夏休みが近づいてきた、ある日の夕食。
「そういえば、今年の夏はどうするんだ?」
父さんが味噌汁を飲みながら、母さんに尋ねた。
「そうねえ。せっかくだし、どこかに出かけたいわね」
「海とか?」
俺が何気なく口にすると、母さんがぱっと顔を上げた。
「あら、いいじゃない! 紬、海に行きたいの?」
「うん。せっかくだし、みんなで行けたら楽しそうだなって」
「みんなで?」
「そう!澪と千夏も誘いたい!」
母さんは少し考えたあと、すぐに笑った。
「いいわね。せっかくだもの、みんなで行きましょう」
「二人のご両親にも予定を聞いてみないとな」
父さんもそう言って頷いた。
「ありがとう。二人は来てくれるかな?」
「きっと大丈夫よ、私から連絡しておくわね」
次の日の、夕食の席で母さんが教えてくれた。
「澪ちゃんも千夏ちゃんも、一緒に行けるそうよ」
「本当?」
「ええ。千夏ちゃんなんて、海に行けるって大喜びしていたわ」
「千夏らしいな」
「澪ちゃんも、誘ってくれてありがとうって言っていたわよ」
澪の様子を想像すると、なんだか自然と頬が緩んだ。
「そっか。よかった」
「ふふっ。紬も楽しみね」
「うん。二人と一緒に海に行きたいって思ってたから」
母さんは嬉しそうに笑い、父さんも満足そうに頷いた。
「じゃあ、当日に向けて準備しておかないとな」
「そうね。必要なものも少しずつ確認しておきましょう」
こうして、夏休みの旅行が決まった。
旅行の準備を進める中で、水着を買いに三人で出かけることになり、待ち合わせ場所に着くと、すでに千夏が待っていた。
「紬、遅い!」
「いや、約束の時間には間に合ってるだろ」
「私が早く来ただけ!」
「それを遅いとは言わないんだよ」
「細かいことはいいの!」
千夏はけらけらと笑った。
その隣で、澪が小さく息を吐く。
「……相変わらずね、あなたたちは」
「澪だって楽しみにしてたくせに」
「否定はしないわ」
澪は平然と答えた。
その言い方が妙に澪らしくて、俺は思わず笑う。
店に入ると、水着売り場には色とりどりの水着が並んでいた。
「うわあ、いっぱいある!」
千夏は目を輝かせながら、次々と水着を見て回る。
「紬はどんなのにする? こっちとかどう?」
「むずかしいな……」
そう言いながら、俺も並んだ水着を眺めた。
普段の服なら、ある程度は自分の好みで選べる。けれど、水着となると勝手が違った。
露出の多いものは、どうにも落ち着かない。
それに。
「……うーん」
自分の身体に目を落とす。
最近、着替えるときなどに薄々感じてはいたのだが、胸が以前より大きくなっている。
普段の服を着ているときは、それほど気にならない。けれど、水着を選んでいると、どうしても意識してしまう。
自分の身体なのだから、慣れていないわけではない。
それでも、こうして改めて成長を突きつけられると、なんとも言えない気分になった。
「……紬?」
澪に呼ばれて、俺は顔を上げた。
「ん? ああ、いや。何でもない」
「そう?」
「うん。とりあえず、あんまり派手じゃないやつがいいかな」
「じゃあ、こういうのは?」
澪が手に取ったのは、落ち着いた色合いの水着だった。飾りも控えめで、俺でも抵抗なく着られそうだ。
「お、いいかも」
「そういうの紬に似合いそう!」
千夏も隣から覗き込んで頷いた。
「じゃあ、これを試してみようかな」
ほかにも二人が選んでくれた水着をいくつか試着してみることにした。
試着室から出て二人に見せると、千夏はぱっと顔を明るくした。
「うん! やっぱり似合う! かわいいじゃん!」
「そうか?」
「そうだよ。ね、澪?」
話を振られた澪は、俺をじっと見つめてから、柔らかく微笑んだ。
「ええ。とてもよく似合っているわ。色も紬にぴったりだし、すごくかわいい。普段の服も似合っているけれど、こういう格好をした紬も素敵ね」
「えっ……あ、ありがとう」
「そうよ。紬は自分で思っているより、ずっとかわいいと思うわ」
「なっ……!」
「ねえ、紬。もう少しこっちを向いてくれる?」
「な、何でだよ……」
「ちゃんと見たいから」
澪は少しも照れずにそう言った。
あまりに真っ直ぐな言葉に、顔が熱くなる。ここまで言われると、どうしていいか分からなくなってしまう。
「……もういいだろ。早く着替えてくる!」
俺は二人から逃げるように試着室へ戻った。
