TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
教室に入ると、昨日よりも少しだけ賑やかになっていた。
すでに何人かの生徒が登校していて、近くの席同士で話をしている。昨日の入学式で顔を合わせたばかりなのに、もう名前を呼び合っている人たちもいた。
私は自分の席に鞄を置き、椅子を引いた。
高校生活が始まった。
そう思っても、まだ実感は薄い。
昨日は澪と再会したことで、それ以外のことをあまり考えられなかった。けれど、これからは毎日この学校に通うことになる。
澪も、千夏もいる。
少し不思議な気分だった。
授業が始まる前。
隣の席から、物音が聞こえた。
ちらりと横を見ると、隣の女の子が筆箱の中を覗き込んでいた。中身を一度取り出しては戻し、鞄の中まで確かめている。
何かを探しているようだった。
やがて、その子は困ったように机の上を見回した。
授業で使うノートは開いてある。筆箱もある。けれど、手元には消しゴムがなかった。
忘れてきたのだろうか。
先生が教室に入ってくるまで、もう時間がない。
「……どうしたの?」
小声で尋ねると、その子はびくりと肩を揺らした。
「あ、ごめんなさい。えっと……」
言いかけて、また筆箱に目を落とす。
「消しゴム?」
「うん……忘れちゃったみたいで」
申し訳なさそうに答える。
「これ、よかったら使って」
私は筆箱から予備の消しゴムを取り出し、そっと差し出した。
「えっ、いいの?」
「うん。予備だから」
「ありがとう……」
その子は少し迷ったあと、消しゴムを受け取った。
ちょうどそのとき、先生が教室に入ってきた。
それきり会話はなかったけれど、隣から聞こえていた慌ただしい物音はなくなった。
授業が終わり、休み時間になった。
私は次の授業の準備をしながら、ふと隣を見る。
その子は消しゴムを手に持ったまま、こちらを気にしているようだった。
「あの……」
「ん?」
「これ、ありがとう。助かった」
「ううん。大丈夫だよ」
「あとで返すね」
「急がなくていいよ」
そう答えると、その子は少しだけ表情を緩めた。
「私、三浦真帆っていうの。よろしくね」
「高瀬紬です。よろしくね」
「紬さんか。私は真帆って呼んでくれていいよ」
「うん。分かった」
「私も紬さんって呼んでいい?」
「もちろん」
真帆は小さく頷いた。
それから少し間を置いて、ぽつりと言った。
「隣の席でよかった」
「え?」
「消しゴム、貸してもらえたから」
そう言って、真帆は照れたように目を伏せた。
「ふふっ。忘れ物には気をつけないとね」
「うん……本当に」
今度は、少しだけ笑ってくれた。
ふと、誰かの視線を感じて顔を上げる。
少し離れた席にいる澪が、こちらをじっと見ていた。
目が合うと、澪は何事もなかったように視線を戻した。
なんだったのだろうか。
隣を見ると、真帆も澪の方を見ていた。
「あの子、友達?」
「うん。昔からの友達なんだ」
「仲がいいんだね!」
「うん。大切な友達だよ」
真帆は澪の方をちらりと見て、それから小さく笑った。
「そっか……」
真帆はそれ以上何も言わなかったけれど、どこか楽しそうな表情を浮かべていた。
*
昼休みになると、私は弁当を持って席を立った。
昨日、澪と約束したとおり、一緒に昼食を食べるためだ。
澪はすでに弁当を持って、こちらを待っていた。
「紬」
「お待たせ」
「いいえ。行きましょう」
昨日と同じように、澪の隣に座る。
弁当を広げていると、教室の入口から声がした。
「澪ー!」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
そこには、千夏が立っていた。
千夏は私を見ると、目を大きく見開いた。
「……えっ?」
「千夏?」
「紬!?」
千夏は驚いたまま、私たちのところへ歩いてくる。
