紬に言われてから、私は人と話すとき、少しだけ気をつけるようになった。
相手が何を話したいのか、すぐに答えを出そうとせず、最後まで聞いてみる。気づいたことがあっても、すぐに口にするのではなく、一度考えてみる。
そうすれば、前よりもうまく話せるかもしれない。
実際、うまくいくこともあった。
休み時間に隣の席の子が昨日見たテレビの話をしていたとき、私は途中で口を挟まずに聞いた。話が終わってから感想を伝えると、その子は嬉しそうに笑ってくれた。
別の日には、何人かで遊ぶ約束をしている子たちに声をかけてみた。少し迷ったような顔をされたけれど、一緒に遊ぶことはできた。
前よりも、話しやすくなった気がした。
だから、もう少し頑張ってみようと思った。
ただ、いつもそうなるわけではなかった。
クラスには、いつも友達に囲まれている子がいた。千夏という名前で、明るくはっきりとものを言う。困っている子がいればすぐに手を貸すし、遊びを決めるときも、千夏が声をかければ自然とみんなが集まっていた。
私も、千夏たちと仲良くなれれば、みんなとも話しやすくなるかもしれない。
そんな期待も、少しはあった。
ある日の休み時間、千夏たちと鬼ごっこをしようとしていた。
「鬼ごっこにしようよ。鬼はタッチしたら交代ね!」
「待って。タッチしたのと、タッチしようとして触れなかったのは違うわよね?」
私が尋ねると、千夏は少し眉を寄せた。
「そりゃそうでしょ?」
「じゃあ、服に触れた場合は? 髪や持ち物に触れた場合もタッチしたことになるの?」
「えー、もう! 普通にタッチしたらでいいじゃん!」
千夏は少し困ったように笑った。
周りの子たちも、早く遊びたいという様子で私たちを見ていた。
「……分かったわ」
私はそれ以上、尋ねるのをやめた。
遊び始めると、みんなは楽しそうに走り回っていた。私も一緒に遊んだけれど、さっきのやり取りが頭に残っていた。
私が聞いたことは、そんなに困ることだったのだろうか。
髪や持ち物に触れた場合もタッチになるのか。それを決めておけば、あとで揉めずに済むと思っただけなのに。
それでも、みんなが早く遊びたがっていたことには、あとから気づいた。
私がもう少し周りに合わせればよかったのだろうか。
考えても、正解は分からなかった。
それからも、私はなるべく相手の話を最後まで聞くようにした。何か気づいても、すぐに指摘するのはやめた。
けれど、うまくいかないことは少しずつ増えていった。
前は休み時間になると声をかけてくれた子が、別の子と遊ぶようになった。
話しかければ返事はしてくれる。嫌なことを言われるわけでもない。けれど、以前より会話が短くなった気がした。
私が話している途中で、別の話題に移ってしまうこともあった。
最初は、たまたまだと思った。
みんなにも、その日の気分がある。私と遊びたくない日だってあるのだろう。
そう考えれば、気にすることではないはずだった。
それでも、何度か同じことが続くと、気になってしまった。
私の話し方がよくないのだろうか。
それとも、話を聞くときの態度が悪かったのだろうか。
紬に言われたことを思い出して、自分の言葉や行動を振り返った。
相手の話を最後まで聞いた。気づいたことをすぐに指摘するのも我慢した。遊びに誘うときも、みんなが何をしたいのかを先に聞くようにした。
それでも、前のようにはいかなかった。
私が何かを間違えたのなら、直したいと思った。
でも、何がいけなかったのか分からない。何を直せばいいのか分からないまま、次に誰かへ声をかけることが怖くなっていった。
今、話しかけてもいいのだろうか。
この話題で大丈夫だろうか。
変なことを言ってしまわないだろうか。
そんなことを考えているうちに、みんなが別の場所へ行ってしまうこともあった。
前は、こんなことを考えなくても話しかけられたのに。
それが少しずつ、難しくなっていった。
それでも私は、みんなと遊ぶことを諦めたくなかった。
誰かに誘ってもらえたら嬉しかったし、みんなが楽しそうに話しているのを見ると、私もそこに加わりたいと思った。
だから、千夏たちの輪に入れそうなときは、なるべく声をかけるようにした。
けれど、千夏と話していても、うまくいかないことがあった。
私が何かを尋ねると、千夏は面倒そうな顔をすることがあった。気づいたことを口にしても、困ったように笑って話を終わらせてしまう。
怒鳴られるわけでも、はっきりと拒絶されるわけでもない。
だからこそ、どうすればいいのか分からなかった。
もっと周りに合わせるべきなのか。気づいたことを黙っていたほうがいいのか。
