TS転生した俺、サキュバスらしい 作:ほんきょー
あの日から、少しだけ気持ちが軽くなった。
何かが解決したわけではない。
自分が何者なのかも、これからどう生きていくのかも、何一つ変わっていない。
ただ、考えることをやめた。
いつか知られる日が来たら。そのときは、一人で死ぬ。
そう決めてしまえば、今すぐ答えを出す必要はなかった。
それまでは、今まで通りに過ごせばいい。
澪と話して、千夏と笑って、真帆の写真を見せてもらう。
そういう時間を、今は楽しんでいてもいい。
いつか終わるのなら、終わるまでの時間くらい。
そう思うようになってから、誰かと過ごすことに、以前ほど迷わなくなった。
なんだか普通に楽しめるようになった気がした。
体育祭が近づくと、教室の雰囲気も少しずつ変わっていった。
授業の合間には競技の話が出るようになり、休み時間にはクラスの出場種目や係について相談する声が聞こえてくる。
「リレーのメンバー、あと一人どうする?」
「短距離得意な人いたっけ」
「紬さん、走るの速かったよね?」
突然名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
「え、私?」
「うん。体力測定のとき、結構いい記録だったじゃん」
「まあ、そうだったね」
「出てみない?」
声をかけてきたのは、同じクラスの女子だった。
名前は知っている。授業で何度か話したこともあるけれど、こうして向こうから誘われるのは少し新鮮だった。
「私でよければいいよ」
「ほんと? 助かる!」
彼女は嬉しそうに笑い、近くにいた男子にも声をかけた。
「じゃあ、あと一人だね」
「俺、出ようか?」
「え、走れるの?」
「失礼だな!」
そんなやり取りに、周りから笑い声が上がる。
私もつられて笑った。
「じゃあ、よろしくね」
「うん。頑張ろう」
ただ、競技に誘われて、返事をしただけ。
それでも、少し前ならこういう輪に入ることはなかったかもしれない。
「紬、リレー出るの?」
隣から澪の声がした。
「うん。誘われちゃった」
「そうなの。楽しみね」
「澪は何に出るの?」
「私は綱引きよ。人数が足りないみたいだから」
「そっか。じゃあ、私も応援するね」
「紬も頑張ってね」
澪は穏やかに笑った。
その表情を見ていると、なんだか安心する。
「二人とも、競技決まった?」
近くにいたクラスメイトが話に加わってきた。
「私はリレーだよ」
「白石さんは綱引き?」
「ええ。そうよ」
「じゃあ、どっちも応援しないとね」
「ふふ。ありがとう」
澪が答える。
以前なら、こういう会話に自分が自然に混ざっていることを、躊躇していただろう。
今は、それほど気にならなかった。
体育祭当日。
朝から校庭にはテントが並び、クラスごとに集まった生徒たちの声が響いていた。
開会式を終えると、さっそく競技が始まった。
「紬、次の競技まで時間ある?」
澪がプログラムを見ながら尋ねてくる。
「うん。まだ少しあるよ」
「それなら、一緒に見て回らない?」
「いいね」
校庭の端では、別のクラスの生徒たちが大縄跳びの準備をしていた。
掛け声に合わせて何度も跳び、失敗するたびに笑い声が上がる。
「惜しい!」
「今のは引っかかった人が悪い!」
「いや、回す方が速すぎるんだって!」
そんな声を聞きながら、私たちは少し離れた場所で足を止めた。
「楽しそうね」
「うん。ああいうのもいいなあ」
「紬は出ないの?」
「今回はリレーだけかな。来年は出てみようかな」
「いいんじゃないかしら。紬なら何でもできそうだもの」
「それは言いすぎだよ」
澪が小さく笑う。
「じゃあ、来年は澪も何か出ようよ」
「そうね。考えておくわ」
「一緒に出られたら楽しそう」
「ふふ。そうね」
何でもない会話を交わしながら、私たちは校庭を眺めていた。
「あ、次の種目、そろそろじゃない?」
「本当だわ。戻りましょう」
午前の競技が一段落した頃、クラスのテントに戻ると、何人かが飲み物を手に休んでいた。
