TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
入学式と簡単な説明が終わり、生徒たちは解散した。
帰り支度を始める生徒や、友人同士で話し込む生徒がいる。窓際では、すでに机を寄せて昼食を広げている生徒たちもいた。教室のあちこちから話し声が聞こえ、さっきまでの緊張した空気はすっかり薄れていた。
私は鞄から弁当を取り出し、澪の方を見る。
澪もこちらに気づくと、すぐに立ち上がった。
「紬。こっちよ」
「うん」
弁当を持って澪のところへ向かう。
澪は自分の隣の椅子を引いた。
「ここに座って」
「向かいじゃなくていいの?」
「ええ。隣がいいわ」
そう言って、澪は私の手を取ると、椅子の方へ軽く引いた。
不意に手を握られ、少しだけ驚く。
昔も、こうして手を引かれることはあった。遊びに行くときや、何かを見つけたとき。澪は思い立つと、私の返事を待たずに動き出すことがあった。
その感触が懐かしくて、澪に握られた手を見つめた。
私はそのまま椅子に座った。
すると澪もすぐ隣に座り、肩が触れるほど近くに身を寄せてきた。
「……近くない?」
「そうかしら?」
「うん。結構」
「私はこのくらいがいいわ」
澪は何でもないことのように答えた。
昔も、こうして隣に座ることはあった。
けれど、今の澪はあの頃よりずっと積極的な気がする。
こちらが少し身じろぎしても、澪は離れようとしない。それどころか、私が座り直すのを待っていたかのように、自然な顔で隣に収まっていた。
「嫌だった?」
「嫌じゃないよ」
「なら、このままでいいわね」
澪は小さく笑った。
私は少し落ち着かないまま、弁当の蓋を開ける。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせた。
しばらくは箸を動かす音だけが続いた。
隣にいる澪の気配が、いつもより近くに感じられる。腕を動かすたびに、制服の袖が触れそうになる。
昔は、こうして一緒に食べるとき、話題に困ることなんてなかった気がする。
今日の出来事や、昨日見たテレビのこと。何でもない話を、途切れることなく続けていた。
今は、何を話せばいいのか考えてしまう。
話したいことがないわけではない。むしろ、聞きたいことも話したいこともたくさんあるはずだった。
ただ、久しぶりに会った澪を前にすると、どこから話せばいいのか分からなくなってしまう。
「……紬」
「なに?」
「緊張している?」
「えっ」
「さっきから、少し落ち着かないみたいだから」
「そんなことないよ」
「本当に?」
「うん」
澪は私の顔を見た。
近くから見つめられて、思わず箸を持つ手が止まる。
「私は少し緊張しているわ」
「澪が?」
「ええ。紬と何を話そうか、ずっと考えていたもの」
「そうなんだ」
「聞きたいことも、話したいこともたくさんあるの」
澪は一度箸を置き、私の方を向いた。
「まずは、紬のことを聞きたいわ」
「私?」
「私たちと会えなくなってから、どこで、どんなふうに過ごしていたのか。ずっと気になっていたの」
箸を持つ手が止まった。
澪は、私の知らない時間を知りたがっている。
当然だと思う。突然いなくなって、それから何年も会えなかったのだから。
でも、どこから話せばいいのか分からなかった。
施設に入ってからのこと。そこで出会った人たちのこと。学校でのこと。
話せることはいくつかある。けれど、その間にあった出来事を考えると、どれも簡単には口にできなかった。
「……色々あったよ」
「そう」
「施設に入って、それからはずっとそこで暮らしてる。今もね」
「今もなのね」
「うん。そこから学校に通ってるよ」
「そうだったの」
澪は私の顔を見つめていた。
何かを知ろうとするような目だった。けれど、無理に聞き出そうとしているわけではない。
「大変だった?」
「……うん。まあ」
それ以上は言えなかった。
弁当の中に視線を落とす。箸でおかずをつまんでみたものの、口に運ぶまでに少し時間がかかった。
澪は何かを尋ねようとしているようだったけれど、しばらくして視線を落とした。
