小学五年生になり、クラス替えがあった。
俺と澪、それに千夏は同じクラスになった。
澪と千夏が普通に言葉を交わしているのも、今では珍しいことじゃない。昔のことを思えば、ずいぶん変わったものだと思う。
けれど、千夏はあの頃のことを今でもよく覚えているらしい。
「ねえ、紬」
朝、教室で顔を合わせるなり、千夏がにやにやしながら話しかけてきた。
「何?」
「紬ってさ、昔は澪のことになるとすごかったよね」
「……は?」
「ほら、あのとき。私たちに澪のいいところをいっぱい話してくれたじゃん」
「い、いや、あれは……」
「澪はちゃんと考えてるとか、誰よりも頑張ってるとか!」
千夏はわざとらしく俺の言葉を真似した。
「もういいだろ、その話!」
「えー、いいじゃん。あのときの紬、かっこよかったんだから!」
「だったらなおさら蒸し返すなよ!」
「あはは、ごめんごめん」
全然悪いと思っていなさそうな顔だった。
あのときは、澪がみんなから誤解されたままなのが嫌で、必死になって話しただけだ。
今になって思い返すと、少し恥ずかしい。
「……何の話?」
そこへ澪がやってきた。
「紬が昔、澪のことをめちゃくちゃ褒めてたって話!」
「ちょっと、千夏!」
俺が止めるより早く、千夏が身を乗り出した。
「だってさ、あのときの紬、本当に必死だったんだよ。澪にはいいところがいっぱいあるんだって、私たちに一生懸命説明してくれてさ!」
「へえ……」
澪が俺を見る。
「……そうだったわね。嬉しかったわ」
「だから、そういう反応もやめてくれって!」
「どうして? 嬉しいものは嬉しいでしょう?」
澪は不思議そうに首を傾げた。
……昔から澪のこういうところは変わらない。安心感すら感じる。
千夏はそんな澪を見て、また楽しそうに笑った。
「いやー、ほんと仲いいよね、二人」
「ええ、そうよ」
澪は得意げに胸を張った。
その顔を見て、俺たちは、そろって笑ってしまった。
休み時間。
「ねえ、紬。これ、どう思う?」
千夏がノートを開いて、俺に見せてきた。
そこには、女の子のイラストが描かれていた。髪や服の細かい部分まで丁寧に描かれている。
「おお、また描いたのか。上手いな」
「でしょ? 今回は服のデザインも頑張ったんだよ」
千夏は嬉しそうにノートを俺のほうへ寄せた。
「ここなんだけど、前より自然になったと思わない?」
「どれどれ……」
俺が顔を近づけると、千夏も身を乗り出してきた。気づけば、肩が触れそうなくらいの距離になっている。
「ほら、ここのところ! 前はもっと変だったんだけど、描き方を変えてみたんだ」
「へえ、言われてみれば……」
「そうでしょ? やっぱりこっちのほうがいいよね!」
千夏は興奮した様子で、さらにノートを指さした。
「……近いわよ」
横から声がした。
振り返ると、いつの間にか澪が立っていた。
「え?」
「顔が近いと言っているの」
「そう? 普通じゃない?」
「普通ではないと思うわ」
澪はそう言うと、千夏の肩に手を添え、俺から少し離れるように促した。
「ちょ、ちょっと、何するのよ!」
「紬が見づらそうだったから」
「いや、別に見づらくはなかったけど……」
俺がそう言うと、澪は一瞬だけこちらを見た。
「……そう」
それから、何事もなかったように俺の隣へ立った。
……なんだろう。
別に千夏と近づいて話すくらい、どうってことないと思うんだけど。
「まあいっか。澪も見る?」
千夏がノートを差し出した。
「ええ。見せてもらうわ」
澪はノートを覗き込んだ。
「ここ、前に見せてもらったものより上手くなっていると思うわ。特に服のしわの描き方が自然ね」
「ほんと?」
「ええ。ただ、ここの影は――」
「はいはい、そこは自分でも分かってるから!」
千夏が慌てて口を挟んだ。
「まだ何も言っていないじゃない」
「澪のことだから、どうせ細かいところを指摘するんでしょ」
「気づいたことを言おうとしただけよ」
「そういうところだってば」
千夏が頬を膨らませる。
澪は少し考えてから、口を開いた。
「……そうね。気になったところを伝えるのも、相手が望んでいるときにしたほうがいいわね」
「え?」
千夏が目を丸くした。
「私が気になったところでも、あなたが今、直したいと思っているところとは限らないもの。先に、そこを見てほしいのか聞けばよかったわ、ごめんなさい。」