「ちょっと澪! どうして教えてくれなかったの!?」
「何を?」
「紬がいること!」
勢いよく言われて、澪は少しだけ目を丸くした。
「昨日、再会したばかりだもの。伝える時間がなかったわ」
「それにしたって! 私、全然知らなかったんだけど!」
「紬が自分で話したいと言っていたから、私からは何も言わなかったわ」
「そうだったの?」
千夏が私を見る。
「うん。自分でちゃんと話したかったから」
「そっか……」
千夏は少しだけ表情を和らげた。
それから、改めて私の顔をじっと見つめる。
「本当に久しぶりだね、紬!」
「うん。久しぶり」
「元気だった?」
「まあね。千夏は?」
「私は元気だよ!」
千夏はいつもの調子で笑った。
その笑顔を見ていると、昔のことが自然と思い出される。
「ちょうどいいわ」
澪がそう言って、私の隣の席を少し引いた。
「千夏も座ったら?」
「いいの? じゃあ遠慮なく」
千夏は私たちの向かいに座り、弁当を机に置いた。
「それにしても、昨日はびっくりしたよ」
「何が?」
「澪と話してたら、急に黙っちゃうんだもん。どうしたのかと思ったら、紬を見つけてたんだね」
「ち、千夏……」
「しかも、そのまま私との話を放り出して行っちゃうし。いやー、紬がいたなら納得だなー」
「もう、そんな言い方しなくてもいいでしょう……」
澪は困ったように眉を下げた。
「だって、本当に急だったんだよ?」
「それは……」
澪は少しだけ視線を逸らした。
「紬を見つけたら、声をかけずにはいられなかったの」
「ふふっ。澪らしいね」
千夏は楽しそうに笑った。
「まさか紬が同じ学校にいるなんて思わなかったよ」
千夏が私の顔を覗き込む。
「紬、元気だった?」
「うん。元気だよ」
「そっか。ならよかった」
千夏はあっさりと頷いた。
「でも、急にいなくなっちゃったからさ。澪も結構心配してたんだよ」
「千夏」
「え、何?」
「今はそういう話をしなくてもいいでしょう」
澪が静かに口を挟んだ。
千夏は一瞬だけ澪を見て、それから私に視線を戻した。
「あー、ごめん。そうだよね。久しぶりに会ったんだし、楽しい話しようよ」
「ううん。大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん」
千夏は少しだけこちらの様子を窺っていたけれど、やがていつもの調子に戻った。
「じゃあさ、紬。高校に入って何かやりたいこととかある?」
「やりたいこと?」
「部活とか。委員会とか。高校生になったら、そういうのあるじゃん」
「まだ考えてないかな」
「そっか。私は今のところ、部活は入らないつもり」
「千夏は入らないの?」
「うん。中学のときも入ってなかったし。放課後は自由に過ごしたいんだよね」
「千夏らしいわね」
「それどういう意味?」
「そのままの意味よ」
「絶対なんか含みがあるでしょ」
二人のやり取りを聞いて、思わず笑ってしまった。
昔と変わらない。
千夏が何か言って、澪が落ち着いた調子で返す。千夏がそれに反応して、また言葉を返す。
そんな二人を見ていると、私もその中にいた頃のことを思い出した。
「そういえばさ」
千夏が、ふと思い出したようにこちらを見た。
「紬って、前は俺って言ってなかった?」
箸を持つ手が止まった。
「え?」
「今、私って言ってたからさ。ちょっと気になったんだよね」
千夏は特に深く考えていない様子で、首を傾げている。
「いつからだろう……。気づいたら、こっちの方が自然になってたかな」
「へえ。なんか不思議だね」
千夏はそう言って笑った。
「でも、久しぶりに会ったら雰囲気も変わった気がする。最初は本当に紬なのか、ちょっと自信なかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。でも、話してみたらやっぱり紬だなって思った」
