TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
放課後、帰り支度をしていると、隣の席から小さな音が聞こえた。
真帆が鞄の中を探っている。何かを取り出そうとしているようだった。
「あれ……?」
「どうしたの?」
「ううん。ちょっと、探し物」
そう言って、真帆は鞄の中をもう一度確かめた。
その拍子に、鞄の口から何かが滑り落ちる。
「あっ」
床に落ちたものを、私は拾い上げた。
小さなデジタルカメラだった。
「これ、真帆さんの?」
「あ……うん。ありがとう」
真帆は少し慌てた様子で、私の手からカメラを受け取ろうとする。
そのとき、液晶画面に目が留まった。
画面には、何人かの人が写っていた。
食卓を囲んでいる家族の写真らしい。中央にいる人が何かを話しているのか、口を開いている。それを見て、周りの人たちが笑っていた。
誰もカメラを意識していない。何気ない会話の途中を、そのまま切り取ったような一枚だった。
「……家族の写真?」
思わず尋ねると、真帆は一瞬だけ動きを止めた。
「うん。そうだよ」
「そっか」
私はカメラを真帆に返した。
画面に写っていた人たちの笑顔が、頭の中に残っていた。
何か特別なことがあったわけではなさそうだった。ただ、みんなで食事をして、話をして、笑っている。
私にも、そんな時間があった。
食卓を囲んで、母さんや父さんと話していた。何を話したのか、細かいことまでは思い出せない。それでも、あの頃の食卓が温かかったことは覚えている。
もう一度、あの時間に戻ることはできない。
少しだけ視線を落とした。
「写真、撮るのが好きなんだ」
気持ちを切り替えるように尋ねると、真帆はカメラを手にしたまま頷いた。
「うん。出かけたときとか、気になったものを撮ったりしてる」
「自分で撮りに行くこともあるの?」
「あるよ。散歩してるときに、いいなって思ったものを見つけたり」
真帆は画面を操作し、別の写真を表示した。
「これは、公園で撮ったやつ。木の間から光が差してるのがなんかいいなって」
木々の隙間から日差しが差し込み、地面に葉の影が落ちている。
「こっちは、道端に咲いてた花」
次の写真には、小さな花が一輪だけ写っていた。
「よく見つけたね。こんなところに咲いてたんだ」
「たまたま目に入ったの。普段なら、そのまま通り過ぎちゃうような場所だったと思う」
写真を見比べる。
どちらも、わざわざ写真に残そうと思わなければ、すぐに通り過ぎてしまいそうなものだった。
「私だったら、気づかずに通り過ぎてたかも」
「そう?」
「うん。公園に行っても、たぶん景色を眺めて終わりかな」
「それもいいと思うよ。私も、何でも撮るわけじゃないし」
真帆は少し笑った。
「でも、あとで見返したときに、そのとき何を見ていたのか思い出せるのが好きかな」
「へえ……そういう楽しみ方もあるんだね」
「うん。撮ったときには気づかなかったことを、あとから見つけることもあるよ」
真帆は画面を切り替えた。
住宅街の向こうに、夕焼けが広がっていた。建物の隙間から見える空が赤く染まり、道路には長い影が伸びている。
「これも、帰り道に撮ったの?」
「そう。夕焼けがきれいだったから」
写真を眺めていると、昔の帰り道を思い出した。
夕方の空は、いつも同じ色をしているわけではない。少しずつ暗くなっていく空を見ながら、家に帰っていた。
あの頃は、明日も同じように帰ってくるのだと思っていた。
「……こういう写真、好きだな」
「本当?」
「うん。きれいな景色を撮った写真もいいけど、そこにいたときのことまで思い出せそうだから」
真帆は、すぐには答えなかった。
「……私は、そこまで深く考えて撮ってないけどね」
「そうなの?」
「うん。ただ、好きだから撮ってるだけ」
そう言って、真帆は少し照れたように笑った。
「でも、そういうふうに言ってもらえると嬉しいな」
写真の中では、何気ない時間がそのまま残っている。
私にはもう戻れない時間も、こうして写真に残しておけば、後から見返すことができる。
そう考えると、少し羨ましかった。
「真帆さんは、こういう写真を撮るのが好きなんだね」
「うん。あと、人が写ってる写真も好き」
「人?」
「誰かが笑ってたり、何かに夢中になってたり。そういう何気ない瞬間を撮るのも好きかな」
「そっか。だから最初に見せてくれた写真も、ああいう感じだったんだ」
