TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
エサソンは壁際から窓辺の小卓へ移ると、私たちの正面に椅子を一脚引き寄せて腰を下ろした。眼鏡の位置を指先で直し、いつもの財務官らしい淡々とした口調で切り出す。
「では改めて。本日より、催眠魔法の授業を始めます」
その一言で、部屋の空気がわずかに引き締まった。隣に座るリゼットも、紺のワンピースの裾を両手で押さえ、背筋をぴんと伸ばしている。服装だけ見れば休日の姉妹のようなのに、二人そろって授業を受ける生徒の顔になっているのが、自分でも少しおかしかった。
「先に確認しておきます。催眠魔法とは何か、覚えておられますか?」
「相手を催眠状態にして、こちらの言葉を信じやすくしたり、特定の行動を取らせたりする魔法……でしょう?」
「結構です。昨日まで認識阻害と混同しておられた方とは思えませんね」
一言多い。私は頬を膨らませかけたが、ここで言い返せば授業が皮肉の応酬で終わってしまう。ぐっとこらえて、続きを促すようにうなずいた。
「人の意識には、波があります。張り詰めているとき、緩んでいるとき、何かに気を取られているとき。催眠魔法は、その波が最も低くなった瞬間に、こちらの魔力と言葉を滑り込ませる術です。力ずくで心をこじ開けるものではございません」
「つまり、相手が油断した瞬間を狙うってこと?」
「乱暴に言えば、そうなります。ですから最初に覚えていただくのは呪文ではなく、相手を観察することです。呼吸の速さ、瞬きの間隔、肩の力の入り具合。それらが揃って緩んだときが、意識の隙です」
思っていたよりずっと地味な話だった。魔法の授業というから、てっきり杖を振ったり、怪しげな光を放ったりするものだと期待していたのに、これではまるで営業研修の「相手の表情をよく見ましょう」だ。
けれど、エサソンが催眠から教えると決めた理由は、昨日の説明で分かっている。人の意識がどう揺らぎ、どこに隙が生まれるのかを知らなければ、いずれ学ぶ認識阻害も形にならない。地味な基礎こそが、遠回りに見えて一番の近道なのだろう。
「では、実際にやってみましょう。練習台は――」
「わ、私でよろしければ!」
エサソンが言い終える前に、リゼットが勢いよく手を挙げた。紺のワンピースの袖口から覗く手首が、緊張でかすかに震えている。
「リゼット、無理しなくていいのよ?」
「いいえ。ルミィ様のお役に立てるのでしたら、喜んで。それに、ルミィ様が初めて使われる魔法を、一番近くで見ていたいのです」
そんな健気なことを言われてしまえば、断れるはずもない。私はリゼットと向かい合うように椅子の位置を直し、小さく息を吸った。
「まずは、リゼット殿の呼吸に合わせてください。姫様ご自身の呼吸を、相手の呼吸へ重ねるのです。吸って……吐いて……」
エサソンの低く平坦な声が、一定の調子で部屋に響く。私は言われたとおり、リゼットの胸元がゆっくり上下するのを見つめ、それに合わせて息を吸い、吐いた。
吸って、吐いて。窓から差し込む午後の陽射しが、ぽかぽかと背中を温める。届いたばかりの服の試着で散々はしゃいだし、リゼットに着せ替えられたせいで、思ったより体力も使っていた。
「そのまま、瞬きの間隔を数えて。肩の力が抜けていくのを感じ取ってください。ゆっくりと、深く……」
吸って、吐いて。リゼットの瞬きが、少しずつゆっくりになっていく。いい感じだ。きっと、もうすぐ意識の波が低くなる。そこへ魔力を――魔力、を……。
まぶたが、重い。
五歳の身体というのは、どうしてこうも正直なのだろう。温かい陽射しと、単調な声と、一定のリズムの呼吸。眠りに落ちる条件が、あまりにも完璧にそろいすぎていた。
「……様。姫様」
