TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
「あの、姫様。なぜ立ち止まっておられるのですか?」
エサソンが戸惑ったように声をかけてくる。無理もない。私たちは帝国金貨を換金するため、外へ出ようとしていたのだから。だが、部屋の中を土足で歩き回っていたと気づいてしまった以上、このまま出かけるわけにはいかない。私の中に残る日本人としての矜持が、それを許さなかった。
「あのね、エサソン。実はここ、靴を履いたまま入っちゃいけない場所だったの」
そう言いながら、私はスリッパを二足取り出して履き替えた。エサソンも私の言葉と様子から事情を察したのか、黙ってそれに倣う。続けて私はフローリングワイパーを引っ張り出し、ヘッドにウェットシートを取り付けて床を拭き始めた。
「え、あの、姫様? 何をなさっているのですか?」
「掃除」
短く答えるだけで、私は黙々と床を拭き続けた。背後から「皇女がそのようなことをなさるものではありません」という声が聞こえた気もするが、聞かなかったことにする。
ベッドの周り、PCデスクの下、座卓の脇。思い返せば、帝国の靴で踏み荒らした場所は一か所や二か所ではない。シートを裏返し、二枚目に替え、三枚目に替える。真っ白だったシートが灰色に染まっていくたび、罪悪感と妙な達成感が同時に込み上げてきた。
五歳の身体にとって、フローリングワイパーは槍のように長い。柄の先が何度も家具にぶつかり、そのたびにエサソンが無言で椅子や座卓を持ち上げてくれた。口では止めながらも、手伝うあたりがこの男らしい。
「……姫様。差し出がましいことを申しますが、本日の目的は金貨の換金だったはずでは?」
「分かってる。でも、これは譲れないの」
「床を拭くことが、でございますか」
「日本人の魂の問題なの」
エサソンは心底理解できないという顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、ため息まじりに玄関の三和土へ視線を落とす。
「では、この先は靴を履いてよろしいのですね?」
「そう。そこから先は外。家の中と外の境目が、あの一段なの」
「なるほど。帝国の城門のようなものですか」
「……まあ、だいたいそんな感じ」
ずいぶん物々しい比喩だが、否定するほど間違ってもいない。最後のシートを丸めてごみ箱へ放り込み、私はようやく腰を伸ばした。三十分近くかかっただろうか。換金へ向かう前から、すでに一仕事終えた気分だった。
改めて玄関へ向かい、スリッパを脱いで帝国の靴へ履き替える。宮殿の職人が仕立てた柔らかな革靴は、アパートの狭い三和土にまったく似合っていなかった。エサソンも同じように靴を履き、フードの位置をもう一度確かめる。
「では、今度こそ参りましょう」
「うん。外に出たら、私のことは……そうね、ルミって呼んで」
「ル、ルミ……様」
「様もいらない」
「……努力いたします」
喉に小骨でも刺さったような顔で答えるエサソンを横目に、私は玄関のドアノブへ手を伸ばしかけ――そこで、ぴたりと止まった。
待て。駅前の買取店までは、バスで十五分ほどかかる。その間、ドレス姿の銀髪幼女と、パーカーの下から長衣を覗かせる長身の男が、昼間のバス車内で立っているのだ。
どう考えても目立つ。同じバスに乗っている人に二度見され、運が悪ければ写真を撮られ、夜にはSNSで『近所にコスプレ親子がいた』と拡散されかねない。今の私たちにとって、それは一番避けたい展開だった。
人目に触れる時間を、できるだけ短くしたい。家の前から目的地の前まで、誰とも顔を合わせずに移動できる手段――。
そこまで考えたところで、男だった頃の記憶がふっとよみがえった。終電を逃した夜や、熱を出して病院へ行くとき、何度か世話になったものがある。
「そうだ、タクシーを呼べばいいんだ」
「たくしい、ですか?」
「お金を払うと、家の前まで迎えに来て、目的地まで運んでくれる馬車みたいなもの。中に入っちゃえば、外からはほとんど見られないの」
