TS転生した俺、サキュバスらしい   作:ほんきょー

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26.落ちない汚れ

 今日、精を得なければならない。

 

 身体の奥にある飢えは、少しずつ強くなっていた。

 

 まだ耐えられないほどではない。けれど、このまま先延ばしにすれば、いずれ自分では抑えられなくなる。

 

 それは分かっていた。

 

 だから、今日にした。

 

 いつも通りに過ごせばいい。

 

 必要なことを済ませて、帰る。それだけだ。

 

 そう決めていた。

 

     

 

 

 昼休み、澪と千夏と一緒に昼食を食べた。

 

 千夏が何かを話して、澪がそれに返す。私は二人のやり取りを聞きながら、ときどき会話に加わった。

 

 何でもない時間だった。

 

 千夏の話に笑って、澪の言葉に頷いて。

 

 少し前まで、こんなふうに誰かと昼食を食べることになるなんて思っていなかった。

 

 澪と再会できたこと。

 

 千夏とも、また一緒に過ごせるようになったこと。

 

 真帆と写真の話をしたこと。

 

 少しずつ、学校での時間が楽しくなっていた。

 

 明日も、こんなふうに過ごせたらいい。

 

 そう思った。

 

 けれど、今日の放課後には予定がある。

 

 私はそれを忘れたふりをして、千夏の話に笑った。

 

「紬、聞いてる?」

 

「えっ?」

 

「もう、またぼんやりしてる」

 

「ごめん。ちゃんと聞いてるよ」

 

「本当かなあ」

 

 千夏が疑わしそうに目を細める。

 

「本当だって」

 

「じゃあ、今の話を説明してみてよ」

 

「えっと……」

 

 私は少し考えてから、さっき聞いた内容を答えた。

 

「おお、正解!」

 

「ほらね」

 

「でも、ちょっと怪しかったよ?」

 

「千夏、意地悪ね」

 

 澪が笑う。

 

 私も笑った。

 

 こんな時間が続けばいい。

 

 そう願うこと自体は、もう止められなくなっていた。

 

 けれど、時間は進んでいく。

 

 放課後が近づくにつれて、胸の奥にある飢えを意識するようになった。

 

 今日しなければならない。

 

 そう決めているのに、帰りたくないと思ってしまう。

 

 澪と一緒に帰りたい。

 

 真帆と話したい。

 

 明日のことを考えていたい。

 

 そんなことを考えるほど、今日の予定が遠いものになればいいと思った。

 

 でも、なくなるわけではない。

 

     

 

 

 放課後、澪たちと別れた。

 

「また明日ね、紬」

 

「うん。また明日」

 

 澪はいつものように笑っていた。

 

 私も笑って返した。

 

 それから一人になって、駅へ向かった。

 

 いつものように、改札を通る前にトイレへ入る。

 

 鞄から着替えを取り出し、制服を脱いで私服に着替える。制服は丁寧に畳んで鞄にしまった。

 

 何度も繰り返してきた手順だった。

 

 場所は変えている。

 

 以前と同じ場所を使い続けるのは避けたかった。人目につかない場所を選び、相手を探す。

 

 やることは変わらない。

 

 相手を見つけて、近づいて、力を使う。

 

 そして、精を得る。

 

 それだけだ。

 

 ……それだけのはずだった。

 

 電車に揺られながら、私は窓の外を眺めていた。

 

 頭の中では、さっきまでの会話が何度も繰り返されている。

 

 澪の笑顔。

 

 千夏の声。

 

 真帆が写真を見せてくれたときのこと。

 

 考えないようにしようとすると、かえって思い出してしまう。

 

 どうして、こんな日に。

 

 いや、今日でなくても同じだ。

 

 いつかはしなければならない。

 

 それを分かっていたから、今日にした。

 

 私はスマートフォンをしまい、顔を上げた。

 

 目的の駅に着いた。

 

 ここで、いつも通りに済ませる。

 

 それだけだ。

 

     

 

 

 これまでに何十回、何百回と繰り返してきたことだ。

 

