうしなければ生きていけないのだから、仕方がない。
そう自分に言い聞かせても、嫌悪感は消えてくれなかった。
*
自分が女になったという事実には、少しずつ慣れてきた。
最初は何をするにも戸惑ったけど、毎日過ごしていれば慣れるものらしい。服も、食事も、母さんや父さんとの暮らしも。
もちろん、今でもふとした瞬間に思い出すことはある。
それでも、今の生活は思っていたより悪くなかった。
そうやって生活していくうちに、幼稚園に通うようになった。
友達もできたし、先生から頼まれごとをされることもある。友達と一緒になってはしゃぐこともあるし、虫を見つければつい追いかけてしまう。
前の人生の記憶があるとはいえ、今の俺は子供だ。身体だって小さいし、できないことも多い。周りの子たちと遊んでいれば、案外普通に楽しんでしまう。
そんな幼稚園でのある日、園庭の隅から言い合う声が聞こえてきた。
「今、タッチしたじゃん!」
「してないわ。髪の先に少し触っただけでしょう?」
「触ったもん!」
「髪に触ったらタッチになるの? それなら、髪が長い人のほうが捕まりやすいことになるじゃない」
「そんなの知らないよ!」
「知らないなら、決めておかないと駄目でしょう?」
声を上げているのは、あまり話したことのない女の子だった。
長い髪を背中に垂らしたその子の周りには、何人かの子が集まっている。どうやら鬼ごっこの途中で揉めたらしい。
「もういいじゃん、澪ちゃん!」
「よくないわ。次からどうするのか決めないと、また同じことになるもの」
澪と呼ばれた女の子は、周りの子たちを順番に見ていた。
どうやら、まだ納得していないらしい。
「澪ちゃんって、ほんとめんどくさい」
「どうして? 私が間違っているなら、どこが間違っているのか教えてよ」
話が堂々巡りになっている。
周りの子たちは、もう鬼ごっこを続けたいのだろう。正しいかどうかより、いつまでも言い合いが終わらないことに困っているようだった。
でも、彼女の言い分も分かる。
髪に触れたらタッチになるのか。そういうルールを決めていなかったのなら、どちらの言い分も分からなくはない。
遊びなんだから多少はいいだろう、という考え方もあるけど、それなら次からルールを決めればいい。
「髪に触っただけでタッチになるか、決めてなかったんだろ? なら、今のはなしにして、次から決めればいいんじゃねえの」
気づけば、口を挟んでいた。
何人かがこっちを向く。
「でも、触ったじゃん!」
「触ったのは分かるけど、髪でもいいって決めてたわけじゃないんだろ?」
「でも、触ったのは本当だし……」
相手の子は、まだ納得していない様子だった。
「うーん……」
周りの子たちも顔を見合わせている。
「じゃあ、今回はなしにして、次から決めればいいんじゃないか?」
そう言うと、何人かが頷いた。
「……まあ、紬ちゃんがそう言うなら、いっか」
「じゃあ、次からは髪はなしね!」
「うん、それでいいよ。もう遊ぼう!」
「次はぼくが鬼ね!」
そんな声が上がり、子供たちは再び遊び始めた。
「……そういうこと」
彼女がこちらを見た。
「最初からそう言ってるのに、みんな聞いてくれないんだもの」
「まあ、どこまでがタッチなのか決まってなかったら、また揉めるしな」
「そうでしょう?」
彼女は少し嬉しそうにうなずいた。
自分の考えを分かってもらえたのが嬉しいのか、彼女の顔には小さな笑みが浮かんでいた。
俺なら、途中で話を切り上げてしまうかもしれない。そもそも、ここまで細かく考えずに遊んでいると思う。
でも、彼女は違う。
自分が正しいと思ったことを、相手に伝わるまで説明しようとする。相手が納得していないなら、どこが違うのかを知ろうとする。
それがいつも上手くいくわけじゃないことくらい、見ていれば分かる。それでも、彼女は自分の考えを簡単には引っ込めない。
俺には、そこまで真っ直ぐに考え続けることはできない気がした。
彼女はその場に残っていた。俺も、特に急いで戻る必要はなかったので、近くにいた。
「ありがとう」
「別に。俺もそう思っただけだし」
「うん」
彼女は少し考えるようにしてから、俺のほうを向いた。
「あなた、名前は?」
「高瀬紬」
「つむぎ? どんな字を書くの?」
「糸へんに、由って書く」
「ふうん……」
彼女は何かを考え始めた。
幼稚園児に漢字の説明をしても、ちゃんと伝わるかは分からない。けど、聞かれたからには答えてみた。
