TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
紬がいなくなってから、私は何度もあの家の前を通った。
最後に紬と会った日のことは、今でも覚えている。
私の家に泊まりに来た紬と、いつもより長い時間を一緒に過ごした。ゲームをしたり、話をしたり、夕食を一緒に食べたり。帰る時間を気にせずにいられることが、私は嬉しかった。
「今日は、いつもよりたくさん一緒にいられたでしょう?」
そう言うと、紬は少し不思議そうに私を見た。
「それが、嬉しかったの」
また遊ぼうと約束した。
紬は、いつものように笑っていた。
だから、その日が最後になるなんて思ってもいなかった。
それから少し経ったある日、私は借りていた本を返しに、紬の家を訪ねた。
いつものように玄関の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
返事はなかった。
「あれ……?」
出かけているのだろうか。
もう一度呼び鈴を鳴らしてみる。しばらく待っても、誰も出てこなかった。
「……紬?」
小さく呼びかける。
けれど、家の中から声が聞こえない。物音もしなかった。
いつもなら、紬本人が出てくることもあれば、お母さんが笑顔で迎えてくれることもあった。
今日は、誰もいない。
ふと、玄関の横に目を向けた。
そこにあるはずのものが見当たらなかった。
私は一歩近づいた。
長年そこにあったはずの表札は取り外され、四角く色褪せた痕跡だけがぽっかりと残されていた。
「……どうして?」
思わず声が漏れた。
表札がなくなっている。
それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
出かけているだけなら、表札を外す必要なんてない。
何か事情があったのだろうか。
考えてみても、分からない。
私はもう一度、玄関を見た。
ついこの間まで、ここには紬がいたはずなのに。
また遊ぼうと約束した。次に会うときのことも、何となく考えていた。
それなのに、今は家の中に誰かがいる気配さえない。
私はしばらくその場に立っていた。
けれど、いつまでも待っているわけにはいかなかった。
結局、その日は何も分からないまま家を離れた。
その後、紬が親戚の家に引き取られたらしいと知った。
詳しいことは分からなかった。どうしてそうなったのか、いつからそうなったのか。聞きたいことはあったけれど、私には確かめる方法がなかった。
紬の家に行っても、もう会えない。
そう分かってからも、私はしばらく、いつもの帰り道を変えられなかった。
学校から帰る途中、紬と一緒に歩いていた道を通る。
隣に誰もいないことには、すぐに慣れると思っていた。
けれど、帰り道で面白いものを見つけたときや、授業でちょっとした出来事があったとき、誰かに話したくなることがあった。
そのたびに、最初に浮かぶのは紬の顔だった。
今度会ったら話そう。
そう考えてから、もう会えるかどうかも分からないのだと思い出す。
そのことが、少し嫌だった。
ある日、学校で友達と話しているときに、休日の予定を聞かれた。
「澪は休みの日、何してるの?」
「そうね。家で本を読んだりすることが多いかしら」
「今度、一緒に出かけない?」
「いいわね」
そう答えて、私はその子と約束をした。
休日に友達と出かけるのは楽しかった。
話題も増えたし、学校で顔を合わせれば自然と話すようになった。いつの間にか、休み時間に一緒に過ごす相手もできていた。
笑うことも増えた。
紬がいなくなったからといって、毎日が止まってしまうわけではなかった。
新しいことを覚えて、知らなかった人と仲良くなって、少しずつ自分の生活ができていく。
それは、当たり前のことだった。
それでも、ふとした瞬間に紬を思い出す。
友達との会話、昔一緒に遊んだ場所の話が出たとき。
帰り道に、二人でよく立ち寄った店の前を通ったとき。
何かを見て、紬ならどんな反応をするだろうと思ったとき。
思い出す回数は、少しずつ減っていった。
毎日、紬のことを考えているわけではなくなった。
それでも、忘れたわけではなかった。
時々、あの家の前を通ることもあった。
何も変わらない。表札のなくなった玄関も、閉じたままの扉も、いつも同じだった。
通りかかるたびに、少しだけ足が遅くなる。
もう誰も住んでいない。
それでも、いつか紬が戻ってくることがあるのではないか。
