TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
朝のホームルームが終わり、教室が少しずつ賑やかになってきた頃。
私は机の上に置いたプリントに目を通していた。
「今日の体育、体力測定だね」
隣から真帆が声をかけてきた。
「そうだね。確か、体育館でやるんだよね」
「うん。去年の結果って覚えてる?」
「あんまり覚えてないかな……」
「そっか。私は少しだけ覚えてるよ。長座体前屈が全然だめだったこととか」
「そうなんだ」
「前屈って、どうしてあんなに足が遠いんだろうね」
真帆は自分の足元に視線を落とした。
「手を伸ばせば届きそうなのに、あと少しのところで止まっちゃうんだよね」
「柔軟してみたら?」
「それはそうなんだけど……」
真帆は少し考え込んだ。
「続けるのが大事なんだろうなとは思うんだけどね」
「毎日やるのは大変そう」
「そうなんだよね。気づいたら忘れてるし」
真帆は苦笑した。
「……でも、今年は少し伸びてるかもしれない」
「去年より?」
「うん。昨日、ちょっとだけやってみたから」
「一日で?」
「一日で」
真帆は真面目な顔で頷いた。
「それはさすがに変わらないんじゃないかな」
「やっぱり?」
真帆は残念そうに肩を落とした。
「じゃあ、今日の記録で確かめてみるね」
「うん。頑張って」
「紬さんもね」
そんな話をしていると、教室の入り口から聞き慣れた声がした。
「紬」
振り返ると、澪がこちらへ歩いてきていた。
「お昼、一緒に食べましょう」
「うん。分かった」
澪は私の返事に頷くと、隣の真帆にも目を向けた。
「三浦さん、おはよう」
「おはよう、白石さん」
「今日の体育、体力測定ね」
「そうだね。長座体前屈が少し心配かな」
「そうなの?」
「去年、あまり記録がよくなかったから」
「今年は伸びているといいわね」
「うん。昨日ちょっとだけ柔軟したから」
「昨日だけ?」
澪が首を傾げる。
「昨日だけ」
「ふふ。結果が楽しみね」
真帆は少し照れたように笑った。
「それじゃあ、また後で」
「うん。またね」
澪に促され、私は席を立った。
真帆に軽く手を振ってから、澪の隣に並ぶ。
「今日は何のお弁当?」
「玉子焼きは自分で作ったわ」
「食べてもいい?」
「もちろん。今度は紬の作ったものも食べてみたいわ」
「私、あまり料理しないけど……今度挑戦してみるね」
そんな話をしながら、教室を出た。
昼休みになると、いつもの場所で澪と弁当を広げた。
少し遅れて千夏もやってくる。
「お待たせー!」
千夏は手を振りながら近づいてきて、私たちの向かいに腰を下ろした。
「今日のお昼、何?」
「普通のお弁当よ」
「澪のお弁当って、いつもきれいだよね。私なんて朝ぎりぎりで詰めたから、ちょっとぐちゃぐちゃ」
「自分で作っているの?」
「ううん、今日はお母さん。でも、詰めるのを手伝ったらこうなった」
「手伝ったのに?」
「そこは言わないでよ!」
千夏が慌てて弁当箱を隠す。
澪は少し困ったように笑っていた。
「そういえば、今日の数学で小テストがあったんだよ!」
「小テスト?」
「そう。朝からいきなり!」
「昨日、先生が言っていたんじゃないの?」
「言われてないよ~」
千夏は不満げに口を尖らせた。
「どうせ授業中に寝てたりしたんじゃないの?」
「寝てないって!」
「本当に?」
「……ちょっとだけ眠かったけど」
「やっぱり」
「違うよ! ちゃんと起きてた時間もあったもん!」
「それは起きていたとは言わないんじゃない?」
「澪がいじめる! 助けて紬!」
千夏が助けを求めるように、私の肩に身を寄せてきた。
「ええ……?」
思わず笑ってしまう。
「紬まで笑わないでよ!」
「ごめん。二人のやり取りがおかしくて」
「もう……」
千夏はまだ不満そうだったけれど、すぐに自分でもおかしくなったのか、口元を緩めた。
千夏は小さく息を吐くと、お弁当を一口食べた。
「そういえば、紬たちのクラスも今日、体育なんだよね?」
「うん。五時間目」
「何するんだろう。うちも午後は体育なんだけど」
「この時期なら、そろそろ体力測定もあるんじゃない?」
澪が言う。
「あー、そういえば! 去年の記録、私かなりひどかった気がする」
「覚えているの?」
「うっすらね。反復横跳びとか、途中で足が絡まりそうになったし」