「お疲れー!」
「紬さん、次リレーだよね?」
「うん。もうすぐだね」
「頑張って! 応援してるから!」
「ありがとう。頑張るよ」
声をかけてくれた子に手を振る。
その隣では、男子がタオルで汗を拭きながら話していた。
「うちのクラス、今のところ結構いい順位じゃない?」
「午後で抜かされなければね」
「それを言うなよ」
「でも、リレーで勝てばまだ分からないでしょ」
その言葉に、何人かがこちらを見た。
「頼んだよ、紬!」
「プレッシャーかけないでよ」
私が苦笑すると、周りから笑いが起こった。
「まあ、でも期待してるから」
「うん。頑張るね」
少し前まで、クラスの中で自分がこうして声をかけられるとは思っていなかった。
誰かと話すことに、身構えなくなった。
誘われたら応じて、話しかけられたら返事をする。
それが、両親がいたときの自分のように自然にできるようになった。
「紬、そろそろ集合だって」
澪が教えてくれる。
「分かった。行ってくるね」
「ええ。応援しているわ」
「ありがとう」
私は立ち上がり、集合場所へ向かった。
リレーは、思っていたよりも緊張した。
走る順番を確認し、バトンの受け渡しを何度か練習する。
「次、紬さんだよね」
「うん」
「バトン落とさないようにしないとね」
「そこは頑張るよ」
「私も頑張る!」
前の走者が笑って、軽く拳を握った。
私も同じように拳を合わせる。
スタートの合図が鳴った。
走者が次々と走り出す。
声援が重なり、足音が近づいてくる。
「紬!」
バトンを受け取る。
地面を蹴った。
風が頬を撫でる。
前を走る背中を追いかける。少しずつ距離が縮まっていく。
あと少し。
最後まで走り切り、次の走者へバトンを渡した。
「頑張って!」
声をかけると、相手は頷いて走っていった。
走り終えた途端、身体に熱が広がる。
息を整えながら戻ると、クラスの子たちがこちらに集まってきた。
「お疲れ!」
「速かったじゃん!」
「最後、結構詰めてたよね!」
「ありがとう。みんなも速かったよ」
「結果、どうかな?」
「まだ分からないけど、いい勝負だったと思う」
そう答えると、みんなが一斉に結果発表の方を見た。
順位が発表される。
私たちのクラスは二位だった。
「惜しいー!」
「でも二位だよ、すごくない?」
「あとちょっとだったのに!」
悔しそうな声と、喜ぶ声が混ざる。
私も少し悔しかった。
けれど、それ以上に楽しかった。
「来年は一位取ろうね!」
誰かがそう言った。
「うん。今度こそ勝とうね」
私は笑って答えた。
「言ったね!」
「言ったよ」
周りの子たちが笑う。
私も笑った。
昼休み。
澪と一緒に弁当を食べていると、少し遅れて千夏がやってきた。
「お待たせー! 二人とも、午前中どうだった?」
「リレーは二位だったよ」
「おお、すごいじゃん!」
「惜しかったけどね」
「十分すごいって。澪は?」
「綱引きは勝ったわ」
「おお! さすが!」
千夏は自分の弁当を広げながら、午前中の競技の話を始めた。
千夏は別のクラスだから、私たちとは出場する競技も違う。
それでも、こうして昼休みに会えば、自然と話が続く。
「午後は何に出るの?」
「私は大玉転がし」
「それ、楽しそう!」
「見てる方はね。やる方は結構大変よ」
澪が少し困ったように笑った。
「紬は?」
「あとは応援かな」
「じゃあ、午後は私の応援よろしく!」
「もちろん」
「二人とも、ちゃんと見ててよね!」
「分かったわ」
千夏は満足そうに頷いた。
「そういえば、紬のクラスは今のところ何位?」
「リレーが二位だったから、全体でも結構いいところにいると思う」
「じゃあ、優勝も狙えるんじゃない?」
「どうだろう。午後の競技次第かな」
「よし、じゃあ私も応援してあげよう」
「自分のクラスはいいの?」
「もちろん自分のクラスも応援するよ!」
千夏が胸を張る。
「欲張りね」
「応援はいくらあってもいいでしょ」