そんなことを考えてしまう。
けれど、いつまでも待っているわけにはいかなかった。
私にも学校があり、友達がいて、毎日の予定がある。
紬のいない生活は、少しずつ当たり前になっていった。
それでも、もしまた会えたなら。
そのときは、今度こそ、たくさん話したい。
何を話すかまでは考えられなかった。
ただ、もう一度会いたい。
ずっとそう思っていた。
高校の入学式の日。
昇降口の近くで、私は千夏と話していた。
クラス分けを確認したあと、偶然顔を合わせたのだ。中学は違ったけれど、同じ高校に進学することは知っていた。
「同じ学校でよかったね。知ってる人がいると安心するし」
「そうね。千夏がいるなら、退屈はしなさそうだわ」
「それ、褒めてる?」
「どう受け取るかは千夏次第ね」
「えー、そこは素直に褒めてよ」
千夏が不満そうに頬を膨らませる。
そんなやり取りをしていたときだった。
視界の端に、見覚えのある姿が入った。
人混みの向こうにいる女の子。
横顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
間違えるはずがない。
何度も思い返してきた顔だった。
会いたいと思っていた人だった。
「……紬?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
けれど、その声に気づいたのか、紬がこちらを向いた。
目が合う。
一瞬、紬は動かなかった。
私も同じだった。
少しして、紬の表情が緩んだ。
私だと分かってくれた。
それが分かった瞬間、胸の奥が熱くなった。
会えた。
本当に、また会えた。
自然と笑みがこぼれる。
紬も笑ってくれた。
私は千夏との会話を途中で切り上げ、紬の方へ歩き出した。
「えっ、澪?」
後ろから千夏の声が聞こえた。
けれど、振り返る余裕はなかった。
紬がいる。
今度こそ、ちゃんと話せる。
そう思って近づいたとき、紬がこちらへ手を上げかけた。
懐かしい仕草だった。
昔、私を見つけたときにも、紬はあんなふうに手を上げていた気がする。
けれど、その手が途中で止まった。
紬の視線が、自分の手に落ちる。
ほんの一瞬だった。
それから、紬の表情から笑みが消えた。
何かを思い出したように、私から目を逸らす。
「紬?」
呼びかけたときには、もう紬は背を向けていた。
そして、走り出した。
「待って、紬!」
人の間を抜けて追いかける。
けれど、紬は振り返らなかった。
どうして?
せっかく会えたのに。
私に気づいてくれたとき、確かに笑っていたはずなのに。
追いかけたい気持ちとは裏腹に、足が止まりそうになる。
もしかして、私に会いたくなかったのだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
すぐに打ち消そうとした。
そんなはずはない。そう思いたかった。
けれど、紬が走り去った方向を見つめていると、胸の奥に小さな不安が残った。
「澪、どうしたの?」
千夏が追いついてきた。
「急に走っていっちゃって……」
「ごめんなさい」
千夏はそれ以上尋ねなかった。
私も、何も説明できなかった。
会えたことが嬉しかった。
それなのに、紬は私から逃げた。
その二つが、頭の中で何度もぶつかっていた。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が席に座っていた。
自分の名前が書かれた席を見つけ、鞄を置く。
周囲では、初めて顔を合わせた生徒同士が話をしていた。
私も近くの席の人に挨拶をしたり、簡単な会話を交わしたりしていた。
けれど、頭の片隅にはずっと、さっきの出来事が残っていた。
紬はどうして逃げてしまったのだろう。
私に気づいていなかったわけではない。
確かに目が合った。
あのとき、紬も私に気づいていた。
それなのに、どうして。
「白石澪さん」
名前を呼ばれ、私ははっと顔を上げた。
「はい」
返事をして立ち上がったとき、少し離れた席に座っている女の子が目に入った。
紬だった。
息が止まりそうになった。
どうして、ここに。
同じクラスだったのだ。
返事をする声を聞きながら、私は教室の中を見回していた。
紬は私の方を見ていた。
目が合う。
今度は逃げなかった。
私は、できるだけいつも通りに笑った。
紬は少し戸惑ったように見えたけれど、目を逸らさなかった。