「それは運動不足なんじゃない?」
「そんなことないよ!」
千夏はすぐに反論した。
「じゃあ、今年は去年より良い記録を出せそう?」
「それは……これから頑張る!」
「まだ何もしていないのね」
「これからだってば!」
澪が小さく笑う。
私もつられて笑った。
「紬は昔から運動してたもんね」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。外で遊ぶとき、いつも走り回ってたじゃん」
千夏が懐かしそうに言った。
「虫探しに行ったり、鬼ごっこしたり。日が暮れても帰ろうとしなかったし」
「え、そんなに?」
「そうよ。私たちが帰ろうとしても、もう一回だけって」
「なんだか、覚えてるような覚えてないような……」
昔のことを思い返してみる。
確かに、外で遊ぶのは好きだった気がする。
何かを見つけたら夢中になって、時間を忘れてしまう。勝負事になれば、負けたくなくて何度も挑戦していた。
「紬って、意外と負けず嫌いだったよね」
「意外と?」
「うん。鬼ごっことか、最後まで捕まらないように必死だったじゃん」
「千夏だってそうだったでしょう?」
「私はほら、みんなで遊ぶのが好きだったから!」
「それは理由になっていないと思うけれど」
「澪まで!」
二人のやり取りに、また笑ってしまう。
そんなふうに遊んでいた頃のことを、全部覚えているわけじゃない。
それでも、二人の話を聞いていると、忘れていたはずの光景が浮かんでくる。
あの頃に戻れたらいいのに。
ふと、そんなことを思った。
「紬?」
澪に呼ばれて、顔を上げる。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
「そう?」
「うん。ちょっと昔のことを思い出してた」
「そっか」
澪はそれ以上聞かず、私の弁当箱に目を落とした。
「それ、もう食べないの?」
「あ、食べる」
箸を持ち直す。
千夏が何か言いかけて、すぐに澪との話に戻っていった。
私は二人の声を聞きながら、残っていたおかずを口に運んだ。
午後の体育は、予定通り体力測定だった。
体育館にはクラスごとに測定場所が設けられ、生徒たちがそれぞれの種目へ移動していく。
私は真帆と同じ組になった。
「よろしくね、紬さん」
「うん。よろしく」
最初の測定を終え、記録用紙に数字を書き込む。
真帆は自分の記録を確認してから、少し首を傾げた。
「思ってたより普通だった」
「悪くなかったってこと?」
「そうだね。もう少しいけると思ってたんだけど」
「練習してたの?」
「特にしてないよ」
「じゃあ、十分なんじゃない?」
「そうかな」
真帆は記録用紙を見直した。
「でも、去年よりはよかったよ」
「それならいいね」
「うん。そこはちょっと嬉しい」
そう言って、真帆は記録を書き込んだ。
次の測定場所へ移動する。
順番を待っている間、真帆は前の組の様子を眺めていた。
「さっきの人、すごかったね」
「どの人?」
「反復横跳び。動きがすごく軽かった」
「ああ、確かに」
「私、あんなに素早く動ける気がしないな」
「やってみないと分からないよ」
「そうかな。見ているだけで、もう足が疲れた気がする」
「まだ何もしてないのに?」
「うん。気持ちだけ先に疲れちゃった」
真帆はそんなことを言って、少し笑った。
順番が来ると、私たちはそれぞれ測定を受けた。
結果を記録用紙に書き込んでいると、真帆が隣から覗き込んだ。
「紬さん、結構いいね」
「そうかな?」
「うん。私より上だ」
「真帆さんは?」
「私は私の記録を見てるところ」
真帆は自分の用紙に目を戻した。
「……うん。これはこれでいいことにしよう」
「納得できた?」
「たぶん」
その言い方がおかしくて、少し笑ってしまった。
測定はその後も続いた。
種目によっては思うような記録が出なかったり、予想より良い結果になったりする。
私は自分の記録を確かめながら、少しだけ考えていた。
もう少しできた気がする。
そう思うと、なんとなく悔しかった。
別に誰かと競っているわけではない。それでも、一度そう思ってしまうと、簡単には気持ちを切り替えられなかった。
記録用紙をもう一度見ていると、真帆が隣から声をかけてきた。
「気になる?」
「うん。思ったより記録が伸びなかったから」
「そっか」