はっと顔を上げると、目の前ではリゼットがぱっちりと目を開け、口元を押さえて肩を震わせていた。その隣で、エサソンが眼鏡の奥から心底呆れた視線をこちらへ向けている。
「念のため伺いますが、催眠をかける側が先に寝てどうなさるのですか」
「ね、寝てない! ちょっと目を閉じて、集中してただけだから!」
「口元に涎の跡がございますが」
慌てて手の甲で口元を拭う。……濡れていた。
リゼットがついに堪えきれず、小さく吹き出した。私は熱くなった顔を両手で覆い、椅子の上で縮こまる。国家再建の切り札になるはずの魔法の、記念すべき最初の一回。その被験者第一号は、どうやら私自身だったらしい。
「よろしい。本日の最初の学びは、意識の隙は相手だけでなく、術者にも生まれるということです」
淡々と告げるエサソンの声には、皮肉と一緒に、ほんのわずかな笑いが混じっているような気がした。
このまま引き下がるわけにはいかない。私は椅子から勢いよく立ち上がると、つかつかと窓辺へ歩み寄り、カーテンを半分ほど引いた。背中をぽかぽかと温めていた陽射しが遮られ、部屋の中がほんの少しだけ薄暗くなる。
続けてベッド脇の小机へ向かい、水差しの水を両手にすくって、ためらいなく顔へ叩きつけた。保存魔法で冷たく保たれた水が頬を打ち、眠気の残りかすを一気に吹き飛ばしていく。
「ル、ルミィ様⁉ お顔が! せっかくのお洋服が!」
「平気よ。少し濡れただけだから」
慌てて布を手に駆け寄ってくるリゼットに顔を拭かれながら、私はエサソンへ向き直った。もう一つ、どうしても言っておかなければならないことがある。
「それから、エサソン。悪いんだけど、さっきみたいに横で数を数えるのはやめてもらえる?」
「なぜでしょう。呼吸を合わせるには、一定の拍子を示すのが最も確実ですが」
「先生の声、低くて平坦で、子守唄みたいなのよ」
エサソンの眉がぴくりと跳ねた。財務省では数字の誤りを淡々と指摘し続けてきた男の声が、五歳児を寝かしつける子守唄扱いである。本人にとっては、なかなかの屈辱だったらしい。
「……承知いたしました。では、姫様ご自身の声でリゼット殿を導いてください。本来、催眠魔法は術者自身の言葉で行うものです。そのほうが、姫様の練習にもなりましょう」
皮肉の一つでも返ってくるかと思ったが、意外にも素直な提案だった。もっとも、眼鏡の奥の目が微妙に笑っていないあたり、根に持っていないとは言い切れない。
最後に、私は椅子を使わず、リゼットの正面に立ったまま向かい合うことにした。座っていると、どうしても身体が楽をしようとする。立っていれば、さすがに寝落ちはしないはずだ。
「では、リゼット。もう一回お願いね」
「はい、ルミィ様。今度は、私が眠ってしまわないよう気をつけますね」
くすりと笑うリゼットに、私は小さく頬を膨らませた。眠ってもらわないと困るのだけれど、と言いかけて、やめておく。余計な言葉で彼女の緊張を高めては、意識の波が低くなるどころではない。
私は小さく息を吸い、リゼットの胸元へ視線を落とした。紺のワンピースの襟元が、ゆっくりと上下している。その動きに、自分の呼吸を重ねていく。
「ゆっくり吸って……ゆっくり吐いて……」
自分の声で口にしてみると、思っていたよりずっと難しかった。速すぎれば急かすようになり、遅すぎれば間延びする。会社員時代、緊張した新人の話をうなずきながら聞いていたときのように、相手の呼吸の速さへ少しずつ声の調子を寄せていく。
何度目かの呼吸で、リゼットの肩がすとんと下がった。瞬きの間隔が伸び、まぶたが半分ほど落ちたところで、ふわりと止まる。口元は穏やかに緩み、組んでいた指からも力が抜けていた。
――今だ。
直感に近い確信があった。私は胸の奥にある魔力の流れを意識し、細い糸を紡ぐように、ほんのわずかだけ外へ引き出した。それを、リゼットの呼吸の隙間へそっと滑り込ませる。
「右手を……少しだけ、上げて」