「うん。あれは家族で出かけたときに撮ったものだよ。みんなが話してるところを撮ったんだけど、思ったよりいい写真になってた」
「撮られてるって気づいてないから、自然な顔をしてたんだね」
「そうそう。気づいてから撮ると、みんなカメラを意識しちゃうから」
真帆は少し考えるようにカメラを見つめた。
「人と人が一緒にいるところを見るのも好きなんだよね。仲がよさそうだったり、ちょっとしたことで照れてたり」
「そういうところが気になるんだ?」
「うん。二人の間にしか分からないことがあるんだろうなって思うと、なんだかいいなって」
真帆は少しだけ笑った。
「だから、紬ちゃんと白石さんが一緒にいるところも、つい見ちゃうのかも」
「私と澪?」
「うん。二人って、話しているときの雰囲気が違うから。白石さんも、紬ちゃんといるときは表情が柔らかい気がするし」
言われて、澪と過ごしているときのことを思い返す。
澪といると、つい昔のように振る舞ってしまうことがある。気を抜いて話せるし、何でもないことで笑ってしまう。
それを真帆に見られていたのは、少し恥ずかしかった。
「……そんなに違うかな」
「うん。私にはそう見えるよ」
真帆はどこか楽しそうに笑った。
「二人を見ていると、もっと話しているところを見たくなっちゃうんだよね」
「そんなに気になる?」
「うん。二人でいるところって、見ていて飽きないんだよね」
真帆は少しだけ口元を緩めた。
「どんなことを話してるのかなとか、どういう気持ちなのかなって考えちゃう」
「へえ……」
「ごめんね。ちょっと変なこと言ってるかも」
「ううん。真帆さんは、そういうのを見るのが好きなんだね」
「うん。好きなんだと思う」
真帆は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「だから、二人が一緒にいるところも写真に残せたらいいなって思うことがあるよ」
「写真に?」
「うん。楽しそうに話しているところとか、何気ない瞬間とか。そういうのを撮ってみたいなって」
私は、さっきの家族写真を思い出した。
あの写真も、誰かが何気ない瞬間を残そうとして撮ったものなのだろうか。
「私はいいよ。澪にも聞いてみるね」
「本当?」
「うん。でも、澪が嫌だったらやめようね」
「もちろん。二人が嫌じゃないことが一番だから」
真帆は嬉しそうに笑った。
さっきまで写真を見せてくれていたときとは、少し違う表情だった。好きなことを話しているからか、いつもより言葉が弾んでいる。
「真帆さんって、好きなことの話になると結構話すんだね」
「えっ、そうかな?」
「うん。さっきより楽しそう」
「……ちょっと恥ずかしいな」
真帆はカメラを胸元に寄せた。
その仕草を見て、ふと気になったことがあった。
「そのカメラ、自分で買ったの?」
「うん。中古だけどね。自分のお金で買ったんだ」
「そうなんだ。いいね」
「結構気に入ってるよ。持ち歩きやすいし、気軽に撮れるから」
真帆はカメラを見下ろした。
「ただ、親はあんまりよく思ってないんだよね」
「そうなの?」
「うん。カメラを持ってることは知ってるんだけど、写真を撮ってる時間があるなら勉強したらって言われるし」
「勉強に使ってほしいんだ」
「そう。成績とか進路とか、いろいろ気にしてるから」
真帆は苦笑した。
「休日も、何をするのか聞かれることが多いかな。友達と出かけるときも、誰とどこに行くのかとか」
「結構細かく聞かれるんだね」
「うん。心配してくれてるんだとは思うよ」
そう言いながらも、真帆の表情は少し曇っていた。
「でも、たまには何も考えずに好きなことをしたいなって思う」
真帆はカメラの側面を指でなぞった。
「写真を撮ってるときは、自分がいいなって思ったものを、自分で選べるから」
「それが好きなんだ」
「うん。誰かに言われたからじゃなくて、自分が撮りたいと思ったものを撮れるから」
その言葉は、さっきまでより少しはっきりしていた。
自分がいいと思ったものを、自分で選ぶ。
当たり前のことのようだけれど、真帆にとっては大切なことなのかもしれない。
「でも、あんまり人には見せないかな。自分ではいいと思っていても、他の人がどう思うかは分からないし」
「親に何か言われるから?」
「それもあるけど……。単純に、自分の好きなものを見せるのって、ちょっと勇気がいるんだよね」
真帆は画面を閉じた。