私はいったん部屋へ引き返し、机の上のスマートフォンを手に取った。配車アプリはまだ消さずに残っている。アカウントも、登録したクレジットカードもそのままだ。ありがたいことに、元の私は無精者だったらしい。
乗車地はアパートの前、行き先は駅前の貴金属買取店。慣れない小さな指で画面を叩き、配車を依頼する。ほどなくして、近くの車両が見つかったと表示され、到着まで六分という文字が浮かんだ。
「六分……一刻の十分の一ほどですか。そのような短い間に、本当に馬車が来るのですか?」
「来るよ。この国では、だいたいそういうものなの」
エサソンは信じられないという顔でスマホの画面を覗き込んだ。地図の上を小さな車の印が少しずつ近づいてくるたび、眼鏡の奥の目が細くなっていく。財務省の役人として、この仕組みにどれほどの人と金が動いているのか、早くも計算しているのかもしれない。
到着の通知が鳴ると同時に、私たちは靴を履いて玄関を出た。秋の乾いた風が頬を撫でる。外廊下から見下ろせば、アパートの前には黒いタクシーが一台、ハザードランプを点滅させて停まっていた。
人通りがないのを確かめてから、私はエサソンの袖を引いて階段を急いで下りた。
近づくと、運転席から五十代ほどの男性運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けてくれた。人の好さそうな顔に営業用の笑みを浮かべ――私たちを見た瞬間、その笑みがわずかに固まった。
「えっと……ご予約の、お客様ですよね?」
「はい、そうです」
答えたのは私だ。運転手の視線が、私のドレスと、フードを目深に被ったエサソンと、背後の古びた二階建てアパートとを、何度も往復する。
淡い青のドレスには銀糸の刺繍が施され、どう見てもその辺の量販店で買えるものではない。行き先は貴金属の買取店。どこかの令嬢が、執事か付き人を連れて宝飾品を売りに行く――そんな筋書きなら、まだ分からなくもないだろう。
問題は、その令嬢が出てきたのが、築三十年は経っていそうなアパートの一室だということだった。
「あの、お迎えはこちらで……合ってます、よね?」
「合ってます。駅前の買取店までお願いします」
運転手はもう一度アパートを見上げ、それから私の顔を見下ろした。何か言いたげに口を開きかけたが、プロとしての矜持がそれを押しとどめたらしい。「か、かしこまりました」とだけ言って、ぎこちなく運転席へ戻っていく。
バックミラー越しに、こちらをちらちらとうかがう視線を感じる。きっと今ごろ、頭の中では『没落した旧家のお嬢様』だの『訳ありの家庭』だの、ありとあらゆる事情が組み立てられているのだろう。
……うん。まあ、本当のことを知られるよりはいい。
私は後部座席へよじ登り、シートの端に腰を下ろした。続いて乗り込もうとしたエサソンは、長身を持て余してドアの縁に頭をぶつけ、フードの奥で小さく呻く。どうにか座席に収まると、彼は物珍しそうに車内を見回し、続いてドアが勝手に閉まったことに、肩をびくりと震わせた。
「……ルミ。今、扉がひとりでに」
「静かに。あとで説明するから」
小声で釘を刺し、私はシートベルトを引っ張った。運転手の困惑した視線と、隣で必死に平静を装うエルフ。その両方を感じながら、タクシーは静かに走り出した。
窓の外を、懐かしい日本の街並みが流れていく。帝国では馬車一台を手配するのにも身分と金が要るのに、ここでは指先一つで鉄の車がやって来る。隣のエサソンが窓に額を寄せたまま黙り込んでいるのは、きっとその意味に気づき始めたからだろう。
『これが姫様が暮らしていた世界ですか』
外では姫様と呼ばないよう言ったはずなのに――そう咎めかけて、私は口をつぐんだ。よく聞けば、エサソンが口にしているのはヴァルディア語だった。運転手に意味の通じない言葉でなら構わないと、早くも線引きを心得たらしい。私もそれに合わせ、ヴァルディア語で返す。
『ええ、そうよ。こんなサービスを、ごく普通の市民が当たり前に使える世界なの』
エサソンは終始あっけにとられていた。駅に近づくにつれて高いビルが立ち並び始めると、とうとう窓に張りついたまま、首を真上へ反らして動かなくなった。
『……姫様。あれは、城、なのですか?』