「ごめんなさい。いきなり聞きすぎたわね」
「そんなことないよ」
「でも、私が知らない時間がたくさんあるのだと思うと……」
澪の声が少しだけ小さくなった。
「もっと早く、紬のことを探せていたらよかったのに」
「澪?」
「紬がいなくなったあと、しばらくしてから、ご両親が亡くなったことを知ったの」
澪は膝の上で両手を重ね、ぎゅっと握りしめていた。
「それまで、何も知らなかった。紬がどこにいるのかも、どうして会えなくなったのかも。あんなに一緒にいたのに、何も気づけなかった」
「……」
「気づいたときには、もう何もできなかったわ」
澪の表情は、いつもの落ち着いたものとは少し違っていた。
言葉を選ぶように、何度か口を開きかけては閉じる。
「今でも、ときどき考えるの。あのとき、何かできたんじゃないかって。もっと早く気づいていたら、紬に会いに行けたんじゃないかって」
「澪のせいじゃないよ……」
「分かっているわ」
澪はすぐに答えた。
「私にできることがあったとは限らない。分かっているの」
それでも、と澪は続けた。
「何も知らないまま、何もできずにいたことが、ずっと悔しかった」
「紬が大変な時にそばにいられなかったことがずっと心残りだった」
澪の指先が、私の制服の袖をつまむ。
さっきまで膝の上で重ねていた手が、いつの間にかこちらへ伸びていた。
「だから、また会えてよかった」
その声は、少し震えていた。
「本当に……よかった」
澪は目元を少し潤ませながら、私を見つめていた。嬉しそうに笑っているのに、その表情にはどこか寂しさも残っている。
私が本当にここにいることを確かめるように、澪はぎゅっと私の手を握った。
澪も、私がいなくなったことをずっと気にしていたのだ。
私と会えなくなってからも、ずっとそんなふうに思ってくれていた。
会いたいと思っていたのは、私だけじゃなかった。
それが、たまらなく嬉しかった。
だからこそ、胸の奥が痛んだ。
「……ごめんね」
「謝らないで」
「でも」
「紬が謝ることじゃないわ」
澪はそう言って、にぎった手に少し力を込めた。
「今ここにいてくれる。それだけでいいの」
その言葉に、胸の奥が苦しくなった。
私も、ずっと澪に会いたかった。
けれど、今の自分を知られたらどうなるのか。そればかり考えてしまう。
澪の隣にいることが嬉しいほど、隠しているものの存在が重くなる。
こんなにも会いたがってくれていた相手に、私は何も話せない。
「……澪は、変わったね」
「そうかしら?」
「うん。前より、素直になった気がする」
「昔の私は、そんなに素直じゃなかった?」
「どうだろう。今よりは、ちょっと意地っ張りだったかも」
「それは否定できないわね」
澪は小さく笑った。
少しだけ、いつもの空気に戻った気がした。
澪は私の手を離し、再び弁当に目を向けた。
私もようやく箸を動かした。
「そういえば、澪」
「なに?」
「入学式のとき、澪と話していた子がいたでしょう?」
「ああ、千夏のこと?」
「やっぱり千夏だったんだ」
「ええ。千夏も同じ学校よ」
「そっか。千夏もいるんだね」
あのときは、澪と再会したことに気を取られていた。
隣にいた子にも見覚えはあったけれど、誰なのか考える余裕もなかった。
「小学校の頃は三人でよく一緒にいたわね」
「うん。懐かしいな」
千夏のことは覚えている。
元気で、思ったことをすぐ口にして、何かと私たちを引っ張っていく子だった。
三人で遊んだことも、出かけたことも、今でも覚えている。
「ずっと一緒だったの?」
「ええ。クラスは何度か別になったけれど、ずっと同じ学校だったわ」
「そうなんだ」
「千夏は相変わらずよ。相変わらず元気で、少し騒がしいところもあるわね」
「ふふっ。なんとなく想像できる」
「この前も、私が考え事をしていたら急に話しかけてきたのよ」
「千夏らしいね」
「ええ。こちらが返事をするまで、ずっと隣で待っているの」
「それも千夏らしい」
澪の話を聞いていると、二人が私の知らないところで過ごしてきた時間が、少しずつ想像できた。