出席確認が終わり、先生の説明が一段落した頃、私は紬の席へ向かった。
「……紬」
名前を呼ぶ。
紬の肩が小さく跳ねた。
それから、こちらを向く。
「少し、話してもいいかしら」
「……うん」
返事を聞いて、ようやく息をつけた気がした。
朝、急に走り出した理由は分からない。
聞きたいことはあった。
でも、今はそれを問い詰めるよりも、話せることの方が大切だった。
「さっきは驚いたわ。まさか同じ学校に入るなんて思っていなかったから」
「私も……びっくりした」
その言葉を聞いた瞬間、私はわずかに目を見開いた。
私も。
昔の紬なら、違う言い方をしていた。
ほんの短い言葉だった。声の調子も、表情も、昔の面影が残っている。
それなのに、私と言っている。
「そうね。私も、まだ少し信じられないわ」
そう答えると、紬は小さく笑った。
その笑い方は、よく知っているものだった。
「本当に、紬なのね」
「うん。私だよ」
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれた。
紬がここにいる。
それだけで、何度も確かめたくなる。
けれど、話をしているうちに、以前とは違うところがいくつも目についた。
話し方だけではない。言葉を選ぶ間や、こちらの反応をうかがうような視線。
昔なら、もっと気軽に何でも話していた気がする。
「……澪は、変わらないね」
紬がそう言った。
「そうかしら」
「うん。なんだか、昔のまま」
「紬は変わったわ」
口にしてから、少しだけ言い方が強かったかもしれないと思った。
紬の表情がわずかに固くなる。
「……そう?」
「ええ。話し方も、雰囲気も。少し大人っぽくなったわ」
「そっか」
「でも、変わっていないところもあるわよ」
「どこ?」
「それは、これから見つけていくことにするわ」
そう言うと、紬は少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
紬は今、どんなことが好きなのだろう。
どんな話をして、どんなことで笑うのだろう。
昔のことなら、いくらでも思い出せる。
けれど、今の紬については知らないことばかりだった。
「今は施設で暮らしているの」
紬は、少しずつ近況を話してくれた。
親戚の家に引き取られたことは知っていた。その後、今は施設で暮らしていることを知った。
詳しいことまでは話してくれなかったけれど、無理に尋ねることはしなかった。
聞きたいことはたくさんあった。
それでも、紬が話してくれたことを一つずつ受け取るだけで、今は十分だった。
話しているうちに、朝のことを尋ねる機会は何度かあった。
どうして私から逃げたのか。
あのとき、何を思ったのか。
けれど、口に出すことはできなかった。
せっかくこうして話せているのに、また紬を困らせてしまう気がした。
昼休みには、一緒に食べる約束をした。
その約束ができただけで、朝から胸に残っていた不安は少し薄れていた。
再会してから、しばらく経った。
最初の頃は、紬と話すたびに少し緊張していた。
何を聞けばいいのか。どこまで踏み込んでいいのか。以前のように接していいのか。
けれど、一緒に過ごす時間が増えるにつれて、少しずつ会話も自然になっていった。
紬は昔より落ち着いているし、話し方も変わった。以前ならすぐに口にしていたようなことを、今は少し考えてから話すことがある。
それでも、時折見せる表情には昔の面影が残っていた。
例えば、授業中に先生の説明へ首を傾げているとき。
紬は分からないことをそのままにしておくのが好きではないらしい。少し眉を寄せ、プリントに目を落とし、答えが見つかるまで考え込んでいる。
そういう姿を見ると、昔のことを思い出した。
遊びでも、勝負でも、途中で投げ出すことはあまりなかった。
ある日の休み時間、私は教室に戻る途中で、紬の席の近くに立つ男子生徒を見かけた。
「ここって、先にこっちを計算すればいいの?」
「うん。そのあとで式を整理すればいいと思う」
「ああ、なるほど。ありがとう」
「どういたしまして」
男子生徒はプリントを見直しながら、もう一つ質問をした。
「そういえば、次の課題ってもうやった?」
「まだだよ。帰ってからやるつもり」
「そっか。俺もやらないとな」
「うん。頑張って」
紬はそこで会話を終えると、机の上のプリントに視線を戻した。
男子生徒も少しだけその場に残っていたけれど、やがて自分の席へ戻っていった。