背中越しに、千夏の楽しそうな声が聞こえる。
「へえー。澪ってば、ずいぶん素直に褒めるんだね?」
「似合っているものを、似合っていると言っただけよ」
「ふーん? それだけ?」
「……何か言いたいことでもあるの?」
「べっつにー?」
千夏は楽しそうに笑っていた。
着替え終わって試着室から出ると、二人は別の水着を見ながら話していた。
「どうしたんだ?」
「ううん、何でもないよ!」
千夏が妙に明るい声で答える。澪は何事もなかったような顔をしていた。
「それで、紬。さっきの水着にするの?」
「ああ。俺も気に入ったし、これにするよ」
「うん、いいと思う!」
「ええ。きっと海でも映えるわ」
「……もう、またそういうこと言う」
澪は小さく息をつき、紬から視線を外した。近くに並んでいた水着へと目を移し、何気ないふうを装う。
似合っていると思ったのは本当だ。かわいいとも思う。
紬は少し落ち着かない様子だったけれど、選んだ水着はよく似合っていた。本人も気に入ったようだし、よかった。
ただ、こうして普段とは違う格好をした紬は魅力的だから、周りの人の目を引くのではないかと気になってしまう。
紬の服装を自分が決めることではない。誰が見ようと、それを責める理由もない。そんなことは分かっている。
自分の気持ちを理由に、紬の行動を制限することはしたくない。
それでも、あまり大勢の人に見られてほしくないと思ってしまう。
分かっていることと、気持ちを割り切れることは別だった。
「澪、そっちは決まった?」
紬に声をかけられ、澪は顔を上げた。
「ええ。もう決めたわ」
「じゃあ、これで全員決まりだな」
「うん! 早く海に行きたいね!」
千夏の声が弾む。
そのあとも少し店を見て回り、帰り道にアイスを買った。
旅行の話をしながら歩く時間は、思っていた以上に楽しかった。
家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり。水着は買えた?」
「うん。これ」
買ってきた袋を見せると、母さんは興味津々といった様子で近づいてきた。
「見てもいい?」
「もちろん」
俺が袋から水着を取り出すと、母さんはそれを広げて眺めた。
「あら、かわいいじゃない! 紬にすごく似合いそうね」
「澪と千夏が選んでくれたんだよ」
「そうなの? 二人とも、紬に似合うものをよく分かっているのね」
「うん。俺も気に入ってる」
「ふふっ。実際に着たところも見てみたいわ」
「えっ、今?」
「いいじゃない。せっかく買ってきたんだもの」
母さんに促され、俺は少し迷いながらも水着を持って自分の部屋へ向かった。
着替えて戻ると、母さんは俺の姿を見て、ぱっと笑顔になった。
「あら、本当にかわいい! よく似合っているわ」
「そ、そうかな……」
「ええ。色もいいし、紬によく合っているわね。二人が選んでくれたのも納得だわ」
母さんは嬉しそうに俺の姿を眺めていた。
面と向かって褒められると、どうにも照れくさい。
「……もういいだろ。着替えてくる」
「あらあら。照れちゃって」
「照れてない!」
俺が言い返すと、母さんは楽しそうに笑った。
「旅行の日が楽しみね。写真もいっぱい撮らなくちゃ」
「みんなで写ってる写真とかも撮りたいな」
「ふふっ、いいわね。きっと良い思い出になるわ」
そんな話をしているところへ、父さんも帰宅した。
「紬が水着を買ってきたのよ。ほら、かわいいでしょう?」
母さんは水着を広げて、父さんにも見せた。
「ああ、かわいいよ。気に入ったものが見つかってよかった。」
「うん。ありがとう」
それから父さんは、少し言いにくそうに続けた。
「それから……海では、あまり一人で行動するなよ」
「え?」
「人も多いだろうし、何かあってからじゃ遅いからな。母さんや二人と一緒にいるんだぞ」
「うん、分かった」
「何か困ったことがあったら、遠慮せずに言いなさい」
父さんは少しだけ視線をそらした。
「……心配しすぎかもしれないが」
「そんなことないよ。ありがとう、父さん」
「お父さん、まだ海に行ってもいないのよ?」
母さんが笑いながら口を挟む。
「分かっている。だが、心配なものは心配なんだ」
「……心配してくれてありがとう。気をつけるよ」
俺がそう答えると、父さんは少し照れたように視線をそらした。
「ならいい」
父さんは鞄を置きに自分の部屋へ向かった。