澪の言葉に、千夏は笑って答えた。
何気ない話をしながら、弁当を食べる。
こういう時間が、好きだった。
午後の競技が始まると、校庭はさらに賑やかになった。
大玉が転がるたびに歓声が上がり、綱引きではクラスごとの声援がぶつかり合う。
千夏の出場する競技も、私と澪で応援した。
「千夏、頑張って!」
澪が声を張る。
「いけー!」
私も手を振った。
競技が終わると、千夏はこちらに気づいて、少し離れた場所から大きく手を振ってきた。
その姿に、私たちも手を振り返す。
やがて、すべての競技が終わった。
結果発表では、私たちのクラスは総合三位だった。
「三位かあ」
「悪くないんじゃない?」
「来年はもっと上を目指そうよ」
そんな声が聞こえる。
片付けが始まり、テントを畳んだり、道具を運んだりと、みんなで手分けして作業を進めていく。
「紬さん、そっち持ってくれる?」
「うん。これでいい?」
「そうそう。ありがとう!」
「どういたしまして」
道具を運び終えたところで、澪がこちらにやってきた。
「お疲れさま」
「澪もお疲れさま」
「今日は楽しかったわね」
「うん。思ってたよりずっと楽しかった」
澪と話していると、真帆がこちらへ歩いてきた。
「二人とも、お疲れさま」
「真帆もお疲れさま」
「今日はいっぱい写真を撮ったよ。二人にも見せたいのがあるんだ」
「どんな写真?」
「これ」
真帆がカメラの画面を見せてくれた。
そこには、私と澪が並んで話している姿が写っていた。
私は少し驚いた。
「いつの間に撮ったの?」
「片付けのときだよ。二人とも話していて、自然な感じだったから」
画面の中の私たちは、カメラに気づいていない。
澪は少し笑っていて、私はその方を向いていた。
「いい写真ね」
澪が画面を覗き込む。
「本当? よかった」
「なんだか、普段の私たちみたい」
「うん。そういう写真が撮りたかったんだ」
真帆は嬉しそうに笑った。
「二人が話しているところ、前から撮ってみたかったんだよね」
「ありがとう。大切にするね」
「私も。あとで送ってもらっていい?」
「もちろん!」
真帆は頷いた。
写真の中の私は、澪の方を向いて笑っていた。
自分では、こんな顔をしていたなんて知らなかった。
誰かと一緒にいるときの自分が、こんなふうに写ることもあるのだと思った。
そのあと、クラスの子たちが集合写真を撮ることになり、私たちもその輪に加わった。
「もう少し詰めてー!」
「後ろの人、見えてる?」
「大丈夫!」
誰かの掛け声に合わせて、みんなが並ぶ。
「紬さん、こっち!」
さっきリレーに誘ってくれた子が、私に手招きした。
「ここでいい?」
「うん、そこ!」
私は澪の隣に立った。
周りの子たちも、笑いながら場所を詰めていく。
「じゃあ撮るよー!」
シャッターが切られた。
その瞬間、周りから笑い声が上がった。
帰り道、澪と並んで歩いていた。
「今日は疲れたわね」
「うん。でも楽しかった」
「紬、リレーのとき頑張っていたものね」
「澪も綱引き、勝ててよかったね」
「ええ。みんなで力を合わせたから」
そんな話をしながら歩く。
体育祭のことを思い返すと、いろいろな場面が浮かんできた。
クラスの子たちと話したこと。
みんなで競技に出たこと。
澪と一緒に応援したこと。
真帆が撮ってくれた写真。
どれも、何でもない一日の出来事だ。
「また来年も、こうして一緒に楽しめるといいわね」
澪が言った。
「うん。そうだね」
私はすぐに頷いた。
来年も澪と一緒にいられたらいい。
そう思ったのは、本当だった。
秘密が知られたら、一人で死ぬ。
そう決めてから、楽しく生きることに抵抗がなくなった。
澪と一緒にいたいと思ってもいい。
また来年も、なんて約束してもいい。
その先のことは、考えなくてよかった。
「紬?」
「ん?」
「どうかした?」
「ううん。何でもないよ」
私は笑って、澪の隣を歩いた。
明日も学校がある。
また教室でみんなに会う。
それが楽しみだった。