 相手を見つけることも、近づくことも、能力を使うことも。

 

 慣れている。

 

 そう思っていた。

 

 これまでだって、何度もやってきた。

 

 生きていくために必要なことだと、自分に言い聞かせてきた。

 

 それなのに、今日はなかなか足が進まなかった。

 

 もう帰りたい。

 

 何もせずに、施設に戻りたい。

 

 明日のことを考えながら、いつも通りに過ごしたい。

 

 そんな考えが浮かぶ。

 

 でも、帰ったところで飢えは消えない。

 

 先延ばしにした先に何があるのか、私は知っている。

 

 あのときのように、理性を失ってしまうくらいなら。

 

 自分で決めて、終わらせる。

 

 それが、今まで自分を保つために続けてきたことだった。

 

 私は息を吐いて、前を向いた。

 

     

 

 

 身体の奥に張り付いていた飢えが、少しずつ遠ざかり、確かに弱まっていくのを感じた。

 

 これでしばらくは大丈夫。

 

 身なりを整える。

 

 手についた汚れをティッシュで拭き取り、服に乱れがないか確かめた。

 

 いつも通りだった。

 

 何度もやってきたことだ。

 

 相手の方を一度だけ見る。

 

 名前も知らない。

 

 今日ここで会ったことも、いずれ忘れてしまうのだろう。

 

 私はその場を離れた。

 

 駅へ向かう途中、トイレに立ち寄る。

 

 制服に着替え、私服を鞄にしまった。

 

 帰りの電車を待つ間、スマートフォンで時間を確認する。

 

 思っていたより遅くなっていた。

 

 施設に帰ったら、夕食を食べて、宿題をしないといけない。

 

 明日の授業の準備もある。

 

 電車がホームに入ってきた。

 

 乗り込んで、空いている席に座る。

 

 窓の外を眺めた。

 

 飢えは満たされた。

 

 それで十分だった。

 

 いつもなら、そう考えて終わりにできた。

 

 けれど、今日は違った。

 

 澪の顔が浮かんだ。

 

 別れるときに見た笑顔。

 

 また明日、と言ってくれた声。

 

 真帆がカメラを見せてくれたときのこと。

 

 千夏と一緒に笑ったこと。

 

 思い出したくないわけではない。

 

 むしろ、忘れたくない。

 

 それなのに、思い出すたびに、さっきの自分が頭に浮かんでくる。

 

 どうして。

 

 どうして、こんなことをしているんだろう。

 

 ……違う。

 

 考えても仕方がない。

 

 これは必要なことだ。

 

 生きていくために、しなければならないことだった。

 

 今までだって、そうやって続けてきた。

 

 何も変わっていない。

 

 変わっていないはずなのに。

 

 喉の奥が、少しずつ詰まっていくような気がした。

 

 私は目を閉じた。

 

     

 

 

 施設に戻ってからも、落ち着かなかった。

 

 夕食を済ませ、部屋に戻る。

 

 いつもと同じ夜だった。

 

 身体の奥の飢えは収まっている。

 

 今日の目的は果たした。

 

 これでしばらくは、あの苦しさに追われずに済む。

 

 それなのに、気持ちは少しも軽くならなかった。

 

 ベッドに腰を下ろす。

 

 澪たちと過ごした時間を思い出していた。

 

 再会した日のこと。

 

 澪が私を見つけてくれたこと。

 

 あのとき、私は嬉しかった。

 

 もう会えないと思っていた人が、目の前にいた。

 

 名前を呼んでくれた。

 

 笑ってくれた。

 

 また話せるようになった。

 

 千夏もいた。

 

 真帆もいた。

 

 毎日、学校に行くのが少しずつ楽しみになっていた。

 

 そんな日々を過ごしていた。

 

 その一方で、私は今日も同じことをした。

 

 相手の意思を変えて、人目につかない場所へ連れていき、精を得た。

 

 何度も繰り返してきたことだった。

 

 慣れていたはずだった。

 