その直後、隣の席にいた三浦さんが紬へ声をかけた。
「紬ちゃん、さっきの問題なんだけど」
「うん?」
「ここの考え方、もう一回聞いてもいい?」
「もちろん。どこが分からなかった?」
「この部分。どうしてこっちを先にするの?」
三浦さんがプリントを指さす。
紬は椅子を少し寄せ、三浦さんのプリントを覗き込んだ。
「ここはね、先にこっちをまとめておくと、その後が楽になるんだよ」
「なるほど……。あ、そういうことか」
「うん。私も最初は少し迷ったけど」
「紬ちゃんでも迷うことあるんだね」
「あるよ。結構」
三浦さんが笑う。
紬もそれにつられるように口元を緩めた。
「じゃあ、こっちは?」
「それは、こう考えた方が分かりやすいかも」
「本当だ。ありがとう」
「どういたしまして」
同じように授業の話をしているのに、さっきの男子生徒との会話とは少し違って見えた。
三浦さんが尋ねると、紬も自分から説明を続ける。分からないところを聞き返したり、別の例を出したりしている。
男子生徒との会話が悪いわけではない。
ただ、三浦さんと話すときの紬は、さっきとはずいぶん違って見えた。
「澪?」
隣から声をかけられ、私は視線を戻した。
「どうしたの?」
「何か見てた?」
「いいえ。少し考え事をしていただけよ」
「そうなんだ」
千夏は私の視線の先を見た。
「あ、紬と真帆ちゃんだ」
「ええ」
「最近よく話してるよね」
「そうね」
「仲良くなったのかな」
千夏は二人の様子を眺めていた。
「紬、楽しそうだね」
その言葉に、私はもう一度二人を見た。
三浦さんが何かを言い、紬が小さく笑っている。
「そうね」
素直にそう思った。
紬が新しい友人と自然に話せるようになったことは、嬉しかった。
ただ、私の知らない話題で笑っている姿を見ると、少しだけ不思議な気持ちにもなる。
私と会えなかった時間だけではない。
今この瞬間にも、私の知らない紬の時間が増えている。
「澪、行かないの?」
千夏に促され、私は二人の机へ向かった。
「紬、何の話をしているの?」
「あ、澪。授業のプリントだよ」
「三浦さんと一緒に考えていたのね」
「うん。ちょっと分からないところがあって」
「白石さんも分かる?」
三浦さんがプリントをこちらへ向けた。
「ええ。見せてもらえる?」
私は二人の間からプリントを覗き込む。
紬が指さした箇所を見て、考え方を伝える。
「ここなら、こう考えれば分かりやすいんじゃないかしら」
「……ああ、なるほど」
紬が頷いた。
「澪、分かりやすいね」
「そう?」
「うん。ありがとう」
紬がこちらを向いて笑う。
その顔を見て、私も笑った。
「二人とも、次の授業の準備をしないと」
三浦さんが時計を見て言った。
「あ、もうそんな時間」
「じゃあ、また後でね」
「うん。またね」
紬が三浦さんに手を振る。
私はその隣で、紬の机に置いていた手を引いた。
次の授業の準備をしながら、さっきの二人の様子を思い返す。
紬は、私の知らない相手とも少しずつ関係を築いている。
それは、私がいない時間を過ごしてきたからというだけではないのだろう。
今の紬が、今の学校で出会った人たちと過ごしている時間なのだ。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
*
「それでね、先生が急に当ててきたんだよ!」
「授業中に寝ていたからじゃないの?」
「寝てないってば!」
「本当に?」
「……ちょっとだけ眠かったけど」
「やっぱり」
「澪がいじめる!」
千夏がこちらを向いて、わざとらしく頬を膨らませる。
「ふふ。千夏は相変わらずだね」
紬が笑った。
「紬まで!」
「ごめん。二人のやり取りがおかしくて」
千夏はまだ不満そうだったけれど、すぐに自分でもおかしくなったのか、口元を緩めた。
「もう。二人ともひどいよ」
「それで、小テストはどうだったの?」
「それがね、意外とできたんだよ!」
「寝ていたのに?」
「寝てないって言ってるでしょ!」
千夏が身を乗り出す。
紬が笑い、私もつられて笑った。
こうして三人で話していると、昔のことを思い出す。
千夏が話題を次々に変えて、紬がそれに応じる。私が少し違うことを言えば、千夏がすぐに反応する。
昔も、こんなふうに過ごしていた。
「そういえば、紬って昔から負けず嫌いだったよね」
千夏が言った。
「そうだった?」
「そうだよ。鬼ごっことか、最後まで捕まらないように必死だったじゃん」
