TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
散々むにむにされた頬を、両手でそっとさする。痛くはないけれど、形が変わっていないか少しだけ心配だ。そうしている間も、エサソンは我関せずとばかりにタブレットを操作していた。私は恨めしさ半分で、その横顔をちらりと見やる。
「で、エサソンは何をしているの?」
「姫様とお話しした内容について、少し調べているところです」
エサソンは画面から目を離さずに答えた。この男、もうインターネットを使いこなしているのか。呆れるやら感心するやらで、思わず口が半開きになる。まあいい。それよりも、今日判明した問題を片づけよう。ずばり、日本で活動するための服だ。
私はPCを立ち上げ、まずはネットバンキングで預金残高を確かめた。帝国大金貨を換金した代金は、きちんと振り込まれている。並んだ数字を見て、ようやく肩の力が抜けた。そのうち五十万円を電子マネーへチャージし、服の通販サイトを開く。
「ルミィ様、それは服ですか?」
それまで目を丸くしてPCの画面を見つめていたリゼットが、服の一覧が表示された途端、身を乗り出して尋ねてきた。
「ええ。ここから気に入った服を選んで買えるのよ」
「まあ。お店へ行ったり、商人を呼んだりしなくても買えるのですか?」
目を輝かせるリゼットが微笑ましくて、私はくすりと笑いながら服選びを始めた。正確な寸法は分からないから、ワンピースを大体のサイズで選んでおこう。あとは、耳を隠すためのフード付きパーカーも必要かな。
「可愛らしい服ですね。こんな意匠の服は、この辺りでは見かけません」
リゼットの声が少し弾んでいる。それも無理はない。私のような貴族の子供が着る服は、装飾の華やかさに差こそあれ、基本的にはドレスばかりだ。平民がどんな服を着ているのかは、私にも分からない。ルミナは一度も宮殿の外へ出たことがないのだから。そう思い至ると、胸の奥がほんの少しだけちくりと痛んだ。
「姫様、インターネットで買い物ができるのですか?」
服を選んでいると、エサソンがタブレットから顔を上げて尋ねてきた。いつも澄ました彼が興味を示したのが少し可笑しくて、私はつい得意げな気分になる。
「ええ。特別なものでなければ、たいていの物は買えるわよ」
「そうですか。でしたら、幾つか用意していただきたいものがあるのですが、よろしいですか?」
改まった口調に、思わず身構える。この男がこういう言い方をするときは、たいてい面倒な話だ。
「いいけど、何?」
「今後セレンディアで農業を再開するにしても、土地はおそらく痩せ細っています。もともと連作障害を知らないまま耕作を続けてきたうえに、圧政で荒れ果てているでしょう。ですから、まずは土づくりから始めなければなりません」
思っていたよりずっと真っ当な提案に、私は目を瞬いた。先ほどから調べていたのは、このことだったらしい。身構えた自分が少しだけ恥ずかしくなる。
「土づくり? 具体的には何が必要なの?」
「苦土石灰、腐葉土、肥料、それからpH測定器ですね」
「苦土石灰って、畑にまく白い粉よね?」
俺だった頃、ホームセンターの園芸コーナーに、白い粉の袋が山積みになっていたのを思い出す。使ったことはないけれど、名前だけはなんとなく覚えていた。
「ええ。土の酸性を和らげるためのものだそうです。雨の多い土地や、同じ作物を作り続けた畑は、土が酸っぱくなりやすいのだとか。腐葉土は土を柔らかくし、水はけと水持ちを良くする。肥料は言うまでもなく、作物の栄養です」
エサソンがタブレットの画面をこちらへ向けた。家庭菜園の解説サイトらしく、可愛らしいイラスト付きで土づくりの手順が並んでいる。この男、つい先日まで自動ドアに完敗していたはずなのに。
悔しいやら頼もしいやらで、私は小さく唸った。