何が正しいのか、私には分からなかった。
放課後、校門で待っていた紬と一緒に帰るとき、私は学校であったことを話すことが少なくなった。
「今日はどうだった?」
「普通よ」
「そっか。何か面白いことあった?」
「特にないわ」
授業で気になったことはあったし、休み時間にもいろいろなことがあった。けれど、それを話すには、どこから説明すればいいのか分からなかった。
言われたことを話しても、私自身、どうしてそうなったのか分かっていない。
紬に話したところで、困らせてしまうかもしれない。
そう思うと、話さないほうがいい気がした。
「澪、最近あんまり学校の話しないな」
「そうかしら?」
「うん。前はもっと話してくれた気がする」
「……そうだった?」
「そうだったと思うけど」
紬はそう言って、私の顔を覗き込んだ。
私は少しだけ目をそらした。
「別に、何もないのよ」
「そっか……うん、わかった」
紬はそれ以上、聞いてこなかった。
そのことに、ほっとした。
でも、少しだけ寂しいとも思った。
自分でも、どうしてほしいのか分からなかった。
何も聞かれなければ安心する。けれど、何も聞かれなければ、それはそれで寂しい。
そんな自分が、面倒で嫌になった。
それからも、紬と一緒に帰る時間は変わらなかった。
けれど、私が学校のことを話す機会は、少しずつ減っていった。
ある日、私は千夏たちが遊んでいるところへ声をかけた。
「私も一緒に遊んでいい?」
「ごめん、今、人数足りてるんだよね」
千夏がそう答えた。
周りの子たちは、こちらを見たり、互いに顔を見合わせたりしていた。
「そっか。分かったわ」
私はそれだけ言って、その場を離れた。
別に、遊べなかったこと自体は珍しくない。人数が足りているのなら、仕方がないのだろう。
そう思って教室に戻ろうとしたとき、後ろから笑い声が聞こえた。
振り返っても、誰が笑ったのかは分からなかった。
私のことを笑ったのかもしれない。そうではないのかもしれない。
確かめることはできなかった。
その日、家に帰るまで、私は何度もそのことを思い出した。
私が気にしすぎているだけなのだろうか。
みんなは、私と話すのが嫌になったのだろうか。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
次の日も、その次の日も、私はなるべくいつも通りに過ごそうとした。
けれど、誰かが楽しそうに話していると、そこに入っていいのか迷ってしまう。話しかけても返事が短いと、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。
そうしているうちに、私は自分から話しかける回数を減らしていた。
それでも、誰かが話しかけてくれれば、できるだけ普通に答えた。
嫌われたくなかった。
みんなと、前のように遊びたかった。
ただ、それだけだった。
ある日の放課後、いつものように紬と帰ろうとしたときだった。
「ごめん、今日は話したい人がいるんだ。先に帰っててくれる?」
紬にそう言われて、私は少しだけ驚いた。
小学校に入ってからは、放課後になるといつも紬と一緒に帰っていた。だから、紬から先に帰っていてほしいと言われるのは、少し珍しかった。
「そうなの? 分かったわ」
「うん。また明日な」
「ええ。また明日」
紬はそう言って、校舎のほうへ戻っていった。
私は一人で帰り始めた。
校門を出て、しばらく歩いたところで、ふと気づいた。
教室に、忘れ物をしていた。
明日でもいいかもしれない。けれど、なくなったら困るものだったので、私は学校へ引き返すことにした。
校舎に戻ると、廊下は静かだった。
教室へ向かって歩いていると、話し声が聞こえた。
私のクラスの教室からだった。
「でもさ、澪って、いちいち細かいこと言うよね」
千夏の声だった。
私は足を止めた。
「分かる。悪い子じゃないんだろうけど、ちょっと話しにくいよね」
「そうそう。何か言うと、すぐに理由とか聞いてくるし」
「こっちは普通に遊びたいだけなのにね」
何人かの声が重なった。
私は、その場から動けなかった。
自分のことを話しているのだと、すぐに分かった。
聞きたくなかった。
でも、足が動かなかった。
「別に、間違ったこと言ってるわけじゃないんだろうけどさ」
千夏が続けた。
「何でもかんでも、そんなにきっちりしなくてもいいじゃんって思うんだよね」
「うん。何か言われると、こっちが悪いみたいになるし」
胸のあたりが、ぎゅっと縮んだ気がした。
私は、そんなつもりじゃなかった。