「千夏だってそうだったでしょう?」
「私はほら、みんなで遊ぶのが好きだったから!」
「それは理由になっていないと思うけれど」
「もう!」
紬がまた笑った。
その顔を見ていると、胸の奥が少し温かくなる。
紬がいなかった時間は消えない。
それでも、こうして一緒に笑える時間は戻ってきた。
昼食を食べ終える頃、千夏が時計を確認した。
「あ、そろそろ戻らないと。次、移動教室なんだよね」
「そうなの?」
「うん。じゃあ、またね!」
「ええ。また後で」
「またね、千夏」
千夏が手を振って、教室へ戻っていく。
私と紬は、しばらくその場に残っていた。
「私たちも戻りましょうか」
「うん」
紬が弁当箱を片付け、立ち上がろうとする。
その袖を、私は軽くつまんだ。
「澪?」
「……もう少しだけ」
「え?」
「まだ時間があるでしょう?」
時計を見ると、確かにあと少し余裕があった。
紬は不思議そうに私を見たあと、また椅子に座った。
「いいけど」
「ありがとう」
特別な話をしたかったわけではない。
ただ、もう少し一緒にいたかった。
「最近、三浦さんとよく話しているわね」
「うん。授業のこととか、いろいろ」
「仲良くなったのね」
「そうだね。話しやすいし」
「そう」
紬は少し嬉しそうに笑った。
「真帆さん、写真を撮るのが好きなんだって」
「写真?」
「うん。カメラを持ってるみたい」
「そうなのね」
「今度、写真を見せてもらう約束をしたんだ」
「楽しみね」
「うん。どんな写真を撮るのか、ちょっと気になる」
紬はそう言って、机の上に置いた弁当袋を整えた。
新しい友人の話をする紬は、以前よりも自然に見えた。
その様子が嬉しい。
でも、少しだけ、私も紬と二人で過ごす時間を作りたいと思った。
「今度、放課後に寄り道しない?」
「寄り道?」
「ええ。二人で」
最後の部分は、少しだけ強調してしまった。
紬が目を瞬かせる。
「いいよ。どこに行くの?」
「まだ決めていないわ」
「決めてないんだ」
「これから考えるの」
「そっか。楽しみにしてる」
紬が笑った。
その返事を聞いて、私も自然と笑みがこぼれた。
放課後に紬と寄り道をすることになった。
駅へ向かう道を少し外れたところに、小さな雑貨店がある。
以前、千夏と一緒に前を通ったとき、紬が好きそうなものが置いてあると思ったのだ。
「ここ?」
「ええ。少し気になっていたの」
店の中には、文房具や小さな置物、アクセサリーなどが並んでいた。
紬は入口の近くで足を止め、棚を眺める。
「こういうお店、久しぶりに来たかも」
「そうなの?」
「うん。あまり買い物に行くこともないから」
「そう」
紬は棚に並んだ小物を一つずつ見ていた。
特別に何かを探しているわけではないらしい。気になったものを手に取って、少し眺めてから元の場所へ戻している。
「これ、可愛いね」
紬が小さな動物の置物を手に取った。
「本当ね」
「澪はこういうの好き?」
「嫌いではないわ。部屋に置くなら、あまり大きくないものがいいかしら」
「分かる。場所を取っちゃうしね」
「紬の部屋には何か置いているの?」
「うーん……あまりないかな」
「そうなの?」
「必要なものはあるけど、飾りとかはあんまり」
「じゃあ、これを置いてみたら?」
私は棚の小さな置物を指さした。
「えっ、これ?」
「ええ。紬が気に入ったのなら」
「でも、ちょっと迷うなあ」
紬は置物を手にしたまま、しばらく考えていた。
昔も、こういうことがあった。
何かを見つけると、すぐに欲しいと言うこともあれば、ずっと迷って結局買わないこともあった。
「気に入ったなら、買ってもいいと思うわ」
「そうだね。せっかくだし、買おうかな」
紬は置物を持ってレジへ向かった。
会計を済ませて店を出ると、紬は袋の中を覗き込んだ。
「なんだか、ちょっと嬉しい」
「気に入ったものが見つかってよかったわね」
「うん。ありがとう、澪」
「私も楽しかったわ」
歩きながら、紬は袋を大事そうに持っていた。
「こういう寄り道もいいね」
「そうね」
「学校帰りに、少しだけ違うところに行くのって、なんだか新鮮」
「また行きましょう」
「うん」
紬はすぐに頷いた。
その返事が嬉しかった。
昔のように何でも知っているわけではない。
紬が今どんなものを好きなのか、どんな場所に行きたいのか、私はまだ知らない。
けれど、今日のように一緒に歩いて、気になったものを見つけて、少し話をする。