「……よく調べたわね」
「財務官の仕事は、数字の裏にあるものを確かめることですから。収穫量が落ちた理由が分からなければ、税をいくら下げても畑は戻りません」
さらりと言ってのける横顔に、思わず感心してしまう。けれど、画面を眺めているうちに、頭の片隅で何かが引っかかった。
芋と、石灰。……そういえば俺だった頃、園芸番組で何か言っていたような。
「ねえ、エサソン。ネルカ芋って、こっちのジャガイモに近いのよね?」
「ええ。姿も育ち方も、よく似ております」
「なら、石灰はまきすぎないほうがいいかも。ジャガイモって、確か少し酸っぱい土のほうが育ちやすいのよ。アルカリ寄りにすると、皮に病気が出やすくなるって聞いたことがあるわ」
エサソンの指が止まった。素早く画面を操作し、しばらく文字を追ったあと、眼鏡の奥の目をわずかに見開く。
「……そうか病、ですか。確かに書いてありますね。石灰を入れすぎると発生しやすくなる、と」
「でしょ?」
思わず胸を張る。いつも言い負かされてばかりなのだ。たまにはこのくらい、得意になってもいいだろう。
「だからこそ、測定器が必要なのです」
……と思ったのに、エサソンは表情一つ変えずに続けた。
「土地によって、土の状態は違います。闇雲に石灰をまくのではなく、まず測り、足りない分だけを補う。帝国の役人は数字を見ずに税を決め、畑を潰しました。私たちが同じ過ちを繰り返すわけにはいきません」
得意げに張った胸が、しゅるしゅるとしぼんでいく。どうやら、私が言いたかったことなど最初から織り込み済みだったらしい。
それでも、不思議と悔しくはなかった。帝国の過ちを、彼は誰よりも数字で見続けてきたのだ。その言葉には、画面の向こうから拾ってきた知識だけではない重みがあった。
「分かった。測定器は必ず買うわ。でも、量はどうするの? 三百人分の畑よ。ここから全部運ぶなんて無理じゃない?」
苦土石灰は、一袋で二十キロほどあるはずだ。通販なら玄関先までは届けてくれるが、そこから扉を通して馬車へ運ぶのは私たちの手だ。三百人分の畑を賄う量となれば、何十袋、いや何百袋になるのか。想像するだけで腰が痛くなる。
「ええ。すべてをこちらで賄うつもりはございません」
エサソンは画面を切り替え、別の頁を表示した。
「腐葉土は、落ち葉を積んで寝かせれば作れるそうです。森の扱いなら、エルフの得意とするところです。石灰の代わりには、貝殻や木灰も使えるとか。川辺の都市ですから、貝殻なら手に入るでしょう」
「じゃあ、こっちで買うのは……」
「手本です。正しく作られた土がどういうものか、まず見て、触れて、覚えるための。それと、向こうで代わりが作れるようになるまでの、最初の数区画分ですね」
なるほど、と思わずうなずいた。日本から物資を運び続けるのではなく、向こうで同じものを作れるようにする。扉がいつまで使えるか分からない以上、それが一番確実だ。
「……エサソン、もしかして最初から、そこまで考えていたの?」
「姫様が服を選んでいらっしゃる間に、少々」
服を選んでいる間に。その一言が、ちくりと胸に刺さる。私が可愛いワンピースに目移りしている横で、この男は国の土のことを考えていたのだ。
恐る恐る画面へ目を戻すと、買い物かごには、先ほど選んだワンピースとパーカーが仲良く並んでいた。
「ち、違うのよ? 服だって大事なの。耳を隠さないと、こっちじゃ外も歩けないんだから」
「存じております。ですから、何も申し上げておりません」
何も言われないのが、かえって一番堪える。
頬が熱くなるのを感じながら、私は咳払いを一つして、検索窓に「苦土石灰」と打ち込んだ。
「ルミィ様、これも一緒にお買いになるのですか?」
横から覗き込んだリゼットが、ずらりと並ぶ白い袋の写真に首を傾げる。
「ええ。服と一緒に、畑の土もね」
「まあ。皇女様のお買い物とは思えませんね」