きっと、こうして何でもない話をして、笑って、時には一緒に出かけたりもしたのだろう。
その光景を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。
いいな、と思った。
私がいない間も、二人は一緒にいて、思い出を増やしてきたのだ。
少し羨ましかった。
私も、そこにいたかった。
そう思っても、今さらどうにもならない。二人には二人の時間があって、私には私の時間があった。
私は、会いに行こうと思えば行けたのに。
そうしなかったのは、自分なのに。
それでも、また三人で過ごせたらいいなと思った。
「また三人で話せたらいいね」
自然と口にしていた。
千夏とも、もう一度話したい。
昔のように三人で過ごせたら、きっと楽しいと思う。
「そうね。千夏も喜ぶと思うわ」
「もう私のこと、話した?」
「まだよ。紬が戻ってきたことは、私から伝えてもいいけれど」
「ううん。できれば自分で話したいかな」
「分かったわ」
澪は頷いた。
「ただ……」
「ただ?」
「千夏と会うのもいいけれど、私ともたくさん話してほしいわ」
「え?」
「紬と過ごせなかった時間の分まで、話したいことがあるの」
澪は少しだけ私の方へ身を寄せた。
「千夏にばかり時間を取られたら、困るもの」
「そんなこと言っていいの?」
「千夏なら分かってくれるわ」
澪は涼しい顔で答えた。
その言い方がおかしくて、私は小さく笑った。
「澪もそういうこと言うんだね」
「私だって、思うことくらいあるわ」
澪はそう答えたあと、ふと目を伏せた。
それまでの軽い調子とは違う。何かを言おうとして、少し迷っているようだった。
「……それに」
「うん?」
澪は一度だけ私の方を見て、また視線を落とした。
「紬にとって、一番近い人でいたいの」
その声は、先ほどまでよりも静かだった。
「昔みたいに、紬の一番でいたい」
澪は私の顔を見た。
まっすぐに向けられた視線に、返事をするのが少し遅れる。
「……欲張りかしら?」
「そんなことないよ」
「本当?」
「うん」
澪は私の返事を確かめるように、しばらくこちらを見ていた。
それから、少しだけ表情を緩める。
「よかった」
私にとっての一番は、昔から変わっていない。
千夏も大切な友達だし、また三人で過ごせたら嬉しい。
それでも、澪は特別だった。
そう伝えられたらいいのに。
今の私は、澪に隠していることがある。
何も知らない澪に、昔と同じように一番だと言ってもらうことが、少し怖かった。
澪は私のことを、昔と同じように思ってくれている。
その気持ちに応えたいと思う一方で、今の自分がそれを受け取っていいのか分からなくなる。
「紬?」
「……ううん。なんでもない」
「そう?」
澪はそれ以上聞かなかった。
昼食を食べ終える頃には、教室に残っている生徒も少なくなっていた。
周囲の話し声も、いつの間にかまばらになっている。弁当箱を片付ける音や、椅子を引く音が時折聞こえてきた。
澪が弁当箱を片付ける。
「紬」
「なに?」
「明日も、一緒に食べない?」
「明日も?」
「ええ。明日だけじゃなくて、これからも」
澪は当たり前のことのように言った。
「毎日?」
「嫌かしら?」
「嫌じゃないよ」
「なら、決まりね」
少しだけ早口だった。
「明日も、ここで待っているわ」
「うん」
「忘れないでね」
「忘れないよ」
「約束よ」
「うん。約束」
明日も一緒に食べる。
その約束が、思っていたよりも嬉しかった。
明日も澪に会える。隣に座って、何でもない話をして、一緒に笑う。
そんな日々が、これからも続いてほしい。
けれど、ずっと続くと思っていたものが、何の前触れもなく失われることを、私は知っている。
だから、今の幸せが怖かった。
澪と過ごす時間が増えれば、いつか隠していることを知られるかもしれない。
そうなったら、澪は私をどう思うだろう。
気味悪がられて、嫌われて、もう二度と今のようには笑いかけてくれなくなるかもしれない。
いつか、この時間が終わってしまうかもしれない。
それでも、今こうして澪の隣にいられることが、嬉しかった。