「……あ、うん。そういうことなら、まあ」
千夏は少し拍子抜けしたような顔をした。
「ええ。次からは先に聞くわね」
「……うん」
二人のやり取りを見て、俺は思わず笑ってしまった。
澪は昔より、相手の話を聞こうとするようになった。
千夏も、澪の言葉を最初から拒絶することはなくなった。
それでも、二人のやり取りには変わらないところもある。
「ところで、紬」
千夏が俺に向き直った。
「今度、完成した絵も見せてあげるね」
「お、楽しみにしてる」
「……私にも見せてくれる?」
澪が尋ねた。
「もちろん。澪にも見せるよ」
「……そう。ありがとう」
澪は満足そうに頷いた。
それを見て、千夏が俺にだけ聞こえるくらいの声で囁いた。
「……ねえ、紬って、ほんと気づかないよね」
「何がだよ」
「え、そりゃあ澪の――」
「……千夏?」
寒気がするほど冷たい声が、横から響いた。
「……な、何?」
千夏の声が引きつる。
俺には、何のことだかさっぱり分からなかった。ただ、これ以上はやめておいたほうがいい。そんなふうに本能に訴えかけてくる何かが、今の澪にはあった。
放課後。
帰り支度をしていると、クラスの男子に声をかけられた。
「なあ、紬。ちょっといい?」
「ん? どうした?」
その子は、いつになく落ち着かない様子だった。
「あー……その、今度の日曜日、暇?」
「日曜日? まだ分かんないけど」
「そっか……」
男子は一度、ちらりと教室の周りを見た。
それから、意を決したように俺のほうを向いた。
「紬ってさ、俺と一緒にいても嫌じゃない?」
「え? 別に、そんなことないけど」
「そっか。よかった」
男子は少しだけほっとしたように笑ったあと、また緊張した顔になった。
「俺、紬ともっと仲良くなりたいんだ。……だから、今度の日曜日、一緒に遊びに行かない?」
「えっと……どうして俺と?」
男子は一瞬、言葉に詰まった。それから、少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「……紬と一緒にいると楽しいし、もっと一緒にいたいって思うから」
「……そっか」
「それで、その……」
男子は意を決したように顔を上げた。
「俺、紬のことが好きなんだ」
「……え?」
思わず固まった。
好き?
俺のことが?
いや、待て。俺は今、女の子の身体をしているわけだけど。
それでも、男にそういうことを言われると、なんというか……。
「えっと……ごめん。そういうの、よく分かんないから」
「そっか……。急にごめんな」
男子は気まずそうに笑って、友達のところへ戻っていった。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……紬」
隣から声がした。
澪だった。
「今の、何?」
「え? ああ、なんか一緒に遊びに行かないかって」
「それだけ?」
「うん。……あ、いや、好きだって言われたけど」
澪の表情が、すっと変わった。
「……好き?」
「うん。まあ、断ったけど」
「どうして、あんなことを言うのかしら」
「え?」
「紬が困っているのに」
澪は、男子が去っていったほうを睨むように見た。
「いや、別に悪いことをされたわけじゃないし……」
「でも、紬は困っていたでしょう?」
「まあ、それはそうだけど」
「……そう」
澪は納得していない様子だった。
帰り道も、いつもより口数が少なかった。
「澪、どうした? なんか機嫌悪い?」
「……別に」
「いや、絶対そうだろ」
「何でもないと言っているでしょう」
少し強い口調で返されて、俺は口を閉じた。
……なんだろう。
さっきの男子のことが気に入らなかったのだろうか。
でも、俺は断ったし、もう終わった話だ。
「……紬は」
しばらく歩いたあと、澪が口を開いた。
「これからも、ああいうことを言われるのかしら」
「さあ。俺に聞かれてもな」
「……そうね」
澪は俯いた。
その手が、鞄の持ち手をぎゅっと握っている。
俺はそれに気づかなかった。
ただ、澪がいつもより不機嫌そうなのが気になっていた。
「まあ、これからも何かあったら澪に話すよ」
「……私に?」
「うん。幼馴染だし」
そう言うと、澪は顔を上げた。
「……そうね」
さっきまでの不機嫌さが、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