そういう時間を重ねていけばいいのだと思った。
「澪は、こういうお店よく来るの?」
「たまにね。千夏と一緒に見て回ることもあるわ」
「千夏とも?」
「ええ。あの子は、気になるものを見つけるとすぐに手に取るのよ」
「ふふ。想像できる」
「それで、買うかどうかはずっと迷っているの」
「それも想像できるかも」
二人で笑った。
紬が笑うと、私もつられて笑ってしまう。
以前と同じように見える瞬間もある。
でも、今の紬は、私の知らないものを好きになって、私の知らない時間を過ごしてきた。
それを少しずつ知っていくのは、思っていたよりも楽しかった。
「また今度、別のお店にも行きましょう」
「うん。楽しみにしてる」
紬は袋を持ち直した。
その横顔を見ながら、私は歩く速度を合わせた。
それからも、学校で過ごす時間は続いていった。
三浦さんと話す紬を見かけることもあれば、千夏と三人で昼食を取ることもあった。
紬は少しずつ、クラスの中でも自然に過ごすようになっていた。
男子生徒に話しかけられたときは、以前と同じように丁寧に答える。けれど、自分から話題を広げることはあまりない。
一方で、三浦さんや千夏と話すときは、紬から尋ねることもあった。
何か理由があるのだろうか。
そう思うことはあったけれど、私には分からなかった。
昔からそうだったのかも、はっきりとは思い出せない。
紬が自分から話してくれるまでは、私が勝手に決めつけることではないのだろう。
そんなある日、昼休みに千夏が少し遅れてやってきた。
「お待たせー!」
「今日は遅かったわね」
「先生に捕まっちゃってさ。もう、話が長いんだから」
「何かあったの?」
紬が尋ねる。
「提出物のこと。ちゃんと出したのに、確認したいことがあるって」
「それは大変だったね」
「でしょ? 私、ちゃんと出したのに!」
千夏は弁当を置きながら、まだ少し不満そうだった。
その様子に、紬が笑う。
「でも、ちゃんと確認してもらえてよかったんじゃない?」
「それはそうなんだけどさ」
「ふふ」
私は二人のやり取りを聞きながら、弁当を食べていた。
千夏が話し、紬が答える。
私もそこに加わる。
そんな時間が、少しずつ当たり前になっていた。
「そういえば、今度の休みって何か予定ある?」
千夏が尋ねた。
「私は特にないわね」
「私も、今のところは」
紬が答える。
「じゃあ、また三人でどこか行こうよ」
「いいわね」
「うん。行きたい」
紬も頷いた。
「どこにする?」
「それはこれから考えようよ」
「千夏、いつもそれね」
「だって、行きたいところが多いんだもん」
千夏が笑う。
紬も笑っていた。
私は二人の顔を見ながら、箸を進めた。
また三人で出かけられる。
そのことが、素直に嬉しかった。
そして、ある朝。
教室に入ってきた紬を見て、私は少しだけ違和感を覚えた。
「おはよう、紬」
「……おはよう」
返事はいつも通りだった。
けれど、表情が硬い。
いつもなら挨拶を返したあと、少しだけこちらを見てくれる。今日は、返事をするとすぐに視線を外した。
「眠いの?」
「ううん。大丈夫」
「そう?」
「うん」
紬はそう答え、自分の席へ向かった。
鞄を置く動作も、いつもより少しぎこちなく見えた。
何かあったのだろうか。
私は声をかけようか迷ったけれど、ひとまず自分の席に戻った。
授業が始まってからも、紬の様子が気になった。
先生の話を聞いているようではあるけれど、時々、視線が止まっている。ノートを取る手が止まり、少し遅れて動き出すこともあった。
先生に当てられたときも、紬は一拍遅れて顔を上げた。
答えは間違っていなかった。
けれど、答え終わったあとも、しばらく黒板の方を見たまま動かなかった。
ほんの小さな違いだった。
それでも、一度気になってしまうと、目で追わずにはいられなかった。
休み時間になり、私は紬の席へ向かった。
「紬」
「なに?」
「今日、少し元気がないように見えるけれど」
「そうかな?」
「ええ。何かあった?」
「ううん。大丈夫だよ」
紬はそう言って、笑おうとした。
口元が少しだけ持ち上がる。
けれど、その笑顔はすぐに消えてしまった。
「本当に?」
「うん。ちょっと疲れてるだけ」
「そう……」
紬は机の上に置いていた手を、もう片方の手で包むように握った。
私はその手を見て、入学式の日のことを思い出した。
私に気づいて笑ってくれたあと、紬は手を上げかけて、途中で止めた。
あのときも、紬は自分の手を見ていた。