「もう少しできたと思うんだけどな」
真帆は私の顔を見て、少しだけ笑った。
「紬さんって、意外と負けず嫌いなんだね」
「そうかな?」
「うん。さっきから真剣に記録を見てるから」
「……そうかもしれない」
自分でも、少し意外だった。
もう昔の自分とはすっかり変わってしまったと思っていた。それでも、あの頃の自分がまだここにいるような気がした。
そう思うと、ほんの少しだけ嬉しかった。
真帆はそれ以上何も言わず、自分の記録用紙に目を戻した。
最後の種目を終える頃には、私たちの組もだいぶ疲れていた。
「終わったね」
「うん。お疲れさま」
真帆は記録用紙を見直した。
「長座体前屈、去年より少し伸びてた」
「本当に?」
「うん。昨日の柔軟、無駄じゃなかったみたい」
「一日で効果が出たのかな」
「そういうことにしておこうかな」
真帆は記録用紙をしまった。
「来年はもう少し伸びるといいな」
「また柔軟する?」
「……思い出したときにね」
「毎日じゃないんだ」
「毎日はちょっと難しいかな」
真帆は困ったように笑った。
体育が終わり、教室へ戻る。
着替えを済ませて席に戻ると、真帆が隣から声をかけてきた。
「今日はありがとう」
「え? 何かあったっけ?」
「知ってる人がいるほうが楽しいから」
「そっか」
真帆とそんな話をしてから、私は一度トイレに向かった。
教室に戻ると、澪と真帆が話していた。
「あ、紬さん。おかえり」
真帆がこちらに気づいて声をかける。
「ただいま。二人で話してたの?」
「うん。ちょうど澪さんと話してたところ」
真帆はそう言って、澪と私を交互に見た。
それから、ふっと表情を緩める。
「……二人って、やっぱり仲いいね」
「そうかしら?」
澪が首を傾げる。
「うん。なんだか、見てるとこっちまで嬉しくなる」
真帆は少し照れたように笑った。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
「ええ。また明日」
「また明日、紬さん」
「うん。また明日」
真帆は鞄を持ち、教室を出ていった。
その後ろ姿を見送っていると、澪が私の隣に立った。
「一緒に帰りましょう」
「うん。今行くね」
荷物をまとめて、澪の隣に並ぶ。
「三浦さんと一緒だったのね」
「うん。測定の時ペアだったんだ」
「そう。今日はどうだった?」
「普通に楽しかったよ。少し話したりもしたし」
「そうなのね」
澪はそう答えると、私の鞄に目を向けた。
「準備はできた?」
「うん」
「じゃあ、行きましょう」
澪が私の隣に並ぶ。
いつもより、少しだけ近い。
「紬、行きましょう」
「うん」
澪に促され、教室を出た。
校門を出たところで、千夏が追いついてきた。
「二人とも、待ってー!」
「千夏?」
「帰るなら一緒に帰ろうよ」
「ええ。もちろん」
千夏は私の反対側に並ぶと、今日の体育の話を始めた。
「そういえば、紬たちのクラスは体力測定どうだった?」
「普通だったよ。思ったより記録が伸びなかったけど」
「えー、そうなの? 紬なら結構いい記録出しそうなのに」
「次はもっとうまくできるように頑張んなきゃ」
「紬って、そういうところは今も変わらないわね」
「え?」
「今日の体力測定。記録を何度も見ていたでしょう? 悔しそうに」
「真帆さんから聞いたの?」
「ええ。少し話したの」
「そうだったんだ」
「えー、そうなの? 紬、そんなに悔しそうにしてたんだ」
「そこまでじゃないよ」
「ふふ。昔からそうだったじゃない。納得できるまで頑張ろうとするところ」
澪がそう言うと、千夏も「確かに」と頷いた。
「そういうところ、紬らしいよね」
「……そうかな」
「うん。なんだか懐かしいな」
千夏はそう言って笑った。
昔のことを思い返す。
何か面白そうなことを思いつけば、すぐに二人を誘っていた。日が暮れるまで遊んでいても、まだ遊び足りなかった。
今は、二人と一緒にいても、次に何をしたいのかすぐには浮かばない。
昔みたいに、思いついたことをすぐ二人に話せたらいいのに。
そんなことを考えていると、鞄を持つ手に少し力が入っていた。
「紬」
澪がそう言って、少しだけこちらに近づいた。
肩が触れそうな距離だった。
私はそのことに気づきながら、何も言わなかった。
このまま隣を歩いていたかった。
だから、澪の歩幅に合わせた。