俺は、澪の機嫌が直ったのならよかったと思った。
どうしてあんなに怒っていたのかは、結局よく分からなかった。
家に帰ると、母さんが台所で夕飯の支度をしていた。
「ただいま」
「おかえり、紬。手を洗っておいで」
「はーい」
手を洗って居間に戻ると、母さんがこちらを見た。
「そういえば、今日の学校はどうだった?」
「いつもどおりだよ。千夏と絵の話をしたくらいかな」
「千夏ちゃん? 前にうちに遊びに来た子よね」
「ああ、うん」
「澪ちゃんと仲直りしたあと、何度か遊びに来てくれたものね」
「そうそう」
母さんは嬉しそうに笑った。
「二人とも、仲良くできているのね」
「まあ、普通に話すくらいだけどな」
「それでも、いいことじゃない」
俺は頷いて、自分の部屋に戻った。
……そういえば、最近、制服や服を選ぶときに迷うことが減った。
最初の頃は、スカートを穿くのも、鏡に映る自分を見るのも、なんだか落ち着かなかった。
でも今ではもう、着替えるときにいちいち考えたりはしない。
今日も部屋着に着替えてから、なんとなく姿見の前に立った。
短く切った黒髪。整った顔立ち。自分で言うのもなんだけど、なかなか美人に育っていると思う。
……まあ、男だった頃の自分とは似ても似つかないけど。
それでも、今の自分の見た目が嫌いというわけではない。
女の子の身体になったことを、全部受け入れたと言えるかは分からない。
けれど、少なくとも、毎日の生活でいちいち戸惑うことはなくなった。
鏡の中の自分をもう一度眺めてみる。
……うん。やっぱり顔がいい。美人系だ。
思わず口元が緩んだ。別に自分で自分を褒めたところで誰に迷惑をかけるわけでもない。これだけ整った顔なら、多少は自慢したくもなる。
そんなことを考えていると、居間から母さんの声が聞こえた。
「紬ー、電話よー!」
「誰ー?」
「また澪ちゃんじゃない?」
……またか。
俺は居間に戻り、受話器を受け取った。
「もしもし、澪?」
『……紬?』
「おう。どうした?」
『今、何をしていたの?』
「着替えてた。さっき帰ってきたところ」
『そう。……今日、帰りに話したことだけど』
「ん? ああ、あの男子のこと?」
『……ええ』
「なんか、好きだって言われたんだよな。正直、びっくりした」
『……紬は、ああいう人が好きなの?』
「えっ? いや、別にそういうわけじゃないけど」
『……そう』
澪の声が、少しだけ柔らかくなった。
「なんだよ、気になるのか?」
『気になるわ。紬のことだもの』
「そっか。まあ、俺もよく分かんないけどさ」
『……なら、よかった』
「何が?」
『……何でもないわ』
澪はそう言って、話題を変えた。
それからは宿題のことや、明日の学校のことを話した。
電話を切る頃には、澪の声もいつもどおりに戻っていた。
夕飯の時間になると、父さんも帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい。ちょうどできたところよ」
母さんが料理を並べ、俺たちは食卓を囲んだ。
「そういえばさ、今日、学校で告白されたんだよね」
味噌汁を飲みながら、何気なくそう切り出した。
父さんの箸が止まった。
「……告白?」
普段あまり大きな反応をしない父さんが、珍しく目を丸くしている。
「うん。一緒に遊びに行こうって誘われて、そのあと好きだって」
母さんは目を輝かせた。
「まあ! 紬にもそういう季節が来たのね!」
「えっ、いや、その……」
父さんは箸を持ったまま固まっていた。俺と母さんを交互に見て、何か言おうとしては口を閉じる。
「そ、それで……どんな子なんだ?」
「同じクラスの男子だけど」
「そ、そうか。同じクラスか……」
父さんはなぜか妙に姿勢を正し、湯呑みに手を伸ばした。けれど、口をつける前にまた俺のほうをちらりと見る。
「断ったけどね。そういうの、まだよく分かんないし」
「あら、そうなの? でも、紬が自分で考えて決めたなら、それでいいと思うわ」
母さんは少し残念そうにしながらも、楽しそうな笑みを浮かべていた。
父さんは「……そうか」と小さく呟くと、ぎこちなく箸を動かし始めた。何度か俺のほうを見ては、目が合う前に慌てて食卓へ視線を戻していた。
学校であったことを少し話して、父さんの話を聞いて、母さんの作った夕飯を食べる。
何も変わらない、いつもの夜だった。