『ただの会社とかお店の入った建物。城なんて呼ぶほど立派なものじゃないよ』
『あの高さの石造りを、ただの商いのために……』
エサソンは言葉を失ったまま、流れていくビル群を目で追い続けた。帝国で最も高い建物といえば皇宮の塔だが、その塔ですら、駅前のありふれた雑居ビルにも届かないだろう。皇帝の威光を示すために何十年もかけて築かれたものが、ここでは名前も知られない建物として、いくつも無造作に並んでいる。
財務省で国の金の流れを見てきた彼には、その意味が痛いほど分かるのだろう。眼鏡の奥の瞳には、驚きよりも、どこか打ちのめされたような色が浮かんでいた。
信号で車が止まるたび、横断歩道を大勢の人が行き交う。スーツ姿の会社員、ベビーカーを押す母親、制服姿の学生たち。誰一人として兵士に怯えることも、身分の高い者に道を譲ることもなく、それぞれの用事のために歩いていく。
『民が、誰に頭を下げることもなく歩いている……』
『それがこの国の普通なの。私が欲しいのは、魔法でも金貨でもなくて、こういう当たり前なのよ』
小声で返すと、エサソンはしばらく黙ったまま、私の横顔を見つめていた。何かを言いかけ、けれど結局は言葉にせず、もう一度窓の外へ視線を戻す。
そんな私たちの会話を、運転手は聞き慣れない言葉として受け取ったらしい。バックミラー越しの視線に、新たな困惑が加わったのが分かる。外国のお嬢様と、その付き人――おそらく、彼の中ではそういう筋書きに落ち着いたのだろう。妙に納得したような顔で小さくうなずくと、それ以降は余計な詮索をせず、黙々とハンドルを握っていた。
やがてタクシーは大通りを外れ、駅の裏手へ回り込んだ。表通りの賑わいから一本外れただけで、人通りはぐっと少なくなる。その一角に、目的の買取店はあった。
ガラス張りの小さな店構えで、入り口の上には『金・プラチナ・ブランド品 高価買取』と書かれた看板が掲げられている。店の脇には、車が四、五台停められるほどの小さな駐車場があった。
「お客さん、こちらでよろしいですか?」
「はい。そこの駐車場に入ってください」
ウインカーの音が車内に響き、タクシーはゆっくりと駐車場へ滑り込んだ。タイヤが砂利を踏む小さな音とともに、車体が静かに止まる。
メーターに表示された金額を支払うと、後部座席の扉がひとりでに開いた。二度目とはいえまだ慣れないのか、エサソンはわずかに身構えながら車を降りる。続いて私も降りようとしたが、その前に運転手へ声をかけた。
「すみません。帰りもお願いしたいので、ここで待っていていただけますか?」
「あ、はい、もちろん大丈夫ですよ。ただ、待機料金がかかりますが、よろしいですか?」
「ええ、もちろん」
そう告げて、私はタクシーを降りた。エサソンを伴い、買取店の入り口へ向かう。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが左右に開くと同時に、店員の明るい声が店内に響いた。
『ひ、姫様。今、扉が勝手に……しかも、扉がすべて硝子でできております』
『黙って前を向いて。動じないの』
あの皮肉屋のエサソンが、目にするものすべてに驚いている姿は正直痛快だった。けれど、それを顔に出すわけにはいかない。私は何食わぬ表情を保った。
そのまま買取カウンターへまっすぐ歩いていくと、エサソンも慌ててあとに続いた。
「いらっしゃいませ、買取でしょうか?」
店員は私の姿を見て一瞬目を見開いたが、すぐに営業用の笑顔を取り戻して応対してくれた。
「ええ。お願いできるかしら」
そう答えると、私は財布から男だった頃の身分証を取り出し、エサソンへ手渡した。エサソンはそれを受け取り、布袋から出した帝国大金貨三枚と一緒にカウンターへ置く。店員は身分証の写真とエサソンの顔を見比べたが、特に怪しむ様子はなかった。どうやら、事前にかけておいた催眠の魔法はうまく効いているらしい。
「はい、確認いたします。こちらは一オンス金貨でしょうか? あいにく見たことのない意匠ですので、アンティークとしての価値はお付けできず、純粋に金としての査定になりますが、よろしいですか?」
「ええ、それで構わないわ」