みんなを困らせたかったわけでも、間違いを見つけて責めたかったわけでもない。
ただ、分からないことを聞いただけだった。
でも、みんなには、そう見えていたのだろうか。
私は俯いた。
今すぐ帰ってしまいたかった。
忘れ物なんて、どうでもよくなっていた。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「……ちょっと、いい?」
紬の声だった。
私は顔を上げた。
どうして、紬がここにいるのだろう。
千夏たちも、突然のことに驚いたようだった。
「え? どうしたの?」
「澪のことなんだけどさ」
紬は少し言いよどんだ。
私は教室の入り口から少し離れたところで、息を潜めた。
「澪って、ちゃんと考えてるんだよ。どうしたらみんなとうまく話せるか、自分なりに考えてるし……俺が話したことも、ちゃんと覚えてて、実践しようと頑張ってるんだ」
紬はいつもより少し早口で、苦しそうな表情を浮かべていた。
「それに、澪って、いろんなことによく気づくんだよ。俺が気づかなかったことを教えてくれることもあるし、分からないことがあったら、自分で調べたり、考えたりしてる」
私は目を見開いた。
紬は、そんなことまで覚えていたのだろうか。
「もちろん、言い方がきついときもあると思う。俺だって、全部が正しいとは言えないけど……」
そこで、紬は言葉を切った。
少しの沈黙があった。
「でも、澪が何か言うのって、みんなを困らせたいからじゃないと思うんだ」
紬の声が、少し小さくなった。
「澪だって、みんなと仲良くしたいんだよ。だから、どうしたらいいか考えてるんだ」
私は、ぎゅっと手を握った。
紬は、私がみんなと仲良くしたいと思っていることを知っていた。
私がうまく話せなくて、何度も考えていたことも。
誰にも話していなかったのに。
「だから……澪のこと、そういうところだけで決めつけないでほしいんだ。澪のいいところも、知ってほしいんだよ」
紬は少しだけ俯いた。
「……こんなこと、俺が勝手に言うのもおかしいのかもしれないけどさ」
それでも、紬は顔を上げた。
「……少しずつでもいいから、澪と話してみてほしいんだ」
最後の言葉は、少しだけ頼りなかった。
それでも、紬は最後まで言い切った。
教室の中は静かだった。
千夏たちは、すぐには返事をしなかった。
「でも、話しにくいのは本当だし……」
やがて、千夏がそう言った。
紬は、少し困ったような顔をした。
「……うん。そういうところがあるのは、分かるよ」
それでも、紬は続けた。
「でも、澪のこともっと知ってから決めてほしいんだ」
私は、もう顔を上げられなかった。
目の奥が熱くなっていた。
悲しかったのか、嬉しかったのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、紬が私のいないところで、私のことを話してくれていた。
私がうまくできないことも、きっと分かっていたはずなのに。
それでも、私のいいところを知ってほしいと言ってくれた。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
私は音を立てないように、そっとその場を離れた。
忘れ物のことは、もう頭になかった。
帰り道を歩きながら、何度も紬の言葉を思い返した。
澪だって、みんなと仲良くしたいんだよ。
私が、みんなと仲良くしたいと思っていること。
うまくできなくても、諦めずに頑張っていること。
紬は、ちゃんと分かってくれていた。
それだけじゃない。
紬は、私のいないところで、私のために動いてくれた。
私が頼んだわけでもないのに。
私が知らないところで。
どうして、そこまでしてくれるのだろう。
紬にとって、私はそれほど大切な存在なのだろうか。
そう考えると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
同時に、ふと、幼稚園の頃のことを思い出した。
紬がほかの子と迷路で遊んでいたとき。
私は、少しだけ嫌な気持ちになった。
あのときは、どうしてそんな気持ちになったのか分からなかった。
でも、今なら分かる気がした。
私は、紬と一緒にいたかったのだ。
紬には、私と遊んでいてほしかった。
私にとって紬は大切で、特別で、ほかの誰にも代えることのできない存在なのだから。
一緒にいると楽しい。
私の話を聞いてくれる。
困ったときには助けてくれる。
そんな紬を私は特別に思っている。
……けれど、それだけじゃない。