声は、自分でも驚くほど小さかった。命令というより、お願いに近い。それでも、言葉と一緒に魔力の糸が彼女へ届いた感触が、確かに指先へ返ってきた。
膝の上に置かれていたリゼットの右手が、ぴくりと震える。
そして、ゆっくりと持ち上がった。
ほんの指二本分。手首がわずかに浮いただけの、取るに足らない動きだ。けれど、その一瞬だけは、彼女の手と私の言葉が細い糸でつながっているのがはっきりと分かった。
「や、やった……! エサソン、今の見た⁉」
思わず声を上げた瞬間、糸がぷつりと切れた。リゼットの手がぱたりと膝へ落ち、半分閉じていたまぶたがぱちりと開く。
「あら……? ルミィ様、今、私……何か、いたしましたか?」
きょとんと首を傾げるリゼットは、自分の手が動いたことにすら気づいていないらしい。その様子が、かえって今の出来事が偶然ではないことを物語っていた。
エサソンは腕を組んだまま、しばらく黙ってリゼットの右手を見つめていた。やがて眼鏡の位置を直し、いつもの淡々とした声で告げる。
「指二本分。時間にして、瞬き三回ほどでしょうか。魔法と呼ぶには、あまりにもささやかな成果ですね」
「……分かってるわよ」
「ですが、偶然ではありません。リゼット殿の意識が沈んだ瞬間を、姫様は正しく捉えておられた。魔力の糸も、確かに届いておりました。初日でそこまで至る者は、エルフでもそう多くはございません」
思いがけない言葉に、私は目を瞬いた。皮肉が来るものと身構えていた分、真っすぐな評価はかえって胸に響く。頬が緩みそうになるのを、どうにかこらえた。
「ただし、成功した途端に騒いで術を切ったのは減点です。術者の意識の揺らぎは、そのまま術の揺らぎになります。本日二つ目の学びですね」
「うぐ……」
やっぱり、ただでは褒めてくれなかった。私が肩を落とすと、ようやく事情を飲み込んだらしいリゼットが、自分の右手と私の顔を交互に見比べた。
「では、先ほどの私は、ルミィ様の魔法にかかっていたのですね。……ふふ。なんだか、少し嬉しいです」
「嬉しいの? 勝手に手を動かされたのに?」
「はい。ルミィ様が初めて使われた魔法を、この身で受けられたのですから」
屈託のない笑顔でそう言われ、今度は私のほうが言葉に詰まった。同時に、胸の奥にちくりとした痛みが走る。リゼットは私を信じて、無防備に意識を預けてくれた。だからこそ、たった指二本分でも届いたのだ。
この魔法は、相手の心のいちばん柔らかなところへ、そっと手を差し入れる術なのだろう。使い方を誤れば、ヴァレリウスが私にしようとしたことと、何も変わらなくなる。
「……エサソン。この魔法、相手の許しなく使っちゃいけないのよね」
「それを、私が申し上げる前にお気づきになったのでしたら、本日三つ目の学びは不要ですね。あとは犯罪者などに使います、一般の人に使うことなどは稀でしょう」
エサソンはわずかに口元を緩めると、懐から懐中時計を取り出した。
「明日は、術を瞬き十回分保つことを目標にいたしましょう。それと、カーテンは初めから閉めておくように。水差しの水で顔を洗うのは、できればやめていただきたいものですが」
「善処するわ」
私はまだ湿った前髪をかき上げ、自分の掌を見下ろした。指先には、リゼットとつながった細い糸の感触が、かすかに残っている。帝国を変えるには、あまりにも小さな一歩だ。けれど、確かに踏み出した一歩でもあった。
「さて。それじゃあ、二人に明日の予定を話しておきたいと思います」
初めて魔法を使えた興奮が冷めやらないまま、私は二人に向かって宣言した。指先にはまだ、リゼットとつながった糸の感触がかすかに残っていて、気を抜くと頬が勝手に緩みそうになる。
「明日の予定、でございますか?」
聞き返してきたリゼットにうなずき、私は続けた。
「まず、魔法の授業は午前中に済ませます。そして午後は、三人で日本へ行きます」