店員は小さくうなずくと、カウンターの下から黒いトレーを取り出し、金貨を一枚ずつ丁寧に並べた。白い手袋をはめた指先でルーペを目に当て、表と裏、そして縁の刻みまでじっくりと確かめていく。
「……きれいな金貨ですね。摩耗もほとんどない。どちらで手に入れられたんですか?」
「祖父の遺品なの。どこの国のものかは、私も知らなくて」
あらかじめ用意しておいた答えを口にすると、店員は「なるほど」と曖昧に笑っただけで、それ以上は踏み込んでこなかった。こういう店では、出どころの分からない品も珍しくないのかもしれない。
次に店員は、金貨をデジタルスケールの上へ一枚ずつ載せていった。小さな液晶に、三十・〇〇グラム前後の数字が並ぶ。三枚とも、ほとんど誤差がない。
続いて取り出したのは、銃のような形をした機械だった。先端を金貨へ当ててボタンを押すと、数秒後に画面へ細かな数値が表示される。
『姫様……あの道具は、いったい何を?』
『金がどれだけ混じりけなしか、触るだけで調べる機械。魔法みたいなものだと思って』
『触れるだけで、純度を……』
エサソンはフードの奥で目を見開き、食い入るように機械を見つめていた。帝国では、金の純度を確かめるには試金石にこすりつけるか、一部を削って溶かすしかない。財務省で貨幣を扱ってきた彼にとって、傷ひとつつけずに数秒で結果が出るなど、魔法以上に信じがたい光景なのだろう。
「九九・九九パーセント……すごいですね。純金です。三枚とも同じ数値ですね」
店員は感心したように息をつき、画面と金貨を見比べた。それから電卓を手元へ引き寄せ、本日の相場表を確かめながら数字を打ち込んでいく。カタカタと乾いた音が響くたび、私の胸の鼓動も少しずつ早くなった。
「お待たせいたしました。本日の二十四金の買取価格が、一グラムあたり二万一千九百三十八円になります。一枚あたり三十グラムですので、一枚六十五万八千百四十円。三枚で――」
店員は電卓をくるりと回し、こちらへ向けた。
「合計、百九十七万四千四百二十円でのお買取りとなります。いかがでしょうか?」
……ひゃく、きゅうじゅう、なな万。
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。会社員だった頃の手取りなら、半年分を軽く超える金額だ。それが、たった三枚の金貨で。分かっていたつもりでも、実際に数字として突きつけられると、頭の芯がじんと痺れた。
『姫様、この数字は……』
『三枚で、この国の普通の働き手が一年近く暮らせるくらいのお金』
小声で答えると、エサソンはしばらく黙り込んだ。やがて、絞り出すような声がフードの奥から漏れる。
『……帝国では、大金貨一枚で農村がひと冬を越せます。それが、この国ではたった三枚で、一人が一年』
同じ金でも、それが持つ重みはまるで違う。帝国の貧しさと、この国の豊かさ。その差を、エサソンは数字で理解してしまったのだろう。
私は電卓の数字から目を離し、店員へ向き直った。ここで動揺を見せるわけにはいかない。皇女として二年間鍛えた作り笑いを、今こそ使うときだ。
「ええ。その金額でお願いします」
「かしこまりました。お受け取りは現金でよろしいですか?」
「いえ、十万円だけ現金でいただいて、残りは指定の口座へ振り込んでください」
さすがに、二百万円近い大金を五歳児の身体で持ち歩く度胸はない。
「かしこまりました。では、こちらの書類にご記入をお願いいたします」
「はい」
返事をするなり、私は椅子の上に膝立ちになってボールペンを手に取り、慣れた手つきで書類を埋め始めた。住所、氏名、振込先の口座番号――そこまで書いたところで、店員が目を丸くしてこちらを見ていることに気づく。本来なら、身分証の持ち主であるエサソンが書くべきものだ。しまった、と思ったが、今さら手を止めるほうがかえって不自然だった。私は何食わぬ顔で残りの欄を埋め、書類を店員へ差し出した。
これ以上ボロを出す前に退散したい。私は現金と控えを受け取ると、エサソンの袖を引いて足早に店を出た。そして駐車場で待っていてくれたタクシーに乗り込み、そのままアパートへと戻っていった。