くすくすと笑うリゼットにつられて、私も小さく笑った。確かに、ワンピースと苦土石灰を同じかごに入れる皇女など、どの世界を探してもいないだろう。
でも、それでいい。ドレスではなくパーカーを着て、宝石ではなく肥料を買う。それが、今の私にできる皇女の仕事なのだから。
苦土石灰を五袋、腐葉土を十袋、肥料を数種類。それから、土に挿すだけで測れる簡易の測定器を三本。確認画面を開くと、注文した品の重さは、合わせて三百キロ近くになっていた。
「……ねえ、エサソン。これ、届いたら誰が運ぶの?」
「無論、私が。姫様のお身体では、一袋も持ち上がりますまい」
当然のように言われ、少しだけほっとする。けれどエサソンはそこで言葉を切り、眼鏡の位置を直した。
「ただし、運んだ土を使うときは、姫様にも立ち会っていただきます。上に立つ者が土の重さを知らずに、民へ畑を任せることはできませんので」
思わずエサソンを見上げる。皮肉でも嫌味でもない、まっすぐな目だった。
帝国の皇族は、誰一人として土に触れたことがないだろう。だからこそ、平気で民の畑を潰せたのだ。
「……分かった。泥だらけになっても、文句は言わないわ」
「それを伺って安心いたしました」
私はうなずき、購入ボタンを押した。かちり、という小さなクリック音が、なんだか新しい国の最初の鍬入れのように聞こえた。
続いて服の通販サイトへ戻り、ほかに必要なものも買い物かごへ入れていく。園芸用品は量が多いせいか、届くのは一週間後らしい。一方、服は在庫のあるものばかり選んだので、明日には届くはずだ。最後にかごの中身を確かめ、こちらも購入ボタンを押した。
「よし、これで終わりね」
画面に表示された注文完了の文字を見て、私は満足げに息を吐いた。服も土も、これでひとまず手配できた。我ながら、なかなかの手際だと思う。
「終わりましたか?」
「ええ。待たせて悪かったわね」
「いえ。では、本日の魔法の授業へ移らせていただきます。今日は、簡単な催眠魔法を覚えていただきましょう」
「え? 催眠魔法?」
思いがけない言葉に、私は目を瞬いた。魔法の授業といえば、これまでは魔力の扱い方や基礎の術式ばかりだった。いきなり催眠とは、ずいぶん物騒な響きだ。
「はい。先ほど姫様が仰ったとおり、こちらで活動するには耳の対策が欠かせません。最終的には認識阻害の魔法で耳を誤魔化していただきますが、その前に、まず催眠魔法を覚えていただきます」
耳の対策。その一言で、嫌な予感が背筋を這い上がった。私はゆっくりとエサソンを見上げる。
「……でも、今日のエサソンは、そんなことしていなかったわよね?」
「ええ。姫様が、耳の対策にはあの服を着ればいいと仰いましたので」
当然のように返され、私は言葉に詰まった。確かにそう言った。言ったけれど。
「なんで先に言わないの?」
「おかしなことを仰いますね。換金の際、私が認識阻害の魔法を使い、店員に私を身分証の写真の人物だと認識させていたのは、姫様もご覧になっていたでしょう? 顔をそう見せられるのですから、耳を誤魔化せるのも道理ではありませんか」
「……待って。あれ、催眠魔法じゃなかったの?」
てっきり、店員を催眠にかけて信じ込ませたのだとばかり思っていた。私の問いに、エサソンはわずかに眉を上げる。
「違います。催眠魔法は、相手を催眠状態にして、こちらの言葉を信じやすくさせたり、特定の言動を促したりする魔法です。一方、認識阻害は、他者が自分をどう認識するかを、こちらの思い描いたとおりに見せる魔法。あのとき、私は店員の心には何ひとつ触れておりません」
「じゃあ、どうして催眠魔法から覚えるの? 耳を誤魔化すなら、認識阻害だけでいいじゃない」