どうしてだったのだろう。
何もわからない、でも無視していいことではない気がした。
「無理しないでね」
「うん。ありがとう」
紬は小さく頷いた。
その声も、いつもより少しだけ小さかった。
私は席へ戻った。
授業が再開しても、気になって何度か紬の方を見てしまう。
紬は前を向いている。
先生の話を聞き、ノートを取っている。
けれど、時々、手が止まる。
そのたびに、私は何か言うべきではないかと考えた。
でも、結局何を言えばいいのか分からなかった。
昼休みになっても、紬の様子はあまり変わらなかった。
いつものように弁当を広げ、私の隣に座る。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせた。
食べ始めてから、少しの間は会話がなかった。
いつもなら、何かしら話題が出る。
今日は、紬から話しかけてくることがなかった。
「紬」
「ん?」
「お弁当、あまり進んでいないわね」
「あ……そうだね」
紬は自分の弁当箱を見た。
「ちょっと食べるのが遅くなっちゃった」
「急がなくてもいいわよ」
「うん」
紬は箸を動かした。
おかずを一つつまみ、口元へ運ぶ。
けれど、そこで動きが止まった。
紬は箸を持ったまま、しばらくそのおかずを見ていた。
「紬?」
「……ごめん。何でもない」
紬は箸を下ろし、弁当箱の端に置いた。
それから、口元を手で覆う。
「気分が悪いの?」
「少しだけ。大丈夫」
返事をする声が、わずかに掠れていた。
「保健室に行く?」
「ううん。そこまでじゃないよ」
紬は首を横に振った。
「無理して食べなくてもいいわ」
「うん」
紬は小さく答えた。
そのあと、しばらく沈黙が続いた。
私は紬の顔を見ていた。
気分が悪いなら、休めばいい。
疲れているなら、今日は早く帰ればいい。
そういう話だけではない気がした。
でも、何が違うのかは分からなかった。
そのとき、千夏が別のクラスからやってきた。
「二人とも、お昼食べてる?」
「ええ」
「今日の授業、長かったー。もうお腹ぺこぺこ」
千夏はいつもの調子で話し始めた。
私はそれに応じながら、ときどき紬の様子を見た。
紬も会話には加わっている。
千夏が話せば返事をするし、笑うこともあった。
ただ、少し遅れる。
話を聞いているのに、反応するまでに間がある。
笑顔も、いつもより長く続かない。
「紬、どうしたの? 今日静かじゃない?」
千夏が尋ねた。
「そうかな?」
「うん。いつもより大人しい気がする」
「ちょっと疲れてるだけだよ」
「そっか。無理しないでね」
「うん。ありがとう」
紬はそう答えた。
千夏はそれ以上気にする様子もなく、別の話題に移った。
私は会話に相槌を打ちながら、紬の横顔を見ていた。
何かを隠しているのかもしれない。
けれど、それが何なのかは分からない。
今日の紬は、いつもと違う。
それだけは確かだった。
午後の授業が終わる頃には、紬の表情は朝よりも少しだけ柔らかくなっていた。
けれど、完全に戻ったわけではない。
帰り支度をしていると、紬が鞄の中を確認していた。
「準備できた?」
「うん。もう少し」
返事をしながら、紬は教科書をしまう。
その手が、一度止まった。
「紬?」
「……あ、ごめん。大丈夫」
「急がなくていいわよ」
「うん」
紬は鞄を閉じた。
教室を出て、廊下を歩く。
いつもなら、帰り道に何か話をする。
今日あったことや、明日の予定。特別な話ではなくても、二人で歩いていれば自然に言葉が出てきた。
今日は、しばらく沈黙が続いた。
紬は私の隣を歩いている。
けれど、少しだけ歩幅が合わない。
私が速度を落とすと、紬も遅くなる。少し先に出ると、今度は紬がこちらを気にするように歩く。
「今日、何かあった?」
結局、私はもう一度尋ねていた。
紬は少しだけ歩く速度を落とした。
「……何もないよ」
「そう」
「本当に大丈夫だから」
紬は私を見て、少しだけ笑った。
その笑顔は、朝よりも自然に見えた。
けれど、目元にはまだ硬さが残っていた。
私は、紬の言葉をそのまま受け取ることができなかった。
何もないのなら、どうしてそんな顔をするのだろう。
大丈夫なら、どうして何度も自分に言い聞かせるように答えるのだろう。
そう尋ねたくなった。
でも、私はその言葉を飲み込んだ。
「分かったわ」
そう答えると、紬は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