「別に、すごい写真を撮ってるわけじゃないし。見せたところで、反応に困らせちゃうかもしれないし」
真帆は、少し迷いながらも私に写真を見せてくれた。おかげで、普段の会話だけでは知らなかった真帆のことを、少しだけ知ることができた。
写真を見せてもらえてよかったと思う。
「私は好きだったよ」
そう伝えると、真帆は少しだけ目を丸くした。
「……本当に?」
「うん。写真を見てたら、真帆さんがどんなものを見てるのか、少し分かった気がした」
「私が見てるもの?」
「うん。道端の花とか、夕焼けとか。普段なら見過ごしちゃいそうなものを、ちゃんと見てるんだなって」
それに、写真を見せてくれたときの真帆は、いつもより楽しそうだった。
「そういうの、私はいいと思う」
「無理して言ってるわけじゃない?」
「そんなことないよ」
真帆は困ったように笑い、カメラを見下ろした。
「そっか。よかった」
その表情には、まだ少し照れくさそうな様子が残っていた。
「また、ほかの写真も見せてほしいな」
口にしてから、少しだけ迷った。
もっと見てみたいと思ったのは本当だ。真帆がどんなものを見つけて、何を残したいと思うのか。もう少し知りたいと思った。
「……もし、真帆さんが嫌じゃなければだけど」
そう付け足すと、真帆は一度目を瞬かせた。
それから、少しだけ表情を緩める。
「うん。いいよ」
「ありがとう」
「私も、また見てもらえたら嬉しいな」
真帆はそう言って、カメラを手の中で持ち直した。
しばらくカメラを見つめていた真帆が、やがて迷うように口を開く。
「……ねえ、紬ちゃん」
「ん?」
「あの、これからそう呼んでもいいかな?」
「うん。いいよ」
「……よかった」
真帆はほっとしたように笑った。
「じゃあ、これから紬ちゃんって呼ぶね」
「うん。これからもよろしくね、真帆さん」
「うん!」
真帆は手の中のカメラを見つめ、それから私に視線を戻した。
「そうだ。今度、紬ちゃんと澪さんが一緒にいるところも撮ってみたいな」
「さっきの話?」
「うん。二人で話してるとき、楽しそうだから。そういうところも写真に残せたらいいなって」
「分かった。澪にも聞いてみるね」
「ありがとう。楽しみにしてる」
真帆は嬉しそうに頷いた。
誰かに写真を撮られるなんて、少し不思議な感じがする。
でも、真帆が撮る写真なら、どんなふうに写るのか見てみたいと思った。
「それじゃあ、私そろそろ帰るね」
「うん。また明日」
「また明日、紬ちゃん」
真帆は鞄を肩にかけると、教室の出口へ向かっていく。
私はその背中を見送った。
また写真を見せてほしいと言った。澪との写真を撮ってもいいとも答えた。
自分から誰かに何かを望むことは、ずっと避けてきたはずなのに。真帆と話していると、もう少しだけ関わってみたいと思ってしまう。
真帆は、自分の好きなものを私に見せてくれた。
写真を見せることに少し迷っていたのに、それでも私に見せてくれた。
そのおかげで、私は真帆のことを少し知ることができた。
私も、誰かに自分のことを見せられたらいいのに。
そう思いかけて、指先にきゅっと力が入った。
私が隠しているものは、写真のように見せて終わりにできるものじゃない。
知られたら、今までと同じようにはいられなくなる。
真帆が見せてくれたものを、私は嬉しいと思えた。けれど、私には同じように誰かに見せることができない。
真帆にも、澪にも、千夏にも。
みんなと笑って過ごしている今の自分と、誰にも知られたくない自分。
いつか知られてしまったら、今と同じように話せるのだろうか。
考えるほど、せっかく感じていた温かさが遠のいていく。
それでも、明日になればまた真帆と話すのだろう。澪や千夏とも、いつものように過ごすのだろう。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
ただ、友達と一緒に過ごす明日を楽しみにする。それは、本当に普通の、何気ない幸せだった。
――けれど、その温かさに浸っていた私の中に、別の感覚が滲んできた。
身体の奥が、わずかに空いているような感覚。
ほんの小さなものだった。
私は無意識に胸元へ手を添えた。
この感覚を、忘れたことはない。
せっかく、穏やかな日々を過ごせているのに。
普通の人間のように、明日を待ち遠しいと思えていたのに。
胸の奥で蠢く小さな飢えは、私にはそんな資格がないのだと思い知らせるように、確かにそこにあった。