「認識阻害は、相手の認識に自分の姿を重ねる精緻な術です。人の意識がどう揺らぎ、どこに隙が生まれるのかを知らなければ扱えません。それを最も分かりやすく学べるのが、催眠魔法なのです。まずは催眠、そのあとで認識阻害。順にお教えいたします」
説明は理路整然としていて、反論の余地がない。勝手に勘違いしていたのは私のほうだと分かり、頬がじわりと熱くなった。
眼鏡の奥の目は、心底不思議そうだった。悪気がないのが、かえって腹立たしい。順を追って覚えれば、耳は魔法で隠せる。つまり、耳を隠すために選んだパーカーは――私は画面の注文完了の文字と、エサソンの涼しい顔を交互に見比べ、頭を抱えた。
「いや、そうかもしれないけど、もう決済しちゃったじゃない! キャンセルしなきゃいけないじゃない! なんでもっと早く言ってくれないの⁉」
「キャンセルなさればよろしいでしょう」
エサソンはあっさりと言った。確かに、注文履歴を開けばキャンセルのボタンはすぐそこにある。ワンピースもパーカーも、まだ発送前だ。今なら何事もなかったことにできる。
私はマウスを握り、画面に並んだ服を一つずつ眺めた。ワンピースは、まあいい。認識阻害さえ覚えれば、耳を隠す必要もなくなるのだから。
けれど、パーカーのところで指が止まった。
「……でも、認識阻害を覚えるのって、催眠魔法のあとなのよね?」
「ええ。姫様の上達次第ですが、少なくとも数週間はかかるかと」
「その間、向こうに出かける用事ができたら?」
「……」
エサソンが黙った。珍しく言い返してこない彼の顔を見て、私は小さく胸を張る。勝った。何に勝ったのかはよく分からないけれど、とにかく勝った気がした。
「それに、魔法が切れたときの保険にもなるでしょう? フードを被っていれば、耳くらいはどうとでも誤魔化せるわ」
「一理ありますね。では、ワンピースだけお取り消しに?」
問われて、私はもう一度画面へ目を戻した。小花柄の、裾がふわりと広がる淡い色のワンピース。ドレスばかりの毎日の中で、ひと目見た瞬間に「着てみたい」と思ってしまった一着だ。
俺だった頃なら、見向きもしなかっただろう。それなのに今は、これを手放すのが惜しいと思っている自分がいる。その事実に気づいて、少しだけ複雑な気分になった。
「……ワンピースも、残しておくわ。パーカーだけだと、着回しに困るし」
「左様でございますか」
エサソンは何も言わず、眼鏡の位置を直しただけだった。その沈黙が、かえって何もかも見透かされているようで居心地が悪い。
「ルミィ様、そのお洋服が届いたら、ぜひ一度着てみせてくださいね」
横からリゼットが嬉しそうに覗き込んでくる。その笑顔を見てしまえば、もう言い訳を重ねる気にもなれなかった。
「……一回だけよ」
結局、注文は一つも取り消さなかった。私は熱くなった頬を隠すようにノートPCを閉じ、エサソンへ向き直る。
「さあ、授業を始めましょう。催眠魔法でも何でも、さっさと覚えてやるんだから」
「その意気込みが、最後まで続けばよいのですが」
相変わらずの皮肉に頬を膨らませながらも、私は姿勢を正した。届く服が無駄にならないよう、まずは目の前の魔法を覚えなければならない。
翌日の昼過ぎ、アパートのインターホンが軽やかな音を立てた。
五歳の私が玄関に出れば、配達員に余計な心配をかけるだけだ。結局、荷物の受け取りはエサソンに任せることになった。彼は認識阻害の魔法で自分を部屋の住人に見せかけ、何食わぬ顔で段ボール箱を抱えて戻ってくる。
「……こちらの世界の商人は、ずいぶん仕事が早いのですね。昨日頼んだ品が、もう届くとは」
「ここでは当たり前よ。さ、向こうへ戻って開けましょう」
ここで荷を解いてもいいのだが、この部屋は狭い。それに、着替えるなら姿見のある向こうの部屋のほうが都合がいい。