 必要なことだと割り切っていたはずだった。

 

 それなのに、今日はどうしても頭から離れない。

 

 澪たちと笑っていた自分。

 

 その数時間後に、あんなことをしていた自分。

 

 同じ私なのに、どうしてこんなに違うのだろう。

 

 何事もなかったように明日も学校へ行くのだろう。

 

 澪に挨拶をして、千夏と話して、真帆に会えば写真の話をするかもしれない。

 

 いつも通りに笑う。

 

 いつも通りに返事をする。

 

 何も知らないみんなの前で、普通の女の子として過ごす。

 

 それができてしまう。

 

 今日のことを隠して、何もなかったように振る舞えてしまう。

 

 それが、ひどく嫌だった。

 

 私は、みんなに何も話していない。

 

 自分が何者なのかも。

 

 何をして生きているのかも。

 

 何も知らないみんなは、私を友達だと思ってくれている。

 

 澪は、私と一緒に帰りたいと思ってくれている。

 

 真帆は、私と澪の写真を撮りたいと言ってくれた。

 

 千夏は、何でもない話をして笑ってくれる。

 

 その優しさを受け取っている。

 

 何も知らないままの人たちから、当たり前のように温かさをもらっている。

 

 私はそれを隠している。

 

 こんな自分を知られたくないから。

 

 知られたら、今の関係が壊れてしまうかもしれないから。

 

 それなのに、明日も同じように接してもらいたいと思っている。

 

 そんな自分が、ひどく汚く思えた。

 

「……気持ち悪い」

 

 声が漏れた。

 

 胃の奥が重くなる。

 

 何かが込み上げてくる。

 

 私は慌てて洗面台へ向かった。

 

 吐き気をこらえきれず、胃の中のものを吐き出した。

 

 身体が震えていた。

 

 苦しい。

 

 気持ち悪い。

 

 何度も経験してきたはずのことなのに。

 

 どうして今さら、こんなに苦しいのだろう。

 

 吐き終えても、しばらく洗面台から動けなかった。

 

 口をすすぐ。

 

 鏡に映った自分を見る。

 

 そこにいるのは、いつもの私だった。

 

 制服を着て、学校に通って、友達と笑っている私。

 

 でも、その内側にあるものは、誰にも知られていない。

 

 私は、化け物だ。

 

 普通の人と同じようには生きられない。

 

 そう思った。

 

     

 

 

 手を洗わなければ。

 

 そう思って、蛇口をひねった。

 

 冷たい水が流れ出す。

 

 両手を差し出し、石鹸をつける。

 

 指先から手のひらまで、丁寧にこすった。

 

 指の間も、爪の周りも、手首も。

 

 泡を流す。

 

 手のひらを見た。

 

 何もない。

 

 当たり前だった。

 

 目に見える汚れなんて、最初からない。

 

 それでも、汚いと思った。

 

 もう一度、石鹸をつける。

 

 今度はさっきより強くこすった。

 

 手の甲をこする。

 

 指を一本ずつ洗う。

 

 爪の間まで、何度も指先をこすった。

 

 水で流す。

 

 まだ足りない。

 

 もう一度。

 

 何度も洗った。

 

 水の音だけが聞こえる。

 

 指先が少し赤くなっている。

 

 それでも、やめられなかった。

 

 汚い。

 

 この手が汚い。

 

 この手で、澪の隣に座った。

 

 この手で、真帆から見せてもらった写真を受け取った。

 

 この手で、千夏と一緒にお弁当を広げた。

 

 みんなと過ごすときには、何も考えずに使っていた手だった。

 

 それなのに、今は。

 

 この手で、今日も同じことをした。

 

 この手で、何事もなかったように明日もみんなと過ごすつもりでいる。

 

 手を止めることができなかった。

 

 もう汚れていない。

 

 何も付いていない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、まだ汚い。

 

 洗っても、洗っても、何も変わらない。

 

 私は蛇口を閉めた。

 

 赤くなった手を見つめる。

 

 痛みがあった。

 