「紬って、糸を紡ぐことと関係あるのかな」
「さあ。どうなんだろうな」
「糸を紡いで、布を作るんでしょう?」
「たぶん」
「じゃあ、人と人をつなげるって意味もあるのかもしれないね」
思わず彼女を見た。
名前の漢字から、そんなことを考えるのか。
俺は自分の名前の意味なんて、ろくに考えたこともなかった。
「人と人をつなげるって、どういうこと?」
「糸をつなげて布を作るみたいに、人と人をつなげるの。そういう人になってほしいってことかもしれない」
彼女は自分の考えに納得したようにうなずいた。
「いい名前だね」
なんでもないことのように言われて、返事に困った。
自分の名前に、そんな意味があるかもしれないなんて考えたこともなかった。
父さんと母さんは、どんな気持ちでこの名前をつけたんだろう。
今度、聞いてみようか。
「……そうだな。いい名前かもな」
少し遅れて、そう答えた。
「私は白石澪。水が流れるところの、澪」
「へえ。どういう意味なんだ?」
「船が通る水の道のことなんだって。お母さんが教えてくれたの」
「水の道?」
「うん。船が迷わず進めるようにする道なんだって」
彼女は少し得意そうに続けた。
「私、この名前が気に入ってるの」
「そうなんだ」
「紬の名前もいいと思う。人と人をつなげるって、なんかいいでしょう?」
澪は自分の名前の意味を話すのが好きらしい。
あまりにも嬉しそうに、自信満々に名前のことを語るものだから、なんだか俺の名前にも本当にいい意味があるように思えてくる。
「まあ、悪くないな」
「でしょう?」
彼女、いや澪は満足そうにうなずいた。
少しおかしくなって、俺は笑った。
そのあと、俺たちは一緒に遊んだ。
次の日、澪は一人で図鑑を見ていた。
「何見てるんだ?」
「虫の図鑑」
「好きなの?」
「好きというか、昨日見た虫が何なのか知りたいの」
「昨日の?」
「あなたが見ていた虫よ」
そういえば、そんなこともあった。
「もう見つけたのか?」
「まだ。色と形が似ている虫がいくつかあって、どれなのか分からないの」
「へえ」
「昨日の虫、どんな色だった?」
「黒っぽかったと思う」
「黒っぽい、だけ?」
「そんな細かく覚えてねえよ」
「そう……」
澪は少し残念そうに図鑑へ目を戻した。
俺は隣からページを覗き込んだ。
「これとか、似てないか?」
「どれ?」
「これ」
澪は指の先を見て、図鑑と俺の顔を交互に見た。
「確かに似ているわね。でも、足の形が違う気がする」
「そこまで分かるのか」
「だって、ここに描いてあるもの」
澪は図鑑の絵を指でなぞった。
俺には、どれも似たような虫に見える。言われてみれば違いがあるのかもしれないが、そこまで気にしたことはなかった。
「よく見てるな」
そう言うと、澪は少しだけ顔を上げた。
「……そう?」
「うん。俺には同じに見える」
「違うわ。こっちは足が長いし、触角の形も違うもの」
澪はまた説明を始めた。
正直、全部を理解できたわけではない。
それでも、話を聞いているうちに、さっきまで同じに見えていた虫が少しずつ違って見えてきた。
こういうのは、ちょっと面白い。
自分一人だったら、虫を見つけて終わりだっただろう。名前を調べようとも思わなかった。
澪といると、自分では気に留めないことに気づかされる。
それから、俺たちは少しずつ一緒に過ごすようになった。
毎日ずっと一緒にいるわけではない。ほかの子に誘われればそちらで遊ぶし、澪も一人で図鑑を読んでいることがある。
それでも、気づけば近くにいることが増えていた。
澪は相変わらず、気になったことをそのまま口にする。
「どうしてそう思ったの?」
「なんとなく」
「なんとなくじゃ分からないわ」
「じゃあ、分かるまで考えてみれば?」
「……そうね」
澪は本当に考え始めた。
冗談のつもりだったのに。
そういうところは、少し面白いと思う。
俺が何かを話せば、澪はちゃんと聞いてくれる。分からなければ質問するし、自分と違う考えでも、すぐに否定することはない。
だから俺も、澪の話を聞く。
知らなかったことを知るのは、思っていたより楽しかった。
ある日の帰り際、澪が言った。
「明日も、虫を探す?」
「虫がいたらな」
「じゃあ、明日も一緒に探しましょう」
「いいな」
澪は満足そうにうなずき、先生のところへ戻っていった。
俺も帰り支度をしながら、明日は何をして遊ぼうかと考えた。
明日も、澪と一緒に遊ぶことになりそうだった。