私は寝室へ続くはずの扉の前に立ち、ドアノブを握った。こちらのドアノブは向こうよりも低いのか、背伸びをしなくても手が届く。軽く引いて開けると、扉の向こうには見慣れたルミナの寝室が広がっていた。安っぽいフローリングの先に、磨かれた石床と厚い絨毯。蛍光灯の白い光が、窓から差し込む柔らかな陽光へと切り替わる境目は、何度見ても不思議な光景だ。
段ボール箱を抱えたエサソンが先に扉をくぐり、カッターを持った私とリゼットがあとに続く。最後に振り返ってアパートの部屋を確かめてから、私はリゼットに頼み扉を閉じてもらった。
天蓋付きのベッドの横に、茶色い段ボール箱がどすんと置かれる。豪奢な調度品の中で、配送ラベルの貼られたその箱だけがひどく場違いに見えて、思わず笑いそうになった。
はやる気持ちを抑えきれず、私はアパートから持ってきたカッターを構えた。……が、すぐにリゼットに取り上げられ、彼女が代わりにテープを切ってくれる。中から出てきたのは、ビニールに包まれた服の山だった。
「まあ……!」
リゼットが小さく声を上げる。真っ先に彼女の目を奪ったのは、小花柄のワンピースだった。
「ルミィ様、こちらが昨日お選びになったお洋服ですね。ぜひ一度、着てみせてくださいませ」
「え、今? 届いたばかりなのに?」
「届いたばかりだからこそ、でございます」
きらきらと目を輝かせて迫られ、私は思わず後ずさった。昨日「一回だけ」と約束してしまった手前、断る理由が見つからない。
観念してうなずくと、リゼットは嬉々として私を衝立の陰へ連れていき、慣れた手つきでドレスを脱がせていく。宮殿の重たい衣装に比べると、ワンピースは驚くほど軽かった。頭からすっぽりかぶるだけで、腰の帯も、背中の細かな留め具もない。
「あちらの世界のお洋服は、ずいぶんお手軽なのですね。……はい、できました」
促されて姿見の前に立つと、見慣れない少女が映っていた。淡い色の生地に小さな花が散り、裾はふわりと膝の上で広がっている。金の縁取りの鏡に、天蓋付きのベッドと重厚な家具。その真ん中に立っているのは、ドレス姿の皇女ではなく、日本のどこにでもいそうな女の子だった。髪と耳を除けば、向こうではきっと誰も振り返らないほど自然だろう。
その姿を見た瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。似合っている、と思ってしまった自分に気づき、慌てて目をそらす。
「よくお似合いです、ルミィ様! まるで花の精のようでございます」
「お、大げさよ。ただの普段着なんだから」
口ではそう言いながらも、つい裾をつまんで、くるりと一回転してしまう。ふわりと広がる生地が楽しくて、頬が勝手に緩んだ。リゼットの拍手がさらに大きくなり、私は我に返って動きを止める。
……今のは、なかったことにしたい。
「さて。それじゃあ、次はリゼットの番ね」
「……はい?」
照れ隠しを兼ねて段ボール箱の底を探り、もう一つの包みを取り出す。リゼットはきょとんと首を傾げた。
中身は、落ち着いた紺色のワンピースとカーディガン。それに、歩きやすそうな革のフラットシューズと、柔らかな綿の靴下が数足。昨日、自分の服を選ぶついでに、こっそりかごへ入れておいたものだ。
「これ、私に……ですか?」
「当たり前でしょう。私が向こうで出歩くなら、リゼットにも付いてきてもらわなきゃいけないもの。そのお仕着せじゃ、目立って仕方ないわ」
もっともらしい理由を並べてみたものの、本音は少し違う。いつも私の世話ばかりで、自分のことは後回しにしている彼女に、たまには何かを贈りたかった。けれど、それを口にするのは気恥ずかしくて、私は視線を段ボールへ落とした。
「サイズは、たぶん合っていると思うけど……もし合わなかったら言って。取り替えられるから」
返事がない。恐る恐る顔を上げると、リゼットは服を胸に抱いたまま、潤んだ目でこちらを見つめていた。
「……ルミィ様。ありがとうございます。大切にいたします」