 それでも、汚れが落ちたとは思えなかった。

 

 手を拭く。

 

 もう一度、手のひらを確認する。

 

 何もない。

 

 当たり前だ。

 

 最初から、目に見える汚れなんてなかったのだから。

 

 それでも私は、自分の手を隠すように握り込んだ。

 

     

 

 

 翌朝、目を覚ましたときには、吐き気は治まっていた。

 

 身体の奥にある飢えも、今は感じない。

 

 昨日のことがなくなったわけではない。

 

 手の指先には、まだ少し赤みが残っていた。

 

 私はそれを見ないようにして、身支度を整えた。

 

 学校へ行かなければならない。

 

 澪に会う。

 

 千夏と話す。

 

 真帆とも、いつも通りに接する。

 

 昨日のことは、誰も知らない。

 

 知られていないのだから、普段通りにしていればいい。

 

 そう考えた。

 

 学校に着くと、澪がいた。

 

「おはよう、紬」

 

「おはよう」

 

 いつも通りに返事をする。

 

 できるだけ自然に。

 

 昨日のことなんて何もなかったように。

 

 澪は私の顔を見ていた。

 

 少しだけ、心配そうな表情だった。

 

 気付かれている。

 

 そう思った。

 

 何に気付いたのかは分からない。

 

 昨日のことを知っているはずはない。

 

 それでも、何かを見透かされているような気がした。

 

 怖い。

 

 聞かれるのが怖い。

 

 でも、心配してくれていることが嬉しかった。

 

 私は視線を逸らし、自分の席へ向かった。

 

 授業が始まっても、落ち着かなかった。

 

 先生の話を聞いているつもりなのに、内容が頭に入ってこない。

 

 ノートを取る手が止まる。

 

 少し遅れて、慌てて続きを書く。

 

 澪がこちらを見ている気がした。

 

 気にしないようにしようとするほど、意識してしまう。

 

 休み時間、澪が声をかけてきた。

 

「紬」

 

「なに?」

 

「今日、少し元気がないように見えるけれど」

 

「そうかな?」

 

「ええ。何かあった?」

 

「ううん。大丈夫だよ」

 

 私は笑おうとした。

 

 口元を少しだけ持ち上げる。

 

 大丈夫。

 

 何もない。

 

 そう答えればいい。

 

 そうすれば、今まで通りに過ごせる。

 

「本当に?」

 

「うん。ちょっと疲れてるだけ」

 

「そう……」

 

 澪はそれ以上、尋ねなかった。

 

 その優しさが、苦しかった。

 

 何も知らない。

 

 何も知らないまま、私を心配してくれている。

 

 私はそれを受け取っている。

 

 何事もなかったように、友達として接している。

 

 自分が何をしているのか知っているのに。

 

 どうして、こんなふうに笑えるのだろう。

 

 胃の奥が、じわりと重くなった。

 

 私は机の下で手を握った。

 

 大丈夫。

 

 何もなかったようにしていればいい。

 

     

 

 

 昼休みになって、澪と二人で昼食を食べ始めた。

 

 いつもなら、何かしら話をする。

 

 今日もそうしなければならない。

 

 何か話題を探そうとしたけれど、うまく言葉が出てこなかった。

 

「紬、お弁当あまり進んでいないわね」

 

「あ……そうだね」

 

 私は弁当箱を見た。

 

 箸を動かす。

 

 おかずを一つつまみ、口元へ運ぶ。

 

 けれど、そこで動きが止まった。

 

 食べなければ。

 

 普通に食べて、普通に話をして。

 

 そう思うのに、喉を通る気がしなかった。

 

「紬?」

 

「……ごめん。何でもない」

 

 箸を下ろした。

 

 口元を手で覆う。

 

 気持ち悪い。

 

 昨日のことを思い出したからだろうか。

 

 違う。

 

 昨日のことだけではない。

 

 何も知らない澪の前で、何もなかったように振る舞っている。

 

 そのことが、どうしようもなく嫌だった。

 

「気分が悪いの?」

 