もし、紬が私以外の誰かを同じように大切にしていたら。
もし、紬が私の知らないところで、別の誰かのために同じことをしていたら。
嫌だ。
私は、紬にとって特別な存在でありたかった。
ほかの誰かと同じでは嫌だった。
誰よりも近くにいたかった。
紬が誰を大切にしようと、私が口を出すことではない。そんなことは分かっている。
それでも、紬には私を一番に思っていてほしかった。
……いつから、こんなふうに思っていたのだろう。
答えは出なかった。
ただ、紬の一番近くにいたい。
その願いだけは、はっきりとしていた。
次の日、紬はいつも通り校門で待っていた。
「お待たせ」
「ううん。今来たところ」
紬は、いつもと変わらない顔で笑った。
私は、その顔を見て、少しだけ安心した。
「澪、今日なんか静かだな」
紬が私の顔を覗き込んだ。
「いつもと変わらないわよ」
「そうかな。なんか、考えごとしてるみたいだったから」
「……気のせいよ」
私は少しだけ目をそらした。
昨日のことを聞きたかった。
どうして、あんなことを言ってくれたのか。いつから、私が悩んでいたことに気づいていたのか。
でも、いざ口にしようとすると、うまく言葉が出てこなかった。
「……何でもないわ」
「そっか……」
紬はそう答えたけれど、少し気にしているようだった。
私は、その横顔を見た。
やっぱり、紬は優しい。
ただ優しいだけではない。私が自分でもうまく説明できないことを、分かろうとしてくれる。
それが、嬉しかった。
「紬」
「ん?」
「……今日も、明日も一緒に帰ってくれる?」
紬は少し驚いたように目を瞬かせたあと、笑った。
「もちろん」
「そう」
私は前を向いた。
それ以上、何かを言う必要はなかった。
その日から、すぐに何もかもが変わったわけではない。
相変わらず、会話が続かないこともあったし、どう振る舞えばいいのか分からなくなることもあった。
けれど、少しだけ変わったこともあった。
ある日、休み時間に千夏が私のところへ来た。
「ねえ、澪。これ、どう思う?」
差し出されたのは、千夏が描いた絵だった。
私は絵を見た。
以前なら、気づいたことをすぐに口にしていたと思う。
けれど、今は少し考えてから答えた。
「……この色、きれいね」
「ほんと?」
「ええ。こっちの色と合っていると思うわ」
千夏は、少し嬉しそうに笑った。
「でしょ? ここ、けっこう頑張ったんだ」
千夏は絵の一部を指差して、描くときに工夫したことを話してくれた。
私は、その話を最後まで聞いた。
話が終わると、千夏は絵をしまいながら言った。
「また今度、見せてあげるね」
「ええ。楽しみにしているわ」
それだけのことだった。
でも、久しぶりに、誰かと自然に話せた気がした。
その後も、千夏と少しずつ話すことが増えていった。
すぐに仲良くなれたわけではない。ときには、また言葉がうまく伝わらないこともあった。
それでも、千夏が私の話を聞いてくれることが増えたし、私も千夏が何を伝えたいのか、以前より考えるようになった。
昼休み、千夏が私の机のそばにやってきた。
「ねえ、澪って、幼稚園から仲のいい子がいるんだよね?」
「ええ。紬っていうの」
「へえ。どんな子なの?」
私は少し考えた。
紬のことなら、いくらでも話せる気がした。
「紬はね、すごく優しいの。困っている子がいたら放っておけないし、誰かが失敗しても、すぐに責めたりしないのよ。それに、私がうまく話せないときも、ちゃんと聞いてくれるし……」
話しているうちに、次々と言いたいことが浮かんできた。
「あと、紬は人のことをよく見ているの。私が何も言わなくても、気づいてくれることがあるし、前に話したことも覚えていてくれるのよ。この前だって――」
「ちょ、ちょっと待って」
千夏が私の話を遮った。
「……澪って、そんなにしゃべるんだね」
「えっ?」
私は思わず千夏を見た。
「いや、さっきからすごい勢いじゃん。そんなに仲いいんだ?」
「そ、そうかしら?」
千夏は少し呆れたように笑っていた。
私は急に恥ずかしくなった。
紬のいいところを話していただけなのに、いつの間にか、こんなにたくさん話していたらしい。
「……でも、本当に優しいのよ」
「はいはい、分かったって」
千夏は肩をすくめた。
千夏は少し考えるように黙り込んだ。
やがて、くすっと笑って口を開いた。
「……二人とも、似すぎでしょ」
「何が?」
「なんでもない」
千夏は笑いをこらえるように顔をそらした。
私には、何がおかしいのか分からなかった。
でも、千夏が楽しそうに笑っているのを見て、私も少しだけ笑った。