「まあ。日本で何をなさるのですか?」
リゼットの声はわずかに弾んでいて、楽しみにしているのが伝わってくる。その反応が嬉しくて、私はもったいぶるように一拍置いた。
「三人の服を買いに行きます」
「……姫様。服でしたら、今お召しになっているではありませんか」
エサソンが、眼鏡の奥から怪訝そうな視線を向けてくる。予想どおりの反応に、私は思わず胸を張った。
「ふっふっふ、確かにそうだけど、これはあくまで間に合わせよ。今着ているのは、だいたいの目測で選んだものなの。だから、サイズが少しずれても誤魔化せるワンピースにしたのよ。明日はちゃんと洋服店へ行って、採寸してもらってから選ぶの」
「なるほど。しかし先ほど、三人の、と仰いましたが……まさか、私の分もですか?」
「もちろん、エサソンの分もよ。悪いけど、明日は私が昔着ていた服で我慢してね。少しサイズは合わないと思うけど、新しい服を買うまでの辛抱だから」
「……かしこまりました。そういうことでしたら」
いつもどおり澄ました口調だったが、口元がわずかに緩んだのを、私は見逃さなかった。もしかして、今回自分の服だけなかったことに、密かにがっかりしていたのだろうか。
そう思った途端、内心のにやにやが止まらなくなる。あの皮肉屋のエサソンが、服を買ってもらえると知って喜んでいる。これは、からかってやるべきではないだろうか。
「……何ですか」
「なんでもないでーす」
じろりと睨まれ、私は慌てて視線をそらした。読心術の心得でもあるのだろうか。ひとまず口ではとぼけておくけれど、心の中で舌を出すくらいは許してほしい。
「それじゃあ、次の動画撮影について話しましょうか」
気を取り直すように小さく手を打つと、ようやくエサソンの視線から解放された。服の話で緩みかけた空気を、ここで本題へ引き戻しておく。
「動画といえば、先日姫様が慌てておられたあれですね。大丈夫なのですか?」
痛いところを突かれ、思わず頬が引きつった。あのときの騒ぎを思い出すだけで、今でも胃のあたりが落ち着かなくなる。
「ええ。確かにこの前のは予想外だったわ。でも、だからといって熱を冷ましてしまうのもよくないの。熱が下がりきる前に、次の燃料を投下する。目標は一週間後よ」
「一週間、ですか?」
「ええ。今の盛り上がり方なら、一週間は持つと思うわ。むしろ向こうは、次の動画が出ないかと目を光らせているでしょうね」
本来、新人Vtuberなら毎日投稿が基本だ。けれど今の過熱ぶりでは、前に話したリスクから自滅しかねない。ならば時間を稼ぎつつ、熱を冷まさない塩梅を見極める必要がある。綱渡りのような加減を思うと、自然と指先に力がこもった。
「それで第二弾の動画だけど、日常の一コマとして、私が昼食を食べる場面を撮るわ」
「まあ。お食事の様子を大勢の方にお見せするなんて、皇女としてはしたないですよ」
リゼットの小言がすかさず飛んでくる。皇女としてはしたないことくらい、私だって分かっている。それでも、これは話題作りなのだ。どうかそこは目こぼししてほしい――と、私は内心で両手を合わせた。
「でも、リゼット。これは、ただ食事を見せるための動画じゃないの」
「と、申されますと?」
リゼットは眉を寄せたまま、それでも話だけは聞いてくれる姿勢を見せた。ここで頭ごなしに押し切れば、かえって意固地にさせてしまう。私は椅子に座り直し、できるだけ落ち着いた声で続けた。
「この前の動画を見た人たちは、私のことを、誰かが作った精巧な絵だと思っているの。耳が動いたのも、技術のおかげだって」
「ルミィ様は、こうしてここにいらっしゃいますのに」
「そう。だから次は、私が生きているところを見せたいの。食べ物を口へ運んで、噛んで、飲み込む。そういう当たり前の仕草は、作り物で真似するのがとても難しいのよ」