「少しだけ。大丈夫」

 

「保健室に行く?」

 

「ううん。そこまでじゃないよ」

 

 私は首を横に振った。

 

 心配してほしくない。

 

 でも、心配してくれるのは嬉しい。

 

 こんな自分を気にかけてくれることが、嬉しくて仕方がない。

 

 そんなことを思う自分が、また嫌になる。

 

 そのとき、千夏がやってきた。

 

「二人とも、お昼食べてる?」

 

「ええ」

 

「今日の授業、長かったー。もうお腹ぺこぺこ」

 

 千夏はいつもの調子で話し始めた。

 

 私は会話に加わろうとした。

 

 返事をして、笑って、いつも通りに過ごそうとした。

 

 けれど、少し遅れる。

 

 千夏が話している内容を聞いているのに、反応するまでに間が空いてしまう。

 

「紬、どうしたの? 今日静かじゃない?」

 

「そうかな?」

 

「うん。いつもより大人しい気がする」

 

「ちょっと疲れてるだけだよ」

 

「そっか。無理しないでね」

 

「うん。ありがとう」

 

 千夏はそれ以上気にする様子もなく、別の話題に移った。

 

 私はその会話に笑顔を向けた。

 

 何も知らない二人。

 

 私が何をしているのかも、昨日どんなことをしていたのかも知らない。

 

 それなのに、私を友達だと思ってくれている。

 

 優しくしてくれる。

 

 笑いかけてくれる。

 

 その温かさを、私は当たり前のように受け取っている。

 

 胃の奥が、また重くなった。

 

 私は弁当箱の蓋を閉じた。

 

     

 

 

 午後の授業が終わる頃には、少しだけ気持ちが落ち着いていた。

 

 けれど、何かが変わったわけではない。

 

 帰り支度をしながら、澪の声を聞く。

 

 何も考えずに、いつも通り話せばいい。

 

 そう思っていた。

 

 教室を出て、廊下を歩く。

 

 澪は私の隣にいる。

 

 けれど、今日は何を話せばいいのか分からなかった。

 

 沈黙が続く。

 

「今日、何かあった?」

 

 澪が尋ねた。

 

「……何もないよ」

 

「そう」

 

「本当に大丈夫だから」

 

 私は澪を見て、少しだけ笑った。

 

 笑えているだろうか。

 

 ちゃんと、いつも通りに見えているだろうか。

 

 そう考えた瞬間、また胃の奥が重くなった。

 

「……ごめん。ちょっと、気持ち悪くて」

 

 口元に手を当てる。

 

 まただ。

 

 何もしていないのに。

 

 ただ澪と歩いているだけなのに。

 

 昨日の自分を隠して、今日の自分を演じている。

 

 そのことが、どうしようもなく苦しかった。

 

 澪は心配そうに私を見ていた。

 

「大丈夫? 少し休みましょう」

 

「ううん。平気」

 

「でも、顔色が……」

 

「本当に、少しだけだから」

 

 私はそう言って、何とか笑おうとした。

 

 無理に笑わなくてもいいわ。

 

 澪がそう言った。

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。

 

 気付かれている。

 

 怖い。

 

 何を見られているのだろう。

 

 どこまで気付かれているのだろう。

 

 何も知らないはずなのに。

 

 私は視線を落とした。

 

「……笑ってないよ」

 

 そう答えるのが精一杯だった。

 

 澪は、それ以上何も言わなかった。

 

 少し休もうと言って、近くのベンチまで一緒に歩いてくれた。

 

     

 

 

 ベンチに座ってからも、気持ちは落ち着かなかった。

 

 澪が隣にいる。

 

 私のことを心配してくれている。

 

 それが分かる。

 

 でも、私は何も話せない。

 

 話せるわけがない。

 

 自分が何者なのか。

 

 何をして生きているのか。

 

 どうして、こんなに自分のことが嫌いなのか。

 

 何一つ話せない。

 

 澪は、私のことを知らない。

 

 昔の私を知っている。

 