その背中を見送りながら、母さんが小さく笑った。
「楽しみにしているのは、お父さんも同じなんだから」
「……そうなの?」
「ええ。さっきだって、仕事の合間に宿までの道を調べていたのよ」
「聞こえてるぞ」
部屋のほうから父さんの声が飛んできた。
「ふふ、ごめんなさい」
母さんは悪びれずに笑った。
それから母さんは、旅行に持っていくものを考え始めた。
「タオルは多めに持っていきましょうね。日焼け止めも必要だし、着替えも……」
「母さん、まだ何日も先だぞ」
「今のうちに考えておくの。直前になって慌てたくないでしょう?」
「それはそうだね。俺も忘れ物がないようにするよ」
夕食のあとには、父さんが調べた移動ルートを見せてくれた。
「途中で一度休憩を入れるつもりだ。渋滞していたら、もう少し時間がかかるかもしれない」
「そんなに遠いの?」
「そこそこな。だから、朝は早めに出るぞ」
「分かった」
「二人も一緒だから、途中で何かあったらすぐに言うんだぞ」
「うん。ありがとう、父さん」
父さんは確認するように頷き、母さんは横から持ち物のメモを差し出した。
「紬も、忘れ物がないように自分で確認するのよ」
「うん、ちゃんと確認しておく」
「それならよし」
母さんが満足そうに笑った。
結局、その日は夕食のあとまで旅行の話が続いた。
父さんは移動の予定を確認し、母さんは必要なものをメモしていた。俺も自分の持ち物を考えながら、時々二人の話に口を挟んだ。
いつもの家の中なのに、少しだけ浮き足立った空気が流れていた。
*
旅行の日が近づくにつれて、学校でも海の話をすることが増えた。
「ねえ、紬。海に行ったら何して遊ぶ?」
千夏が机に頬杖をつきながら聞いてきた。
「普通に泳いだり、砂浜で遊んだりじゃないか?」
「砂のお城作ろうよ!」
「小学生らしいなあ」
「何その言い方! 紬だって作るんだからね!」
「はいはい」
「澪もね!」
「ええ、いいわよ」
澪は即答した。
「いいね。澪も乗り気じゃん」
「せっかく三人で行くのだもの。楽しまないともったいないでしょう?」
その言葉に、千夏が少しだけ口元を緩めた。
「……ふふ、楽しみにしてたんだね」
「ええ。楽しみね」
千夏は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、当日はいっぱい遊ぼうね!」
放課後、三人で帰り道を歩く。
海の話をしたり、学校であったことを話したり。ときどき千夏がふざけて、澪が淡々と返し、俺がその間に口を挟む。
そんなもう当たり前になったやり取りを今日も繰り返す。
旅行当日。
待ち合わせた二人を車に乗せ、俺たちは海へ向かった。
「お邪魔します!」
千夏が元気よく挨拶すると、母さんが笑顔で迎えた。
「いらっしゃい。今日は楽しみましょうね」
「はい!」
澪もきちんと頭を下げる。
「今日はよろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ。いつもどおりでね」
「……はい」
父さんが運転席に座り、母さんが助手席に乗る。俺たち三人は後部座席に並んだ。
走り始めると、千夏が窓の外を眺めながら声を上げた。
「ねえ、海ってどれくらいで着くの?」
「まだしばらくかかるわよ」
母さんが振り返って答える。
「えー、早く着かないかなあ」
「そんなに急がなくても、海は逃げないわよ」
澪が言うと、千夏は頬を膨らませた。
「分かってるってば!」
俺は二人のやり取りを聞きながら笑った。
途中の休憩所で車を降りる。
「何か食べておくか?」
父さんが俺たちに尋ねた。
「うーん、今はいいかな」
「千夏ちゃんと澪ちゃんは?」
「私は大丈夫です!」
「私も大丈夫です」
「そうか。じゃあ、何かあったら言いなさい」
父さんはそう言って、母さんと一緒に飲み物を買いに行った。
戻ってきた母さんは、俺たちにも小さなお菓子を一袋ずつ渡してくれた。
「車の中で食べてもいいわよ。こぼさないように気を付けてね」
「ありがとう!」
千夏が嬉しそうに受け取る。
そんな寄り道を挟みながら、昼前には海に着いた。
車を降りて少し歩くと、視界いっぱいに青い海が広がった。
「うわあ……!」
千夏が思わず声を漏らす。
「すごいね、紬!」
「だな。思ったより広い」