そう説明しながら、胸の奥が少しだけ疼いた。本当の狙いはそれだけではない。けれど、技術の噂から目をそらさせたいという事情まで話せば、リゼットをいっそう不安にさせるだけだろう。
「ですが、それでしたら、お茶をお飲みになるだけでもよろしいのでは?」
「お茶は最初の動画で飲んじゃったもの。同じことをしても、見ている人はすぐに飽きてしまうわ」
リゼットが言葉に詰まる。痛いところを突いた手応えに、私はテーブルの下でこっそり拳を握った。
「なるほど。考察とやらに熱を上げている者たちへ、新しい材料を与えるわけですね」
黙って聞いていたエサソンが、眼鏡の位置を直しながら口を挟んだ。助け舟かと思って振り向くと、その目はどこか面白がっているように見える。
「ええ。それに、見る人が本当に知りたいのは技術じゃなくて、エルフの姫がどんな暮らしをしているのか、のはずなの。どんな料理を食べて、どんなふうに笑うのか。そういう日常を少しずつ見せていけば、いつか私自身を見てくれるようになるわ」
口にしてみて、それが自分の願いでもあることに気づいた。ありもしない技術ではなく、ルミナという一人の少女を見てほしい。その想いが言葉に乗ったのか、リゼットの表情がわずかに揺らいだ。
「……お考えは分かりました。ですが、やはり心配なのです。もし大勢の方の前で、ルミィ様がはしたないと笑われてしまったら」
その声は、小言というより祈りに近かった。リゼットが気にしているのは、皇女としての体面ではない。私自身が傷つくことなのだ。そう分かった途端、胸の奥がじんわりと温かくなる。
だからこそ、ここは引けない。私はリゼットの手を取り、まっすぐに見上げた。
「だったら、笑われないように手伝って。食事の作法を一から見直して、誰が見ても綺麗だと思う食べ方を、リゼットが教えてちょうだい」
「私が、でございますか?」
「ええ。料理も、テーブルの飾りつけも、着るドレスも、全部リゼットに任せるわ。世界中の人に、私の侍女がどれだけ素敵なお姫様を育てたのか、見せつけてやりましょう」
言い終えてから、少し大げさすぎたかと頬が熱くなる。けれど、リゼットの瞳がみるみるうちに輝きを帯びていくのを見て、恥ずかしさはどこかへ吹き飛んだ。
「……ルミィ様が、そこまで仰るのでしたら」
リゼットは私の手を握り返し、小さく息を吸った。次に顔を上げたとき、そこにあったのは不安ではなく、何かを決意した者の表情だった。
「かしこまりました。お引き受けいたします。その代わり、撮影の日まで、毎食作法の練習をしていただきますね。もちろん、本日の夕食からです」
「え、今日から?」
「はい。ナイフの角度から、お口へ運ぶ量まで、一つずつ確かめさせていただきます」
にこやかに言い切るリゼットの笑顔は、なぜか、言葉遣いを叱られたときの、少しも笑っていない笑顔によく似ていた。どうやら私は、説得に成功した代わりに、とんでもない教官を生み出してしまったらしい。
「話がまとまったようですね」
エサソンが、懐中時計の蓋を閉じながら言った。その口元が、先ほどの仕返しとばかりにわずかに緩んでいるのは、きっと気のせいではない。
「では整理いたしましょう。明日は午前に魔法の授業、午後は日本で服の購入。動画の撮影は一週間後で、それまでの間、姫様は魔法と食事作法の両方を学ばれる。……ずいぶんと忙しい一週間になりそうですね」
「分かってるわよ。それじゃあ、今日はここまで。二人とも、お疲れさま」
締めくくるように手を打つと、リゼットはさっそく夕食の献立を考え始めたのか、楽しげに何事かを呟きながら部屋を出ていった。エサソンも一礼して、そのあとに続く。
扉が閉まり、静けさが戻った部屋で、私はベッドへ仰向けに倒れ込んだ。国を動かすための一歩のはずが、目の前に立ちはだかったのはナイフとフォークだ。それでも、天井を見上げる口元は、なぜか自然と緩んでいた。