千夏は懐かしそうに笑った。
「そうだ。今日、帰り一緒に帰らない?」
「いいの?」
「もちろん! せっかくまた会えたんだし」
「うん。私も一緒に帰りたい」
「じゃあ決まり! 紬って今、どの辺に住んでるの?」
「施設だよ。そこから学校に通ってる」
「施設? あれ、親戚の家に引き取られたんじゃなかったっけ?」
「……うん。最初はそうだったよ」
「じゃあ、今は違うところに住んでるんだ?」
「うん……」
「どうして?」
千夏の何気ない質問に、言葉が詰まった。
親戚の家で過ごした時間が、頭に浮かぶ。
あの家でのことは、今でも思い出したくない。
「……ちょっと、色々あって」
「あ……」
千夏の表情が変わった。
「ごめん。聞いちゃまずかった?」
「千夏」
澪が静かに口を挟んだ。
「その話は、もういいでしょう」
「あっ……ごめん、紬。そんなつもりじゃなかったんだ」
「ううん。大丈夫だよ」
そう答えたけれど、自分でも分かるくらい声が硬くなっていた。
千夏は申し訳なさそうに私を見ていた。
悪気がなかったことは分かっている。
ただ、あの頃のことを思い出すと、どうしても落ち着かない気持ちになった。
千夏は少し間を置くと、気持ちを切り替えるように明るい声で言った。
「紬の中学の話も聞きたいな」
「中学?」
「うん。私たちが知らない間、どんなふうに過ごしてたのかなって」
「そんなに面白い話はないと思うけど」
「それでも聞きたいよ」
「ええ。私も聞きたいわ」
澪はすぐに頷いた。
「紬がどんな毎日を送っていたのか、もっと知りたいもの」
「二人とも、そんなに気になる?」
「もちろん!」
「ええ。紬のことなら、何でも知りたいもの」
澪はそう言うと、私の手にそっと自分の手を重ねた。
「……澪?」
「だって、離れていた時間が長かったでしょう。これからは、知らなかったことを少しずつ教えてほしいの」
まっすぐに見つめられて、胸の奥がくすぐったくなる。
「私も聞きたいこと、いっぱいあるんだからね!」
千夏が身を乗り出す。
「もちろん、千夏にも話すよ」
「やった!」
「でも、私が先に聞くわ」
「えー! そこは譲ってよ!」
「嫌よ」
澪は私の手を握ったまま、少しだけ笑った。
「紬とゆっくり話せる時間は、私にとって大切なの」
「もう、澪ったら」
千夏は呆れたように言いながらも、楽しそうだった。
「二人とも、そんなに急がなくても、これから話す時間はたくさんあるよ」
「そうね。だからこそ、楽しみにしているわ」
澪はそう答えると、重ねていた手を離さなかった。
その様子に、千夏がにやりと笑う。
「澪って、紬のことになると結構積極的だよね」
「そうかしら?」
「そうだよ。さっきからずっと紬の隣を確保してるし」
「だって、紬の隣は私の席でしょう?」
澪は何でもないことのように言った。
「えっ、そうなの?」
「ええ。昨日も一緒に食べる約束をしたもの」
「それはそうだけどさー」
千夏が私を見る。
「紬、澪に独占されて大変だね」
「ふふっ。私は嬉しいよ」
そう答えると、澪が少しだけ目を見開いた。
それから、嬉しそうに目を細める。
「……なら、よかったわ」
澪の手に、ほんの少し力がこもった。
その感触が、なんだか嬉しかった。
「じゃあ、次は私が質問するね!」
「ええ。私も負けないわ」
千夏と澪が顔を見合わせる。
その様子がおかしくて、また笑ってしまった。
こうして三人で話していると、昔に戻ったような気がする。
もちろん、何もかもが同じではない。
私たちは成長したし、知らない時間も過ごしてきた。
それでも、こうして一緒に笑えることが嬉しかった。
「そうだ、今度三人でどこか行かない?」
千夏が箸を動かしながら言った。
「いいわね」
「紬もどう?」
「うん。行きたい」
「じゃあ決まり。まだ入学したばっかりだし、休みの日にでもさ」