いつもより少しだけ震えた声に、私のほうまで胸が詰まりそうになる。
「ほら、リゼットも着てみて。私だけ見られたんじゃ、不公平でしょう?」
「は、はい! すぐに!」
慌てて着替えに向かう背中を見送りながら、私は小さく息をついた。視界の端では、壁際に控えていたエサソンが、呆れたように眼鏡の位置を直している。
「……授業の時間は、とうに過ぎておりますが」
「あとちょっとだけ。リゼットの着替えを見たら、すぐに始めるから」
エサソンは深いため息をついたものの、それ以上は何も言わなかった。どうやら、今日ばかりは見逃してくれるらしい。
私は膝の上でワンピースの裾を整えながら、着替えを終えたリゼットが戻ってくるのを、そわそわと待った。
ほどなくして、衝立の陰から小さな衣擦れの音が止んだ。
「あの……ルミィ様。やはり、私には似合わないのではないかと……」
「いいから出てきて。似合うかどうかは、私が決めるわ」
しばらくのためらいのあと、リゼットは衝立の向こうからおずおずと姿を現した。
落ち着いた紺のワンピースに、生成りのカーディガン。足元は革のフラットシューズで、白い靴下がちらりと覗いている。いつものお仕着せと違い、腰回りを締めつけるものがないせいか、身体の線がずっと柔らかく見えた。普段はきっちりとまとめている髪も、着替えの拍子に少しほつれている。
そこにいたのは、宮殿の侍女ではなかった。石造りの壁と絨毯に囲まれた部屋の中で、彼女だけがまるで別の世界から迷い込んできたように見える。日本の街角ですれ違っても違和感のない、少し大人びたお姉さんだ。
「……っ」
思わず言葉を失った。選んだのは私なのに、想像していたよりずっと似合っている。
リゼットは裾を両手で握りしめ、落ち着かない様子で視線をさまよわせていた。膝丈の裾が気になるのか、しきりに引き下ろそうとしている。足首まで覆うスカートに慣れた彼女には、それだけでも心もとないのだろう。耳まで赤く染まっているのが、なんだか新鮮だった。
「ど、どうでしょうか……。脚がこんなに出ていて、はしたなくはございませんか?」
「全然。すごく似合ってるわ、リゼット。これなら、どこを歩いても大丈夫」
本心からそう言うと、リゼットはますます顔を赤くしてうつむいた。いつも私をからかってばかりの彼女が、今日ばかりは立場が逆だ。胸の奥で、ちょっとした意趣返しに成功した気分になる。
「ねえ、エサソンもそう思うでしょう?」
水を向けると、壁際のエサソンは眼鏡の位置を直し、リゼットを一瞥した。
「……あちらの世界の装いとして、不自然な点は見当たりません。目立たず行動するという目的には適っているかと」
「そうじゃなくて。可愛いかどうかを聞いてるの」
「職務に関係のない評価は控えさせていただきます」
相変わらずの返答に、私は頬を膨らませた。けれど、よく見ればエサソンの視線は、ほんの一瞬だけリゼットから外れるのが早かった気がする。……気のせいだろうか。
「では、私はこれで……」
すっかり縮こまったリゼットが、着替え直そうと衝立の陰へ戻りかける。私は慌ててその袖をつまんだ。
「待って。せっかくだから、今日はそのままでいて」
「ですが、このお姿でお世話をするのは……」
「人払いをしてある今だけよ。慣れておかないと、向こうで外に出たときに困るでしょう?」
もっともらしい理由をつけると、リゼットは困ったように眉を下げた。それでも、やがて小さくうなずき、カーディガンの前をそっと合わせる。その仕草がどこか嬉しそうに見えて、私の頬も自然と緩んだ。
「……授業を、始めてもよろしいですか」
エサソンの冷ややかな声に、私たちは顔を見合わせ、そろって姿勢を正した。豪奢な宮殿の一室で、ワンピース姿の皇女と侍女が並んで座る光景は、きっとひどく間の抜けたものだっただろう。それでも、この部屋に流れる空気は、宮殿のどこよりも温かかった。