けれど、その直後、紬の足がわずかに止まった。
「紬?」
「……ごめん。ちょっと、気持ち悪くて」
紬は口元に手を当てた。
顔色が、さっきよりも悪く見える。
「大丈夫? 少し休みましょう」
「ううん。平気」
「でも、顔色が……」
「本当に、少しだけだから」
紬はそう言って、手を下ろした。
その手が、制服の裾を握る。
私は紬の顔を見つめた。
大丈夫ではないように見える。
けれど、紬は何とかいつもの表情に戻ろうとしていた。
口元がわずかに動く。
笑おうとしている。
その様子を見て、私は胸の奥が締めつけられるような気がした。
「紬」
「なに?」
「無理に笑わなくてもいいわ」
紬の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
それから、紬は視線を落とした。
「……笑ってないよ」
「そうね。ごめんなさい」
私はそれ以上、言葉を続けられなかった。
紬が何を考えているのか、私には分からない。
心配されたくないのかもしれない。
話したくないのかもしれない。
紬自身もどうすればいいかわかっていないのかもしれない。
どれも、私の想像でしかなかった。
「少し座れる場所を探しましょう。無理に歩かなくていいわ」
「でも……」
「帰るのは、落ち着いてからでもいいでしょう?」
紬はすぐには答えなかった。
少し迷ったあと、小さく頷く。
「……うん」
近くのベンチまで歩き、二人で腰を下ろした。
紬は俯いたまま、膝の上で手を重ねていた。
指先が、何度も自分の手のひらをなぞっている。
何かを確かめるように。
私は、その仕草から目を離せなかった。
入学式の日、紬が途中まで上げた手。
今日、何度も握り込んでいた手。
何か、つながりがあるのだろうか。
けれど、私には分からない。
「……澪」
しばらくして、紬が小さく口を開いた。
「なに?」
「ごめんね。心配かけて」
「謝らなくていいわ」
「でも、せっかく一緒に帰ってるのに」
「そんなこと、気にしなくていいのよ」
紬は俯いたまま、何も言わなかった。
その指先が、膝の上でぎゅっと握られる。
私は、そっと自分の手を隣に置いた。
触れるかどうか迷って、少しだけ距離を残す。
以前なら、迷わず手を握っていたかもしれない。
でも、今は違う。
紬がどうしてほしいのか、私には分からない。
だから、手を伸ばすことも、待つことも、少しだけ怖かった。
それでも、隣から離れたくはなかった。
しばらくして、紬の視線が私の手に向いた。
紬はそれを見つめたまま、動かなかった。
手を伸ばしかけて、止める。
その指が、ほんの少し震えていた。
私は何も言わなかった。
紬は自分の手を見下ろした。
それから、何かを振り払うように、膝の上で両手を強く握り合わせた。
その仕草は、私には理解できなかった。
ただ、紬が自分の手を見ているときの表情が、ひどく苦しそうだった。
「……紬」
呼びかけると、紬は小さく肩を揺らした。
「今日は、ゆっくり帰りましょう」
「……うん」
「明日も、無理はしないでね」
「うん」
紬は小さく頷いた。
その返事を聞いて、私は少しだけ息をついた。
けれど、安心はできなかった。
隣にいる紬の表情は、まだ硬いままだった。
何があったのかは分からない。
私に話せないことなのかもしれないし、話したくないことなのかもしれない。
それでも、今日の紬は、いつもと違っていた。
昔のように戻ってほしいわけではない。
今日、一緒に寄り道をしたときのように、これからも隣で話をしたい。
紬が何を好きで、何に笑って、何を考えているのか。
まだ知らないことはたくさんある。
それを知るのは、きっと一度にできることではない。
だから、今は隣にいる。
紬が話したくなったときに、聞けるように。
やがて、紬がこちらを向いた。
「……澪」
「なに?」
「明日も、一緒に帰ってくれる?」
思いがけない言葉だった。
私は一度目を瞬かせて、それから頷いた。
「もちろんよ」
「ありがとう」
紬は小さく笑った。
その笑顔は、まだ少しぎこちなかった。
それでも、今度は無理に笑おうとしているようには見えなかった。
「約束ね」
「うん。約束」
そう答えた紬の声は、いつもより弱かった。
私はその声を聞きながら、隣に座り続けた。
変わったところも、変わらないところも。
これから、もっと知っていきたい。
今はまだ、知らないことの方がずっと多いのだから。