波の音が絶え間なく聞こえてくる。潮の匂いも、照りつける日差しも、普段の生活とはまるで違っていた。
母さんが荷物を置きながら言った。
「遊ぶ前に、まず日焼け止めを塗りましょうね」
「えー、早く入りたい!」
「だめ。ちゃんと塗ってから」
「はーい……」
千夏が渋々返事をする。
澪は素直に日焼け止めを受け取っていた。
着替えを済ませ、三人で砂浜へ出る。
俺は水着姿の自分を改めて意識した。店で試着したときよりも、周囲に人がいるぶん、少し落ち着かない。
けれど、千夏はそんな俺の様子など気にせず、楽しそうに手を振った。
「紬、澪! 早く行こう!」
「分かったって!」
波打ち際まで駆けていくと、冷たい水が足に触れた。
「つめたっ!」
「当たり前でしょう?」
澪が呆れたように言う。
「いや、分かってたけどさ!」
千夏が俺に水をかけてきた。
「うわっ、やったな!」
「きゃっ!」
俺がやり返すと、千夏は笑いながら逃げていった。
澪も巻き込まれ、いつの間にか三人で水をかけ合っていた。
少し離れたところでは、父さんが俺たちの様子を見ながら写真を撮っている。
「お父さん、ちゃんと撮れた?」
母さんが横から画面を覗き込む。
「どうだろうな。動いているから、ぶれているかもしれない」
「あとで見せてね」
母さんも笑っていた。
遊び疲れたら砂浜に戻って休み、飲み物を飲んで、また海へ入る。
砂で大きな城を作ろうとして途中で崩れたり、泳いで競争したり。そんなことを繰り返しているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
途中、通りかかった人が俺たちのほうにちらりと目を向けた。
それを見て、澪はほんの少しだけ俺の近くに寄った。
「澪?」
「……何?」
「いや、どうかしたのかと思って」
「何でもないわ」
澪はそう答えたものの、俺の隣から離れようとはしなかった。
その様子を見ていた千夏が、にやりと笑う。
「澪って、ほんと紬のこと好きだよねえ」
「ええ。好きよ」
「……えっ」
千夏が一瞬、言葉に詰まった。
澪は不思議そうに千夏を見る。
「何かおかしい?」
「い、いや……そういうところ、ほんとすごいよね」
「何が?」
「何でもない!」
千夏は顔をそらした。
澪は首を傾げていたが、俺はいつものことだと思って、深く考えなかった。
昼食を食べたあとも、俺たちは海で遊んだ。
夕方が近づく頃には、さすがに疲れてきた。
「そろそろ休憩しましょうか」
母さんが声をかける。
「飲み物、買ってくるわね。千夏ちゃん、手伝ってくれる?」
「はい! 行きます!」
「俺も――」
「紬はここで休んでなさい。澪ちゃんも一緒にいてあげてね」
母さんに言われ、俺と澪は砂浜に残ることになった。
千夏は少しだけこちらを振り返り、意味ありげにニヤッと笑い、母さんたちについていった。
……何だ、あいつ。
俺は首を傾げながら、波打ち際に目を向けた。
澪が隣に座る。
「……楽しいわね」
「ああ。誘ってよかったよ」
「……ええ。本当に」
澪は波を眺めたまま、少しだけ笑った。
「また来たいわ。紬と一緒に」
「来年も来るか?」
「ええ、行きたい」
「じゃあ、またお願いしてみるよ」
「……楽しみにしているわ」
澪の声は穏やかだった。
俺はその横顔を見て、笑った。
「俺も、またみんなで来たいな」
澪は一瞬だけこちらを見たあと、静かに頷いた。
「……そうね」
波が寄せては返す音を聞きながら、俺たちはしばらく並んで座っていた。
やがて、母さんたちが飲み物を持って戻ってきた。
「お待たせ。二人とも、ちゃんと休めた?」
「うん。ありがとう」
俺は受け取った飲み物を一口飲んだ。
澪も小さく礼を言い、千夏は買ってきた飲み物を掲げて笑った。
「よーし、もうひと遊びしよう!」
「まだ遊ぶのかよ」
「当たり前じゃん!せっかく海に来たんだから!」
「はいはい」
俺たちはまた砂浜へ向かった。
その日の宿は、海から少し離れた場所にある旅館だった。
部屋に荷物を置き、順番に風呂へ入ったあと、五人で夕食を囲んだ。
並んだ料理を見て、千夏が目を輝かせる。
「わあ、すごい! こんなにあるの?」
「たくさん遊んだから、お腹も空いたでしょう?」
母さんが笑う。
「はい! いただきます!」
千夏は元気よく手を合わせた。
澪も「いただきます」と言って箸を取る。
「二人とも、今日は楽しめたか?」