 今の私のことも、少しずつ知ろうとしてくれている。

 

 でも、本当のことは何も知らない。

 

 知られたくない。

 

 知られたら、きっと今のようにはいられなくなる。

 

 そう思うと、怖かった。

 

 それなのに、澪が心配してくれていることが嬉しい。

 

 私の異変に気付いてくれている。

 

 いつもと違うことを見ていてくれた。

 

 それが、どうしようもなく嬉しかった。

 

 矛盾している。

 

 気付かれたくない。

 

 気付いてほしい。

 

 近づいてほしい。

 

 近づかないでほしい。

 

 もう、どうすればいいのか分からなかった。

 

 澪の手が、私の隣に置かれていた。

 

 触れられるほど近くはない。

 

 でも、少し手を伸ばせば届く距離だった。

 

 その手を見つめる。

 

 手を伸ばしたいと思った。

 

 澪の手に触れたい。

 

 昔のように、何も考えずに手を繋ぎたい。

 

 けれど、自分の手を見ると、昨日のことを思い出した。

 

 汚い。

 

 こんな手で触れていいのだろうか。

 

 私は指先を少し動かした。

 

 伸ばしかけた手を止める。

 

 そのまま、膝の上へ戻した。

 

 何かを振り払うように、両手を強く握り合わせる。

 

 澪は何も言わなかった。

 

 その沈黙が、かえって苦しかった。

 

 気付かれている。

 

 何かがおかしいことは、きっと伝わっている。

 

 でも、何も聞かないでいてくれる。

 

 それが怖くて、嬉しかった。

 

「……澪」

 

「なに?」

 

「ごめんね。心配かけて」

 

「謝らなくていいわ」

 

「でも、せっかく一緒に帰ってるのに」

 

「そんなこと、気にしなくていいのよ」

 

 そんなこと。

 

 澪にとっては、きっと本当にそんなことなのだろう。

 

 少し体調が悪い友達と、帰り道に休んでいるだけ。

 

 それだけのこと。

 

 でも、私にとっては違う。

 

 私は、澪に知られたくないことを抱えている。

 

 それを隠したまま、こうして隣に座っている。

 

 それなのに、まだ一緒にいたいと思っている。

 

 私は化け物だ。

 

 普通の人と同じようには生きられない。

 

 どれだけ笑っていても、どれだけ穏やかな時間を過ごしていても、私の中にあるものは変わらない。

 

 これからも、きっと同じことを繰り返す。

 

 そのたびに、自分を嫌いになるのかもしれない。

 

 澪に知られたら、今の関係は終わってしまうかもしれない。

 

 それでも。

 

 澪と過ごす時間を、手放せるわけがなかった。

 

 離れた方がいいのかもしれない。

 

 何も知られないうちに、距離を置いた方がいいのかもしれない。

 

 でも、そんなことをしたくなかった。

 

 明日も会いたい。

 

 また話したい。

 

 隣を歩きたい。

 

 そんなことを願ってしまう。

 

 私は澪の方を見た。

 

「……澪」

 

「なに?」

 

「明日も、一緒に帰ってくれる?」

 

 口にしてから、胸の奥が痛くなった。

 

 こんなことを望んでいいのだろうか。

 

 こんな私が、まだ澪の隣にいたいと思っていいのだろうか。

 

 それでも、答えを聞きたかった。

 

 澪は一度目を瞬かせて、それから頷いた。

 

「もちろんよ」

 

「……ありがとう」

 

 嬉しかった。

 

 怖かった。

 

 どうしようもなく、嬉しかった。

 

 私は小さく笑った。

 

 いつか、私が化け物だと知られてしまう日が来るのかもしれない。

 

 そのときは、ちゃんと一人で死ぬから。

 

 だから、今だけは。

 

 澪と笑って、話して、一緒に帰って。

 この温かい時間を、もう少しだけ続けていたい。

 

 こんな私が望んでいいことではないのかもしれない。

 

 それでも、どうか今だけは。

 

 この温かさに浸っていることを、許してほしい。

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