「どこに行くかは、また考えましょう」
「そうだね。紬も行きたいところあったら教えてよ」
「分かった」
具体的な予定は決まらなかったけれど、それで十分だった。
また三人で出かけられる。
その約束ができただけで、少し先の楽しみができた気がした。
*
昼休みが終わり、午後の授業が始まった。
席に戻ると、隣の真帆がこちらを見た。
「あの、紬さん」
「どうしたの?」
「お昼、一緒に食べていた人たちって、昔からのお友達?」
「うん。小学校の頃の友達だよ。高校で再会したの」
「そうなんだ」
真帆は少しだけ目を輝かせた。
「二人とも、紬さんと話しているとき、すごく楽しそうだったね」
「そうかな?」
「うん。特に白石さん。紬さんのこと、ずっと見てた気がする」
「澪は昔からあんな感じだよ」
「昔から?」
「うん。私のことをよく気にかけてくれるんだ」
「へえ……」
真帆は何かを想像するように、少しだけ頬を緩めた。
「……もしかして、二人って付き合ってるの?」
「えっ!?」
思わず声が出た。
「違う違う、付き合ってないよ!」
「あっ、え、ごめんね。違うんだ?」
「う、うん。昔からの友達だよ」
「そっか……」
真帆は少し残念そうに呟いたあと、慌てて首を振った。
「ごめんね。変なこと言って……」
「でもなんだか、いいね」
「何が?」
「そういう関係」
「そういう関係?」
「うん。昔から仲がよくて、久しぶりに会ってもあんなに嬉しそう」
「そんなに?」
「うん。白石さん、紬さんの隣に座ってからずっと嬉しそうだったし」
「……そうかな」
「それに、紬さんが笑うと、白石さんも嬉しそうにしてたよ」
そう言われて、昨日の澪との会話を思い出す。
――紬にとって、一番近い人でいたいの。
あのときの澪の表情が、頭に浮かんだ。
「……澪は、私のことを大切にしてくれてるから」
「ふふっ。そうなんだ」
真帆はなぜか嬉しそうに笑った。
「なんだか、もっと見ていたくなっちゃうね」
「えっと……?」
「あっ、ごめんね。変なこと言っちゃった」
真帆は少し慌てた様子で前を向いた。
それきり何も言わなかった。
私は首を傾げたものの、先生が教室に入ってきたので、前を向いた。
授業が始まる。
黒板に書かれた文字をノートに写しながら、さっきのことを思い返していた。
澪と千夏。
二人とまた一緒に過ごせる。
それに、隣の席の真帆とも少し話せた。
まだ、何かが大きく変わったわけではない。
自分から誰かに話しかけるのは、相変わらず得意ではない。これからも、きっとそうだと思う。
それでも、昨日よりは少しだけ、この教室に馴染めた気がした。
授業が終わると、真帆が筆箱から消しゴムを取り出した。
「あ、そうだ。これ、ありがとうございました」
朝に貸した消しゴムだった。
「見つかったんだ?」
「はい。鞄の奥に入ってました」
「よかったね」
「本当に助かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
真帆は消しゴムを返し、少し迷ったあとに続けた。
「また忘れ物したら、借りてもいいですか?」
「忘れ物しない方がいいと思うけど」
「あはは……そうですよね」
真帆は困ったように笑った。
その反応がおかしくて、私も少し笑う。
ほんの短いやり取りだった。
けれど、明日も隣の席で顔を合わせる。
また話すことがあるかもしれない。
そう思うと、少しだけ楽しみだった。
鞄を持ち上げ、教室を出る準備をする。
澪と千夏が、廊下の方で私を待っていた。
「紬、帰りましょう」
「うん。今行く」
二人のところへ向かう。
その背中を見送りながら、真帆が小さく手を振った。
私も振り返して、教室を出た。
まだ始まったばかりの高校生活。
これから、どんな日々になるのだろう。
少なくとも今は、少しだけ楽しみだと思えた。