父さんが尋ねると、千夏はすぐに頷いた。
「すっごく楽しかったです! 海もきれいだったし、みんなで遊べたし!」
「そうか。それならよかった」
「澪ちゃんは?」
母さんが尋ねる。
「……私も、とても楽しかったです。こんなふうに遠くまで出かけるのは、久しぶりなので」
「またいつでも来てね。紬も喜ぶから」
「はい」
そう言って澪はうれしそうに笑った。
「そういえば、二人とも苦手な食べ物はないか?」
父さんが尋ねる。
「私は大丈夫です!」
「私も、特にはありません」
「そうか。ならよかった。遠慮せず食べなさい」
母さんが二人の皿を見て、足りているか気にかける。
「おかわりもあるからね。たくさん遊んだんだもの」
「ありがとうございます」
澪が丁寧に礼を言うと、千夏も慌てて続いた。
「私もありがとうございます!」
「ふふ、二人ともそんなにかしこまらなくていいのよ」
夕食の間、学校の話や海であったことを話した。
千夏が砂の城を壊したのは俺のせいだと言い張り、俺が反論すると、母さんまで笑いながら千夏の味方をする。
「母さんまでそっちかよ!」
「あら、千夏ちゃん一生懸命作っていたもの」
「俺だって頑張ったぞ!」
「はいはい。二人とも頑張ったわね」
母さんは楽しそうに笑った。
父さんも小さく笑っていた。
「次はもっと大きいの作ろう!」
千夏が意気込む。
澪はそんな俺たちを眺めながら、箸を進めていた。
「……澪、どうした?」
「いいえ。何でもないわ」
「そうか?」
「ええ。ただ、賑やかだと思っただけ」
「いつもと変わらないだろ」
「そうね」
澪はそう言って、穏やかに笑った。
食事を終えたあと、部屋に戻ってからも、三人のおしゃべりは続いた。
今日撮った写真を見返したり、明日は何をしようか話したり。千夏が学校で流行っている遊びの話を始めると、澪も興味を持って聞いていた。
「ねえ、まだ遊ぼうよ!」
「明日は帰るんだから、あまり遅くまで起きていると寝坊するぞ」
「分かってるって!」
「本当に?」
「分かってるってば!」
千夏がむきになって言い返すと、澪が小さく笑った。
「……ふふっ」
「ちょっと、澪まで笑わないでよ!」
「ごめんなさい。つい」
「もう!」
千夏が頬を膨らませる。
澪は笑みを残したまま、俺たちを見た。
「こうして三人で旅行に来られてよかったわ。二人といると、普段とは違うこともたくさんできるもの」
「まあ、確かに。学校で遊ぶのとは違うよな」
俺が頷くと、千夏も枕を抱え直した。
「うん。今日も楽しかったし、明日帰るのがちょっともったいないくらい」
「そうね。私も、もう少し一緒にいたいと思うわ」
澪は、いつもより少し柔らかい声で続けた。
「あなたたちといると、本当に楽しいもの」
「……っ」
千夏がぴたりと止まった。
「……な、何よ。急にそんなこと言うから、びっくりしたじゃん」
「思ったことを言っただけよ」
「分かってるけどさ……」
千夏は頬を赤くしたまま、枕に顔を埋めた。
俺はそんな二人を見て、千夏をからかう。
「何だよ、千夏。照れてんの?」
「照れてない!」
「顔、赤いぞ」
「もう!」
千夏が枕を投げてくる。俺はそれを受け止め、また笑った。
澪も、いつもより少し楽しそうだった。
しばらくして、母さんが部屋の外から声をかけてきた。
「そろそろ寝なさいね。明日は帰るんだから」
「はーい!」
千夏が返事をする。
「おやすみなさい!」
「おやすみなさい。三人とも、ゆっくり休んでね」
澪も「おやすみなさい」と続けた。
母さんの足音が遠ざかる。
俺たちはもう少しだけ話してから、明日に備えて布団に入った。
隣から千夏の寝息が聞こえてくる。澪も静かに目を閉じていた。
今日一日のことを思い返すと、自然と笑みがこぼれた。
海で遊んで、みんなでご飯を食べて、夜遅くまで話して。
「……楽しかったな」
小さく呟くと、隣から澪の声が返ってきた。
「ええ。また来ましょうね」
「うん。またみんなで来よう」
「……ええ。約束よ」
澪の声を聞きながら、俺は目を閉じた。
明日になれば、この旅行も終わってしまう。
それでも、今日のことはきっと忘れない。
波の音も、千夏の笑い声も、澪と並んで座った時間も。
そんな夏の思い出を胸に、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。